THE FLOWER GARDEN
百合の章14
３日が過ぎ、雅の傷も治ってきていた。
痣も、もう数日で消えるだろう。
雅の傷の手当てをしながら、碓井はそう思っていた。
しかし、相変わらず雅は一言も口をきかなかった。それどころか、何にも反応すらしなくなっていた。
碓井が傷に触れても、嫌がることもせず、痛がるそぶりも見せない。
まるで人形のようだ。
そう思う度に、碓井の心は痛んだ。
いや、私よりも、姫の心の傷のほうが何倍も深いのだ。
窓に立ち、外を見ていると、温かい日の光に、百合の匂いが風に乗って運ばれてきた。ふいに碓井は思いついた。
「姫、外に。出てみますか？」
手当てを実際にしていた騎士が、その手を止めて碓井を見つめる。
「碓井副隊長、そんなことをして隊長が―」
実際、速水はあの夜から一度もここには来ておらず、もっぱら部屋に閉じこもっているか、肖像の間にいるかのどちらかであった。
部屋から出すな、と言われていたものの、ずっとこのままでは雅によくないことは、碓井にも分かっていた。
「責任は私が取る」
何かが変わればと思って百合の丘につれては来たものの、雅の様子に変化は見られなかった。他の騎士たちは、速水から叱責されるのを恐れてか、雅を連れ戻そうとはしなかったものの、館内に留まってしまっていた。
目の前には、白百合が風に揺れていた。
「姫、ここが百合の丘と呼ばれている場所です。
百合は約１００種あると言われておりまして、ここにあるのは、いわゆるテッポウユリ系の百合でして−」
少々堅い話をしているところで、碓井は後ろから騎士の一人に呼ばれた。
「碓井副隊長、ちょっと−」
「何だ？」
騎士は、ささっと碓井の横にやってくると、こう言った。
「菫の鞍馬隊長がいらしてます」
「ならば、隊長にお知らせしろ」
「はい、それで隊長が碓井に任せろ、と」
確かにその選択は正しいかもしれない。平常心を失ったままでの鞍馬との対面は、迂闊なことを言いかねない。
しかし、碓井は悩んでいた。このまま自分が館内に戻るのであれば、せっかく連れ出した雅も部屋に戻さねばならなかった。そうすれば、二度と部屋を出れなくなるかもしれないのだ。
「…わかった、すぐ戻るが。姫を頼む」
「し、しかし」
「大丈夫だ。姫は心神喪失状態にある。そう逃げ出そうとはしないだろう。見張っておくだけでいいから」
そして、碓井は雅の首にずっと持ち続けていたペンダントをつけた。
「…姫のものですよ」
それは、速水に見つかった途端に、慌てて雅が隠したペンダントだった。そして、連行される時にそのペンダントは床に落ちていたのを、碓井が拾った。何かの時に返そうと思って。
しかし、雅の反応は何もない。
碓井は軽く溜息だけつくと、駆け足で白百合館に戻っていった。
騎士は、溜息をつくと、目の前に座ったままの雅を見つめた。
確かに、逃げ出す雰囲気もない。
ふいに騎士は眠気に誘われた。そういえば、昨日も姫の部屋の警備でろくに眠っていないのだ。
目の前の雅は、まだ動こうとすらしていなかった。
ちょっと横になるくらい、大丈夫だろう。
雅の黒髪が、風に揺れていた。
「姫っ。姫っ。見てください。鳥の巣があそこにっ」
はしゃぐ君江を見ながら、しずかはそっと微笑んだ。本当に元気になってよかったと思う。
「全く女というのはげんきんなものだ」
石崎がそう呟いた。
「お前って、そんなに女について詳しいのか」
からかうように言ったしずかに、石崎は違いますっと顔を真っ赤にして抗議したところで、自分の乗っていた馬が嘶いたので、慌てて手綱を締めた。
もとは、しずかが「馬に乗りたい」と言い出したことがはじまりだった。
馬を乗りこなせれば、雅と逃げ出しやすくなる、というのがそもそもの動機なのだが、もちろんそのことは言わずに相川に頼んだところ、日向も許可したとかで、昨日から乗馬の練習が始まっていた。
「姫は筋がいいですよ」
教師の相川はそう褒めたが、隣で石崎が、
「まったく。妃の条件に、乗馬の巧い下手などあるものか」
と悪態をついたので、しずかは思わず言ったのだ。
「明日、お前もついて来い。君江がお昼を用意してくれるそうだしな」
明日、つまり今日は、その乗馬の練習も兼ねて、近くの池に行くことが決まっていた。その話を聞きつけた君江が、せっかくだからハイキングにしようと言い出したのだ。多少午後の授業には遅れるかもしれないが、それは日向が許可をした。
石崎はあまり乗馬がうまくない、というのは相川から聞いたことだった。だからこそ、しずかはこのハイキングに誘ったのだ。
嫌がる石崎に、「命令だ」といえば逆らわないことを、しずかは知っていた。
そして、相川の馬に同乗した君江と、おっかなびっくりで手綱を取る石崎と、しずかはこの池のほとりにやってきたのだ。
「こんなとこに池があったんだ」
「ええ。もう少し上流には滝がございますし、この池の下流には、水仙の泉がございます」
相川は馬から下りると、そう説明をした。君江はすでに食事を広げ始めていた。
初めは、彼らから一線をしいていたしずかだったが、君江が倒れてから、多少その線を緩めたところがあった。
別に悪いやつらじゃないし。
それに、もう少ししたらお別れだしな。
「姫、お食事にしましょうっ」
またもはしゃぐ君江の声が響いた。しずかも馬から下りて、その輪に入っていった。
応接間に駆けつけると、碓井は一息ついてから扉を開けた。
「お待たせいたしました。申し訳ございませんが、速水は体調が優れないということで、何かございましたら、この碓井が承ります」
碓井の顔を見た途端に、鞍馬の表情が変わったことに碓井は気付いた。
それは、さぐりをいれるような視線だった。
「速水隊長は風邪でもひかれたのかい？」
「ええ。まあ」
「そうか…。ふーん」
鞍馬はそう言って、出されたお茶を飲んだ。
最近鞍馬が速水を訪ねによくやってくることは、碓井も知っていた。しかも、二人の対談はどちらの意志でか、密談されることが多く、そのあと速水が言い出すことは、たいてい碓井を驚かせていた。
「姫は、いかがかな？」
「元気でおりますが？」
話が変わって碓井はそう答えたが、その口調の強さの裏に、いったいそれが鞍馬にどんな関係があるんだと言っていることを、鞍馬はもちろん感じていた。
疑われているな。
鞍馬はすんなりと引き下がることに決めた。この口の堅い副隊長からは、何の情報も得られないだろう。
「そう。わかった」
玄関まで見送ろうとした碓井を断って、鞍馬は部屋を出ていった。
その途端、碓井も慌てて部屋を出ていった。そして、裏口から百合の丘へと駆け出した。
鞍馬が何かを企んでいることは分かっている。
となれば、姫が危ないかもしれない。
「姫っ、姫っ」
小声でそう叫びながら、丘に出た碓井だが、そこで言葉をなくした。
側に寝転がっていた騎士が、慌てて身を起こした。
「…おい、姫はどうした？」
言われた騎士は、先ほどまで見えていた背中の方を指した。
「あ、碓井副隊長…。そちらに…」
しかし、そう言ったところで、その手を下ろした。
そこには、誰もいなかった。
ただ、百合の花が風に揺れているだけだった。
騎士が謝る前に、碓井は指示を出した。
「探し出せ、今すぐにだっ」