THE FLOWER GARDEN
水仙の章09（薔薇）
傾けたグラスに注がれていたカクテルを飲み干して、華夜乃はグラスの向こうに映る富樫の顔を見ていた。
すぐに、富樫の顔は赤い泡の中に消えていく。
華夜乃に注いだカクテルのビンをテーブルに置き、富樫は微笑んだ。そんな富樫を見て、華夜乃はくすりと思い出し笑いをした。不思議そうな顔の富樫を楽しそうに見つめながら、華夜乃はその思い出すこ
とになった話をし始めた。
「さきほど夏目がやってきて、ワインでもいかがですかって私のこと誘うのよ。あんまりにも真面目な赤い顔がおかしくて、笑いそうになるのを堪えて言ってやったの。今夜は気分が優れませんので、ご遠慮いたしますわって。だって、今夜はあなたとの約束があったんですもの」
華夜乃は、椅子に座った富樫の膝に腰掛けて、その首に手を回すと唇を重ねた。富樫の冷たい指が、スリップ姿であらわになった華夜乃の背中に触れて心地よい。唇がようやく離れて富樫が囁く。
「ひどい人だ」
富樫の膝を降りた華夜乃は、裸足のままでテラスを歩き、咲き誇っている薔薇に触れた。
「まあ、私をそんな風になさったのはどなた？学校中が不思議がっていてよ。
どうして私が、菫の鞍馬でなく、薔薇の夏目を選んだのかって」
妃候補の話が出ると、薔薇・百合・菫の騎士団はすぐに華夜乃の元にやってきた。
下馬評では、華夜乃は菫を選ぶであろうと予想をしていた。
鞍馬のいる菫。
実際、 鞍馬の話術は巧みであったし、魅力もあった。
そののち、百合が華夜乃から手を引き、鞍馬の敵は薔薇だけになったのだが、その薔薇の隊長が夏目であったことから、ほぼ菫に決まったであろうと、鞍馬ですら思っていた。
しかし、華夜乃は夏目がやってきたときに、その後ろにいたこの富樫尚也にすぐ目をつけたのだ。また富樫も同じ瞳で華夜乃を見つめていた。その狡猾で貪欲な瞳に、華夜乃は惹かれたのだ。
そうして二人の関係は、華夜乃が正式に薔薇の姫となる前にすでに始まった。
花びらを掴むと、その濃厚な香が漂った。すぐ後ろに富樫がやってきて、華夜乃を薔薇ごと抱きしめる。
この薔薇の温室を、わざわざ緋薔館脇につくらせたのは華夜乃だった。
しかも、この温室に華夜乃の部屋からつながる通路まで作らせ、月明かりが差し込むようにと全面ガラス張りにさせたのも、華夜乃だ。
それが、薔薇に来る条件の一つだった。
「薔薇の香に包まれて、ひとときを過ごしたいの」
その言葉に夏目は一つ返事で答えた。ガラス張りといっても、鬱蒼と茂る薔薇の葉に隠れて、外から中は見えない。温室でもあるので、声も外に漏れない。妃候補の姫と、騎士団ナンバー2との逢引きの場所には持って来いであった。
華夜乃は、夏目の鈍感さに、このときばかりは感謝した。
お馬鹿な隊長さん。
華夜乃は薔薇の香にうっとりと酔った。耳元で富樫が囁く。
「あなたは、菫より薔薇の方がお似合いだ」
華夜乃は富樫の手に、自分の手を重ねると、フフッと笑った。
「今の陛下は来年にはいなくなるわ。私が妃になり、あなたが近衛となれば、私たちはずっと一緒にいられるわ」
背中に手を回してきた華夜乃に答えるように、富樫は鋭く光った瞳を隠して華夜乃を抱きしめた。
「どうかしましたか？隊長」
ふいに声をかけられて、夏目は振りかえった。
そこにはワインをグラスに注ぐ戸田がいた。副隊長の戸田以外にも、薔薇組幹部の人間が、みな一斉に夏目に視線を向けていた。
「飲まないんですか？」
夏目はカーテンを閉め、今まで見ていた温室を戸田から隠すと、ゆっくり首を振った。
「あまり、体調がよくないんだ」
「では遠慮なく」
戸田が音頭を取り、幹部の人間達はグラスに口をつけると、一口飲んで皆一様に満足げな顔をした。夏目は彼らのそういう表情を見て、安心して自分の椅子に座った。
今夜は幹部との会合の日であった。本来ならば、この場に華夜乃を連れてこようとしたのだが、体調が悪いと断られてしまっていた。
そこで、幹部の一人が口を開いた。
「そういえば、今日水仙の姫を遠目ですが見ました」
「西御寺しずかか」
「ええ。でも結果は見えたも同然です」
夏目も噂だけは、聞いていた。
粗野で、乱暴で、姫とは程遠い人物。
それでも、日向が選び抜いた人物。
ふいに戸田が話を変えた。
「しかし、隊長。何故姫とあんな約束をしたのです」
戸田の意味することを感じ取ろうとする夏目だったが、その前に戸田が説明した。
「プライベートには干渉しない、ということですよ。温室の改装はまだしも、そこまで約束しなくても」
幹部の誰もが、戸田に賛成のようだった。
隊長になってから、夏目は定期的にこういった会合の場を設けていた。ここで話される情報や意見、決め事が、今の薔薇の地位を保ちつづけていることを、夏目は知っていた。またそうした力に頼っていかないと、自分一人では立ち行かないことも分かっていた。
夏目は少しの間、返答を考えたが、納得してこう答えた。
「菫にもって行かれたくなかったのだ」
巷の噂は、こう言った会合でももちろん話されていた。
菫、というよりは、菫の鞍馬、という表現の方が正しいだろう。
そして、それは鞍馬に対するライバル心から言ったことではなかった。
姫と、騎士の恋愛は、禁止されている。見つけられたら、直ちに牢獄行きだ。その人間を、薔薇の、仮にも副隊長から出させるわけにはいかない。それが、ひいては薔薇の汚点になることを、夏目は知っていた。
鞍馬ならば、そういった噂があるだけでも、真実にすり替え、自分に不必要な存在を消し去るだろう。
「それは確かに、姫が我が組の姫となれば、勝利は確実ですが」
「しかし隊長が甘やかすので、ますます我侭になってますよ、白鳥華夜乃姫は」
矢継ぎ早に幹部達に言われ、夏目は返す言葉がなくなった。
事実だからこそ、華夜乃はここにも、寝室にもいないのだ。
「富樫はどうした」
話を変えるべく、夏目はわざとらしく言った。幹部は戸田を含めて4人なのだが、そこにいるのは3人だった。
「体調が悪いとかで、今日は遠慮したいそうです」
幹部の一人が答え、夏目はさらりと言った。
「風邪でも流行っているのかもしれないな」