THE FLOWER GARDEN
百合の章11
「あなた…」
振り返った雅の目に映った人間は、確かに会いたいと思っていた人物ではあった。
「成瀬…さん」
日向は一歩、そして雅に近づいた。
「百合の姫がこのような時間に、こんなところで何をしている？」
雅ではなく百合の姫と呼ばれたことに雅は軽いショックを受ける。
「あなたには、関係ありません」
小川のせせらぎの音が、小さな沈黙をつなぐ。顔を逸らした雅に、日向は言った。
「しずかは来ない」
驚いて雅は日向の顔を見る。
しずかさんが、教えたの？
まさか、そんなことはないはず。
としたら…。
「まさか出て来れないようにしたの？」
雅の小さな非難に日向は軽く首を振った。
「俺は速水と違ってそういう趣味はない。姫は自分の意志で、今日ここに来ないことを決めた」
自分の顔が、カッと赤くなるのを雅は感じた。
知っていたのだ、この人は。
私がまるで奴隷同然に扱われていることを。
知っていて、何もしなかった。
「それでも、待ちます。私」
「それは困る。水仙の隊長として。ここは水仙の領域だ。そしてあなたは、百合の姫だ」
口調は優しかった。
けれど、目は冷たかった。
雅は日向に背を向けたが、日向の声はそんな雅を追いかける。
「早く帰らないと、速水にまた叩かれると思うが」
「…もう戻りません、あんなところに」
もう二度と。あそこにいるくらいなら、地獄の方がましかもしれない。
「速水はそれでもあなたを追いかけるだろう。そしてまた捕らえ、幽閉する」
「私は姫なんか知りませんっ、私はっ、わたしは−」
思わず振りかえった雅に向けられたのは、日向の氷のように冷たい視線だった。
そして、日向は一言呟く。
「まだしずかの方が大人だな」
雅には、日向がこの前と全く違う人間のように思えていた。
それとも錯覚しただけなのだろうか。あの、ひどく幼い微笑みに。
「しずかは一度もそんな風に言ったことはない。全て、自分一人で決めたことだと、自分一人の足で立っている」
速水に頬を叩かれたことを雅は否応でも思い出してしまった。
これが、私の現実なのだと。
待っていても、白馬の王子様は現れないのだ。
日向は呆然としている雅に、話題を変えて話しかけた。
「しずかが、どうしてこの学園に来たのか、聞いたことは？」
「ありません。そんな時間、なかったから」
思えば、しずかとは2日間しか一緒にいなかった。しかも、時間にすると、おそらく数時間。けれど雅は、しずかを信じることができた。
「彼女の母親は、つい最近、金持ちの男と再婚をした。
ところが、相手の家族の猛反発にあった。
理由はしずか。しずかは今まで2回も高校を退学している所謂不良娘。だからだそうだ。
どちらがしかけたのかわからないが、とにかく厳しいことで有名なこの学園を無事卒業すれば、両親の再婚は認められるそうだ」
小さなしずかと、横で微笑む母親のロケット。
大事そうにしていたしずかに、自分は何と言っただろうか。
でも、それとこれは関係ない。
雅は顔を上げると、日向を初めて睨みつけた。
「私としずかさんは、この世界を抜け出すだけです。元の世界で普通の高校生活を送るんです」
しかし、日向はそんな雅を一蹴するように大きく笑うと、はっきりと言った。
「普通の高校生活？あんな規則に塗り固められた学校で？
あのしずかが大人しくいられるわけないだろう。実際何度も反省室に入れられている。
むしろ、こちらの世界の方があいつのためになる」
「それはしずかさんの意志ではないわ」
日向がまゆをひそめた。
「どうしてそう言いきれる？」
雅には確信があった。
一度の逢瀬で、お互いが必死で手を伸ばしたあのとき。
あの時、私としずかさんは同じ気持ちだったもの。
それにと雅は思い、日向に答えた。
「手紙をもらったわ。元の世界に戻ろうって」
「それは百合の姫がそう望んだからだ」
そう言って日向は雅を見据えた。
雅が望んだために、しずかもそう望むしかなかった、とでも言いたいように。
その視線はあまりに強く、雅は自分の心が揺らぐのを感じた。
「自分の意志でもって、しずかを動かしていいのか？第一、靴も武器も持たない女一人を抱え、いくらしずかと言っても、騎士たちの壁を抜けられないだろう」
確かにその通りだった。白百合館から、速水から逃げ出すことに精一杯で、その後のことは何も考えていなかった。
ふいに視界が揺らいだ。
すっと日向の手が伸びて、倒れそうになった雅を支える。雅も必死で日向の腕にしがみついた。
お互いの視線が絡み合う。
冷たく感じた視線は、近くで見ると温かかった。
雅は、そのまま日向に抱きつくように言った。
「お願いです、助けてください。お願いします」
お願いしますと何度も呟いたが、言えば言うほどに、日向は体を離していき、雅はそのまま力なく座りこんでいた。その雅に、上から日向の声が注がれた。
「早く帰ったほうがいい。速水にばれないうちに」
そして、日向は自分の制服を掴んでいた雅の手も、そっと引き離した。
寝静まった青菫館の梢の部屋の扉が突然開いて、梢は思わずベッドから跳ね上がった。
「だ…っ、誰ですか？」
手もとのランプをつけると、誰かが扉を閉めて部屋に入ってきているのが見えた。
侵入者？
しかし、その静寂の中に響き渡ったのは、いつも耳にしている甘い声だった。
「姫、ご機嫌麗しゅう」
「櫂人…様」
鞍馬は片手にワイングラスを持ちながら、扉に寄りかかっていた。そして、突然笑い出した。
「ハハハ」
「どう。されたんですの？」
梢はベッドから起き上がると、駆け寄っていった。鞍馬は酔っているのか、まだ笑い続けている。テーブルにあった水をコップに注ぐと、それを梢は鞍馬に差し出した。
「お酒、飲んでいるのですね」
「楽しいことばかり起きるのでね。祝杯を上げていたんだ」
先ほど百合にいる密偵から、姫が逃げ出したらしいという話を鞍馬は聞いていた。見事取り逃がし、今でも百合は大騒ぎしているという。
しずかの作戦か。
とすれば、今ごろ二人はどこかで落ち会っているのかもしれない。
それでいいのだ。これで、百合も水仙も落ちたことになる。
残る薔薇の弱点も、今日鞍馬は掴んだばかりだった。
やはり、白鳥華夜乃は、薔薇の副隊長・富樫とできていたのだ。
だから、白鳥は薔薇を選んだ。
単純なことだった。あの淫売の考えは。
そう思うと、いくら笑っても、笑い足りないほどだった。しかし、飲みすぎているのか、鞍馬は梢から水を受け取ろうとして、そのまま足をすべらせて、壁に慌てて寄りかかった。
「ああっ、大丈夫ですか？櫂人様」
「平気、平気…」
かけつけた梢の、髪の香がふと鞍馬の鼻をくすぐった。ふっくらと透き通るようなうなじが、すぐそこにある。
この初々しさ。まだ男をしらない初心な乙女。
鞍馬の心に、何かが芽生えた。
「姫は…。僕のことを信用してくれてるのかな」
「それは…、もちろんですっ」
慌ててそう言った梢を、鞍馬はぐいっと引き寄せた。
別に、妃が処女でなければならない理由は無い。第一そうであれば、白鳥など選ばれるはずもないのだから。
それに、このまま陛下にくれてやるのは、もったいない、というものだ。
鞍馬は梢の持っていたランプの明かりをそっと吹き消した。
君江に薬を与えてから1時間が過ぎていた。楽になった呼吸を確認したしずかが、そっと黄仙館を出ていこうとしたとき、階段の下から現れたのは日向だった。
「あ」
思わずそう声を出した。しかし、日向は何も言わなかった。
それどころか、そのまましずかの前を通り過ぎようとした。
「あのさ。サンキュ」
驚いた顔で日向が慌てたように振りかえったので、言ったしずかまでもが驚いてしまった。
「なんか、気を使ってくれてたみたいだから」
どこか抜けてしまった声に、日向のかすれた声が答える。
「別に、隊長としてするべきことをしたまでだ」
そのまま部屋に向かおうとしていた日向は、ふと振りかえった。
「どこに行く？」
時間は夜中の1時半を回っていた。
そもそもこんな時間にここで出会うことが間違っていることに気付いたしずかは、慌てて答えた。
「え？あ…。うん、ちょっとトイレ」
そういって、そそくさと階段を降りていくしずかを見ていた日向は、ふいに笑みがこぼれてしまって、慌ててその顔を引き締めた。
トイレなど、すぐ後ろにあるじゃないか。
それから玄関の扉が開いた音が聞こえたが、日向はそのまま自分の部屋に戻っていった。
両手から騎士たちの腕が離れると、そのまま雅は床に座り込んでしまった。
逃げ出す気力はないに等しかった。
それでも、目の前に立っている速水は雅が逃げ出さないようにと、両脇に騎士を立たせていた。
「何を、していたんだ」
碓井たちの慌て様に、速水が気付かないわけが無かった。すぐに問いただし、雅を取り逃がした騎士を殴りつけた頃には、すでに雅は白百合館を出ていた。
「…」
雅は何も答えなかった。俯いたその表情には、悲しみに溢れていた。
「どうして、館を抜け出した」
自ら馬を走らせ、そして初めに発見したのも速水だった。
「何のために？」
だから速水は見てしまっていたのだ。
雅が、水仙の隊長である日向と抱き合うところを。
そう。
逢引きを、していたのだ。
この女と、仮にも百合の姫と、水仙の隊長が。
またしても、日向が。
気がつけば、手を上げて、雅の頬を叩いていた。雅は簡単に床に投げ出される。ケホッという音がして、顔を上げた雅の口からは、赤い血が流れていた。
白く、純潔な白を汚す赤…。
「隊長、お止めください」
慌てて碓井が間に入る。気付けば、また速水は腕を振り上げていたのだ。
「…せめて顔は、お止めください…」
碓井はかろうじてそう言った。
止めてくれ、とは言えなかった。
速水は、それでも百合の隊長で、自分は副隊長だった。
抱き合う雅と、日向。
それは、速水がいつか桜王宮で見てしまった場面にそっくりだった。
あの時も、すがるようにしてあの人は成瀬に抱きついたのだ。
雅は、肘をついて上半身を起こした。それを助けた碓井に、速水は冷たく言い放つ。
「碓井。お前はもういい。自分の部屋に戻っていろ。同じことを外の番人にも伝えろ」
はっと顔を上げた碓井には、驚愕と苦悩が見うけられた。
それがどういうことを意味するのか、碓井にははっきりとはわからなかったが、速水の声の低さに、その微かな震えに、どれほどの怒りがこめられているのかがわかった。
「わかったな」
そう言われると、碓井はそうするしかなかった。
一礼すると、側の衛兵を連れて、部屋を出ていき、番人にその命令をした。
重々しい扉が閉まる。そして、その扉に速水は鍵をかけた。雅はまだ床に座ったままだった。カツカツと音をたてて、速水は雅の前にやってくると、もう一度手を振り下ろした。
「この淫乱がっ」
日向を求める白い手、それを掴む日向の力強い腕。
抱き合う二人の影。
おそらくはお互いの耳元で囁きあう甘い声。
あの時の速水は一歩も動けなかった。
妃と、騎士の逢引き。
許せなかった。
日向と、そして、妃である佳乃と。
それから、その日向になり変わりたいと願う自分が。
ゴホゴホと咳をして、血塊を雅が吐き、白い床が汚れた。
速水はその雅の顎を掴むと、ぐっと自分に向けた。
弱々しい体とは別に、雅の視線は強く速水を睨みつけていた。
「その目、その目が気に食わない。佳乃様は、そんな目つきはしなかったはずだ」
そこで、初めて雅は声を出した。
「私は森宮佳乃ではなく、遠山雅です…」
「黙れっ」
二度と、同じ過ちは犯させない。
絶対に、絶対に…。
速水は、雅の両手首を掴むと、そのまま床に雅を組み伏せた。そして、右手を側にあった布でベッドの枠に括り付けた。
「なっ、何をするんですか」
雅の叫び声が部屋中に響く。しかし、それに答える人間は誰もいない。番人でさえ、引き払ってしまっていた。いるのはただ、前妃・森宮佳乃への歪んだ愛をまっとうしようとする速水だけだった。
切り裂くような悲鳴が聞こえたような気がして、碓井は思わず天を見上げた。だがそこには月があるだけだった。雅の部屋は、白百合館の最上階にあり、厚い壁が防音効果を高めていた。
聞こえるはずもなかった。そのために作られた部屋でもあるのだから。
これは、百合の隊長として、すべきことなのだ。
伝統と格式高い百合の隊長である速水隊長の。
個人の欲望ではないのだ。
碓井は必死でそう考えていた。