THE FLOWER GARDEN
続水仙の章09（菫）
こっそりと部屋を抜け出し、梢は階下にある鞍馬の部屋へと向う。
ところが梢が角を曲がろうとしたところで、目的の扉が逆に開いた。
鞍馬が外出するようだ。咄嗟に梢は身を潜める。
こんな時間に、どこへ？
夜着のままその後を追おうとした梢は、青菫館の扉に手をかけたところで、声をかけられた。
「どうかしましたか？姫」
振り返ると、但野ともう一人騎士がいた。
「あ…。の」
自分の顔を見ていた但野の顔が赤くなり、梢は自分の恰好に気づく。
や、やだ。わたしってば。
慌てて体を隠すように抱きしめて、二人に背を向ける。
こんな夜更けに、こんな恰好で出歩いているなんて、恥ずかしいことを。
ふいに自分の肩に何かがかけられて、振り返ると但野が自分の上着をかけてくれていた。
「冷えますからね」
上着から、但野の体温が伝わってきて、梢の強張った心を柔らかくした。
「それにしてもどちらへ？まさかお一人で行かれるつもりですか？」
梢は鞍馬に言われた言葉を思い出す。
変な夜遊びなど、覚えていたら困ると思ってね。
「いいえ、あの…。眠れなくて、そうしたら櫂人様…隊長が、出ていかれるのが見えたので」
「ああ、多分。疾風の厩ですよ」
「疾風？」
梢は、思わず聞き返す。
「隊長は、ほぼ毎晩疾風に乗りますから」
鞍馬の疾風の可愛がりようは、梢も知っていた。そして、この前も、部屋にいない理由を疾風の具合を診ていたのだと、鞍馬が答えたことを思い出す。
でも、こんな時間に？
梢の疑問に答えるように、但野の隣にいた騎士が呟いた。
「…どこの女のところへ行ってるのかわからないですけど」
「松木っ」
その呟きが梢にも聞こえ、顔が青ざめたのに気づいた但野が慌てて言う。
「…失礼致しました」
松木と呼ばれた騎士は姿勢を正し、いつもの菫の騎士らしく謝罪をした。但野が優しく梢に言う。
「気になさることではございません。さあ、お休みください」
電気が消され、扉が閉まる。それでも梢は寝つこうとは思っていなかった。
そっと外の様子を伺い、厩へ向おうと扉に耳を当てたとき、聞こえてきたのは、松木の話し声だった。
「あの姫もお可哀想に。わが隊長殿が、全くの紳士だと思われている」
但野の、諭すような、けれど先ほどよりも弱く、そして諦めるように松木の名前を呼ぶ声がした。
「だって、誰の目にもわかりますよ。姫が恋焦がれているのは、隊長なんだって。それを知ってか知らずか、このごろの隊長は姫を冷たくあしらい過ぎです」
「…姫と隊長は、恋に落ちてはならないのだ。隊長は、きっとそうお考えなんだろう」
さらりと答えた但野の言葉は、それでも梢の胸に響いた。
でもそれは、わかっていたこと。
外の会話はまだ続いていたが、梢は最早、鞍馬の後を追いかけて厩に行こうなどとは思っていなかった。
「それにしても、隊長の今度の女。どんな女か知りませんが、いつも逢瀬の後の隊長の匂いが、ひどく臭いのはどうにかなりませんか」
「あの匂いは厩の匂いだ。変な噂をたてるんじゃないぞ、松木」
その夜、梢はベッドに就かなかった。
気持ちが鎮まらず眠れないこともあったのだが、何よりも、鞍馬が戻ってくるのを下の応接間で隠れて待っていたのだ。
夜明けが来る。
静かに扉が開く音がして、うつらうつらと眠りかけていた梢は飛び起きた。梢が隠れていたことも知らない鞍馬は、機嫌よく、多少足をふらつかせながらも部屋に戻っていく。そして、応接間の前も横切った。
いつもは馨しい香りを漂わせている鞍馬からは、確かに藁や土、何より糞の匂いがした。それはひどく鞍馬に不似合いであった。
厩の臭い。
そう但野は言っていた。
厩に何をしに行っていたの？
誰と、会っていたの？
梢は、唇をかみ締めていた。そして、考えていた。
いったい、鞍馬様を虜にする女性というのは、どんな女性なんだろうか。
やっぱり、美人で。きっと優しくて。最高の人に違いない。
でも、だったら、どうして鞍馬様はその人を姫に選ばなかったの？
どうして？
その先の答えを導き出すのが怖くなって、梢は自分の部屋に駆け込むと、ベッドにもぐりこんだ。
男が部屋に入ると、森宮佳乃の肖像画の正面に速水が座っていた。
言われた調査の報告をすると、じっと肖像画を見ていた速水の視線が突然向けられた。
「つまりは、成瀬日向とは何もなかったというのだな」
「はい」
「そうか…」
安心をしたのか、その椅子に深深と速水は寄りかかる。いつも冷静な速水なだけに、どこか気になって、聞かれてもないことを思わず答えた。
「姫は、陛下に懸想しておられます」
「陛下に？」
驚きようは、想像以上だった。椅子から立ちあがり、こちらを見つめ返した。
あれほど、純粋な姫の気持ちに気づかないとは。
そう思いながらも、返事は素直に答える。
「…はい」
溜息が聞こえた気がした。それが、安堵なのか、疲弊なのか、それとも困憊なのかはわからなかったが、少なくとも今の速水の気持ちは穏やかではなさそうだった。
姫が、陛下に懸想している。それは当然のことなのに？
速水は立ちあがり、くるりと背を向けると、冷たいいつもの声に戻って言った。
「わかった。ご苦労だった。もう下がっていい」
梢は、翌日またも鞍馬を追いかけた。
今夜は但野に見つからぬよう、初めから用意周到に着替えをすませて、青菫館の脇に隠れていた。
昨日よりも少し遅くに、鞍馬は現れた。そしてそのまま、厩へと向う。梢は石や根っこに足を取られないように注意しながら追いかけていく。
そして厩の前で、鞍馬は一呼吸すると、微笑みながら扉を開けた。
「…遅れたね」
そのほっそりした背中を見て、鞍馬は幾分か安心して言う。その声に、女は振り向いた。
「いえ。手紙には、1時と書いてありましたから。今は１２時５８分です」
「相変わらず時間には正確だ」
その冷淡とも思える受け答えに、鞍馬の気持ちは高ぶった。微笑んだところで、女が心配そうに言った。
「そんなことより、手紙を疾風の鞍に忍ばせるのはお止め下さい。危険です」
「どうして？疾風には僕しか触れないし、このことも君しかしらない。君が来れる時だけ、僕がここに来る時間がわかる」
疾風の鞍に手紙がそのままあれば、女は来ないものだと思えばよかったし、手紙がなくとも女がいなければ、鞍馬は厩で女を待つことはしなかった。もし女が遅くにやってきても、鞍馬は疾風と共に別の処に行っていた。それが、鞍馬の考えたルールである。
「誰かにばれやしないかと、いつもいつも不安になるのです」
今までの無表情が少し崩れ、女は不安そうな顔をする。女は鞍馬から顔を背けたが、鞍馬はその顎をつかむと、ぐいと自分に向けた。
「それは君の恋人に？それとも、菫の連中に？」
「鞍馬様…」
言わなくてもわかるのに。
女の目がそう訴えるのを、鞍馬は確かに感じて、さらにその体を引き寄せた。
「そんなこと、今は忘れるんだ」
女の黒々とした目には、鞍馬の顔しか映っていなかった。
月明かりに照らされた自分の顔が恐ろしいほど美しいことに、鞍馬は酔った。
「…忘れさせてやる」
どうして、あの人が。
どうして、あんなに地味な女の人が。
鞍馬のそのしなやかな腕に抱かれ、女は感歎の声を上げる。そして、鞍馬のされるままに、一糸まとわぬ姿になる。梢は目を背けることなく、中での情事を見つめていた。
どうして。
裸になった体つきにしても、さほど自分と変わらない。
外見ならば、自分のほうが余程いいに決まっている。
なのに、鞍馬は梢は抱かずに、この女を抱くのだ。
衣擦れの音と、疾風の鼻音が聞こえ、それから藁に何かが倒れる音がした。
いやっ。
梢は自分の耳に聞こえてくる音に堪えきれなくなり、厩を飛び出した。
誰なんだろうか。
あの女。
私になくて、あの女にあるものは、何？
いいえ、そんなことよりも。
許さない。私の櫂人様に、私より醜い女が抱かれているなんて。
許さない。
雅は月を眺めていた。
微笑がついこぼれてしまったところで、急に声がした。
「まあ、姫ったら。まだ先ほどのこと思い出していらっしゃるの？」
ノックがされて、振り返ると悠美が立っていた。雅は恥ずかしくなって、慌てて緩んだ顔を引き締める。ふふふと悠美が微笑んだ。
「本当に姫は一途でいらっしゃいますこと。羨ましい」
その表情が少し曇ったような気がして、雅は思わず聞き返す。
「…悠美さんは、あの方のこと、もう嫌いなんですか？」
雅はついさっき、自分の部屋の前の廊下で悠美と騎士の一人が言い争っているのを聞いてしまったのだ。漏れ聞こえてくる内容が、二人のただならぬ仲を想像させ、部屋にやってきた悠美に、雅は単刀直入に聞いてしまったのだ。
思った通りで、その騎士は悠美の恋人だという。百合の女性関係の潔癖さははっきりしていて、ある程度の地位を得なければ恋人を作ることはできないのだが、その騎士はまだその地位に達していないという。故に、悠美は、内密にしてほしいと雅に頼み込んできた。
悠美の秘密を教えてもらったことで、雅は悠美との仲がまた少し深まったように思っていた。
だからこそ、こんな質問もしてしまったのだ。はっきり聞こえてきたわけではないが、どうも、ひつこく迫る騎士に、悠美が冷たくあしらっているように聞こえていた。
悠美は、一息ついて答える。
「…嫌い、ではないです。でも」
視線が遠くを見つめていた。その先には、別の人間がいるように、雅には思えた。そんな雅の視線を感じてか、ぱっと悠美は顔を上げると、雅に微笑みかける。
「そんなことよりも、ですよ。姫。三日後には、陛下とお会いできるんですもの。立派なお召し物を用意しましょうね」
今日の昼であった。突然近衛がやってきたと、白百合館が珍しく騒がしくなった。
雅も急に白いドレスを着ることになり、応接間に出向くと、そこには紫紺の制服を着た近衛の人間が三名いた。
「三日後、午後四時に、講堂に集まっていただきたいとの、陛下からのお言葉がありました。姫も同伴してくださいと」
近衛の一人がそう口を開いた。
速水よりも驚いたのは、雅だった。
「それはどういう−」
「来て頂ければわかります」
もしかして、自分が妃に選ばれたのか。雅はそう思った。だが、速水はやはり冷静に問い返した。
「他の組には？」
近衛は顔色ひとつ変えずに答える。
「四組ともに、集まっていただきます」
速水はそこで口を閉ざした。
近衛は伝言だけ伝えると、すぐに白百合館を後にした。
速水はそれから、ずっと黙り込んでいたが、雅は再び有世に会えることを素直に喜んでいたのだった。
「さぞかし、華やかな対面式となるでしょうね」
この話をすると、そう答えた悠美に対面式？と雅は聞き返す。
「ええ。陛下との正式な対面の場ですから。おそらく陛下がいらっしゃいますし、それに騎士団の隊長と姫が揃うんですもの。この前の舞踏会ですら、各騎士団の隊長の艶姿に、見惚れてしまった女性は大勢いましたから」
「各騎士団の隊長に？」
雅の顔が歪む。それが、速水のことを指していることを、悠美は知っていた。
「確かに速水様は冷徹な方ですが、その采配は見事なものです。研ぎ澄まされた雰囲気では、群を抜いております」
それは雅も認めていた。確かにあれだけの短期間で、雅のダンスが上達したのも、すべて速水の組んだプログラムのおかげだった。
黙りこんだ雅を無視し、悠美は話を続ける。
「薔薇の夏目様はお優しい方と聞いております。慈悲に溢れる方だとか。安らぎたいと願う女性の理想でしょう」
夏目には、一度校舎ですれ違ったことがあった。写真そのままの柔らかな雰囲気だったが、雅を見た途端に浮かべた驚きの表情しか覚えていない。
「水仙の成瀬様は、そのお心の見えないところが魅力です。知らない物を知りたい、背くものをこちらに向かせたいと考える女性にとっては、自分の意にならない存在として強く心惹かれるのでしょうね」
日向の心は、確かに雅にもわからなかった。
優しい言葉をかけたかと思うと、雅を地獄に落とすような冷たい言葉も浴びせる。
そして、あのひどく幼い笑顔。
…だが、今は思い出したくもない。
ふと、雅はそこで話すのを止めた悠美に聞き返した。
「菫の…鞍馬さんは？」
鞍馬だけは、雅も遠目にしかあったことがなかった。悠美はええ、と答えて話す。
「鞍馬様ほど、女性に長けた方もいらっしゃいません。そのお心遣いや、お言葉は、全ての女性の願うところです。加えてあの美貌といえば、数々の女性と浮名を流していらっしゃるのも、当然かと」
舞踏会には、その四人が集まっていたのだ。
だが、雅には有世しか見えなかった。現れた時のことだけが、忘れられなかった。
悠美はそれに、と話の方向を変える。
「それに姫たちも、それぞれに美しい方たちでした」
そして、そう、有世も言っていた。
華夜乃の豪華絢爛な美、
梢の可憐な美、
しずかの…、凛とした美しさ。
雅の心は、そう考えて震えた。
そのしずかの手を、有世は取ったのだ。
沈んだ表情を見せた雅を励ますためなのか、悠美は雅の脇を抜け、その先の窓からのぞく月を見上げた。
「姫、どうしても妃になりたいのであれば、手段は選ばぬことです。全てを捨てる。その中には、自分のプライドもあります」
「プライド…？」
その意味を雅が問いかけようとすると、それまで厳しい表情をしていた悠美の頬が緩んだ。
「ええ。ああ、もうこんなに遅くなってしまいました。失礼致します」
悠美はそそくさと雅の飲み終わったカップを手にして、部屋を出ていこうとした。
だが、そのとき、雅の耳に聞こえてきたのは、廊下を颯爽と歩く足音だった。
カツ、カツ、カツ。
雅の体が強張った。悠美は、部屋を出る前にふと振りかえって、その様子に驚いたようだった。
「…姫？」
雅は、ブルブルと震えると、そのまま自分の体を抱きしめるようにして震え続ける。
その足音は、ここ数日間、ずっと雅を悩まし続けていた。
カツ、カツ、カツ。
足音が、近づいてくる。
「…どうかしましたか、姫っ？」
悠美の手から、カップが落ち、音をたてて割れた。慌てて雅に駆け寄ったが、その震えは悠美が抱きしめても、止まらなかった。
「姫？」
カツン。
足音が止まる。
そして、今度は徐々に遠のいて、消えていった。
完全に聞こえなくなったところで、雅は体中の力が抜けて、へなへなと床に座りこんだ。
ここ毎晩のように、夜中、足音がして雅が目を覚ますと、扉が開き、速水が現れた。
「な…ん、ですか…？」
掠れた声で、雅がそう尋ねても、速水は何も答えずに、入り口の処でじっと雅を見つめていた。
屈辱を受けた記憶が、雅に蘇る。体ががたがたと震え出す。
だが、速水は、すぐにふっと部屋を出ていくのだった。
話しかけることもなく、触れることもなく、ただじっと見つめる冷え切った瞳。
昼間の速水とは、また違う瞳であった。
その為に、雅は速水の足音がすると、震えが止まらなくなるのだった。
悠美は、ひとしきり泣き終えた雅をベッドに寝かせると、そっと尋ねた。
「前から、気にはなっていたのですが…。何か、あったのですか？速水隊長と？」
会話どころか、視線すらまともに交そうとしない速水と雅に、悠美が気づかぬわけがなかったのだ。
この人であれば。
気がつくと、雅はまた涙を流し、悠美に話し始めていた。
速水から受けた屈辱。
そして、事故で滝壷に落ちながらも、死んでしまおうと考えたこと。
それから、見知らぬ人間に助けられたこと。
近衛だと聞いて、その人間に会う為に、妃になろうと誓ったこと。
だが、その相手が、実は有世だったということ。
話終えると、もう夜が明けようとしていた。
「…姫。ゆっくり、お休み下さい」
悠美の声と、優しく髪を撫でる手に、雅は安心しきって、久しぶりに深い眠りに就いたのだった。