THE FLOWER GARDEN
水仙の章10
しずかが扉を前にして立ち止まると、後ろの方でぴたりと足音が止まった。
まったく、しつこいな。
しずかは舌打ちをして、女性用と書かれた扉を開けた。
昨日からずっと相川をまこうとしているのに、なかなか思うように行かず、ついには護衛が必要ないとまで宣言したのに、それでもこうやって、後を追いかけてくる。
唯一自由な場所は教室であったが、君江のいない教室での宮内の嫌がらせはますますエスカレートしていた。
さっきまで置いてあった教科書がなかったり、破られていたり。特にしずかが教師に当てられるといった場面がなかったから問題なかったものの、その行為そのものがしずかを苛立たせていた。
そして、その日最後の授業の音楽から戻ってきて、しずかは自分の机がなくなっていることに気付いた。後ろで笑っている宮内を見つけ、思わず切れかかって宮内につかみかかりそうになったが、その時宮内が言ったのだ。
「さっさと姫を降りて、学園を出ていかれるといいわ」
その目は、しずかを憎んでいた。手を出せば、それが自らの負けを意味することにしずかは気付いた。宮内を掴んでいた手を離すと、しずかはそのまま教室を出ていったのだ。
それでもどこで控えていたのかわからないが、相川は付いてきていた。
畜生っ。
トイレの扉を殴りつけ、ふと顔を上げたところで、窓が開いているのが見えた。
ダンスの練習をしていた梢がふと鞍馬の姿を見つけると、それに気付いた講師が今日の練習を切り上げることを告げた。
「櫂人様。私、授業は出なくてもよろしいのですか？」
梢は開口一番にそう尋ねた。鞍馬は微笑み返した。
「勤勉家だね、我が姫君は」
そういうわけではなかったのだが、一日中ダンスのレッスンというのもなかなか辛く、また梢は他愛もないおしゃべりというものに、飢えていた。そうとは知らずに鞍馬は答える。
「勉強ならば、他の人間が教えよう。今の校舎は危険極まりない」
「どういう意味ですか？」
思ってもみない答えに、梢は聞き返した。
鞍馬は少しおどけたように説明した。
「唯一騎士が立ち入れない場所で、それ以外の誰もが入れる場所、それが教室だ」
梢はそれでも鞍馬をじっと見つめている。
「女性と言うのは集団になると、恐ろしいものに変わってしまうからね。そこにか弱き我が姫が一人いるということは、狼の群れに羊を送りこむようなものだよ」
それは嫉妬以外の何物でもないことに、梢は気付いた。
女生徒たちはみなそうだった。いつかは白馬の王子様が現れないのかと、じっと待つしかないのだ。しかし、やってくるのは王子とは程遠い下級騎士ばかり。それでもいいと、浮かれて誘いに乗っても、長続きせず、また元の生活に戻る。
そこに鞍馬に選ばれた自分が入れば、どうなってしまうのか。
梢は身震いがした。皆、夢見る白馬の王子様には、梢のように鞍馬を想像している生徒達が多数いるのだから。
浮かない顔の梢に、鞍馬は付け加えた。
「どうしてもというなら、それなりの準備をしよう。それまで待ってくれるかな？」
ここは…？
トイレの窓を抜け出して、とりあえず黄仙館から遠いところへ、としずかが歩き始めると、簡単なアパートのような建物があるのに気付いた。何人かの女生徒が、掃除をしていた。女子生徒の寮なのだ。
それは、懐かしい昔の学校風景を見ているようであった。笑いながらも、楽しそうに掃除をしている生徒達。
智広や、ほかの仲間達…。
何人かの生徒は、しずかに気付き、避けるようにして寮に戻っていく。皆、誰かしらと一緒に行動していた。
あいつら、元気かな。
ふと、しずかがそう思った瞬間、唐突に水が浴びせられた。
なん…だ？
振りかえると、しずかの足元にバケツが転がっていた。そこには、仁王立ちしている宮内と、それからいつも教室で宮内を囲んでいる取り巻きがいた。
「何なさってるのかしら？」
しずかは唖然としながらも、自分の肩に乗っかっている布を外す。雑巾だということはすぐにわかった。
「ここはあなたのようなコ・ウ・キな方がいらっしゃる場所じゃございませんことよっ。水仙の姫。まあ姫といっても、今の姿はドブネズミのようですわ」
そして、宮内はフフフと声を立てて笑った。周りの取り巻き達もここぞとばかりに笑い声を上げた。
気がつけば、寮にいる人間が、皆しずかを笑い者にしている。
少なくともしずかはそう感じた。
周りから次々と寄せられる驚愕と中傷と冷たい視線を無視して、目的の扉の前に立つと、ノックもせずにしずかは勢い良く把手を回した。濡れた袖が揺れて、しずかの顔に水飛沫がかかった。
「どっどうしたんですかっ、姫っ」
正面にいた石崎が、驚いて駆け寄ってきた。しずかは無視してどんどん部屋の奥に入っていく。
ようやく気付いたように、日向が書類から顔を上げてこう言った。
「水浴びするのはいいが、制服は脱いだ方が懸命だな」
「馬鹿ヤロウッ、誰のせいでこんな目に遭ったと思ってんだよっ」
しずかはブレザーを脱いで机に投げつけた。またも水飛沫が上がり、それは側に立っていた相川の顔にもまともにかかった。日向は至って冷静な顔をしている。相川が急いでタオルを持ってくるように命じると、石崎が慌ててしずかに聞き返した。
「誰ですかっ？薔薇っ？百合っ？それとも菫っ？」
そんな石崎を、しずかは吹き飛ばす勢いで怒鳴りつけた。
「宮内真理恵だっ。悪いけど、あたしは姫を辞めるっ。ばっかばかしくてやってられるかっ」
「姫っ」
相川がタオルを差し出そうとした手を、思わず引っ込めた。しずかはそんな相川からタオルを無理やりひっぱり取ると、日向に言った。
「宮内を姫にすればいいだろっ。あいつはなりたがってんだからさっ。あたしはまっぴらだから、こんなんっ」
言いたいことだけ言って、出ていこうとしたしずかに、日向は溜息をつきながら聞く。
「俺との約束はどうするつもりだ？女に二言はない、じゃなかったのか？」
「それはっ…」
「遠山雅は？探さなくてもいいのか？」
「…」
しずかが黙ったのを見て、日向は扉の向こうから顔をのぞかせた君江に言った。
「風呂に入れてやれ。風邪をひかないようにな」
しずかの出ていった後で、石崎は溜息をついて相川に強く言った。
「お前の監督不行き届きだぞ、相川」
「申し訳ございませんでした」
深く頭を下げる相川に、日向は何も答えずにただじっと外の泉を見ている。代って石崎が相川を詰問した。
「護衛があって、どうして今回のようなことになるんだ」
「いえ、その…」
口篭もった相川を振り返ることもなく日向は言う。だいたいの予想はついていたことだった。
「言ってみろ」
一呼吸おいて、相川は話し始める。
「はい。…姫は、自分に護衛は必要ないとおっしゃいまして。その…。我々より自分の方が腕が立つから、と」
「それで離れたというのか？」
石崎がまたも口を挟んだ。日向はまだ相川に背中を向けている。
「いえ。しかし、そうは言っても、姫は姫ですから、きちんと付けていました。しかし、その…洗面所に入られまして、中にはもちろん入って行けませんので、
私共は外で出てくるのをお待ちしておりました。しかし、いつまでたっても出てこないので、中に一人いかせましたところ、姫はいませんでした。おそらく、窓から逃げ出したかと」
石崎が大きく溜息をつく。相川は日向の反応を待っていたが、日向はぴくりとも動かない。
怒りのためなのかと、相川は落ち込んでいた。
しかし、日向は心の中で笑っていたのだ。
いかにもしずからしいやり方だ。
そして日向は自分の考えていたことに、ようやく結論を出した。
「宮内真理恵のことは、知っていたのか？」
話の矛先が変わって、相川は慌てて答える。
「いいえ。私共は護衛とは言っても、教室の中まで入れませんから、先ほど姫の口から初めて聞かされました」
「隊長。宮内に厳しく言っておきましょう」
力強く言った石崎だったが、
「いや、いい。そのままにしておけ」
と簡単に日向に返された。
「ならば、君江を」
「それもなしだ。君江はしばらく授業は休んでもらう」
「ですが」
相川が心配そうな顔をする。いくら姫を護衛するとはいえ、規則で教室への立ち入り禁止は決められている。教室で何があっても、相川たちが助けることはできない。
しかし、日向はまだ背中を相川に見せたままで言った。
「あいつはそんないじめに屈するような女じゃない。ただし、今回のように簡単にまかれるようでは困る。それだけ気をつけろ」
雅はどこにいるんだろうか。
窓の外には満月が輝いていた。静まりかえった夜である。
しずかは一人、窓を開け放ち、夜風を受けていた。
「成瀬日向の言葉は、全てが真実になっていきますのよ。例えそれが嘘であってもね。
そのためになら、なんでもする男よ」
華夜乃に言われた一言が、しずかの心にひっかかっていた。
もし、それが本当だとしたら。雅の居場所だって、変えられてしまうかもしれない。
その前に、雅を見つけないと。
思い当たる場所があるわけではなかった。
仮にもし、雅が騎士に連れ去られていたとして、一番可能性が高いのは、薔薇か。
教室の生徒の中でも、薔薇の騎士の誘いを受ける生徒が多いことから、しずかはおそらく薔薇はそういったことが盛んなのだと考えた。
薔薇か。方向的に行っても、ここから近い。
よしっ。
しずかは決意すると、また制服に着替え始めた。