THE FLOWER GARDEN
続水仙の章01
手紙を読み終わった日向は、それを折りたたむと火をつける。一瞬で、その手紙は黒い煤のようなものへと変わり果てた。
手紙を届けた男はそこまで見届けると、日向の前から去ろうとしたが、ひき止めるように日向が尋ねた。
「それで彼女は…百合の姫はどうしたのだ」
「運良く百合の副隊長が遠くに目に付いていたので、事情を話し、引きとっていただきました」
「事情…？」
日向の顔が怪訝そうになる。
「あくまで、池に落ちていたと」
男はすぐにそう答えた。日向の考えは、すぐにわかるようである。
「…お前は、どう思った？」
一呼吸おいて、男は答える。
「落ちたのは偶然かもしれませんが、その後はご自身の意志ではないかと。手首や顔にも痛々しい傷がありましたし、第一目が…」
目が死んでいるも同然だった。
あくまで報告するのが仕事の男は、そこに自分の主観があってはならないことを知っていた。
わかったと日向が答えると、今度こそと男は扉に手をかけて、またも呼びとめられた。
「他に気付いている人間はいるのか」
「いいえ。知っているのは、百合組以外にはいないはずです」
「わかった。すまない、何度も引きとめて」
扉が閉まると、日向は雅のことを思い出した。
少なくとも、最後に会った時に、痛々しい傷などはなかった。
おそらく、あの逃亡が速水に知られ、折檻を受けたに違いない。
それにしても、顔に傷をつけるほどまで暴力を振るうとは。
いや、気付かなかっただけで、実はあの華奢な体の見えないところには無数の傷があったのかもしれない。
日向は、自分にすがりつくようにしていた雅を思い起こしたが、自分の心情を振り払うように着ていた上着を机に投げると、椅子から立ちあがった。
「あ」
気付いて声を上げたしずかよりも、夏目は一瞬早く気づいていたようで、余裕の笑みを返された。
「待って」
対岸の夏目の所へと、今にも川を飛び越えようとしていたしずかをそこにいるように指示すると、夏目は少し下流にある橋から、しずかのところに渡ってきた。
「この場所が気に入ったみたいだね」
無邪気な笑顔の夏目に、ここにやってくる理由を話すべきか一瞬悩んだしずかだが、言葉はすんなりと出てきた。
「…待ち合わせを、していたんだ。雅と」
夏目の頬が強張るのがわかる。人は変わってしまうと言った夏目にも、しずかは雅を信じてほしかったのだ。その理由を、しずかはまだ気付いていなかった。
「けど。来れなかった。…いろいろあって。
雅に謝りたいんだ。だから来てしまうのかもしれない。もしかしたら、今日、来てくれるかもしれないって」
しずかはある部分で夏目を誤解していた。夏目は、しずかを傷つけようと思って、人は変わるのだと言ったわけではない。むしろその逆だ。だから、夏目は自然と話していた。
「…百合の姫は、風邪で体調を崩しているそうだよ」
え？と、雅は夏目を見つめた。
そもそもは、薔薇の隊長としての立場で白百合館を訪ねたことにある。公式に訪問をした日向と、非公式だが確実に百合の姫と対面していると思われる鞍馬に
対して、夏目はただ噂しか聞いていなかった。先日、百合の姫が騎士たちとの対面をようやく済ませたという話を聞き、訪ねることにしたのだが、やってきたのは、副隊長の碓井だけだった。
「すみません。速水は外出中で、姫は体調を崩しておりますので…」
碓井の表情に嘘は見えなかった。それどころか、風邪か？と尋ねた夏目に対して、
「ええ。熱が下がらなくて…」
と本音と思える言葉すら告げたのだ。
会えるのであれば、しずかのことも話せねばと思っていた夏目は、残念そうに溜息をつき、お大事に、とだけ答えた。
「だから、きっと約束の時間にも来れなかったんじゃないのかな」
夏目の気落ちしているしずかを気遣う言葉は、しずかには届かなかった。その時には、もうしずかの頭は、雅のことでいっぱいだったのだ。
風邪だって？
熱が下がらない？
この前の、君江みたいだ。
あ、そうだ。あの薬があれば、雅の熱は下がるかもしれない。
「サンキュ。夏目」
しずかはそれだけ言うと、呆気に取られている夏目を置いて、黄仙館に戻っていった。
百合がおかしい。
ここ数日間、ずっと鞍馬はそう思っていた。
白百合館に速水を訪ねても、体調不良やら、外出中やらで出てこない。しかもそれもどうも嘘らしく、百合の騎士たちすらここ３、４日は速水の姿を見ていないらしい。
姫に至っては、もともと牢獄のような部屋に監禁されていたわけだから、姿を見せないのは普通なのだが、体調を崩していると言うのは本当らしく、副隊長の碓井が必死になって薬を取り寄せているという。
いったい何があったというのだ。
そして、鞍馬の考えは、必ず日向に行き着くのだ。
全ては、あの粗野な女との逃亡計画が失敗したあたりにある。
そして、日向と百合の姫が出会ってしまったことにあるに違いない。
何かあったはずだ。
百合の内部で。
「鞍馬隊長」
ノックされ、現れたのは但野であった。
「姫が、隊長にお話があるようなのですが」
鞍馬は但野にわかるように舌打ちをした。
「お前が聞いておけ」
「しかし−」
荒荒しい音をたてて、鞍馬が立ちあがった。但野は嬉しそうな顔をして、扉を開ける。
「私は少し、散歩をしてくる」
鞍馬が梢のところに行くとばかり思っていた但野は、分かりやすいほどに落胆した。
姫も姫なら、騎士も騎士だ。
他力本願にもほどがある。
「姫は不安がっているだけだ。護衛のお前は、その不安を取り除くのが仕事だろう」
荒荒しく扉を閉め、階段を降り、厩に向かう。こんな時は疾風に乗って、森を駆け抜けたい気分だった。
「櫂人様っ」
青菫館を出ようとしたまさにその時、鞍馬は声をかけられた。振りかえらずとも、それが梢であることはわかる。鞍馬は、一瞬足を止め、一呼吸つくと、まずは表情を整えた。
「やあ、姫。ご機嫌麗しゅう」
振り返ると、梢は不安というよりは、詮索する目で鞍馬を見つめていた。
鞍馬は浮かべた笑みを崩さぬように、更に首を傾げる。
「どうかしたのかい？」
「どちらに…どちらに行かれるのですか？」
どうして女というものは、すぐに束縛したがるのだろうか。
「ちょっとね」
「どなたかと、お約束ですか？」
その目が、女ではないのかと疑っていることに、鞍馬は否応にも気付かずにはいられない。
「いや。そうではないよ」
実際は、疾風を走らせた後で、女のところに行こうと思っていたので、それを見ぬかれた気分にさえなる。
「騎士団の隊長というのはね、いろんな仕事があるんだよ」
言葉はないが、明らかに疑っている目をしている。
鞍馬は仕方なく、梢の耳元で囁いた。
「今夜は無理だけど、近いうちにまた君の部屋に行こう」
途端に、梢の顔は明るくなる。
鞍馬は心の中で溜息をつくと、青菫館を後にした。
梢は明らかに綺麗になっていっている。
それには鞍馬の存在が大きいことも、むしろそのように仕向けたことも、わかっていた。
しかし、それでも鞍馬を１日見ないだけで、不安がるというのは問題である。
恋は、女を美しくも醜くもする、まさに劇薬のようなものなのだ。
しかし、今以上の束縛を考えると、鞍馬は溜息をつくしかなかった。
だが所詮、妃となれば、私の手を離れる。
そして、私は新たな地位を得るのだ。
疾風に飛びのろうとした時、ふいに自分を呼ぶ声がして、鞍馬は振りかえった。
「誰だ」
「鞍馬様、私です」
現れたのは、これから行こうかと思っていた”女”の一人である。
「鞍馬様に耳寄りな情報を入手しましたので」
鞍馬は、疾風の背を撫でると、そっと手綱を放した。
「日向っ」
ノックもなしに、突然しずかが部屋に飛びこんできて、日向は思わず手にしていたグラスを、上着に落としそうになった。
「相変わらずだな。せめてノックくらいは−」
「あの薬、どこだよ」
しずかはそれだけ言うと、日向に掌を向ける。
「あの薬？」
「この前君江に飲ませたやつ。あれ、よく効くみたいだったからさ」
「何に使う？」
日向の視線が鋭い。しずかはさらりと答える。
「薬は、病気を治すために使うに決まってんだろ？」
「誰に？」
それは…と、しずかは言葉をつまらせる。日向の視線はさらに鋭くなった。
「それは、それは…。それは、石崎だよ」
「私がどうかしましたか？」
思いつきで石崎の名前を出すと、間の悪いことに扉の向こうから石崎が姿を現した。
「お前、何でここにいるんだよ」
「扉が開いてましたので」
閉め忘れたのは、しずか自身だ。しずかは苛立ちを隠しきれずに言う。
「石崎、お前熱があるんだよな、下がんないんだよな」
「へ？」
融通の利かない石崎の胸倉を掴むと、しずかは無理やり額に手を当てた。
「ほら、すっげー熱」
石崎はきょとんとしたままだ。
日向は、それでも演技を続けようとしているしずかに言う。
「百合の姫なら、大丈夫だ」
見抜かれていたことに、しずかは悔しくなり、舌打ちをした。
「え？百合の姫がどうか？」
石崎が一人きょとんとしたまま答えを求めるが、しずかと日向の視線は一瞬たりと外す雰囲気すらない。
「どうしてお前がそんなこと言えるんだよ？」
また情報を抱え込む日向に、しずかは苛立っていた。
「あの、隊長？」
「速水のことだ。何としても治すに違いない」
「いったい、何が−」
思わずしずかは怒鳴った。
「石崎っ、お前はうっせーんだよっ」
ひぃっと小さく叫び、石崎は後ずさりした。日向は頭を抱える。
「…お前には後で説明をする」
わかりました、と石崎は答え、そそくさと部屋を出ていった。扉がきちんと閉まる音を確認して、日向は話を戻した。
「あの薬は、簡単には手に入らない」
「でも手に入るんだろ？」
しずかの視線は本物であった。
やれるなら、とことんやる女だということは、日向自身がよくわかっている。
「いくら手に入っても、お前は百合の姫に渡すことはできない」
「やってみなきゃわかんねーだろうっ」
痺れを切らしたしずかが、日向から視線を逸らした。
「もういいよ、お前になんか頼まないっ」
そのまま足音を立てていくしずかをそのまま見送ることも、日向にはできた。しかし、ふと日向の中で、期待が過る。
その期待とは、どうやってしずかが、難関を通りぬけるか、という期待であった。
「…女子寮に、菊島ヨネという女性がいる。彼女が調合してくれる」
「菊島ヨネ…」
聞いたことのない名前だった。
でも、とにかく、そのヨネってのに頼めばいいんだな。
そのまま部屋を出ていこうとしたしずかに、日向は一応の忠告をする。
「行くなら明日にしろ。今日押しかけても、部屋に通す人間がいないからな」
その意味を、しずかは正しく理解しないままに、部屋を出ていった。