THE FLOWER GARDEN
百合の章10
「では、おやすみなさい。姫」
いつものように礼儀正しく君江は言うと、一礼してしずかの寝室を出ていこうとした。
「ああ。…おやすみ」
しずかは何か言おうかと思ったが、それは言えるはずも無く、結局いつものように答えた。
世話になった、なんて言えないか。
昨日のこともあり、しずかは君江には何か友情めいた感情を抱くようになっていた。それでも、今日でここを抜け出す話はできなかった。
時計は11時になろうとしていた。もう少ししたらここを出ていかないといけない。
そう思ったとき、隣の部屋から、何かが倒れる音がした。
「君江？」
しずかは慌てて、隣の部屋を覗くと、そこには椅子と一緒に倒れている君江がいた。
「おいっ、君江っ」
慌てて君江を抱きかかえると、顔は赤く、息も荒い。
「君江、どうした？」
額に手を当てると、焼けるように熱かった。
「姫…、大丈夫です。私は…大丈夫、です」
「ばっかやろっ、大丈夫なやつがこんな熱あるわけないだろうっ。
おいっ、相川っ、いないのかよっ。相川っ、石崎でもいいからっ」
しずかはぐったりとした君江を抱え、そう叫んだ。
昨日、あたしを助けようとして泉に飛びこんだからだ。
あのあと、あたしは君江が世話してくれたけど、君江自身は濡れた恰好のままだった。
「君江、しっかりしろよ」
その時ようやく石崎が現れた。
「どうしました？姫」
「君江が大変だ。医者でも何でもいいから、呼んで来いっ」
「中毒症状？」
相川の言葉を反芻したしずかに、もっと詳しく相川は説明した。
「医者が言うには、風邪も引いていることは引いているそうなのですが、もう一つ別の症状があるということです」
医者の薬を飲んだ君江は、いくらか熱が下がったようなのだが、時に苦しそうな表情が見られた。とりあえずしずかのベッドに寝かせてたのだが、どうも簡単には動かせそうに無かった。
「どうすれば治るわけ？」
「解毒薬があれば、ということですが」
そこで相川は言葉を止めた。しずかは聞き返した。
「医者は持ってないのか？」
「はい。ですが…」
「ですが、なんだよっ」
危機迫るしずかの表情に、後ろの石崎がびくっとしているのが見えた。相川も、震える声で答える。
「日向隊長ならば、お持ちかもしれません」
ノックもせずに、日向の部屋の扉を開け、しずかは叫んだ。
「おいっ。日向っ」
窓際に置かれたデスクを背にいつも日向は座っているはずなのだが、そこに日向はいなかった。しずかは、隣の部屋も開けてみる。そこは日向の寝室のようで、シンプルな大きめのベッドが、ぽつんと置いてあるだけな、質素なものだった。
「おい、日向っ。どこ行ったんだよっ」
しずかが怒鳴ると、後ろから別の男の声がした。
「隊長はいない」
その顔に、しずかは見覚えがあった。無理やりに白百合館に行こうとしたしずかを止めた騎士だった。
「…吉沢…だったよな。何で日向はいないんだよ。あいつはどこに行った？」
「さあ、女のとこかもな」
一瞬、華夜乃の顔が浮かんできたしずかは、そんな自分に苛立ちを感じた。
「んだよっ、こんな時にっ」
思わず机の上の資料を振り落とすと、その中の写真に見覚えのある顔をしずかは見つけた。
「…これ…」
それは、一瞬は雅に見えた。しかし、すぐに別の人物とわかる。
そうだ、鞍馬が持っていた写真の人間と一緒なんだ。
「前妃、森宮佳乃様だ」
「え？」
「前の妃だ。病死した」
前妃だ？
しずかはもう一度、その写真を奥の奥まで見つめた。
「そんなに似てるか。遠山雅に」
雅の名前を出した吉沢に、しずかは尋ねた。
「お前、どうして…」
「学園中知ってるさ、そんなこと。だからこそ、遠山雅は百合の姫になった。速水が手荒な真似をしても手に入れたがったわけだ」
やっぱり日向は知っていたに違いないんだ。
しずかはそう確信したが、それとは別に、吉沢の言い方が気になっていた。
「どういう意味だ？」
「俺は、元は百合の騎士だ。だが、速水の逆鱗に触れ、こうして処罰を受け、百合を追い出された」
そういって、吉沢は上着の前ボタンを全て外した。現れたのは、見事に鍛えられた体に大きく刻まれた切り傷だった。右胸から、それは臍の辺りにまで深く痕を残していた。
「…お前、何をしたんだ？」
吉沢はすぐに上着の前を寄せた。そして、自嘲気味に笑った。
「何を？簡単なことさ。速水の大事にしている森宮佳乃の肖像画に触っただけさ」
なんだって？
しずかは目を見開いた。
「ま、あとは呼び捨てで呼んだりしたからか」
傷の深さからいっても、それが致命傷に近いことは容易に想像できる。
「何でそれだけで」
「そう、それだけで速水は俺に処罰を与えた。何故なら、あいつは森宮佳乃を愛しているからだ。もっとも、歪んだ愛だがな」
百合は厳格な組で、速水は完璧主義者だから。
ふいに夏目の言葉を思い出した。それから、雅の自分を求める白い手も。
そう、雅…。
はっと気付くと、時計はもう12時を5分ほど過ぎていた。
「だから、お前が遠山雅を取り戻そうとしても、無理だ。速水が森宮佳乃に瓜二つの人間を手放すはずがない」
雅はまだいるんだろうか。
窓を眺めたしずかに、吉沢が白い紙包みを手渡した。
「解毒薬だ。これを君江に飲ませるといい。1時間もすれば治る」
「サンキュ」
しずかがそう答えると、吉沢は何も言わずに部屋を出ていった。
薬を飲ませ、寝かしつけようとしたしずかに、君江は消え入りそうな声で言った。
「姫…ごめんなさい…」
「いいから、いいから君江は休め」
「いえ…姫…」
「いいから」
しずかが笑顔を浮かべ、手を握り返すと、君江はいくらか安心したようだった。
「…泉に突き落として…すみませんでした…」
「だから。あれは不慮の事故だろ？足がすべったって」
君江は小さく首を振った。
「いいえ…。違います…」
「違う？どうして？」
「…隊長が、そうしてくれと」
「日向？…どうして？」
表情を曇らせたしずかに、君江は語った。
「隊長は、知っていらしたのです。姫が…怪我をなさっていること。けれど、それを皆に隠されていることを。その治療をするために、ああいうことを考えて」
君江の言いたいことは、わかっていた。
確かに、単純に腕を出せと言われても、しずかは出さなかっただろうし、怪我を指摘されても、治療は断ったに違いない。
その理由を聞かれたくないから。
笑顔を見せた君江は、そこでしずかに質問をした。
「…姫、そのペンダントはペアではなかったのですか？」
「え？これ？」
君江が指しているのは、しずかが付けているロケットだ。
「競技会の翌日から、お二つつけていたのに、今は一つしか」
「ああ…。うん、ちょっとな」
あるはずもない。雅から返されたものを、また渡したのだから。
「それも、隊長は気にされていました。今日も、それを探しにいっていらっしゃるんでしょう」
「どうして、そんなこと」
しずかは鼻で笑うように答えたが、それでも君江の笑顔は変わらなかった。
「姫は、隊長も信頼なさってない。この世界のもの、皆を。その姫の信頼を取り戻すためです。
姫の大事なものを見つけたら、そうしたらきっと…」
薬が効き始めたのか、君江はすっと目を閉じた。そして、そのまま規則的な寝息をたてはじめた。
「…お休み。君江」
しずかは、そう言った。
時計を見ると、すでに12時半を回ろうとしていた。