THE FLOWER GARDEN
百合の章06（水仙）
「ったっ」
傷口に鋭い痛みが走り、思わずそう声を上げると、左腕の手当てをしてくれている夏目が口を開いた。
「ごめん」
百合の丘から夏目に引かれるままに逃げてきたしずかには、ここがどこだか分からなかった。ただ近くを、小川が流れていて、夏目はその水でしずかの傷口を洗ってくれた。
しずかは呼吸を落ち着かせながら、真剣に考えていた。
どうして、百合にばれたんだ。
どうして、あたしに矢が向けられたんだ。
そして、一番の疑問。
―どうして。雅は、あの時傍観していたんだ。
しずかの重い沈黙の中、夏目が口を開いた。
「…人は変わる」
その一言に、しずかは夏目の顔を見つめた。夏目は治療に専念をしているふりをしてしずかの視線を受け止めずに答える。
「人は変わる。その環境で、如何ようにも」
それが、雅のことを言っているのだとしずかはすぐに気付いた。
「雅は…」
「百合の姫と約束をしていたのか？百合の丘で落ち合うことを」
言い当てられて、しずかは何も言わないままに、夏目を見つめた。
「この前、百合の丘への行き方を聞かれたのが気にかかって、姫をつけた」
すまないと言った夏目に、しずかは小さく言った。
「姫、じゃない。あたしは…。あたしは西御寺しずかだ」
夏目が顔をあげて、しずかの視線を受け止めた。
「君は、罠にはめられたんだよ、西御寺しずか。百合の姫の」
夏目の言ったことと、しずかの脳裏にふと思ったことが一致して、しずかは戸惑っていた。
「雅は…。雅はそんなことする奴じゃない、雅は…っ」
「遠山雅はそうじゃないかもしれない。しかし、ここでの彼女は、百合の姫だ。そして、君は彼女にとってライバルの水仙の姫だ。
人は変わる。その意志に関わらず」
手当てを終えた夏目が立ちあがった。しずかは、その言葉をかみ締めていた。
「ライバルは蹴落とす。どんな手を使っても。それはどこの世界でも変わらない。
君はおびき寄せられ、こうして傷を負った。致命傷ならもちろん、顔に傷でもつけば、騎士団よりおそらく姫の名を没収されるだろう」
それが真実だ、とまで夏目は言わなかった。それでも、ひどくしずかが傷ついているのが見て取れた。その横顔を見つめることに耐えきれず、夏目は顔を上げた。
「日向も変わってしまった」
以前夏目から、日向がもとは薔薇の騎士であったことを聞かされていたしずかは、その次の言葉を待った。
「薔薇にいた時の日向は、もっと使命感に燃えていた。桜王宮に頻繁に呼ばれるようになって、そして変わってしまった」
夏目の表情が曇る。
「気付くと姿をくらまし、問い詰めても何も答えず、そして、薔薇を退団した。
突然に、一言の説明もなく。
そして再び現れたとき、日向は水仙の隊長となっていた。
いまや、お互いにライバルとなってしまった。互いに相手の粗を探し、今はいかにして姫を妃にするかを画策している」
夏目はそこで一呼吸置いた。
「だが、失うものがあれば、得るものがある」
日向と言う友人を無くし、そして自分は使命を受けた。薔薇の隊長という、大きな使命を。
「…違う…。違う、違うっ」
小さな声を、徐々に張り上げてしずかは言った。
「日向は日向で。雅は雅だっ。あんな奴と一緒にするなっ」
大きく叫ぶと、左腕に痛みが走った。それこそ、百合に受けた傷。しずかは唇をかみ締めた。
夏目は、そのしずかの痛みがわかった。わかったが、今は何も言えないことを知っていた。
「ここの小川は、百合の丘から流れ出で、途中薔薇や菫にも分岐しているが、全て水仙の泉に通じている。この小川を頼りにいけば、黄仙館に辿りつけるはずだ」
踵を返し、自分の場所に帰ろうとする夏目に、しずかは言った。
「助けてくれて、ありがとう。夏目」
しずかは自分の左腕を押さえ、しばらくそこで夜空を眺めていた。
暗闇に浮かぶ月の明かりが、しずかには辛かった。
華夜乃の命令によって建てられた薔薇の温室は、その壁だけでなく、天井さえもガラス張りになっていた。
ふいに見上げた夜空の月に見入られた華夜乃に、富樫が話しかける。
「美しい。この薔薇と、月明かりに照らされた貴女。まるでこの世のものとは思えぬほどに」
華夜乃が体をよじると、そこにはまだ上着を脱いだままの富樫が、一輪の薔薇を華夜乃に差し出していた。微笑みながら薔薇を受け取ろうとした華夜乃は、ふと日向に自分が差し出した薔薇を思い出し、あの屈辱に表情を曇らせた。
「姫？」
不安そうな富樫から顔を逸らすと、外を歩く夏目が目に入った。
「あら」
その複雑な表情を、華夜乃ははじめて見た。
こんな時間に、どうしたのかしら。あんな顔して。
心ここにあらずといった様子で、夏目はすぐに緋薔館にかけこんで行くようにも華夜乃には見えた。
ふいに華夜乃は富樫に後ろから抱きしめられた。
「姫、どうかされたのですか？」
耳もとの熱い息がかかる。富樫の素肌から、その熱が華夜乃に伝わってくる。今までの華夜乃なら、もう一度体を寄せ合わせたかもしれない。しかし、日向からの屈辱と、今の夏目の表情がどこか華夜乃の心を動かしていた。
「何でもないわ。今日は、もう帰って」
背後で何か富樫が言おうとしていたが、その腕は大人しく華夜乃を解放した。
失礼しますという声がして、温室には華夜乃一人が残された。
微かな物音がして、日向はようやくしずかが帰って来たことを知った。だが、いつもより階段を登る足音も重い。けがのこともあって、日向は思わず椅子を立ちそうになる。が、思いなおして、すぐに座りなおした。
そして、徐にペンを取ると、手紙を書き始めた。
水仙の正式文書では、その封書には黄色を用いるのだが、その紙はただの白い紙であった。
すべての状況は完璧であるはずだった。
予定よりも、この手紙を早く書くことになったのは、しずかが思った以上に行動してしまうためである。
このまま、あと数週間も待っていられまい。
日向は、手紙を書き終えるとペンを置いた。ふうと溜息をつき、空を見上げると、月が輝いていた。