続水仙の章12

　雅が目覚めた時、視界の端に映ったのは紫紺の色だった。
　そして朦朧とするなかで、人の会話が聞こえ、目の前に現れたのは薄紅色の服を纏った有世であった。
「あ…の」
「ようやく目覚めてくれたか…」
　雅はそう話す有世のブルーグレーの瞳を、ただじっと見ていた。その目には、涙が浮かべられているようにも思えて、ますます雅は、これが真実とは思えなかった。
　飽きあがると、そこは見知らぬ寝室だったせいもあるかもしれない。起き上がり、窓の外を見ると、そこには百合の花が咲き乱れていて、百合の騎士数人も見えた。そして、部屋を見まわすと、扉のところに碓井がいて、雅はここが白百合館であることを確認した。
　そうだ、あの時。また気を失って…。
　有世は、安心した表情で、よかったと呟いている。
「陛下」
　部屋の隅いた近衛がそう有世に声をかける。有世はかるく頷くと、立ちあがった。
「また助けてくれたんですか？」
　びくんと有世の背中が反応する。だが、雅の方を振り向こうとはしなかった。
「あの」
　碓井が扉を開け、近衛が促すようにその隣に立った。だが、有世はふと足を止め、振り返った。その表情は哀愁に満ちていた。
「貴方にとてもよく似た人がいて、その人も、とても体の弱い人であった」
　潤んだ瞳は、たしかに雅の方向を見つめている。だが、決して有世を見つめる雅の視線と交わらなかった。その意味を雅が求める前に、歩き出した有世が呟く。
「お大事に」




　大丈夫かな、雅。
　大丈夫か。桜小路が、そう言ってくれたもんな。
　しずかはそう思ったところで、痛む胸を抑える。その心の痛みの名前を、しずかは知らない。
　倒れそうになった雅を、しずかよりも早く助けた有世は、医者を呼び、講堂を出ていこうとした。慌ててしずかも追いかけようとしたが、その手を日向が止め、同時に行く手を速水が遮った。だが、しずかは日向の手を振り払い、速水を突き飛ばしてでも雅の側にいようとしたが、有世が言った。
「私がいる。大丈夫だから」
　必死にそう言われたしずかは、何も言えなくなり、そして講堂から慌しく百合の騎士たちと有世、そして近衛が姿を消した。そうして、それぞれに帰路についた。
　だがずっと、しずかの胸の痛みは消えなかった。そのためにか、しずかは苛立ちを強く感じていた。
　特に、雅を助けようとしたところを思い出すと、その痛みは強く疼いた。そして、その雅を抱きかかえた有世を思い出すと、その苛立ちが強くなるのだ。
　ああ、すっきりしないっ。
　何だってんだよっ。
　しずかは大きくベッドに飛びこむ。マットのスプリングが大きく弾んで、しずかの胸の痛みをいっそう強くさせた。
　精一杯雅に伸ばしたあたしの手より早く、雅を掴まえた桜小路の手。
　雅を抱きかかえた桜小路の腕。
　あの手は…。あの手は、あたしを迎えるはずだった…？
「違うっ」
　大きく叫んで、しずかは起き上がる。だが、頭の中では、有世の腕の中には雅でなく自分がいた。
　この胸の痛みは、苛立ちは…、嫉妬。
「違う、違う、違うっ」
　しずかは叫びながら、枕やクッションを壁に投げつけた。　
　だが、確かにしずかの胸のつかえは、嫉妬という言葉にすることで浄化されていた。
　嫉妬？
　あたしが、雅に、嫉妬？
　しずかはベッドから立ちあがると、そのまま洗面台に向った。
　違う。感情は、たしかに嫉妬かもしれないけど。違う。
　嫉妬をしたのは、雅をあたしが助けられなかったからだ。
　嫉妬の相手は、桜小路なんだ。
　勢いよく流れる水に、しずかは顔をつけた。その冷たさが、気持ちを落ちつかせてくれると思ったしずかだが、昂ぶった気持ちは、なかなか鎮まりそうには無かった。




　やってくるはずもない。
　約束をしてるわけでもなかった。
　なのに、夏目は待っていた。何度と出会った、川のほとりで。
　いや、待っていたかったのだ。
　この前の舞踏会から、何となく予感はしていた。
　彼女の目が、いつもは荒れ狂う怒りに満ちた強い目をしていた彼女が、あの時だけは優しさに溢れる目をして、ただ見つめていた。
　それだけで、充分だった。
　その目で陛下を見ているだけで、わかってしまった。
　しずかが、陛下に心を奪われていることに。
　そして、自分がしずかを好きになっていることに。
　他の組の姫であり、
　妃候補であり、
　この世界を早く抜け出そうとしている、しずかに。
　妃候補である彼女が、陛下を慕うのは当然のことだ。陛下も、彼女のことを気に留めていらした。そのまましずかを妃に選ぶかもしれない。
　妃？あのじゃじゃ馬といわれるしずかが。
　品格では姫のほうが、何倍も上だし、何倍も似合っている。
　姫こそ、妃になるべきだ。
　そうなれば、しずかも陛下を諦めるに違いない。
　そう思ったところで、夏目は大きく頭を抱え込んだ。自分の考えが、自分で許せなかった。
　しずかを手に取りたいが為に、姫を妃にするのではない。
　陛下の為に、姫を妃にするのだ。
　空を見上げると、月が輝いていた。溜息をつくと、息が白くなった。
　会いたい。
　せめて、しずかが桜王宮に入ってしまう前に。もう一度だけでも。
　夏目は、河の向こうを見つめた。
「キャッ」
　その時、木の陰から女の小さな悲鳴が聞こえてきて、思わず夏目は駆け寄っていった。



　何をしてるのかしら？
　木の陰に隠れ、川辺で一人佇む夏目を見ながら、華夜乃は苛立っていた。慌てて出てきたために、薄着であり、先ほどから寒気を感じていた。
　ゆっくり眠ろうとしていたところに、緋薔館をこっそりと出ていく夏目を見つけたのだ。例の逢引きではないかと、思わず後を追いかけてきたものの、夏目はただ一人で河を見つめるだけであった。
　いったい、いつになったら恋人がやってくるっていうの？
　その時、華夜乃は自分の腕に、もそもそと動く青虫に気づいた。
「キャッ」
　声を上げて、大きく手を振るものの、青虫は中々取れない。
「どうしました？姫」
　現れた夏目に、華夜乃は手を振るわせながら差し出す。
「虫よ、虫っ。早く取りなさいっ」
　夏目は震える華夜乃の腕を掴むと、そっとその青虫を取ると、木の葉に戻した。それでもまだ震えている華夜乃に、夏目は微笑みかける。
「姫は虫がお嫌いなんですね」
　華夜乃は頭を大きく左右に振って答える。
「ええっ、もう大っ嫌いっ。見るのも汚らわしいわっ」
　思いきりそう叫んだところで、夏目はくすくすと笑いながらも華夜乃に尋ねた。
「ところで、姫はこんなところで何をなさってるんです？」
　思わずその動きを止めて、華夜乃は尾行に失敗したことに初めて気づいた。
「何をって…。そんなことより、貴方こそ何をしてるんですの？」
　夏目は軽く微笑む。その表情に、何故か華夜乃はドキリとした。目は泣いているようだったのに、それでも夏目は微笑んでいたのだ。
「ちょっと眠れなかったので、散歩でもしようかと」
「わ、わたしもそうよ」
　慌てて華夜乃もそう答える。そうですか、と夏目が答えたところで、華夜乃は小さくくしゃみをした。ふいに肩に温かい上着が乗せられて、顔を上げると夏目が自分の上着を華夜乃にかけていた。
「帰りましょう、姫。今日はもう寒いですし」
　そしてそのまま、夏目は華夜乃の手を取ることもなく、緋薔館に向って歩き始める。上着の下に隠れていた鍛えられた体が、その背中がいやに大きく感じ、華夜乃は自然と強く夏目の上着を握り締めていた。




　ようやく雅を見つけた碓井は、安堵の溜息をついて、じっと絵を見つめる雅に声をかけた。
「姫…。ここで何をなさっているのです？」
　振り返る雅と、その奥にある佳乃の肖像画は、まるで鏡のようにも思えた。似ているとは思っていたものの、こうして照らし合わせてみると、肖像画のほうが雅にも思えた。碓井は肖像の間の扉をそっと閉める。
「隊長に見つかれば、怒られますよ。そしてまた上のお部屋に戻されます」
　急遽白百合館にやってきた有世との対面で、雅の部屋はこの肖像の間の隣に作られた。鍵がかかってないことから、雅はこうして自由に動けるのであるが、それもこういう勝手な行動につながるようであれば、おそらく速水のことだ。すぐに上の牢屋に押し込めるだろう。
　だが目の前の雅は、ちらりと碓井を見ると、また肖像画に目を向けた。
　優しく微笑みを称える森宮佳乃は、確かに線が細く、肌も白かった。
「碓井さん。私、似てるかしら。この方に」
　ふいにそう聞いてきた雅に、碓井は驚いた。雅が佳乃のことを口にするのは初めてだった。
「ご無礼でないと思って申し上げますが、姫は本当に佳乃様にそっくりです。生まれ変わりと言われても、おかしくないと思います」
「亡くなったって？」
　碓井は頷く。だからこそ、次の妃が必要になったのだ。
「どうして？」
「ご病気と伺っております」
　もともと体の弱い体質だということを碓井は聞いたことがあった。だから、亡くなる前にも、何度も病に臥せっている。
「そう…」
　雅はそう呟くと、ただじっと、森宮佳乃の絵を見つめていた。




　薔薇が花琳。
　百合が荷葉。
　水仙が貴丹。
　そして我が菫が初音。
　一番、陛下の桜陵殿に近いのは薔薇であったか。そして、次が百合と菫。水仙は最も遠くに位置している。
　だが、このままでは行かない。
　近衛の発表に陛下は驚いていたし、それに今日陛下が目をかけたのは、百合だった。
　百合…。
　そう思ったところで、鞍馬は疾風の背中を撫でる。小高い丘からは、かすかに桜王宮が見えた。冷たい夜風が鞍馬の髪を揺らす。だが、その冷たさなど鞍馬は感じていなかった。
　だが、俺は知っている。百合の秘密を。
　そして、水仙をも落とす、やり方も。
　薔薇の秘密など、とうに知っていた。
　そして、菫。
　端にも棒にもひっかからないものは、どうすればいいのだろうか。
　簡単なことだ。
　他を蹴落とすこと。
　そして俺が、選ばれるのだ。
　疾風が少し嘶いた。
「…戻るか。疾風」
　鞍馬はそう言うと、疾風にまたがった。




　男は、日向の向いに深く腰掛けると、グラスにワインを注ぐ日向をじっと見つめて言った。
「しばらく会わないうちに、少し太ったか。日向」
　口を歪めて日向が笑う。
「いや、そんなことはない。お前が痩せただけじゃないか？」
　日向の寝室は確かに存在したが、実はあまり使ったことがない。日向はたいてい、自分の部屋となっている執務室のソファーで眠っていた。だが、今日だけは、寝室を使わねばならなかった。執務室での会話は、廊下にいても聞こえてしまうからだ。その分、奥にある寝室での会話は、誰に聞かれることも無い。
「それにしてもずいぶんと思いきったことをしたもんだな。もちろん勝算あってのことなんだろう？」
　突然現れた男に、日向も驚かなかったわけではない。正直、そろそろやってくる頃だと思っていた。男は、注がれたワインを一口飲む。
「しかも、計算通りに進んでいるそうじゃないか。話せ」
　そう言われた日向は素直に微笑んだ。男は、いつもその笑顔を見ると、この成瀬日向という人間が見えなくなっていた。ひどく幼いその笑みは、日向をまるで純粋無垢な少年のように思わせ、その実とはなかなか結び付かない。
　だが、日向は表情を引き締めて、全てを話し出した。
「計算通りというわけじゃない。誰も気づいていないだけだ。理想の妃とは、とどのつまり自分の理想に過ぎないということに。
　陛下には、できあがった姫など必要ない。今までずっと与えられる立場にいた。だから作り上げる楽しみというのを、陛下は知らない。俺はそこに目をつけた。
　白鳥華夜乃を選ばなかったのは、すでに華夜乃は自分というものがあるからだ。夏目が何も教育しないでいるのは、それが条件であってもなくても同じこと。自分から変わろうと思っていない人間が、しかもあれほど自分を愛している人間が、他人に指導されて変わるわけがない。
　そういう意味では、鞍馬のやり方こそ、陛下が必要としていることだ。鞍馬は自分の理想を村松梢の中に作り上げた。なかなかよくやったとは思う。陛下の優しさを利用して、梢を迷子の子猫のように仕立て上げた。しかも、ただ弱いだけじゃなく、健気で芯は強い。だが、鞍馬は重要なことを見逃した。梢が鞍馬に惚れていたことだ。鞍馬はその気持ちを逆に利用しようと考えただろうが、陛下がそのことに気づけば、鞍馬と梢を結び付けようとするはず。なにより、梢の芯の強さが、鞍馬の計画を壊すことになる。
　そして百合の遠山雅は、何よりも佳乃様に似すぎている。だが、佳乃様はあくまで佳乃様であり、誰かに置きかえることなどできるわけもない。そのことに、速水は気づいてすらいないのだから、本当におめでたい男だ。
　それに、陛下は未だに佳乃様のことを後悔している。自分のせいで、亡くしてしまったと。陛下にとって、今一番必要なのは、佳乃様を忘れられるほど、対極にある人間だ。
　だから、俺はあいつを選んだ。
　粗野で、男勝りで、口が悪いしずかをね。そして、そのままに陛下に差し出したんだ」
　そして、その通り。
　陛下はしずかに興味を抱いている。
　ただ一つ、後宮の配置だけが気になるが。
　微笑む日向に、男は答える。
「なるほど。だが、大事なことを忘れていないか、日向」
　ワインを飲む日向の目が、男を見つめた。
「つまり、女の心だ。いくら陛下がしずかを気に入っても、しずかが陛下を嫌っていれば、結ばれる物も結ばれないだろう。手に入らないならば、手に入れたくなるという心理もわかるが、相手がしずかなら、拒み続けるだろう」
　そう聞かれた日向は、心の中で微笑んだ。
「人は、一人で生きて行けると思うか？」
　すると男は豪快に笑った。
「唐突に質問か。しかもテーマが重いな。
　一人で、か。
　ずっとは無理だろうな。おそらく。いくら一人で生まれて、一人で死んでいくとはいえ、その間は、誰かといたいと思うだろうから」
　答えたところで、男ははっと顔を上げた。
「だからか。遠山雅との仲を、決定的に裂いたのは。そして、お前自身も冷たく突き放していたのは」
　日向は冷静に答える。
「陛下はお優しい人だ。誰もが知っていることだが」
「だから、夏目に、近づくのを禁じたのか？」
　一瞬だけ、脳裏に別の答えが過った。だが、それを否定するように日向は答える。
「…その通りだ」