THE FLOWER GARDEN
水仙の章07（菫）
「はぁ」
村松梢は、鏡の前で溜息をつい。そこに映る自分は、自分でいうのもおこがましいが、以前よりは見違えるほどに美しい。
けれど…。
梢は目を閉じて、初めてここ、青菫館（せいどうかん）に連れてこられた時のことを思い出した。
そもそもが、信じられないことだった。
憧れの鞍馬櫂人と言葉を交わしたことから始まり、自分がこうして菫の姫としていること、そして、鏡に映された自分の姿。
これが私？
眼鏡を外し、睫もカールさせ、髪は前髪を上げて額を出し、三つ編みもほどいてまっすぐに伸ばし、唇をほんの少し紅くした。ただそれだけで、なんの魔法もいらなかった。
「綺麗だよ」
不安げな梢を励ますようにして、後ろに立っていた鞍馬がそう言う。それでも、まだ戸惑いを隠せない梢は、振りかえり鞍馬の目をじっと見つめたが、微笑んだ鞍馬を見て、急に恥ずかしくなり顔を伏せてしまった。
そんな梢に、鞍馬はもう一度繰り返す。
「本当に綺麗だ。自分でも驚いてるみたいだね」
梢は俯いたまま、目だけ上げると頷いて、また視線を落とした。
「でも…私無理です。そんな…。妃候補だなんて」
「無理じゃないさ。僕が陛下であったなら、誰よりも君を選ぶよ」
弾かれたように梢は顔を上げる。鞍馬は梢の肩に手を置いて、ぎゅっと力づけるように握ると、鏡越しに微笑みかけた。
「本当に。君を選ぶ」
それでも、梢は自信がなかった。
でも、このまま妃候補でいられるのなら、鞍馬様とずっと一緒にいられる。
「僕と一緒に頑張ってくれるね？」
梢の心を見透かしてか、鞍馬が言う。顔を上げて鏡を見れば、鞍馬の訴えるような瞳にぶつかった。
「…はい」
小さく梢は答えた。鞍馬はその笑顔のままに答えた。
「ありがとう」
支度の済んだ梢を、次に鞍馬は下のロビーに連れて行かせた。そこには菫の騎士団が集まっていた。皆の視線を一斉に受け、梢は顔を俯かせる。
「顔を上げてごらん。皆が君を見つめているよ」
鞍馬が耳元でそう言った。梢はゆっくりと顔を上げる。そこには、驚きの顔が大勢あった。しかしどの顔も、落胆、といった顔ではない。
「我が菫組の姫君、村松梢嬢だ」
鞍馬がそう紹介し、どこからともなく拍手が始まった。鞍馬はその中を自慢げに歩き、梢を3階の部屋に連れていった。そこが梢の部屋だった。そしてそこには、一人の男が控えていた。
「彼が副隊長の但野（ただの）だ。君の護衛を任せることになっている」
おとなしそうなその男が梢に深深と頭を下げた。梢は但野の顔をちらっと見てから、不安そうに鞍馬を見上げる。
「あの、鞍馬様は…？」
鞍馬は艶やかな笑みを向けた。
「僕もできれば、君の側で四六時中君を守っていたい。でも、僕には隊長としての役目があるんだ。君は妃候補として、時に他の騎士団から狙われることもあるかもしれない。そういった時には僕が命をかけて守る。僕がいない時には彼が。彼なら安心できる。いいね」
「はい」
素直に梢は返事をした。そして鞍馬は失礼するよ、という言葉を残して部屋を出ていく。残された梢はそんな鞍馬の後姿をじっと見ていた。その目の前で、但野はもう一度頭を下げた。
「よろしくお願いします、姫」
但野の存在を思い出した梢も、同じように頭を下げる。
「よろしく、お願いします」
顔を上げた時、但野がじっと自分の顔を見ていることに気付く。
「あの、何か」
すると但野は嬉しそうに笑っていった。
「僕のこと、覚えていませんか？前に一度、この菫の草原でお会いしてるんです。確か、姫は菫を取りに来たと話してました」
梢は心の中で、菫と呟く。そして、あっと小さな声をあげた。
「ああ、あの時の。すみませんでした」
鞍馬を近くで見たいあまりに、菫の草原にやってきて、騎士に見つかり、思わずそう説明したことを思い出した。実際にそうする行為は、組に対する侮辱に値するというのに、思わず口がそう説明してしまったのだ。けれど、騎士は責める風もなく、そっと一輪の菫を梢に渡した。それが、但野だったというのだ。
「いえ、いいんです。それよりも嬉しいんです」
「嬉しい？」
「ええ。ようやく決まった姫が、あなたで。我々菫の姫となれれるからには、下につく我々騎士たちからも慕えるような姫でないといけませんから」
「ようやく、決まった…って？」
但野の顔が強張った。
「話してください。お願いします」
但野はしばらく俯いて悩んでいたが、ふいに顔を上げて説明した。
「妃候補の話が出たときに、隊長は白鳥華夜乃を選ぼうとしたんです。でも、白鳥には薔薇からも、百合からも申し出があって。結局白鳥は薔薇を選んだんです。だからって、別に姫が劣ってるとかそういうわけじゃないんです。ただ、僕は姫のほうが…」
但野はしばらく何かを言っていたが、梢にはもう聞こえていなかった。
それが、一昨日だった。
以来、梢は部屋を一歩も出ていない。食欲もなくなっていた。
「はぁ」
鞍馬は忙しいのか、なかなか梢の部屋にやってこなかった。
白鳥華夜乃の美貌は、梢も知っている。もともと、妃でないのがおかしいほどの人間なのだ。そして、その華夜乃を、鞍馬は欲していた。
駄目。私には、無理。
鏡の前で臥せっていると、突然やわらかな声が響いた。
「食事、とってないんだって？」
慌てて顔を上げると、そこには鞍馬が立っていた。にっこりと微笑んでいるが、鞍馬は上がっている息を、なんとか落ち着けようと必死になっていた。
それは、薔薇に極秘に視察に行き、帰ってきたほんの30分前に遡る。
出迎えに来ない梢が気にかかり、但野に尋ねたところ、その返答を聞いて、まず鞍馬は手を振り上げて怒鳴りつけた。
「白鳥華夜乃の話をしただって？ふざけるなっ」
バシッと鋭い音がして、頬を殴られた但野は、床に倒れこんだ。そして、そのまま床に手をついて頭を下げる。
「申し訳ございませんでしたっ」
そんな但野の後ろでは、同じ菫の騎士たちが、辛そうな顔をして二人を見つめている。
用事を一つ済ませてきたと思った途端に、この失態だ。
いったいここの連中は何を考えているんだ。
せっかく自信を持たせたというのに、俺の努力が台無しじゃないか。
それでも但野を叩いたことでいくらか落ち着いた鞍馬は、椅子に座りなおすと、押し殺した声で言った。
「それで彼女は」
「部屋にこもりきりで、食事もとろうとしてません」
口を切った但野に代って、別の騎士が答える。鞍馬はすくっと立ちあがって、まだ床に伏せているろくでなしの副隊長に言った。
「お前はしばらく謹慎していろ、いいな」
但野は顔も上げずに、はいと答えた。
鞍馬はすぐに梢の部屋に向かった。
あの大変身には、実際鞍馬も驚いていた。あの時の興奮を、今でも鞍馬は覚えている。
はにかむ梢を見て、鞍馬は感じ取ったのだ。
これなら、いける。俺が一番になれる。
俺の手で、最高の王妃を作り上げることができるのだ。
かよわく、清純で、控えめ。でも芯はある。
そんな理想の王妃を、俺ならば作り上げる。
その初めは、過剰過ぎない自信。
「綺麗だよ」
あの時の梢の、恥じらいながらも少し自信のついた微笑を見て、鞍馬は更に確信したはずだったのだ。
それなのに、その自信をへし折るような話をするとは。
いや、まだ終わったわけじゃない。
これから始まるのだ。
そう。俺にはできる。
そうして、鞍馬は梢の部屋の扉をそっと開けた。
「食事、取ってないんだって？」
そう言って鏡に映る鞍馬の顔は梢を心配する気持ちで溢れていた。それでもにっこりと笑う鞍馬に、梢はぎこちない笑顔で返した。
「食欲が、なくて」
鞍馬は梢の隣にやってきて、腰を下ろし、間近で梢の顔をのぞき込んだ。梢は恥ずかしくなって、また顔を伏せる。
「駄目じゃないか。ちゃんと食べなきゃ」
「あの、私やっぱりできません、駄目です。絶対無理です」
両手を膝の上でぎゅっと握り締め、梢は絞り出すように言った。
白鳥さんには、勝てるわけがないもの。
それに、私は望まれて迎えられたわけでもない。
頑なな梢の手の上に、鞍馬もそっと手を乗せる。驚いて顔を上げた梢に、息がかかるほど顔を近づけて鞍馬は言った。
「駄目じゃない。無理なんかじゃないよ。君は絶対に選ばれる。
僕が君を選んだんだ。
白鳥華夜乃のことは、誤解だよ。確かにうちの組としては彼女に依頼に行ったよ。でもそれは薔薇や百合に先んじられては、というこの組のプライドでしかなかった。何より、僕個人としては彼女を選びたくはなかったんだ。だから断られて、結果としてよかったと思っているよ。でなければ、僕は君に出会えなかったから」
嘘はついていない、と鞍馬は思った。
ただちょっと色をつけただけだ。
梢の目が自分に惹きつけられているのを確認して、鞍馬は更に続ける。
「確かに、彼女は美人だ。でもね、プライドが高すぎる。話をしても、常に高飛車な態度で、僕を困らせていた。
いいかい？王妃というのは、見た目だけでは決められない。陛下は素晴らしい人だ。観察力にも長けている。すぐに彼女の見た目だけの美しさを見抜いて、君の内面から溢れる美しさ、可憐さを選ぶに決まっている。それとも、君は僕の目に狂いがあるとでも思っているのかい？」
鞍馬の行動はすべて正しいのだと、思わず首を横に振った梢だったが、その意味に気付いて慌てて俯いた。鞍馬は息が漏れるような笑顔を見せ、梢の手に重ねていた手を、梢の顎に移して、自分の方に向かせる。
「だろう？君は本当に、かわいらしいよ」
梢の瞳に微かな自信を見つけて、鞍馬は立ちあがっていった。
「食事をしよう。僕も一緒にとる、いいね」
そう、嘘は言っていない。
俺に必要なのは、自分の意のままに動かせる女なのだ。
「あの、但野さんは？」
「彼はちょっと体調を壊してしまって、休養してる。明後日には治るだろう」
本当ならば、退団させようと思っていたが、それは梢の不信感をかうに違いなかった。
「彼のこと、心配したのかい？君は本当に優しい人だ」