THE FLOWER GARDEN
桜の章01
「それでは、お元気で。姫」
いつものごとく、用意された馬車にしずかが乗りこんだところで、君江は乗らずに扉を閉めようとした。慌ててしずかは振り返る。
「君江。一緒じゃないのか？」
はいと答えた君江は、突然その笑顔を崩す。その瞳からこぼれる涙にしずかが見入られていると、君江は気丈にも涙をふき取り、泣き笑いした顔をしずかに向けた。
「私はいつでもここ、黄仙館にいます」
しずかが戸惑っていると、馬車の奥に座っていた日向がしずかにチーフを抜いて渡す。しずかがそれを窓越しに君江に渡すと、堪えきれなくなったのか、君江はしずかの手をひしと握り締めて言った。
「姫のお世話ができて、君江は幸せでした。
心より祈っております。姫が妃になることを」
走り出した馬車の中、しずかはじっとその手を握り締めていた。そうしていないと、黙って座っていられないように思えた。湧きあがる感情は、しずかがこの世界に来て感じることもないと思っていたものだった。
くすり、と笑われたような気がして、しずかが顔をあげると、斜に構えている日向と目があった。
「何だよ」
だが日向は黙ってしずかを見ているだけで、何も言わない。そして、すっと視線を外に向けてしまった。
「無視すんなよな…」
しずかは小さくそう呟いたが、いつものような力は入らなかった。
不安が、はじめてしずかを覆おうとしていた。
しばらく走った後、馬車がゆっくりと止まる。それから、再び動き出したとき、しずかは思わず外に映し出された桜吹雪に声をあげた。思わず窓に吸いつくように近づき、辺りを見回す。
両側に立ち並んだ桜並木は、まさに桜が満開に咲き誇っていた。
「すご…」
しずかが窓をあけると、はらはらと桜の花びらが舞い込んでくる。そのひとつを手に取りながら、しずかは匂いを嗅ぐ。それはまさに有世の匂いにも思え、しずかは胸がいっぱいになる。
「言っておくが、この門は定時にのみ開かれる。或いは、致し方ない用がある時のみだ」
突然話出した日向に戸惑いながらしずかが背後で座っている日向を振り向くと、日向はにやりと微笑んだ。
「騎士であれば、その理由が認められれば自由な行き来は認められる一方、女はこの桜王宮からはよほどの理由がない限り出られない。君江に会いたいからと言って、簡単には抜け出せない」
「ばかやろっ、そんなっ―」
顔を赤くして違うと言いかけたしずかは、今日向が言ったことの真意に気づいた。
「…何だよ、それ。そういうこと入ってから言うなよ」
「そうでもしないと、お前はすぐ逃げ出そうとするからな」
ふざけるな、と言ってしずかが馬車から降りるべく立ちあがったとき、ガタンと急に馬車が止まった。バランスを失ったしずかが、思わず床に投げ出されそうになったところで、日向が慌ててしずかの腰に手を回す。
しずかが日向に後ろから抱きしめられるようになったところで、馬車の扉を開け、相川が顔を出した。
「さ、姫。着きましたよ」
扉からは、また沢山の桜の花びらが舞いこんできた。
しずかの耳元で、日向が呟く。
「桜王宮。別名、棘の宮だ」
いばらのみや？
その言葉の意味をしずかが聞こうとしたところで、日向はしずかから手を離すと立ちあがって言った。
「桜稜殿で、陛下がお待ちだ」
桜稜殿の広間には、すでに四騎士団の隊長と姫が、それぞれの隊員を連れて、有世がやってくるのを待っていた。
心が落ち着かなくなり、しずかはきょろきょろと辺りを見まわす。
雅を見つけたものの、しずかの視線に気付きながらも、拒否をしているのがわかる。
『滝に落ちたそうだけど、それってどうも事故じゃないみたいなんだよね』
『自分の意志ってこと』
鞍馬に言われた言葉が、しずかの心に突き刺さっていた。
もしそれが、本当だったとしたら。
雅に何があったんだ？
バタンと扉が開き、中にいた全員の視線が入り口へと向かう。
だが現れたのは有世ではなかった。
突然現れたドレス姿の少女に、しずかと雅をのぞいた皆が姿勢を正した。その中を、少女は当たり前であるかのような顔つきで、悠々と歩いてくる。
そして甲高い声で誰ともなしに話しかけた。
「どなたがお兄様のお相手となる方かしら？」
「お兄様？」
しずかの呟きに、日向が小さく答えた。
「陛下の妹君である貴緒様だ。梅の宮とも呼ばれている」
「タカオ？男みたいな名前だな」
あけすけないしずかの感想に、貴緒は鋭い視線をぶつけてきた。
慌てて夏目が貴緒の前にひざまずく。
「お久しぶりでございます、貴緒様。いかがでしたか？ご実家での養生は」
その夏目の珍しくすばやい行動に、日向は思わず睨む。
庇うとは、余計なことを。
貴緒は、夏目に話しかけられても、しばらくしずかを睨んでいたが、フンッと顔を背けると、夏目に向かって言った。
「どうもこうもなくてよ。何も変わってないわ、夏目。あなたと同じでね」
夏目に先を取られて焦っていた速水が、返す言葉もなく口を閉ざした夏目の隣でひざまずき、貴緒の間に入る。
「お騒がせして申し訳ございません、貴緒様」
「いいのよ、速水。なんだか楽しそうな雰囲気ですもの」
そういって周りを見まわす貴緒は、自分の目の前に、すっとひざまずいた鞍馬に気づいた。
「少しみないうちに、一段と美しくなられましたね、貴緒様。驚きのあまり、ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
途端に貴緒の声は更に高くなり、自分に笑顔を向ける鞍馬に駆け寄っていった。
「鞍馬っ。私、あなたに会いたくて予定を切り上げてきましたのよ」
「それは身に余る光栄です」
見詰め合う鞍馬と貴緒に、日向の含み笑いのある声が響く。
「恋する女ほど、美しいものはありません。ただし、恋は人を狂わせる。くれぐれもご注意を」
そういって、日向はちらりと夏目を見た。しかし夏目はさりげなくそれを無視する。
「どういう意味かしら？成瀬日向」
日向が口を開きかけたところで、はりのある声が響いた。
「貴緒。いつ戻ったんだ」
思わずしずかが振り返ると、そこには薄紅色の服をまとった有世がいた。だが、有世はしずかに目もくれずに、早足で貴緒のところに向かう。
「つい先ほどですわ、お兄様。
それにしてもお兄様もひどい方ね。佳乃さんが亡くなってまだ間もないというのに、新たなお相手を探すなんて。あんなに愛してらしたのに」
少しだけ表情の曇らせた有世の姿に、しずかの胸がちくりと痛んだ。
思わず胸を抑えるしずかを、夏目は視線の端で捉える。
「まあ、いいわ。それより、私にも紹介してくださらないかしら？といっても、あなたは必要ないわ、白鳥さん」
突然名前を呼ばれ、夏目に気を取られていた華夜乃は、顔を上げて貴緒と向き合う。
貴緒の挑むような視線と、華夜乃のそれに屈しない視線とが絡み合って火花が散った。
「お久しぶり。そう、実家に戻っていらしたの」
ゴホンという咳払いがして、速水が自慢げに言った。
「薔薇の姫は口の聞き方を知らないとみえる。いくらクラスメートだったといえど、仮にも陛下の実の妹君であらせられるぞ」
「あら？私が妃となれば、彼女は私の妹も同然。敬語は必要なくてよ。ねぇ、貴緒さん」
同意を求められた貴緒は、華夜乃に作り笑いを見せながら厭味たっぷりに答える。
「あなたが選ばれるとすればね」
そう言って、有世の姿をじっと見ている雅に気づき、声をあげた。
「それにしても、佳乃さんに妹なんていらしたのかしら？でなかったら、彼女の生霊？」
「いえ、わが白百合の姫は、佳乃様とは全くの無関係でございます」
速水の鋭い視線をうけ、雅は頭を深く下げ、答える。
「遠山雅です」
「よく知った顔なのに、知らない名前ね」
「一ヶ月ほど前に転校してきました」
「そう。それで百合に、ねぇ」
意味ありげにそう言って納得した貴緒は、今度は梢に視線を向ける。
「鞍馬の隣の人は、随分と恥ずかしがり屋なのかしら？さきほどからずっとうつむいているわね、顔を上げなさい。あなたも転校生？」
「…いえ」
言葉少ない梢の代わりに、鞍馬が口を挟む。
「村松梢と申します」
「あら？あの村松さん？」
梢の肩がびくっと震えた。鞍馬はその反応に少し驚きながら梢を見つめた。貴緒は更に親しげに梢に話しかける。
「覚えていて？同じクラス、でしたわね」
「…はい」
心配そうな鞍馬の視線に気付いた貴緒は、わざと声を張り上げて言った。
「まあ随分とお綺麗になられたこと。いったい、どなたのおかげなのかしら？」
そう言った貴緒の視線は、戸惑ったままの鞍馬に移る。梢は答えられずにただ震えていた。
ぐるりと視線を馳せる貴緒の目に、最後に映ったのはしずかだったが、すぐに視線を隣の日向に移して言った。
「それにしても、あなたの趣味って理解に苦しむわ、成瀬日向」
「それは光栄なことです」
「あら？褒めているように聞こえたかしら？やっぱりあなたの考えは読めないわね」
「人間と言うのはどうやっても、他人のことを理解はできないもの。時には自分の心にも、理解に苦しみます」
「まあ、あなたでもそんなことがおありになるの。私、てっきり全てのことをお見通しでの行動かと思ってましたわ」
話が長くなると感じたのか、そこで有世が口を挟んだ。
「貴緒、もういい。部屋に戻りなさい」
しかし貴緒はその命令を聞き流した。
「ねぇ、お兄様。せっかくだから私もこのゲームに参加させていただくわ。未来の義姉さまともなりうる方ですもの。私にも選ぶ権利があると思うの。いいでしょう？」
有世が悩む間に、鞍馬が言う。
「花族のうち、男爵の不在により、人数的に決めかねることも多くなるかと存じます。私は貴緒様のご参加、こちらから是非ともお願いしたいと思います」
有世は他の三人の出方を待ったが、誰も反対する者はいなかった。
「わかった。そのように計らおう」
「ありがとうございます、お兄様」
貴緒はにっこりと微笑んだ。そして、広間を出ていこうとして、ふと思い出したように振りかえってしずかに尋ねた。
「ところであなた、お名前はなんておっしゃるの？」
しずかもぶっきらぼうに答える。
「西御寺、しずか」
しずか、と貴緒は復唱してから、くすっと笑ってこう答えた。
「改名なさったほうがよくてよ。全然お似合いじゃないようだから」
貴緒の登場によって、有世の挨拶もほどほどに終わり、雅は百合の姫にと用意された荷葉舎に戻っていた。
片付けが終わったところで、雅は側に控えていた碓井に尋ねた。
「さっき、貴緒さんが言ってた花族って何ですか？」
「桜王である陛下を除く、爵位のある方たちのことです。桂公爵、松侯爵、柊伯爵、楓子爵。それぞれに、桂公、松侯、柊伯、楓子とも呼ばれております。本来ならば柏男爵もいらっしゃるのですが、亡くなって今はいらっしゃいません。この方々を花族といい、陛下の下で、陛下の助けとしていらっしゃいます。
加えて言うならば、この桜王宮には他にも姫宮さまがいらっしゃいます。
梅の宮が陛下の実妹である貴緒。それから椿の宮は朱鷺子（ときこ）さま。かつては桔梗の宮さまや、牡丹の宮さまなど大勢いらっしゃた時もあったようですが、今いらっしゃるのは貴緒さまと朱鷺子さまだけです。亡き前妃の佳乃さまは、桃の宮と呼ばれ、この荷葉舎にお住まいでした」
「桃の宮…」
そう呟いて、雅はこの桜王宮にやってきてから受ける視線を思いだす。
誰しも雅を目にとらえると、視線が固まり、今度は大きく目を見開く。時には目を擦るような仕草までする人もいた。中には慌てて逃げ出すもの、あるいは雅に平伏すものさえ。
それが明らかに佳乃と身間違えての行動というのも、雅にはわかっていた。
ギィと小さな音がして、女性の声で失礼しますと聞こえた。現れた小柄な女性を、碓井は雅に紹介する。
「菖蒲（しょうぶ）というものです。姫のお世話をいたします。何かあればこの菖蒲にお伝え下さい」
では、と言い残し、碓井は部屋を出ていく。
扉が閉まり、溜息をひとつつく雅の前で、菖蒲が突然涙を流し出した。
「あの…。どうかしました？菖蒲さん」
「いえ、すみません…」
だが菖蒲の目からは、止まることなく涙が溢れ出している。困った雅は、菖蒲の背中をさする。
「気分でも、悪いのかしら」
「いいえ、姫。どうかお気を使わないで下さい」
「でも…」
「大丈夫です。ただ、姫があまりにも佳乃様に瓜二つなので…」
その言葉に思わず雅は菖蒲をさする手を止める。
「佳乃様も、とてもお優しい方でいらっしゃいました…」
そこで菖蒲は声をあげ、雅の手を握り締めて泣きはじめた。
だが雅には、その泣き声はただの騒音にしか聞こえなくなっていた。