THE FLOWER GARDEN
続水仙の章08（百合）
雅は小さな悲鳴を上げて、床に倒れこんだ。
そんな雅にたたみかけるように速水は怒鳴りつける。
「お前がいけないのだっ。もし佳乃様であれば、もっと機転を効かせ、陛下と会話をなさっていたはずっ、なのにお前ときたらっ」
再び手を大きく振り上げた速水に、雅は怯えて床の上で震えた。叩かれた頬は、焼けるように熱かった。
「お止め下さい、隊長っ」
「放せ、碓井」
止めにかかった碓井の腕を振り払おうとして、速水は碓井を睨みつけた。冷たい目にすくんだ碓井はスッと姿勢を正し、自分の腕を速水から放した。だが、こう言い加えることは忘れなかった。
「…せめて、お顔はお止め下さい」
雅の顔は、赤く腫れ上がっていた。これでしばらく外出はできないであろう。
速水は咳払いをすると、雅に言った。
「もっとレッスンを増やせ。歩き方に、立ち振る舞い。言葉遣い。まだまだ佳乃様にはほど遠い」
そして踵を返すと、雅の部屋から出ていった。
まだ震えている雅を、碓井は手を差し出して立たせようとしたのだが、その手首を掴むと、異常なまでに雅は怯えて碓井の手を振り払った。
その目に映るのは、碓井ではなかった。互いにそれに気づいたとき、雅は恥じるように顔を俯かせた。
恥じるのは、姫ではない。
ふいに碓井はそう感じた。目の前の雅は、純真で無垢な心を、持ったままである。
それでこそ、百合の証。
「姫は、悪くないですよ。完璧でした」
「でも」
碓井の言葉にも、雅は不安そうにだが否定をした。
「今回のことは、いくつかある関門のひとつとでも思えばいいんです。今回、陛下はたまたま水仙の花を選んだ。それだけのことです」
雅は何も答えなかった。碓井は励ますように微笑んだ。
「ドレスもお似合いでした。ダンスもお上手でした。今度また頑張りましょう」
部屋を出ると、護衛という名前の監視役の騎士が、碓井に頭を下げた。実のところ、碓井はもう監視の騎士は必要ないと思っていた。
そう、姫は変わられたのだ。
池に落ち、目覚めてから、人が変わったように積極的になった。
今までは、何もかもしようとせず、すぐに「元の世界に帰してくれ」と訴えていた雅。だが、目覚めてからは、どうすれば妃になれるのかと碓井に尋ね、速水の立てたレッスンのプログラムも積極的にこなしていった。
何があったんだろうかと、碓井は考えてみたこともあった。そしてその考えは、必ず最後には「水仙」という言葉に行きつくのだった。
雅の落ちた池は、水仙の領地であり、水仙の泉にほど近い。その場所に、自分の意志か無意識でかはわからないが、雅は向った。そして、事故に遭った。
しかし、あれは事故なんだろうか。
それとも、雅の意志だったんだろうか。
碓井にはわからなかった。しかも、雅の話によると、どうも助けたのは近衛のようである。だが通常、近衛が桜王宮から出歩くことは、ほとんどない。そもそも、近衛が守るのは、陛下なのだから。
ということは、お近くに陛下がいらしたのか？
もし、そうであれば、それはお忍びで、ということになる。
何故、陛下がお忍びで水仙に？
目的の場所に着き、碓井は足と共に考えることも止めた。そして、肖像の間と呼ばれる部屋の扉をノックした。
「誰だ？」
一寸の間があって、速水の低い声が響いた。碓井の読みは当たっていたのだ。
「碓井です」
また間があってから、入れという許可が下り、碓井は扉を開ける。目に飛び込んできた森宮佳乃の肖像画は、変わらず美しかった。その肖像画の向いの椅子に、速水は腰掛けていた。
「何用だ」
碓井は姿勢を正すと、完結に話した。
「はい。姫の、護衛兵の件なのですが。もう必要ないかと思われますので、撤廃なさった方がよろしいかと。別の人間にも監視させていることですし、騎士たちも疲れております」
「必要ない？」
速水の顔が、森宮佳乃から、初めて碓井に向いた。
「はい。姫は、もう脱走を謀ることはないでしょう。第一、部屋には鍵もかけているのですよ。そこまで−」
「碓井」
その目の冷たさに、碓井は寒気を一瞬覚えた。
「…はい」
「二度も脱走させたお前が、必要ないと言うのか」
碓井はうなだれた。通常ならば、退団させられてもおかしくないところを、そうさせなかったのは、速水が碓井を守ったからなのだ。速水の視線は、絵の中の森宮佳乃へと戻る。
「第一、部屋を出させないための護衛だけではない。内外ともに監視は続ける」
碓井は一礼すると、無言のままに肖像の間を出ていった。部屋を出るときに、肖像画が目に入ったが、森宮佳乃の顔が雅と重なって、その静かな微笑がまるで泣いているかのようにも思えた。
ノックがあって、柔らかい女性の声がした。
「姫、眠れないのですか？」
窓辺に立っていた雅が振り返ると、そこには数日前から雅の使用人としてやってきた悠美がいた。悠美の手には、温かい湯気が溢れるカップがあった。おそらくは雅の好きなハーブティであろう。
「…悠美さん。ありがとう」
そうして雅は悠美の用意するテーブルについた。
初めて悠美がやってきたとき、雅はとても安心したことを思い出した。
年は同じくらいだろうが、落ちついた悠美の雰囲気が雅はとても好きだった。それに、この白百合館にやってきて、男ばかりに囲まれていた雅にとっては、女性がそばに居ることだけで、大きな安心感を得ていた。
「今日はお疲れのはずです。ゆっくりお休みください」
そう言って、悠美は冷たいタオルを雅に渡した。速水の叩いた頬は、いくらかは赤みを消していたものの、まだ痛みはあった。
実際、悠美の気遣いは素晴らしかった。ほしい物は言わなくても用意してくるし、一人でいたい時は、そのようにしてくれた。
だから、なのだろうか。
雅は、ある晩一人眠れずにいたところ、今と同じようにハーブティを持ってきた悠美の「どうされました？」という一言に、今まであったできごとを話してしまった。
突然、この世界に連れてこられたこと。
速水の冷たい仕打ち。
そして、しずかのこと。
脱走を謀ったのに、しずかはやってこなかったこと。
そして、『事故』で、水仙の滝壷に落ちたこと。
ただ、速水から受けた屈辱は、話すことはできずにいた。
それから、『事故』が、心のどこかで自分が望んでいたことだ、ということも。
それ以来悠美は、雅にとってしずかをなくした今は、唯一ともいえる大事な人となっていた。
「…悠美さん、ねえ。どうしたら、どうしたら妃になれるのかしら」
さきほどからずっと考えていたことを、ふいに雅は口にした。
どうしたら、妃になって、有世様のお側にいられるのだろうか。
どうしたら、妃になって、有世様のご寵愛を受けることができるのだろうか。
「どうしたら？」
ふふふと悠美は微笑んだ。
「なれますよ、姫なら」
「でも−」
と、雅は今日のパーティーのことを思い出す。視線が合ったのは、ただの一度きり。有世が選んだのは、しずかだったのだ。
そう。しずか。
あの場にいて、ただ一人、不安そうに、でも気丈に頑張っていたしずか。
転んだとき、雅は思わず駆け寄ろうとしたが、ふいにしずかに見捨てられたことを思い出し、足が止まった。そして、しずかから隠れるようにして雅は背を向けたのだ。
「どうして、姫はそんなにも妃になりたいのですか？」
逆に質問を返されて、雅は言葉をつまらせて、顔を赤らめた。そんな雅を知ってか知らずか、悠美は続けた。
「失礼なことを承知で申しあげますが、もしかして姫は陛下に恋を？」
振り向いた雅の目に映ったのは、驚きながらも納得している悠美だった。それが、自分の反応にあるのだと気づいた雅は、俯いた。そんな雅を励ますように悠美が言う。
「当然のことですわ。あの陛下のお姿を、一度でも拝見なさったら、女性ならたちまち心を奪われるでしょうから」
雅はますます恥ずかしくなって、顔を赤らめた。
本当は、前に一度会っているのだとも話をしたくなったが、そうなると滝壷に落ちた真実をはなさなければならないことに気づき雅は口をつぐんだ。
「姫」
そのとき悠美の声が、ただの優しく温かい声から、きっぱりとした口調に変わったことに、雅は気づいた。
「本当に、妃になりたいのであれば、きっぱりと捨てることです」
「捨てる？」
「姫は、水仙の姫に捨てられたのです。だから、姫が水仙の姫を捨てることは、悪いことではありません」
その言葉に、雅は心が痛んだ。
捨てられた。
だが、逃亡の日、しずかは自分の意志でこなかったことを認めたのだ。
捨てられた、という言葉は、間違ってはいない。
悠美は続けていった。
「妃の椅子は、ひとつです。
どうしても、手に入れたいのであれば、そのためになら、捨てなければならないことはたくさんあります。全てを手に入れることなど、できるはず、ないのですから」
「どうした、ぼんやりとして」
水仙の泉に映った月をしずかが見ていると、後ろから日向の声がした。心なしか、その声が優しく感じる。
「俺とダンスしなくて済んで、ホッとしたか」
有世の登場で、あの後ほどなくして舞踏会はお開きになったのだ。
しずかは心を見抜かれたことに、苛立たしそうに言った。
「お前こそ、あたしに恥かかせられなくて、残念だったな」
ハハハと渇いた笑い声が聞こえてきた。厭味な笑い声だと思いながら、しずかは顔を上げて、空に浮かんだ月を見つめた。
「なあ、へい…。桜小路有世の足、大丈夫かな。あたし、いっぱい踏んだのに、全然痛くなさそうな顔してさ、笑ってたけど。
今ごろ…、腫れてるかもしれない」
もし、そのせいで歩けなかったりしたら。
もし、そのせいで寝こんでいたりしたら。
しずかの心は不安でいっぱいになる。
日向が逆に聞き返してきた。
「気になるか、陛下のこと」
「気になるっつうか。ただ、悪かったと思ってるだけだよ。
…なんだよっ、その顔は」
日向は笑っているんだか、馬鹿にしているんだかわからないような、にやけた顔をしずかに向けた。そして明らかに楽しそうに答える。
「何でもない」
それでもしずかをじっと見ている日向に、しずかはくるりと背を向けた。
「へっ、変な奴」
泉に映った自分の顔に気づいたしずかは、その頬の赤さに戸惑っていた。