THE FLOWER GARDEN
百合の章13
昨日と変わらぬ夜が来た。
しずかは、君江がおやすみなさいと言って扉を閉め、階段を降りていくまで確認すると、急いでベッドから置きあがり、まずは身軽な恰好に着替えた。
今日は、来ているかもしれない。
ベッドには、しずかの寝巻きを着せたクッションを置き、しずかはそっと黄仙館を抜け出した。
雅との待ちあわせ場所にしていたところは、偶然しずかが見つけたところだった。赤・白・黄の花が咲き乱れる場所は、わかりやすいと思ったのだ。小走りに
その場所にやってきたところで、しずかは、あ、と声を上げた。呼ばれた人間も、向こう岸でしずかに気付き、二人の視線が交わった。
動けなくなったしずか に、夏目が声をかけた。
「また、日向と喧嘩？」
「なんだよ、またって」
夏目は他意なく笑顔を向けている。しずかは俯いて答えた。
「まあ最近は、口利いて無いけどさ」
「やっぱり喧嘩してるんじゃないか」
「ちげーよ」
夏目の声が少し途切れて聞こえていた。小川のせせらぎと、二人の距離が、しずかの邪魔をしていた。
「遠いな」
そう呟いたしずかの声も、夏目には届かなかったらしい。
「何？」
そう聞き返したところで、突然しずかは川から離れると、川に向かって駆け出して、夏目の岸までジャンプをした。川の幅は、ゆうに３メートルはありそうだった。
「危ないっ」
しずかの右足が、先に岸についた。ところが、縁であったせいか、ずるっとそのまましずかは足を滑らせてしまった。すぐに夏目の腕がしずかを捉え、二人は川辺に転がる形になって、夏目は安堵の溜息をついた。
「この川は、小さいが以外と深く流れが速いんだ。それに、この先には大きな滝がある。今度この川を渡るときは、この先を下ると小さな橋があるから、それを使うといい」
「わかったよ。夏目って心配性だな」
しずかの方はあっけらかんとしている。
再び夏目は溜息をついた。
「口利いて無いって。何かあったのか？」
「別に。ただあいつ、卑怯だからあたしの質問に答えないんだ」
「質問？」
しずかは視線を夏目にぶつけてきた。
「夏目は知ってるんだろ？白鳥と日向が恋人だったこと」
思わぬ言葉が出てきて、夏目は即答できなかった。それから、自分の記憶を手繰るように言った。
「恋人か…。まあ、そうゆうことになるのか」
そう呟いた夏目に、しずかは聞き返す。
「違うのか？日向は桜小路有世から白鳥を奪ったんじゃないのか？」
「それは違う」
はっきり断言した夏目に、しずかは驚く。
「だって、そう百合の奴らがいってたぜ」
「噂はそう流れていたね」
「だから白鳥が最有力候補ってやつじゃないの？」
「それもちょっと違うかな」
夏目は立ちあがると、そっと月を見上げて、今となっては懐かしい想い出を話した。
「もともとは、佳乃様が生存してたころからの話なんだ。
あるとき、妃が二人いた方がいいんじゃないかと思った輩がいたんだ。そうやって陛下に取り入ろうとして。それで、うちの姫がやってきた。
ところが、姫は日向に一目ぼれをしてしまった」
「日向に？」
しずかは怪訝そうな顔をしたけれど、認めないわけにはいかなかった。女子生徒たちにも、鞍馬と並んで日向の人気は高い。その容姿が人並み以上であることと、能力が優れていることは、しずかにも否定できなかった。ただ、賛成もできなかったが。
「姫は美しい。容姿、立ち振る舞い、全てが妃として申し分無い。性格も気高いところもあるが、それも妃とすれば問題ない。ただ、男に惚れやすく、惚れた男には弱い。その男のためには名誉など必要無いと思うほどに」
だから今も立場を忘れ、火遊びを楽しんでいる…。
いや、火遊びという感覚があれば、まだいいのかもしれない。今の恋がいつだって、最高だと思うのが、 姫の人としてのかわいらしさなのだから。しかし、あのときに比べれば、姫は大人になったと言えるのかもしれない。恋人に一途だ、という点で。
「姫は、どうしても陛下の妃になるのが嫌だと言い出した。そのうちに、姫と日向が恋人だと言う噂が流れ始めた。姫を連れてきたのは薔薇組の前隊長だったか
ら、姫が緋薔館に滞在していたせいもある。そもそも、姫を妃にするためにつれてきたことを知っていたのはごく僅かな人間だったから、その中に姫の存在を快く思わなかった人間がいたのかもしれない」
「つまりは森宮佳乃側の人間ってこと？」
夏目は多分、と呟いた。
「そして、噂が広まった。日向に非がないことは陛下もご存知だったが、もしそのまま姫を妃として迎えたならば、日向の存在が邪魔になる。それに陛下は、妃は佳乃様で充分だと言って、全てを納めるべく、日向に姫を受け入れるように言った」
しずかは華夜乃が最高の笑顔を浮かべて、日向と抱き合う姿を想像した。
きっと、お似合いってことになるんだろうな。
ただ、しずかには気になることがあった。
立ちあがり、月を愛でている夏目の隣に立ち、しずかは質問した。
「日向は、白鳥を本気で好きだったのか？」
夏目の瞳が、少し曇った。
「…それは本人でないと答えられないだろう。でも、そうだったのかもしれない。でなければ、あんな事件にはならなかっただろうから」
事件？としずかは呟く。夏目は無言で頷いた。
「それから３ヶ月くらいして、また佳乃様が倒れたことがあったんだ。あの時は、佳乃様もご実家に帰られるほどで、誰もが諦めていた。陛下さえ気落ちしていたし、桜王宮は暗くなっていた。そのときに、また姫を妃にしてはどうかという話が持ちあがった」
「でも、白鳥は日向の恋人だったんだろ？それに一度なくなった話だ」
「しかし、それでも陛下が望まれたんだ」
そして、と夏目は付け加えた。
「姫もそれを承諾した。ただ一人、日向だけが反対をした」
今考えても、その謎は解けない。
たった３ヶ月前とは、有世も、華夜乃も、日向も言っていることが正反対だったのだから。
「それって、白鳥は日向に飽きたってこと？」
しずかはあっさりとそう言ったが、夏目は肯定も、否定もしなかった。
一見すると、二人の関係は冷めかけていたようにも思えた。
いや、姫は違っていたか…。
夏目は、偶然聞いてしまった二人の会話を思い起こしていた。
それはまだ、佳乃が倒れる前で、薔薇の園の中で二人は言い争っていた。
いや、姫が日向に一方的につかかっていたのだ。
「答えなさいよ。本当に私のことが大事？好き？愛してる？」
「…大事にしてるつもりだよ」
「そういう意味の大事じゃないわ。陛下から頼まれたものだからじゃなくて、一人の人間として大事かって聞いているのっ。誰にも負けないくらい愛してるかって聞いているのよっ」
「ああ、愛してるよ」
それは至って無機質な声だった。
「もう、いいわっ」
そう言って華夜乃が駆けていった。
残された日向の溜息が、深く薔薇の中に沈んでいたが、そこに悲しみなどは見えなかった。
それが、日向の答えなのだと、華夜乃のことを愛していないのだと、その時の夏目は思ったのだ。
なのに日向は、姫を妃にと言われたとき、反対をした。
「それで、どうなったんだよ」
しずかの声が、夏目を現在に戻す。夏目は自分の思いを省いて、事実だけを話した。
「最後まで強行に反対した日向は、不敬罪にあたるとされ、謹慎処分を言い渡された。ところが日向はそれならば騎士を返上したいと申し出て、当時の薔薇の隊長はそれをのんだ。
そして日向は薔薇もそして騎士であることも辞めた」
それをこの世界では雑色という。何の権限もなく、住まうところも与えられず、虫けら同然に扱われる雑色に、輝く薔薇組の副隊長は成り下がったのだ。
「そして、水仙組の隊長になった。なんでそんなことができたわけ？」
「隊長と言うのは任期は決まっていないが、引退時期は決められている。この学園を卒業しなくてはならなくなった時だ。次期隊長というのは、基本的には隊長が任命する。組の副隊長であることがほとんどだ」
日向はそれとも違うけどね、と夏目は付け加えた。
しずかの問いにきちんと夏目が答えてないことはわかったが、そもそもその答えを夏目が知っているようにも思えなかった。
だからしずかは質問を変えた。
「それで、白鳥は妃になったわけ？」
であれば、今回三度目の妃候補になる理由もわからなかった。
「日向が薔薇を去った頃、佳乃様が戻られて、姫の話はなくなったんだ。
今回、姫が最有力候補である所以は、かつて陛下が強く望まれたという過去があるからなんだ」
そして、水仙を除いた薔薇・百合・菫は、華夜乃に近づく。その中で百合は森宮佳乃に生き写しの雅を見つけて連れ去ると、百合の姫にした。そして、肝心の華夜乃は鞍馬の菫ではなく、薔薇を選んだ。
「もう夜も更けた。部屋に戻るといい」
夏目はそう言うと、下流の橋のことをもう一度しずかに説明した。
男からの話を聞いた鞍馬は、思わず手の中のグラスを握り、割ってしまいそうになった。
「逃亡計画失敗だと？」
「どうも、水仙の姫が出れなかったようで。水仙内部で何か動きがあったようです」
まさか、日向が気付いたのだろうか。
更に男は報告を続けた。
「ただ、成瀬日向が百合の姫と接触してました」
予感的中だ。
鞍馬は、冷静を装うと、グラスをそっとテーブルに置く。
「成瀬が？…そのこと、百合は？」
「おそらく気付いて無いかと思われます」
男の話によれば、日向と別れた雅は、それでもしばらくその場所に立っていたという。それから速水たち百合の騎士が現れて、すばやく雅を白百合館に連れ戻したのだ、と。
「それで今は？」
おそらくあの速水のことだ。
ただでさえ、あの姫にご執心なのに、そこに成瀬が入りこんできたら、荒れ狂うに違いない。
そしてこの鞍馬の読みも、見事に当たっていた。
「姫は監禁状態のようです。速水も表にはまだ出てきていません」
おそらく、陛下との対面式まで、百合の姫は表に出てこないだろうと鞍馬は思い、報告を終えた男に下がるようにと言った。
扉が閉まり、男が出ていった途端に、鞍馬はテーブルのグラスをつかむと、扉に向かって投げつけた。華奢なグラスはもちろん、音をたてて割れた。
またしても、成瀬の奴め。
呼び出した顔が、自分の前に現れたとき、日向は多少口調を強めていった。
「やりすぎだ、吉沢。君江が死んだらどうするつもりだ」
真剣な日向とは違って、吉沢は至って平然とした顔をしている。ここに相川がいれば、あの温厚な相川でさえ、もしかしたら吉沢に殴りかかったかもしれないと、日向は思った。
「そんな量じゃねぇよ。俺って隊長からの信用、そんなにねぇわけか」
「そんなことはない」
そもそも、日向は薬などを使うつもりはなかったのだ。言い出したのは吉沢だった。けれど、受けたのは自分だったと日向は少し反省した。そんな日向に気付いてか、吉沢は強気に言った。
「最初からあの姫に飲ませればよかったんだ」
「それでは意味がない」
先刻しずかが黄仙館を例のごとく抜け出したことを日向は知っていた。当然、それは昨日叶えられなかった約束のためである。雅がいる保証はなくても、しず
とすれば、もしかしたらという僅かな希望にかけたのだ。日向がそれを追いかけなかったのは、すでに雅が白百合館を抜け出すことなどできない状況にあることを知っているからである。その報告をしてきたのも、この吉沢だ。
「しずかの意志で、行かなかったことが重要なんだ」
そう言った日向を疑うように吉沢が聞き返す。
「それだけか？」
どういう意味だ、と吉沢に視線を向けた日向に、吉沢は言う。
「変な同情、してるんじゃないよな」
意味することに、日向ははっきりと答えた。
「馬鹿をいうな」