THE FLOWER GARDEN
続水仙の章07
「姫。一曲お願いできますか？」
華夜乃の前にそう言って富樫が跪く。
姫は、その組の騎士たちと踊ることになっている。
そして、最後には隊長とのダンスがある。
華夜乃はすくっと立ちあがると、富樫の手を取った。
いつものように、富樫の手が華夜乃の腰にまわる。そして、耳元で富樫が囁く。
「あなたが一番輝いている」
当然よ、と思いながらも、華夜乃は興味がないように素っ気無く答える。
「ありがとう」
「このまま、貴女とずっと踊っていたい。だが、そうなったら、罰が当たりそうだ。女神を一人占めにした罪で」
甘い囁き。
そっと撫でる手つき。
それでも、華夜乃の視線は目の前の富樫にはない。
そのことに、富樫は気づき始めていた。
「姫、お相手をお願いします」
「はいっ」
但野に言われた梢はすくっと立ちあがった。その隣で鞍馬が言う。
「僕も付き合いで他の女性と踊るから、君の側にはいられないけど、大丈夫だね」
梢は少し不安そうな表情を浮かべる。
「大丈夫。最後には踊れるんだから。それまで、練習しておいで」
鞍馬のその言葉に、一気に梢の表情は明るくなった。そして、但野に導かれて、フロアへと向う。
鞍馬は梢の後姿を見ながら、軽く溜息をついた。
「どうかしましたか？姫」
雅に視線が定まらないのに気づいた碓井がそう聞いた。
「あ、いえ。何でもありません」
雅はずっと探していた。
もしかしたらどこかに現れるかもしれない、自分を救ってくれた近衛の人間を。
「それにしても、素晴らしい上達振りですね」
「そんなこと…ありません」
全て、あの近衛の人間に会うためだとは、碓井には言えなかった。
「あの、今日は騎士団の方だけのパーティーですか？近衛の人たちは…」
「陛下が今日はお体の具合がよろしくないということで、いらっしゃいませんので、おそらく来ないと思いますが、どうかしましたか？」
「…いえ」
雅は小さく首を振った。
せっかくのドレスも、せっかくの特訓も、その答えでどうでもいいと思った。
「姫」
差し出された相川の手を、しずかは取らずに言った。
「踊らないっ」
「何言ってんですかっ」
やってきた石崎が、ヒステリックに小さく叫ぶ。しずかは椅子にしがみつくようにして座っていた。
「ばかやろうっ、踊れるわけないだろっ」
「でも、もう皆さんフロアに出ていかれましたよ」
呑気な相川に、しずかは石崎のようなヒステリックな声を上げる。
「恥をかくために、出てく奴がどこにいるんだよっっ」
そんなしずかの隣で、日向が冷たく言った。
「だったら今のうちに恥をかいておけば後は楽だぞ。相川」
有無を言わせないその言葉で、相川はしずかの手を取った。
「はい。さあ、姫っ」
何とか歩くしずかの後姿を日向が見ていると、鞍馬が声をかけてきた。
「水仙の姫も可哀想に。何も教えなかったそうじゃないか」
日向は面倒くさそうに溜息をついて椅子にもたれた。
「菫の姫は、相当練習したようだな」
鞍馬は心の中でにやりと笑った。
「素晴らしい上達だった。誰の目から見ても、姫のダンスは−」
「必死だな。練習のやりすぎで、顔が疲れている。それにちっとも楽しそうじゃない」
鞍馬はしばらく日向をにらんでいたが、結局何も言わずに立ち上がり、フロアに消えていった。
「姫の恥は、隊長であるお前の恥でもあるぞ。成瀬」
ふいに百合から声がかかる。ふと見ると速水だった。
「引いては陛下を侮辱することにもなる。そのことをよく覚えておくがいい」
ふと立ちあがりかけた速水は、思い出したように言葉を続けた。
「あのドレス、三日間で仕上げたものだそうだな」
「なかなか気に入ったデザインがなくてね、他人の物を盗んでも、姫の個性が生きないもんで」
自分が侮辱されたことに気づいた速水は、そのまま青い顔をしてフロアに向った。
ふと日向は、夏目の視線が自分に向けられていることに気づく。
「薔薇の隊長は、どんな言葉をくれるんだ？」
夏目は呟くように言った。
「お前のこと、私は誤解していたようだ。お前はもっと優しい人間だと思っていた」
しずかの足取りは、特訓の成果はあっても、ダンスとなると不安そのものだった。見ているだけで、夏目はハラハラしていたのだ。そんなしずかをフロアに追い出したことが、夏目にはわからなかった。
「優しさにもいろいろある。鞍馬の見せ掛けの優しさもあれば、お前のようにわかりやすい優しさも。もっとも、俺は自分を優しい人間だとは思っていない」
そういうと、今度は日向が立ちあがった。
フロアにやってくると、相川がしずかに言った。
「今、少しでも練習しておけば、隊長とのダンスの時には少しなれていると思います」
確かに、今いる何十組の中の一組と、四組の中に一組、目立ち様が違う。
しかも日向の奴、どうせまたあたしに恥かかせようとしてるからな。
「いいですか、姫。落ちつけば大丈夫です。落ちついて」
しずかは大きく頷いた。同じことを夏目も言っていた。
そうだ、あたしは練習したんだ。
宮内が、遠くからその様子を見ていた。
「まずは右からです」
ゆっくりと動き出そうとしたしずかだが、初めの一歩でドレスの裾を踏んでしまい、体勢を崩した。
「わっ」
なんとか相川に支えられて転ばなかったものの、周囲で笑い声がこぼれるのが聞こえてくる。
「落ちつきましょう、姫」
「わかってるよっ」
それでもしずかは何度も裾を踏んだり、自分の足と足と絡ませたりして、その度の転びそうになった。或いはヒールの重心がずれてがくっとなったり、相川の足も踏んだ。そのたびに相川は大丈夫ですとうっすら汗を滲ませて答えた。また、他の相手にも何度もぶつかった。練習のときは、二人しかいなかったが、このフロアでは大勢の人間が踊っている。
戸惑いが、しずかから平常心を失わせていた。そして、それを加速するかのように、笑い声が広いフロアにこだましていた。
しずかは転ぶことだけはないようにと、足元をずっと見ていた。かかっているのはワルツだ。
イチ、ニ、サン。イチ、ニ、サン。
頭の中で呟きながら踊る。何となく、なれてきたようだ。
「姫、中々お上手ですよ」
相川がそう褒めて、思わずしずかが顔を上げた時、密かに隣にきていた宮内の足がそっとしずかに伸びてきた。
「うん、慣れてきたみた−」
笑顔のしずかが一瞬にして顔面蒼白になる。しずかは相川の手を離して、突然フロアにつんのめるようにして転がってしまった。
「ったぁ…」
一段と笑い声が大きくなる中で、しずかは顔を上げた。宮内の顔が見える。
あのやろう…。
他にも、華夜乃の笑顔が見えた。雅は心配そうな顔をしていたが、しずかと視線がぶつかると、そっと姿を消した。夏目とも目があったが、夏目は顔を逸らすとその場に立ち尽くしているだけで、しずかを助けようとはしなかった。
音楽は流れていたが、皆の視線はしずかに向けられていて、誰一人として踊っていなかった。
しずかにとって屈辱的な時間は続き、いつしか曲も止まっていた。
いっそう人の笑い声が大きくなった気がして、しずかは耳まで熱くなり、俯いた。
その時、笑い声が徐々に止んでいき、代わりにカツカツという足音が聞こえてきて、しずかの前で止まる。静まりかえったフロアにとけこむような優しい声が響いた。
「怪我はないかな？」
しずかにはそれが誰であろうと関係無かった。
どうせ冷やかしなんだろ。
「ああ」
ぶっきらぼうに答えて顔を上げた時、しずかは言葉を失った。今まで見たことのない顔が、本当に心配そうに、そして優しそうにしずかをのぞきこんでい
る。光の中で、溶けるような薄い色の髪に、陶器のような白い肌。綺麗なアーモンドの形をしたブルーグレーの瞳が、一際光り輝いている。照明の光はたしかにあったが、まるで後光があるようにも思えたほど、華やいでいた。
そして、紅く艶のある唇からは、優しい声が奏でられ、ゆっくりとしずかに手が差し出された。
「一曲、踊って頂けませんか？」
その手も、ほっそりと白く、しかし掴むと、しっかりと温かかった。
自然としずかはその手に導かれるように立ちあがる。そして男がゆっくりとしずかの手を組みなおしたとき、音楽が再び流れ始めた。
「ゆっくり、音楽に溶けこむように。自然に。体は私に任せて」
しずかを取り囲んでいた冷やかしの人間は、自然と離れていき、広い空間ができあがる。
まるでそこが二人の世界であるように。
いや、事実、そうであった。
しずかの目に写っているのは、その男だけであったし、しずかの耳に入るのは、その男の声だけであった。もはや音楽など聞こえなかった。それでも、男に身を任
れば、自然と音楽がついてくる。そんな風にすら思えた。
しかし、またもしずかは裾を踏んでしまう。倒れそうになったしずかの手をぐっと握り締め、腰の手をさらに自分に引き寄せ、男は言葉通りしずかを支える。
「足元を見ないで。もっと背筋を張って」
言われた通りにしずかはする。眩いほどの笑顔が向けられて、しずかは一瞬戸惑った。その戸惑いのため、しずかは男の足を踏みつけた。
「ごめんっ」
しかし、男の表情は変わらない。笑顔のままだ。
「大丈夫。だから、安心して。私に任せて」
その言葉に、しずかは全てを男に委ねた。落ちつきを取り戻したのか、慣れてきたのか、転ばなくなった。
「筋がいい」
褒められてしずかは顔が赤くなった気がした。
ふとしずかは男から漂ってくる、高貴な香に気づいた。
薔薇でもない。百合でもない。菫でも、ましてや水仙でもない。
なんの香だ？
「名前は？」
ふいにそう聞かれ、しずかは我に返る。素直に答えそうになって、ふと気づいた。
いつもそう人に言われたら、言い返してきた言葉。しずかの信条。
「人に名前を聞くときは、自分から言うのがスジだろ？」
すると男は驚いた表情を少しだけ見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうだな」
「お体の調子がよくなかったのでは…？」
速水の呟く声を聞いた鞍馬が答える。
「気づかなかったのか、速水。ずっとあの格子の向こうから、中の様子を伺ってらしたのを」
そして鞍馬は日向に言った。
「すべて計画通りってことかい？」
答えずに、日向は微笑んだ。曲も終わりそうになっている。日向は立ちあがり、フロアに向った。その後ろ姿を見て、鞍馬は呟いた。
「やられたな」
それは、夏目と速水にも向けられた言葉だった。その日向に負けを認めるような言い方とは裏腹に、鞍馬の心は荒れていた。
まさか、こんなことになるなんて。
またあいつに、一本とられた。
夏目は、ずっと踊る二人を見ていた。
心が痛むのは、しずかの表情のせいなのか。
今まで見たこともない、柔らかいしずかの笑顔は、ここにいるどの女性よりも艶やかだった。
「私の名は−」
男がそう言いかけた時に、曲が終わり、男は口を閉ざすとしずかから体を離し、礼をした。しずかも倣って慌てて礼をする。すぐに拍手が湧き起こり、しずかはその先を聞けなくなっていた。
「…碓井さん。あの人は？」
雅は呆然としたままで隣の碓井に尋ねた。
ずっと探していた人が、いたのだ。
自分を、死の淵から救ってくれた人物。
自分に、生きる力を与えてくれた人物。
その人が、今光の中に立っている。
「まさか、いらっしゃるなんて。
あの方が、陛下ですよ。桜小路有世様です」
雅は驚きのあまりに言葉を失っていた。
あの方が、皇帝陛下、桜小路有世…。
「陛下」
拍手の中、日向はその中心に歩いてきていた。そして跪く。
「お久しぶりです」
日向を見つけた有世も、嬉しそうな表情を見せ、日向の前にやってくる。
陛下？
しずかは有世の後姿を見つめながら、今さっき日向の言った言葉を繰り返していた。
じゃ、まさか。あいつが、桜小路有世？
「顔を上げろ、日向」
有世はそう言って、笑顔を見せた。
「音楽が聞こえてきたから、のぞいてみたら随分と楽しそうだった。邪魔をしたな」
「いえ、お目にかかれれ光栄です」
すぐさま他の三人の隊長も、それぞれの姫を率いて日向の隣にひれ伏した。
「夏目も、速水も、鞍馬も。元気そうでなによりだ」
そして、有世は三人の姫にも視線を送る。
「それぞれに、素晴らしい姫だな」
「ありがとうございます」
三人がそれぞれにそう答える。そして、有世は後ろにいるしずかに向き直り、声をかけた。
「私の名は、桜小路有世だ。今度は私が名前を聞こう」
「あ…。西御寺、しずか」
すると有世はにっこりと微笑んだ。
「しずか、か」
それだけ言うと、今度はまわりの人間に向って有世は言った。
「無粋な真似をしてすまなかった。ダンスを続けてくれ」
そしてさっさとフロアを出ていく。近衛と思われる紫紺の制服の男たちが有世の後をついていく。
しずかは、そんな有世の後姿を、ただじっと見ていた。