THE FLOWER GARDEN
続水仙の章04（薔薇）
「どうかしましたか？華夜乃様」
富樫の背中越しに走り去る夏目を見つけ、思わず華夜乃は動きを止めてその様子を見入った。
華夜乃の前ではおどおどしてばかりの夏目の瞳は輝かしく、どこか頬を高潮させてさえいるように見える。
「華夜乃様？」
二度呼ばれ、華夜乃ははっと気づいた。ほんの数センチ先の富樫の瞳が、少しだけ不安に曇っている。
「いいえ、何でもないわ」
そして、富樫の唇にキスをして、二人は熱い抱擁を交す。
逢引き、かしら？
誰と？
どこかの下女？
それとも？
いつもなら、我を忘れるほどの富樫の接吻も、今日は嬉しそうな夏目の表情を忘れさせてはくれなかった。
「上達したな、西御寺」
少し休憩しようという夏目の言葉を受け、しずかはドレスのままで床に座りこんだ。宮内真理恵からもらったピンクのドレスは、昨日も何度も転んだおかげで、もう裾は泥に塗れていた。夏目の特訓は、最終日を迎えていた。
ハイヒールを脱ぎ捨てて、ふとしずかは言う。
「あんがと、夏目。あのさ、西御寺って呼ぶのやめてくんない？」
「どうして？」
しずかは頭をかきながら答える。
「話せば長くなるから手短にいうと、西御寺しずかになったのって、つい二ヶ月くらい前だからさ、慣れてないんだ」
「では姫と？」
「しずかでいいよ、しずかで。面倒だし」
実のところ、西御寺と呼ばれると、しずかは雅のことを思い出してしまうのが辛かった。
一昨日の再会したときも、そう言った雅。そして、今日は廊下で偶然すれ違ったのだが、騎士を護衛に引きつれた雅はしずかなど視界に映っていないかのように無視をして、通りすぎていった。
「あのさ、夏目。前に言ってたの。そうかもしれないな」
その答えを求めるように、夏目は俯いているしずかを見つめる。
「人は変わるって」
しずかが誰のことを言っているのか、夏目にはわかっていた。雅の変わりようは、薔薇の隊長である夏目にも逐一報告があるのだ。
今までは、隔離されていた雅が学園に姿を現したため、願うと願わざるとも、華夜乃との対面が今日訪れたのだった。しかもそれは、夏目が華夜乃のところに出向いている時だった。そのあまりの相似に驚く華夜乃を、雅は冷たく無視して通り過ぎた。そして、夏目も含めたその場にいた薔薇の騎士たち全員がそんな雅に目を奪われていることに気づき、また自分という存在を無視するという屈辱を味わった華夜乃は、その後すごい剣幕で騎士たちを怒鳴りつけた。
だが、実際のところ、夏目も雅の姿に心をしばし奪われていたのだ。
雅があまりに前妃・佳乃に似ていたこともあるが、その雰囲気までもが百合の姫に相応しくなってしまっていたことに、驚かされていたのだ。
それは、高貴で、純潔で、そして完璧なまでになにものとも交わらない白さを保ち、時として冷酷という言葉にも似ている、百合の雰囲気に。
だが、そう言おうとして夏目が見たものは、いつもの強さのカケラもなくなったしずかだった。
「…そう、人は変わる。だから、また変わるかもしれない」
俯いていたしずかの顔が、ゆっくりと夏目を見返した。この３日間、どれほどしずかのダンスが上達したのかはわからなかったが、夏目の優しさをしずかは感じていたし、それは二人の関係を近づけるにも充分な時間だった。
「…サンキュ」
しずかはそう言うと、練習を再開しようと立ち上がった。そして、靴を履こうとしたところで、低くハスキーな声が響く。
「人は変わる、か」
しずかは思わず振りかえり、夏目は携えた剣に手をかける。
「ずいぶんと、勝手な真似をしてくれたもんだな。自分のところの姫の世話だけ見ていればいいものを。
他の姫に手を出すとは、たしかにお前も随分と変わった」
鋭い声がして、いつのまにか木の脇に日向が立っていた。しずかは日向にかみついていった。
「夏目は親切なだけだっ。お前があたしに何も教えないから−」
「そんな必要はないと言っただろうっ」
それはしずかが初めて聞く日向の本気の怒鳴り声だった。その声にとうの日向も、そして夏目も驚いて、沈黙が続いた。そして、日向がまたいつもの声に戻って言った。
「…とにかく夏目。お前はここを出ていけ」
少しの間があって、夏目の靴がカツンと音を立てた。しずかは振りかえって夏目を引きとめようとしたが、その手を日向が強く掴んで離さなかった。
「いいか、今後一切夏目と二人で会うな」
その有無を言わせない圧力のある低い声に、しずかはムッとした。
「そんなことお前に−」
「お前は妃候補だ。男は必要ない」
「あたしと夏目はそんなんじゃないっ。夏目はあたしの大事な友達なんだよ。あいつだけは、あいつだけはあたしを裏切らないっ」
しずかはそう言って、日向の手を振り払おうとしたが、むしろ日向は強くしずかを引き寄せた。バランスを失ったしずかの頬に、日向の胸にある水仙の紋章が当たる。
「夏目は薔薇の隊長だ。裏切らないとは限らない。お前は、敵でもないと思っているから、優しくされるんだ。見くびられているだけだ」
日向の低い声だけが、しずかの耳に響いた。
「たやすく人を信用するな。友人など必要ない。妃にとって、周りの人間は全て敵だ」
「…敵？」
もがくのを止めて、しずかは日向の顔を見上げる。そこには、月明かりに照らされた日向の険しい顔があった。
「皇帝にも、妃にも友など必要ない。崇拝される人物は、生々しくあってはいけない。下々と同じ人間なのだと感じさせるな」
だから、雅と引き離したのか？
「離せっ…」
しずかはそう叫ぶと、掴まれてない方の手で思いきり日向の頬を叩いた。それでも、日向は目すら瞑らずにいた。むしろ怯んだのはしずかだったが、思いきり日向を突き飛ばすと、裸足のままに駆けていった。
「あら、帰ってらしたようよ。夏目−」
応接間の扉の隙間から、夏目が通りすぎるのを目に止めた華夜乃は、夏目隊長サンとからかい口調で声をかけようとしたが、夏目は華夜乃に気づいたのか、気づかなかったのか、さっさと上階の自分の部屋に戻ってしまった。
気遣ってか、客人の鞍馬が言う。
「急ぎの用事があるのでしょう。いいです、もう少し待ちましょう。姫といろいろな言葉を交すのも楽しいですし」
鞍馬は唐突にやってきた。何も知らされていなかったために不在だった夏目に代わり、相手をすることになったのは華夜乃だったのだ。
「あら、流石は菫の鞍馬様。そう言っていただけるなんて光栄ですわ」
微笑み返す華夜乃だが、その頭では、一瞬だけ過った夏目の表情が強く残っていた。
唇をかみ締めて、俯きながら通りすぎた、夏目。
緋薔館を出るときはあれほどの笑顔だったにも関わらず？
そこにあった感情は？悔恨？敗北感？それとも…？
鞍馬は艶美な笑みを浮かべ話題を変える。
「それにしても、明日の舞踏会。いらっしゃるそうですね」
「…どなたが、ですの？」
「陛下ですよ。私も久々の謁見で、とても心が浮き足だっているのです」
「あら、そうなの」
華夜乃は興味なく答えた。ふいに上げた視線の先にいた富樫が、華夜乃にそっと微笑みかけていた。鞍馬の来館により、華夜乃と富樫の逢引きは、短いものになった。それを惜しむかのような富樫の視線を、華夜乃は興味なく視線逸らした。
何があったのかしら。
もしかして、女関係？
華夜乃の脳裏には、まだ先ほどの夏目がいた。
部屋に入った夏目の後ろから、戸田が慌てて追いかけてきた。
「どちらにいらしてたんですか。菫の鞍馬がやってきてますよ」
「…鞍馬が？」
上着を脱ぎ捨てようとした夏目の手が止まる。
「はい。今は姫が相手をなさっておりますが。何かの策略でしょうか？」
「大方、明日の舞踏会の探りを入れにきたのだろう」
できるならば、今はそのことを忘れたいと夏目は思っていたが、なかなか戸田は部屋を出ていこうとしない。夏目はその苛立たしさを隠そうと、カーテンに手をやったが、慌てて閉めなおした。
「隊長をお待ちです。…隊長？」
夏目はくるりと振り返ると、手早く答えた。
「すぐ行く。待ってもらうよう伝えてくれ」
「はい」
扉が閉まる音を確認し、夏目は慌てて窓の外に出た。そこは、広いバルコニーになっていた。
「西御…、しずかっ、どうして」
着替えもせずに泥まみれになったドレスに裸足という恰好でしずかがそこに立っていた。何も考えずにただひたすら緋薔館へと向った夏目と同じ時に戻ってくるということは、しずかは夏目以上に走って来たに違いなかった。事実、息も切れ切れにしずかは言った。
「謝りに来たんだ」
「謝る？」
「日向のこと。一応うちの隊長ってことだし。それに、あたしは夏目にすっごく感謝してるってこと言いたくて」
「そんなこといつだっていい。それよりここにいては−」
しずかは夏目の言葉を最後まで聞かずに声を張り上げた。
「今言わなきゃ、いけないと思ったんだ。すぐ。それに、日向が変なこと言い出したし」
「変なこと？」
夏目は辺りを見まわした。どうやらしずかの声を聞きつけた人間はいないようだ。
「夏目と二度と逢引きすんなって。あいつ、夏目のこと誤解しててさ」
夏目の表情が固まる。その意味を、夏目自身は考え始めた。
険しくなった夏目の顔を見て、しずかは不安になって言った。
「夏目？あたしらって、いい友達だよな」
しずかにしてみれば、友情を確認したかったのだ。
騎士団の関係や、今置かれている状況を忘れて、自分と夏目は変わらず友人であることを確認したかっただけだったのだ。
しかし夏目にとってそれは、別の意味での確認となった。
ひどく傷ついた自分の確認。
それを意味するものは、友情ではない。
「ああ」
「それじゃ、明日の舞踏会で会おうな」
「特訓の成果を、楽しみにしてる」
「ま、転ばないよう頑張るさ」
「今日はゆっくり休むことだ」
「サンキュ」
しずかが自分のすぐ横を通りぬけて行くのを感じ、梢は必死に身をかがめていた。見つかることなく、しずかは颯爽と緋薔館を出ていく。
すごいことを、見てしまったかもしれない。
梢は茂みに身を潜めたままに考えていた。
薔薇の隊長と、水仙の姫の逢引き。
でも、梢は不思議とこのことを誰かに話そうとは思わなかった。
そう鞍馬にすら。
だって、あの人。薔薇の隊長さんは、多分本気で好きなんだもの。西御寺さんのことを。
西御寺さんは全然気づいてないけど。
梢は自然と、自分と鞍馬とを照らし合わせていた。
決して報われることのない恋。
でも、それでもいいって思ってる。
例え、自分が犠牲になっても、相手が幸せでいてくれれば。
梢はしずかを見送っている夏目の横顔をじっと見ていた。しずかには見えないためにか、無防備な横顔は、どこか悲しげだ。
あっ。いけないっ。
そのとき、梢は自分が長く部屋を留守にしていることに気づいた。
但野さんが気づいてしまうかもしれない。早く戻らないと。
入り組んでいた茂みの奥から何とか這い出ると、みつからないようにとそっと梢は駆け出したつもりだった。しかし、その微かな音にも、夏目は気づいていた。
誰だっ？
しずかのことも考えて、敢えて声にはしなかったが、夏目はそこに走り去る女の姿を目にした。思わずバルコニーを飛び降りて女がいた場所に行くと、そこには何か光るものが落ちている。
菫の紋章。
慌てて夏目は顔を上げるが、もちろん梢の姿など見えるはずもなかった。