THE FLOWER GARDEN
百合の章08（水仙）
出された紅茶に口をつけた時、前に座っている夏目が言った。
「珍しいこともあるものだな、成瀬。供を連れずに来館とは」
その夏目の後ろには、富樫をはじめ、薔薇の幹部が並んでいる。対する日向は一人だった。
「別に、そこまで大きな話をしにきたわけではないからな」
どこか馴染んでいるのは、以前は自分の住処だったからである。それでも、ずいぶんと変わったと日向は部屋を見まわして思った。
あの頃は、いわば薔薇の天下で、それこそ部屋中薔薇に埋もれてしまいそうだった。
カップを置くと、日向は夏目の顔を見つめて言った。
「先日の競技会では、うちの姫がご迷惑をかけた。今日はその詫びに来た」
クスッと笑い声がして、夏目の左に控えていた副隊長の戸田が小声だが日向に届く声で言った。
「水仙も、ずいぶんとお転婆な姫を選んだものですね」
「戸田…。すまない」
慌てて夏目が戸田を諭し謝ったが、日向は余裕の笑みを浮かべて答えた。
「いや、戸田の言う通りだ。
ところで、つい3日前だったか、百合に侵入者がいたという話は聞いたか？」
カップを口に持ってきていた夏目は、一瞬その手を止めたものの、そのまま一口飲むと日向の質問に答えた。
「…ああ」
「百合に珍しく、取り逃がしたようだったが」
夏目はしずかの怪我を思った。遠くからならばその後一度だけ校舎にいるところを見たのだが、左腕は吊るされることもなく、しずかも何もないかのようにしていた。
痛んでないと、いいが。
日向はその夏目の表情をつぶさに見ていた。
そして、確信した。遠目であったが、日向にはその後姿に見覚えがあったし、白馬があったとしても、あの時しずかを救ったのが鞍馬ではないと思っていた。仮に鞍馬があの時のしずかを助けるのであれば、自分の身の安全を確かめて動くはずだ。
やはり、あれは、夏目だったか。
その時、ノックもなく扉が開いた。
「あら」
部屋に明るい声が響く。富樫は慌てて顔を向けた。
「姫」
夏目がそう言うと、華夜乃はなんの躊躇もなく部屋に入ってきて、日向に声をかけた。
「珍しいわね。こちらにいらっしゃるなんて。何年ぶりかしら」
一瞬、場の雰囲気が止まった。
この緋薔館で。
この夏目、華夜乃、そして日向の3人で。
しかし、華夜乃の声は、決して昔を懐かしむものでなく、むしろ日向に対する皮肉であった。
日向は、軽く微笑むと立ち上がった。
「少々騒がしかったようだな。では、失礼する。夏目」
何かを言いかけた日向だったが、夏目の後ろで薔薇の幹部たちが皆、一様に睨みを利かせていることに気付き、ではまた、とだけ言った。
振り返り、自分の表情を伺う君江に、日向は深く頷いた。それでも顔をそらそうとする君江に、日向はもう一度言う。
「怪我をしているのにそれをずっと隠し続けているんだ。悪化して、化膿してるかもしれない。
あいつは隠し続けるつもりなんだ。それでもいいのか？」
君江は小さく首を振った。
それが了解したというサインだと受け取り、日向は黄仙館へと戻る。建物の中に入る直前、ただ一度振りかえり、さっきから水仙の泉の前で立ち尽くしているしずかを見つめた。
速水との計画は成功に終わったわけではないことを、日向は気付いていた。落ち込むと思われたしずかは、むしろ活発にさえ見える。ときに、今のようにどこかを見つめるが、その視線の先には確かに何かがあるのを感じた。
速水に盗ませたロケットに忍ばせた手紙が、遠山雅によって書かれて無いと気付いたとして、しずかならば、おそらく自分を疑い、そして何か言ってくるはず。なのに、なにも言ってこない。
何か、企んでいるのだ。
そして昨日、ついにしずかは相川をまいて、どこかに消え、そして素知らぬ顔で戻ってきた。理由を問いただした相川には、散歩をしていたと答えたとい
う。 ただ、その顔には充実感が漲っていた。昨日は百合にて、姫である雅の披露式が行われた話は、すでに日向の耳に入っていた。
おそらく、しずかは動く。
この1週間以内に必ず。
しずかをどこかに閉じ込めることはやろうとすれば、できることだ。だが、それは後にたいした意味をなさないことを日向は知っていた。
百合側には、別の人間を張っておいたので、動きがあれば連絡がある。
やるならば、徹底的に。
計画は、遂行するのだ。
明日だ。
雅に会えるのは。
そして、ここから本当におさらばできるのも。
しずかは、流れ出てくる水を見つめながら、そう思っていた。
この水仙の泉と呼ばれる場所は、しずかのお気に入りであった。丸く造られた泉の中央から涌き出てくる水と、その周りに浮かんでいる花たちを見ていると、しずかの心は何故か落ち着いた。時々、鳥たちまでやってきて、水浴びをしている姿などを見ると、ほほえましいと思ったりもする。
この風景が二度と見られなくなることが唯一の心残りかもしれないと、しずかは思っていた。
そこにまた何羽か、雀がやってきて、水浴びをし始める。
しずかは自然と自分の頬が緩むのを感じた。
「姫…キャッ」
いきなり君江に呼ばれたと思った瞬間に、しずかは背中を押された。淵に立っていたしずかは、そのまま掴むものもなく、自分の体が泉に投げ出されるのを感じた。次の瞬間、大きく水飛沫を上げ、しずかは泉に落ちていた。
「姫様っ」
雀が慌てて泉から飛び立つ。泉の深さは奥に行くと深いという話だが、手前はだいたいしずかの腰くらいまでで、落ちたと言っても、おぼれることは無かった。ただ、全身がずぶぬれになってしまった。
「姫っ」
君江が慌てて泉に飛びこみ、続いて相川も泉の中にそのままで飛び込んだ。
「大丈夫ですか？」
「ああ。全然、平気」
しずかは濡れた髪をかきあげた。
「すみません。私が足をすべらせてしまったばかりに」
「いいよ、大丈夫だから、君江」
目の前で君江は泣き出しそうな顔をしている。しずかはそう答える。
別に怪我をしたわけでもないし。
ふいに顔を上げると、じっとこちらを見ている日向と目が合った。昼に姿を見せなかったので、しずかがそれを相川に尋ねたところ、日向は薔薇に行っているという返事があった。それからすぐに日向は戻ってきたのだが、その服からは薔薇の匂いが濃く漂っていて、しずかは華夜乃のことを思わずにはいられな
かった。
「とにかく、着替えましょう。このままじゃ風邪をひきますから」
相川に言われたしずかは、軽く頷いたが、無表情で自分を見ている日向から目が離せなかった。
着替えの途中で、君江が声を上げた。
「姫様、どうされたのです。この左腕はっ」
しずかもはっと気付き、隠そうとしたが、無論下着姿のしずかには無理があった。
「…ちょっとさ。木に登ってて、落ちたんだ。…そんとき枝で切った」
君江が有無を言わさぬ強さで左腕を掴む。思わずしずかがその痛みに声をあげると、君江がまた声を上げた。
「どうしておっしゃってくださらなかったのです、こんなになるまで。化膿してますよ」
君江に言うと、日向にもばれる。そのまま怪我の理由が嘘であることを、すぐに見ぬかれる気がして、しずかは誰にも言わずに消毒もせず、布を当てたままここ数日を過ごしていたのだ。
何もしずかが答えないでいると、君江はてきぱきと治療をし始めた。
「…姫は、私のこと、信用してくださらないんですね」
思わず雅が顔を上げると、君江は涙を目にいっぱいに溜めていた。
「そんなこと、ないよ。ない。
君江には感謝してるよ」
そういってはみたが、君江の顔は晴れることなく、またしずかも完全に信用してるわけではなかったことで、心が痛んでいた。
それでも、感謝しているのは本当だった。
いつだって君江は、しずかの居心地のいいようにベッドをあつらえてくれていたし、食事だって、しずかの苦手なものは避けるようにしてくれていた。
「感謝、してる」
もう一度言うと、ようやく君江は笑顔を見せた。
それでしずかもほっとした。そのせいか、くしゃみが出てしまった。
「風邪をひかれては困ります。どうかベッドでお休みください」
君江が慌ててタオルをしずかにかけた。
「ありがと」
ベッドで眠っているしずかを見て、そっと日向は扉を閉めた。そしてベッドに近づいて、目を閉じたままのしずかの顔を覗きこみ、顔を近づける。しずかの額に自分の額をつけた途端に、しずかが目を開けた。お互いの視線がまっすぐに向き合う中で、驚くこともなく、そのままに日向は話しかける。
「熱はないようだな」
日向の息がしずかの頬をくすぐる。しずかは何も言わずにじっと日向を見ている。
「何だ？」
「そうやって、キスでもして、女くどいてるのかよ」
「お望みとあれば、いつでも」
そう言って目を閉じ顔を傾けた日向を、しずかは叫びながら突き飛ばした。
「断るっ」
ベットから起き上がったしずかに、日向は笑顔を向けた。
「調子は元に戻ったようだな」
しずかはじっと窓の外に広がる水仙たちを見て言った。
「お前、白鳥の恋人だったんだってな」
沈黙があってから、思ったよりも優しい日向の声がした。
「少しは俺に興味が出てきたのか」
「答えろよ」
日向はしずかのいなくなったベッドに寝転がった。
「昔のことだ」
窓ガラスには、そんな日向の姿が映っている。
「…今でも好きなのか？」
「それに答える義務が俺にあるのか？」
日向は起き上がった。
背中は見えたが、その表情をしずかは読み取ることができなかった。
「もう終わったことだ。これでいいだろ」