THE FLOWER GARDEN

百合の章01

 速水は競技の途中で退散することを決めていた。
 雅を連れて帰るには、少しでも周囲の注意が逸れていたほうが都合がよいためだ。
 今回の競技会の観戦も、そのものが目的ではなく、百合の姫・遠山雅が架空の人物でなく、実在することを証明するためだった。
「学園内では、あまりに百合の姫に関する情報がない為に、噂だと期間内に姫を見つけられなかった百合が、今になって慌てて探していると言う」
 そう言ったのは菫の鞍馬だ。
「このままでは、百合のプライドに傷がつくんじゃないのかな?」
 そう言って、なかば脅すように競技会への姫同伴での参加をさせたのも、鞍馬だ。
 そもそも雅の顔を知っているのも鞍馬だけ。いつ口を開くとも限らなかったのだ。
 ただ、まだ未完成だった。
 まだ、佳乃様には程遠い。
 まるで幻だったかのように、突如逝ってしまった前妃の森宮佳乃。
 そこに、まるで本人そのままのように、颯爽と現れる百合の姫・雅。
 そして、陛下は、百合の花を取る。
 それこそが、速水の描いたシナリオであったのだ。
 だからこそ、それ以前に顔を出すことは許されなかった。
「今日はもう戻る。早くしろ」
 速水の冷たい声が冴え渡り、雅は一瞬抵抗することを考えたが、無理やりに腕を取られ、立ち上げられた。久しぶりの外の空気が名残惜しい雅だったが、これ以上速水の機嫌をそこねると後が恐ろしい。
 仕方なく速水に従うように立ちあがる。
 雅、と呼ばれた気がした。
 百合の姫、でなく。
 そして、急に辺りが騒がしくなった。
 しかし御簾があって、外で何が起こっているのか雅にはよく見えない。
 何が?何が起こったの?
 速水に腕を取られたままの雅が一瞬振り返ると、御簾に誰かがぶつかって、剥がされて行く瞬間だった。
 太陽の光が、直接雅に差し込んできた。
 すぐさま速水が叫ぶ。
「早く馬車に乗れ」
 その眩しさに、思わず目を細めた雅が、百合の間を出ていこうとした時だった。
「雅っ」
 完全に御簾が落ちる瞬間、懐かしい声が響いた。雅が振りかえると、そこにはずっと会いたいと願っていたしずかがいた。
「…しずか、さん」
「雅っ」
 しずかの声が、幻ではなく雅に届く。その手は雅へと伸びて、雅も夢中でそれを掴もうと手を伸ばそうとしたところで、速水がすばやく雅を馬車に押しこめるよう命令した。
「何をしてるっ、早く取り押さえろっ」
 人垣が瞬く間にでき、雅にはしずかの掌しか見えなくなった。
「しずかさんっ」
 雅はもう一度大きく叫んだが、その声は観衆のざわめきと、百合の間の混乱の雑音とでかき消されていった。そしてすぐに馬車は走り出し、地獄の館へと向かう。
 しずかの、雅を呼ぶ声が、聞こえていた。



 その記憶は、唯一現世をつなぐものとして、雅の中で鮮明だった。
「あたしが雅のこと、守ったげる」
 こう見えても腕には自信があるんだと、拳を見せたしずかの後ろで、木漏れ日がふりそそいでいたことまで、覚えている。
 そして、雅の手には、しずかからもらったロケットがあった。
 その記憶と、このロケットだけが、私の現実だ。
 雅は時々そう思っては、今のこの状況は全て夢なのだと信じようとしていた。



 しずかと別れ、部屋に戻った雅が手にしたのは、母の形見のリボンだった。校則では禁止されているので、髪につけることができずに、つい忘れてしまっていたのだ。
 ごめん、お母さん。
 そう心で謝り、ふとさっきもらったロケットに結ぼうとしたところで、雅は後ろから何者かに羽交い締めにされ、何かを嗅がされた。
 そして、目が覚めたときには、この部屋にいたのである。
 そこは、広かった。けれども、窓にはすべて格子がつけられていた。そして、大きなベッドしか置かれていなかった。天井も、壁も床も、ただ、白いだけの部屋。その白さに圧倒され、雅は息苦しい気持ちを覚えた。ふと高貴な香がして、顔を上げると、テーブルの上に百合の花が、飾られていた。近づいた雅は、この匂いが襲われた夜に嗅いだものと同じだと気付いた。
「目が覚めたか」
 低い男の声がして、ベッドに横たわっていた雅が体を起こすと、入り口に見知らぬ男が立っていた。すらりと高い身長に、漆黒の短髪が清清しさと同時に、ひ んやりと冷たさを感じた。そして何より、その切れ長の目のするどさに雅はぞくっとしたのを覚えている。その気持ちは今でも変わることない。
「百合の隊長、速水だ。これからお前を百合の姫とし、妃候補として教育する」
 何を言っているのか雅にはわからなかった。
 速水の後ろには、また何人かの男たちが立ち並んでおり、皆一様に純白というよりは象牙色の制服のようなものを着ていた。
「あの…」
 何か尋ねようとして、雅は自分に向けられた視線に驚いた。
 初めて見る顔ばかりなのに、彼らは驚愕の目で雅を凝視しているのだ。
「あの…ここはどこですか?」
 ようやくそう聞いてはみたものの、すぐに返事をする人間はいなかった。そして、速水と名乗った男が踵を返し部屋を出ていくと、他の男たちもその後に続き、動けないままの雅を残して、扉が閉まる。
 嫌な予感がして、慌てて扉を開けようとすると、案の定扉は開かない。雅は思いきり扉を叩いた。
「すみませんっ、誰かっ。誰かいませんか?」
 大声を叫ぶと、扉の上部につけられていた小窓が開き、誰かがこちらを伺っていた。
「すみません。あの、ここから出してください、私を、学校に戻してください」
 男はしばし雅を凝視していたが、何も言わないままだ。そして、小窓は突然閉じられた。
 誘拐されたのだ。そしてこれから、しばらく彼らは自分を監禁するつもりなのだと、雅が思ったときに、ノックがし、扉が開けられた。
 現れたのは、先ほどの集団の中にいた一人で、名前を碓井(うすい)と言った。
 碓井が語ったのは、まるでおとぎ話のようだった。
 学園の、もう一つの世界があり、そこには皇帝陛下と呼ばれる人間がいる。
 その人間の妃候補を学園を取り締まる各騎士団が選び出し、それぞれに競い合い、妃が決められる。雅は、百合組と呼ばれる騎士団の姫として、これから妃が決まるまで生活をしなければならない。
 質問も忘れて、茫然としてる雅の前で、そう話し、碓井は重い扉を閉めて出ていった。
 それが、2週間ほど前の話である。