THE FLOWER GARDEN

百合の章16

　しっかりしろ、大丈夫か？
　そう、誰かが言っている気がしていた。
　何度も体を揺らし、何度も唇に息を吹き込みながら。
　お願いだ。逝かないでくれ。
　雅に、誰かがそう言ってくれている気がしていた。
「うっ…」
　雅は目を開けると同時に、水を吐いた。途端に、眩しい日の光と、激しい水音を感じた。げほげほと咳き込みながら、水も吐いた。水と一緒に、胃液のようなものも吐いた。もし朝食に何かを食べていたのなら、それを吐き出していたとも思うが、ここ３日間、雅は何も口にしていなかった。
　ふいに、温かい手を背中に感じて、雅は初めて顔を上げた。
「大丈夫？」
　逆光になって、よく顔は見えなかったが、潤んだ瞳が優しく雅を見つめていた。少年というよりは、青年に近い男の人だった。
　ケホッと咳をして、雅は言う。
「大…丈夫です…」
　その途端に、優しい顔がくしゃくしゃになって、そうして雅はその男に抱きすくめられた。
「…よかった…」
　今にも泣き出しそうなその声が、雅の耳元に囁かれた。彼の髪も、また制服もずぶぬれだった。
「よかった…」
　雅は早まる鼓動を感じながら、どうしてかと聞こうとしたが、その前に、また胃から何かがこみ上げてきて、水を吐いた。その人は、何度も雅の背をさすってくれていた。聞きたいことはたくさんあったが、雅の咳は止まらなかった。
「姫っ」
　ふいに碓井の声が聞こえてきた。彼は慌てて、立ちあがった。あの、と言おうとした雅だが、それすら言葉にできなかった。去っていく彼を雅は引きとめたかったが、体が動かなかった。むしろ、彼は雅をそこに寝かせるとこう言った。
「死んではいけないよ、お願いだから。生きて」
　そして、立ちあがると足早に消えていく。雅はその後姿を目に焼き付けていた。紫紺の制服が、水に濡れて更に輝いて見えた。細身の体が、太陽に消え入るように思えたところで、雅は再び失神した。



　目が覚めると、そこには真っ白の天井が広がっていた。
　そう、いつもと同じ光景だ。雅は右手で左手をつねった。
　痛い。
　ということはこれが現実。
　やはり、自分はまだ抜け出せていない。
　それと同時に、右手首が痛んだ。まだ痣は消えてはくれない。
　これも…現実にあったこと。
　それは、速水から受けた暴力。
　そして、その右手で髪に触れると、まだ濡れていた。
　雅は何とか起き上がった。そこにはやはり、自分の護衛役であり、監視役の碓井が驚いた表情を浮かべていた。
「大丈夫ですか？姫」
　駆け寄りそう言ってきた碓井を無視して雅は質問した。
「…碓井さん」
「はい」
「…どうして、私は…」
　記憶が断片的な気がして、雅はそう聞いた。速水はそこにいなかった。碓井は知っている限りのことを答えた。
「近衛の人間が、池に落ちてしまった姫を見つけてくれたそうです」
「近衛？」
　雅は初めて聞く言葉だった。
「はい。紫紺の制服を着ていたかと思いますが」
　優しい瞳がすぐに浮かぶ。
　もう一度、話したいと思った。
「…。どちらにいらっしゃるのですか？」
「近衛は陛下の身辺警護が任務ですから、桜王宮に常駐しております。だから、姫は本当に運がよかったのです」
「桜…王宮」
　雅はまた呟いた。今までは右から入って、左に抜けてきた言葉だった。
「はい、陛下のお住まいです。1年中桜が咲き乱れる、それは綺麗な場所です。姫も妃となれば、そこが住まいになりますよ」
　妃となれば…。
　雅はかつて桜王宮のことを、碓井から聞いたことを思い出した。
　百合と、薔薇の小高い丘の狭間を抜けると、そこには陛下の住まう王宮があります。私共も、滅多には入ることができない場所です。
　妃になれば、そこに入れる。いや、そこで暮らすのだ。
　陛下の護衛、近衛の人間も、おそらくそこで暮らしているはず。
　その中に、あの人がいる。
　私に、生きろと言ってくれた人。
　大丈夫かと、声をかけ、そして、優しく背をさすってくれた人。
　妃になれば…。
　雅は、遠く、窓を見つめた。
　ここが、私の現実の世界。
　そこで生きなければならないのであれば。
　私は、妃になってみせる。
　あの人に会うために。