THE FLOWER GARDEN
続水仙の章10（菫）
梢は厩にいた。
馬には乗ったことがない。練習する必要がないという鞍馬の言葉を受けて、近づいたこともなかった。ましてや、鞍馬は疾風に触れさせようとしなかった。
そのとき鞍馬は、
「嫉妬深い奴だから、姫に何か粗相してしまうかもしれない」
と、答えていたはずだ。
でも本当の意味は、内緒の手紙を疾風が隠し持っているから？
梢は、扉を開ける。ぷーんと漂ってきた匂いは、明け方戻ってくる鞍馬の臭いそのものだった。
悠美は、そっと辺りを伺うといつものように扉を開け、ひっそりと身を忍ばせる。きつい厩の臭いがした。だが、この臭いでなくては、悠美から漂う百合の香も、鞍馬から漂う菫の香も消すことができなかった。
白百合館で、速水の命令で雅の監視をする一方で、悠美は時間があれば、こうして青菫館の厩へとやってきていた。何故なら疾風の鞍に、鞍馬からの手紙があったからだ。手紙と言っても、恋文とは全く異なる。そこには、ただの時間が書いてるだけ。そしてその時間、悠美の体が空いて、この厩にやってこれた時だけが、鞍馬と過ごせる甘美な時間であった。
このところ、悠美が雅の情報を多くし入れてくるせいなのか、鞍馬からの手紙も絶えることがなかった。
もともと、悠美は百合の騎士の恋人であった。だが、相手が恋人をもてない下級の百合の騎士である故に、それは秘密の恋だった。それが鞍馬に見つかったとき、鞍馬から取引を言い渡された。
つまり、公表しない代わりに、百合の情報を鞍馬に伝えること。
そして、その体を鞍馬に預けること。
初めは、ただの取引であった。だがいつのまにか、鞍馬との逢瀬は、悠美にとってかけがえのない時間となっていた。恋人であったはずの騎士のことなど、どうでもよくなっていた。だから速水から、雅の付き人という名の監視役を命じられた時、悠美が感じたのは、騎士の近くにいられる幸せではなく、鞍馬の役に立てるという幸せであった。
もし、このことがばれたら、恐らく私は生きてはいられないだろう。
百合からも。
菫からも。
鞍馬からの手紙には、１１時と書いてあった。いつもより早い時刻に疑問に思いながらも、こうして悠美はやってきていた。何よりも昨日、雅から聞いた話を、鞍馬に伝えなければならなかった。
速水と雅の関係。
そして、水仙の領地に、近衛の制服を着て現れたという有世。
鞍馬にとっても、悠美と同じく衝撃なことであろう。
ただ、悠美は自分の気持ちの中で、こうも思っていた。
だからこそ、姫は、遠山雅は、妃を熱望するのだ。
そしてその思いは、他の三人の姫よりも強いに違いなかった。
鞍馬に情報を提供しながらも、ほしいものを何としても手に入れたいと願う雅を、悠美は心の底で応援していた。
暗闇からは、疾風の鼻息が聞こえてきていた。月明かりに照らされたこの白馬に、悠美は一度乗ってみたいと思ったが、疾風がそうさせなかった。残念そうにした悠美に、
「嫉妬深いんだ」
といった鞍馬の笑顔を、何故かその時思い出した。
ふと鞍を目にすると、その上に、菫の花が置かれていた。
誰？
ふいに、足音がして、振り返る間もなく、女の声が聞こえた。
「誰かっ、誰か来てくださいっ。侵入者がいますっ」
ランプを片手に地下牢を一人、梢は降りていた。
門兵ですら眠っているような夜更けだった。だが、このくらいの時間でないと、ゆっくりと話ができないのだ。
目的の牢屋は、すぐにわかった。
相手は、鉄格子越えに梢の姿を見とめると、起き上がった。
「あなたは誰？」
地下牢に、梢の声が響く。その寒さに、梢は震えていたが、悠美は梢よりも薄い服なのに震えてなどいなかった。自分を見つめる表情の美しさに、梢は嫉妬を覚える。
沈黙があって、悠美が尋ねる。
「…姫は、鞍馬様のことを愛してるんですね」
「そんなこと聞いてません」
「お可哀想に」
蔑むようにでもない。その声は、本当に梢を哀れんでいた。
「…どういう意味ですか？」
梢は震える声を押さえるのに必死だった。悠美は、遠くを見つめる目をして梢に答える。
「鞍馬様に、他人は愛せません。あの人が愛しているのはいつだって自分だけ。私だって同じ。利用されていたんです。けれど、それでもよかった。それでも、あの人のひとときの恋人になれた」
そして幸せそうに微笑む。梢は拳を握り締める。
「…ふざけたこと言わないでください」
その言い方が気に触れたのか、悠美の表情が硬くなったことに梢は気づいた。
そして、悠美ははっきりと言った。
「あなたのことを鞍馬様が必要とするのも、あとほんのわずかな間だけです。妃が決まるまでの間」
それは、前にしずかにも言われたことであった。
しかも、あとわずか、ですって？！
思わず梢は言い返す。
「あなたみたいに利用されるだけされた人に、そんな風に言われたくありませんっ」
だが梢にはわからなかった。
自分になくて、この女にあるもの。
それを知りたくて、ここまでやってきたのに。
だが、悠美は余裕の笑みを浮かべる。
「いいえ、鞍馬様はまだ私を必要としてます。現に、こうしてすぐ処置をしない」
侵入罪。
及び、侮辱罪。
悠美の罪名はこの二つだった。侵入罪だけでは罪状が軽いと、菫の花を摘んで悠美に投げつけたのは梢だった。通常侮辱罪になればそれなりの罰を受けるのだが、悠美はとりあえず地下牢に入れられただけだ。それを指示したのも、鞍馬だった。
梢は、悠美を捕まえた後で、慌ててやってきた鞍馬の表情を覚えていた。
どういうことなんだ。
怒りも慌てもしなかったが、鞍馬は戸惑っていた。だから、悠美を牢屋にいれることだけ指示すると、梢の前からも姿を消した。
二人に何があったのか。
梢はそれを知りたかった。それが自分のためならば、鞍馬を許そうとも思っていた。だが、悠美はそれを否定した。
そして、更に梢の存在すら否定する言葉を言った。
「愛してしまった女の性です。あの人の恋人でありつづけたいのなら、あの人に必要とされる何かをもっていないといけない。それがなくなれば、後は用済みです」
覚悟をしているのだ。
梢にはわかった。
罰せられることではない。
鞍馬との別れを、覚悟しているのだ。唖然とする梢に、なおも悠美は話しかける。
「同じ人を愛したものとして、ご忠告します。あの人の目的は、姫を妃に召し上げることが本当の目的ではないのです。その結果、得られるものが目的なのです。
妃が決定する前に、その方法が見つからないことを、祈ります」
わたしが妃になった時、得られるもの？
櫂人様が本当に手に入れたいもの？
朝食を取っていた梢の前に、但野が報告にやってきた。やはり鞍馬はやってこない。
「姫。ご報告したいことがあります」
「何でしょう」
「昨日の女、今朝牢獄の中で死んでおりました」
食事をしていた梢の手が止まる。
「死んだって？」
ええ、と但野は答える。
「おそらく、毒を飲んだのか、飲まされたのか」
食事中のせいなのか、梢にひどい話を聞かせたくないためなのか、但野はそれだけ言った。
梢は、鞍馬に会いたいと思った。
男は、肖像の間にやってくると、辺りを見まわしてから、報告をした。
「隊長。すべて処理いたしました」
呼びかけられた速水は、朝日を受ける佳乃の肖像画を見つめながら、聞き返す。
「形跡は残してないな」
「はい」
一寸して、速水が呟いた。
「…あの女が鞍馬の間者だったとは」
速水の間者でもあったのだから、悠美は二重に間者をしていたことになる。
男は、ふと速水に聞き返す。
「姫には、どのようにお話すれば」
悠美が速水の間者をしていたことなど知らない雅は、つらつらといろんな話を悠美にしていた。よほど信頼していたのだろう。
速水は悠美から聞かされた雅の話を思い出した。
あれが全て、鞍馬に筒抜けだったとは。
「そのままでいいだろう。余計な話をしてなければいいが。
とにかく、警備を厳重にする」
碓井の話を聞いて、女など百合にいれるべきではなかったのだ。
女など。
朝食と共に現れた碓井を見て、雅はふと疑問に思って尋ねた。
「碓井さん。悠美さんはどうされたんですか」
碓井の顔が暗くなる。そして、一度俯いた顔を上げるときっぱりと言った。
「…姫、あの女性のことは忘れてください」
「どうしてです？」
あの女性、という言葉が、雅にはひっかかっていた。
少なくとも、悠美を百合に連れてきたのは碓井だったはずである。
「菫の間者だったんです。鞍馬の手先でした。だからもう金輪際、白百合館に現れることはありません。姫も、菫に聞かれるとまずい話などなさっていたら、お教え下さい」
菫の間者？
鞍馬の手先？
雅は手にしていたハーブティーをカップごと床に落とした。割れた破片がはねて足に触れたが、気にもならなかった。
あの人に必要とされる何か…。
梢は考えていた。
それは今の姫の地位。
それを無くすような行為をすれば、確かに自分は鞍馬の側にいられない。
けれど、今のままでは、また悠美のような女が鞍馬に纏わりついてくる。それは仕方ないにしても、その女たちと一緒になってはいけないのだ。そうすれば、結果は見えている。
「どうしたんだ、姫。大事な話とは？」
珍しく、ノックもなしに声が響いた。鞍馬が梢の部屋に一人でやってくるのは、あの晩以来だった。
梢は、賭けに出た。
「…鞍馬様」
「何だい？」
梢の低い声にも、鞍馬は優しく答える。そして、梢は震える声を隠さず話した。
「私、姫を降ります」
久しぶりに鞍馬と視線が交じり合った。この甘い瞳に見つめられるだけで前は充分だったのに、どうして自分はこんなにも欲深になってしまったんだろう。
鞍馬が、どうしてと問いただす前に、梢は考え抜いたセリフを口にする。
「だって、昨日のような侵入者がいつ私の命を狙っているのかわからないんですもの。私、恐ろしいし、怖くて…」
震えている声が効果的に響き、鞍馬は慌てて梢のベッドサイドにやってくる。
「大丈夫だよ。君の側には、但野がいるじゃないか」
「但野さんは、すばらしい方です。…でも、怖い」
「姫。けれど−」
「怖いんです…」
鞍馬の顔から、余裕がなくなった。
それもそうだ。鞍馬の元には、一昨日近衛が訪れていたのだ。明日、姫を伴って講堂に集まるようにとの徴収命令があった。妃の話が出るのは間違いない。その場に、梢がいなければ、菫というより、鞍馬のプライドは地に落ちる。そして望むものも、最早手には入らないだろう。
不安そうに震える女。
鞍馬は今までの経験から、その震えを取り除く術を思い出す。
「…僕が、いても駄目だろうか？」
そして、震える梢の手を、優しく包み込む。
「眠れないなら、僕が側にいるから。こうして手を握って。それでも、まだ怖いかな？」
更に優しく微笑みかける。
鞍馬の演技。かもしれない。
それでも、いい。
梢は、頷く前に、もう一度鞍馬を見つめた。
「私が眠るまで、側にいてくださいますか？」
「もちろんだとも」
微笑んだ鞍馬の胸にもたれると、鞍馬も梢の肩を抱き寄せた。
鞍馬からは、もうあの厩の臭いはしなかった。
演技でもいい。
使われていてもいい。
櫂人様の、側にいられれば。
「…今夜は、ずっと側にいてください」
「ああ」
鞍馬は素直に答える。
自分の姫が、まだ何も知らない初心な乙女だと思いこんで。