THE FLOWER GARDEN
百合の章09
ニ日後の夜12時に森を抜けた小川のほとりで。
元の世界に帰ろう、雅。
手紙は処分していたが、雅の心にはしずかの文章は深く刻まれていた。
約束の場所に雅は一度も行った事がなかったが、すでに行ったつもりにすらなれた。
昼間、何度も格子越しの風景を見ながら考えていた。
見晴らしの良い丘に高くそびえる白百合館の、最上階に位置する雅の部屋からは、緋薔館も、青菫館も、そして黄仙館の旗も微かだが見えていた。
しずかのいう森がこの白百合館の崖の下に広がっていることも、雅は地図から知った。そこには、ニ方から流れてきた川の合流点に大きな印がつけられていた。問題は、いかにしてこの部屋から、白百合館から抜け出すかだった。
時計は11時半を回ろうとしていた。カツカツと足音がして、雅の部屋の前の見張りの騎士が交替していることを、雅はベッドの中で気付いた。そして、足音がまた一つ去っていく。
雅はベッドから起き上がった。
そして、完全に足音が聞こえなくなると、扉に近づき、小さく叩いた。
「誰かっ、誰かっ」
小さな叫びにも、すぐに交替した見張りの騎士が、小窓を開け中の様子を伺う。
「どうしました？」
「あ…の…」
雅はそういうと、床に倒れた。すぐに鍵が開けられ、扉が開いた。
「姫、どうされました？」
床に倒れた雅を揺すってはみたものの、反応がないことに気付いた騎士は、大変だ、と呟くと慌てて部屋を出ていった。
開け放たれた扉。
出ていった騎士。
残されたのは雅一人だ。
雅は起き上がると、一目散に走り出していた。
もちろん、一人で白百合館を歩いたことがない。だから、まずは階段を降りていった。館内は静まり返っていて、その中で、雅の裸足の足音だけが響いていた。ここしばらく動いていなかったためか、すぐに息切れしたが、それでも雅は駆け下りていた。
ところが、途中で、階段を今度は登ってくる足音がして、雅は思わずその階で一度降り、すぐそこにあった扉から部屋に入り身を潜めた。
「どうしたというのだ？」
碓井の声だった。
「わかりません。ただ、呼ばれて、中の様子を見たときに、突然倒れられて。揺すっても反応してくれませんので」
「何か変なものでも食べたのであろうか。それとも…？」
ばたばたと二人の足音が去っていく。
碓井が部屋に入って、いない雅に気付くのもすぐだ。それから騎士たちが動き始めるまでに、この館を出なければいけない。
急がなきゃ。
立ち上がった雅は、その時初めてこの部屋を見回した。何の部屋なのか、机はおろか、椅子すらない。ただがらんとしている部屋が、単なる空き部屋でないこ
は、その内装や窓の様子からもわかる。行き届いた掃除に、豪華なシャンデリアまでも、天井からは吊るされていたのだ。そして、ある壁を見たところで、そ
動きを全て止めてしまった。
これ…。
壁には、大きな肖像画が飾られていた。だが、そこに描かれた顔はよく見覚えがあった。
私？…違うわ。
しかしそれはあまりにも、自分に似ていた。顔立ちはもちろん、雰囲気までも。ただ、雅より細面で、華奢で、何よりも穏やかな顔をしていた。
誰？
思わず雅はその絵に近づきそうになった。だが、ふいに足音がまた響いてきた。
いけない。ここを出ないと。
雅は慌てて部屋を出ていくと、再び階段を駆け下りた。
ところが、一階についたところで、雅は廊下のどちらに玄関があるのかわからなくなってしまった。
どっちだっけ？
それはただ一度、競技会の時だけだった。
雅が困っていると、ばたばたと、階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。おそらく、碓井であることは想像がつく。
逃げなきゃ。
雅はとりあえず目に付いた部屋の扉を開けた。そこは、かつて日向と対面した部屋だった。ひんやりとした空気の中で、雅の荒い呼吸が響く。
「姫っ。どちらにいるんですかっ？」
碓井の声が廊下に響いた。雅は、思わず身を固めた。今捕まれば、おそらくチャンスはない。
もう、二度と戻れなくなる。
雅は、唾を飲みこんだ。
「姫っ」
碓井は声を抑えながら、それでも叫んでいた。
まずいことになった。侵入者もいないだろうから、おそらく姫の意志で逃げ出したんだとすれば…。
玄関を開けると、外に立っていた騎士たちが、碓井に挨拶をした。
「おつかれさまです」
至って平然としている騎士を見て、碓井は雅がここに来てないことを悟った。それにここを通りぬけた侵入者がいないことも。
「どうか、しましたか？」
一人が心配そうに碓井に質問をした。
「いや、なんでも無い。見張りを頼む」
碓井はそう答えて、もう一度館内に戻った。
時間的にも、そんなに遠くにはいけないはずだ。もしかしたら、この館内で迷っているのかもしれない。
雅の護衛でもある碓井は、雅の行動範囲をもちろん把握している。そもそも数回しかあの牢屋のような部屋をでたことのない雅に、この館を出ることは容易ではない。
「姫っ」
碓井がそう叫び、走っていると、ふいに数センチ開いているままの扉を見つけた。そこは、応接間であり、そこには一度だけ、雅が入ったことのある場所だった。
そう、水仙の隊長、成瀬日向との対面で。
あの日以来、雅が変わったこと、そのことに速水が苛立っていることも碓井は気付いていた。
そもそも、几帳面な速水が隊長になってから、この白百合館はより厳格な体制をしかれていた。廊下に不要なものが置かれていたり、このように扉が開いているようなこともない。碓井はそっと扉を開けた。
「姫？」
部屋の中は静まり返っていた。それはいつもと変わりは無い。だが、右のカーテンが不自然に膨らんでいた。
見つけた…。
碓井はそっと、そのふくらみに近づいた。
「姫、戻りましょう」
その声は優しかった。雅の仕打ちを見て、碓井が同情しないはずはなかった。一度、頬を赤くして涙を流していたときは、思わず速水を殴りたいと思ったことすらあった。
「大丈夫です。まだ、隊長にはばれていませんから」
だからこそ、碓井は小声で雅を探していたのだ。
もし、雅が自分の意志でもって逃げ出そうとしていたのなら、そしてそれを速水が気付いたのであれば、おそらく受ける懲罰は、これまで以上であろう。
「今なら、このことはなかったことにしますから、姫」
碓井はそう言って、そっとカーテンを引く。しかし、そこには雅はおらず、開け放たれた窓から、風がカーテンのふくらみを形作っているだけだった。
月明かりが、雅の前方を照らしていた。おかげで間違うことなく、雅は森に逃げ込むと、その坂を一気に下っていた。白百合館を出れたといっても、騎士がいないという保証はない。見つかれば、速水の逆鱗に触れることだろう。
夜風は冷たくはなかった。雅は裸足の痛みも忘れるほどに、とにかく走っていた。どことなくふわりと風が頬に触れて、ふいにその方向を見ると、何やら涼しげな音がして、近づくと、それはしずかの書いた一方の川だった。
これを下っていけば、会える。
しずかさんに、会える。
雅は、足を止めずにとにかく走っていた。時計はもちろん持っていないので、時間はわからないが、さっき潜んでいた部屋の時計は11時４0分を指していたから、今は50分くらいかもしれない。
会いたい。早く、しずかさんに。
だんだんと、小川の流れる水音が大きくなっていった。そして、木々が途切れたところに、二つの川の合流点があった。
それは、不思議な場所で、三色の花が咲き乱れていた。赤と、白、そして黄色の小さな花たち。それが月明かりに照らされて、まるで花園のようでもあった。雅が、何かに引かれるように、その中に入っていく。
「ごめんね」
足もとの花に謝りながら、雅は進んだ。
そして、一息ついて空を見上げたとき、背後で草の動く音がして、雅は振りかえった。