THE FLOWER GARDEN
百合の章15
何も、思っていなかった。
雅は、何も考えていなかった。
しずかのことですら。
今、何かを考えるということは、速水から受けた暴力を考えることにもなるから。
だから、部屋に閉じ込められていようと、外で太陽の日を浴びていようと、関係ないと思っていた。
しかし、ふいに雅の手にやわらかいものが触れた。視線を落とすと、それは真っ白なウサギだった。そっと背を撫でると、ウサギは嬉しそうに、耳を揺らした。嬉しくなった雅が、そのウサギを抱き上げようと一歩近づいたとき、しかしウサギは雅から数歩離れたところまで逃げ出した。
待って。
雅が追いかける。だがあともう少しというところで、ウサギはまたも逃げ出してしまう。
待って。
白いウサギは、百合の中でも目を引いた。そして、それが森になっても、同じであった。
待って。
雅は、気付けばウサギを追いかけて、百合の丘を抜けて、森に入り込んでいたのだ。
だがそれに気付いたのは、しずかとの待ち合わせ場所でようやくウサギを捕まえた時だった。
昼間に来たのは初めてで、夜には閉ざす花たちも、太陽の日を受けて咲き誇っていた。
ふいに首にかけられたしずかのロケットを思い出した。
「しずか…さん」
とても、しずかに会いたいと思った。
この世界から逃げ出すとか、速水のことなど、どうでもよかった。
ただ、しずかに会いたいと雅は思った。前にもらった地図では、川を下ればそこは水仙の泉に通じるはずだった。
会いたい。しずかさんに。
ウサギを抱きしめて、雅はそっと歩き出した。
川はずっと続くと思ったのに、途中で大きな水音がすると思ったら、その先に滝が見えた。３メートルほどであったが、それでもその引きこまれそうな勢いに、雅はいっそう強くウサギを抱いた。
でも、ここを進まないと、しずかさんには会えない？
川の淵に立って、下を見下ろした。滝の下は池になっていて、そこから更に川が流れている、おそらくその先が水仙の泉だと雅は思った。もう一度辺りを見まわすと、急だが、坂道になっている場所を見つけた。木もあるから、降りれないことはないだろう。
しずかさんに、会うのだ。
雅は、ゆっくりと、その坂道を下り始めた。片手にウサギを抱き、もう片方の手で木の幹を掴みながら、雅はゆっくりと降りていく。中腹まで来たところで、しかし足が滑った。
「…わっ」
思わずウサギを手放して、雅は必死に幹につかまった。ウサギは放り出されたものの、器用にその坂を降りていった。先にウサギが下りていってしまい、雅は少々心細くなったが、それでも気を奮い起こした。
しずかさんに、会うのだ。
その気持ちだけが、今の雅を動かしていた。そして、雅はなんとか体勢を立て直した。その時に、ロケットのチェーンが切れて、ウサギと同じく、坂を落ちていった。
絶対に、会うのだから。
雅は決意を新たに、幹をつたって何とか無事に下に降り立っていた。手足に多少の擦り傷はあったものの、その痛みは気にならないほどだった。
ふいに人の声がした。咄嗟に雅は木に身を潜めた。会話は聞き取れない距離だったが、声からすると何人かの男女が楽しそうに話をしているようだった。
助けてくれる人たちかしら…？
雅は隠れたまま様子を伺った。
雰囲気からすると、彼らは仲間のようだった。笑い声が一際雅に響く。
一人の女性は、やさしそうな人だ。それから…。隣のちょっと小太りな男の人…。
黄色い制服、ということは水仙の人？
そして、笑うと目がなくなってしまう男の人…。どこかで会ったような気がするけど…。
そして雅は、木々の間から見えた、その姿に驚いた。
しずか…さん。
それは、ずっと会いたいと願っていて、今はそれだけが頼りの、しずかだった。
しずかさんっ。
駆け出そうとした雅に、ふいに日向の声が思い起こされる。
「しずかがどうしてこの学園に来たのか、聞いたことは？」
大事な母親の為に、この学園を卒業しなくてはならないしずか。
「あんな規則で塗り固められた学校で？」
初日に大きく溜息をついていたしずか。
そして事実反省室に何度も入れられたと日向は言っていた。
「むしろこちらの世界の方があいつのためになる」
それに反論した雅に、日向は言いきった。
「それは百合の姫がそう望んだからだ」
そう、私はこの世界からの脱出を望んだ。
そして、しずかさんもそうだと思った。同じような仕打ちを受けていると思っていたから。
けれど、目の前のしずかはどうだろう。
にこやかに笑っている。そして、笑いあう仲間もいる。
孤独なのは、私だけだったのだ。
しずかからも見放され、泣きついた日向にも振り払われ、戻るところはあの牢獄しかない。
嫌だ。
戻りたくなんかない。あんな男のところになど。
そのとき、後ろで人の動く気配がした。
百合の騎士？
雅は慌てて逃げ出した。どこに向かっていたのか、わからず、ただ逃げ出していた。しかし、途中で何かに足を取られ、雅は見事に転んでしまった。身を投げ出された雅の先には、大きな池が広がるだけだった。
落ちる。
そう思った瞬間に、雅は水の中に投げ落とされた。池は思った以上に深く、雅は必死で手足を動かそうかとも思ったが、ろくな運動もしていないためか、食事をとっていなかったせいか、思うように足は動かなかった。
そのとき、雅の中で、新たな感情が生まれた。
このまま、このままいなくなってしまえれば。
そうすれば、嫌な目に遭うこともない。
辛い思いをすることもない。
おそらく速水からは逃げられないのだろうし、
しずかと一緒にここを出て行くこともできないのであれば。
このまま。死んでしまえれば。
雅の手足が止まった。
いっそ、死んでしまえれば。
さようなら、しずかさん。
何かが水に落ちた音がして、しずかはふいに振りかえった。
「姫、どうかしましたか？」
馬に乗り、すでに帰ろうとしている相川が、しずかに声をかける。
「何か落ちる音がしなかった？水に」
「私には、聞こえませんでしたけど…。鳥が水浴びでもしてるのではないですか？それより、午後の授業に遅れます。ほら、君江も」
一人後片付けに追われていた君江は、遠くで一人、声を上げた。
「姫っ、見てください。ウサギです。白くて、ふわふわしてる」
追いかけ始めた君江を、石崎が呼びとめた。
「早く戻るぞ」
君江は確かにうかれていたのだ。しずかという姫につけたのに、心を開かないしずかを悲しく思っていたのに、自分が病で倒れたときには必死で看病してくれたしずか。そして、それから、どことなく君江に心を開いてくれているようにも思えるしずか。
ウサギは、すぐに逃げていったが、変わりに君江は、何か光るものを見つけてそれを拾い上げた。
これっ。
それは今もしずかの胸に輝くペンダントと同じものだった。
「姫っ」
声を上げて駆け寄ろうとした君江だったが、ふとその足を止めた。
これを、隊長に渡してはどうだろうか。
君江がただ一つ気になっているのは、日向としずかの関係だった。
隊長が探し当てたとなれば、姫も感謝するかもしれない。
「どうかしたか？君江」
「いいえ、何でもございません」
君江は慌ててペンダントをポケットに隠した。
「さあ、急ぎますよ。授業に遅れますからね」
君江が馬に跨ったところで、相川がそう言った。