THE FLOWER GARDEN
水仙の章06
「どうかしましたか？華夜乃様」
名前を呼ばれて顔を上げると、窓ガラスには自分の護衛役の富樫尚也の顔が映った。
自分の方にやってくる富樫を無視するように、白鳥華夜乃は窓から離れていく。
「何でもないわ」
しかし富樫は、窓の外を眺めた。そこにはグランドを駆けている女生徒が見える。顔を窓の外に向けながら、富樫は冷静に言った。
「西御寺しずか、ですか。気になりますか？水仙の姫が。それとも…」
「馬鹿なこと言わないで。ただ目に付いただけよ。あんな粗野な人、この場にいるだけで目立ってしまっているでしょう」
敢えて、何故あんな子が姫に選ばれたのか、とは華夜乃は言わずにいた。
怒ったように言った華夜乃に、富樫は素直に頭を下げる。
「失礼しました」
富樫に背中を向けていた華夜乃だが、ふと振りかえると、まだ富樫が深深と頭を下げている。華夜乃は近づいていくと、甘い声で囁いた。
「やきもち、焼いてるの？尚也」
その頬に触れると、富樫は顔を上げて少し微笑んで答えた。
「ええ。多少は」
華夜乃は富樫の大きな胸にゆっくりともたれかかると、甘えるように首をかしげた。
「過去のことなんて忘れましょう。今のことだけ考えて。
今の私が愛しているのはあなただけよ、尚也」
そしてゆっくりと顔を上げる富樫の狡猾な視線とぶつかり合って、二人は唇を重ね合わせた。つい先ほどまで、数え切れぬほど口づけを交したはずなのに、気持ちがはやり、華夜乃は夢中で富樫を抱き寄せた。両手を富樫の首に回し、いとおしく髪をなでる。そして、その手をゆっくりと下に下ろして行き、富樫の上着のボタンに手をかけたところで、そっと富樫の唇が離れた。
「隊長がお呼びです」
華夜乃は数センチ先の富樫の瞳を見つめる。その瞳はさっきの視線とは違っていた。富樫から手を離して、華夜乃は再び背を向けると、苛立たしく言う。
「またなの？」
富樫が黙っていると、華夜乃は突然ぱっと笑顔になって、富樫に飛びついた。
「…聞かなかったことにしましょうよ。ここで二人でずっといましょう」
ここは社会科準備室とあって、人は誰もいなく、また訪れる生徒も滅多にいない。窓は一つだけ。唯一の出入口の扉に窓はなく、鍵もかかる。逢引きの場所には丁度よい場所だった。
しかし、富樫はそんな華夜乃をそっと離して、耳元で囁いた。
「これ以上、私が出ていかないと怪しまれます。また夜に」
華夜乃は唇をとがらせると、溜息をついて言った。
「わかったわ」
午後の授業が終わると、また廊下には相川が立っていた。
「おつかれさまです」
しずかはなかば無視するように、相川の脇をすり抜けて歩き出した。もちろん相川はしずかの後を追いかけてくる。
「どうでした？クラスは」
「最低最悪」
クラスもっ、宮内もっ、日向もっ。何もかもだっ。
午前中よりも悪くなっている機嫌を見てか、相川は腕組しながらつぶやいた。
「…では、クラスを変更なさいますか？」
「できるわけ？」
冗談だろうと足を止めると、相川はにこにことまたあの笑顔を向けた。
「はい、隊長が許可なされば」
溜息をついてしずかはまた歩き出す。
これ以上、日向に貸しを作るようなことはしたくない。
「いいよ、このままで」
そう言って階段を降りようとしたしずかは、ふと気付いた。
そういや、レッスンがどうとか言ってたような…。
振りかえると、相川はまだ笑顔だった。しずかは全て投げやりな気持ちになった。
「で、なに？この後って、昨日言ってたレッスンやら何かがあるわけ？」
「いえ」
「あっそ。だったらいいや」
とにかく、こいつをまいて、それから雅を探そう。
しずかが作戦を考えていると、前方が騒がしくなり、廊下の角から一人の女生徒と、3人の男が現われた。男の制服は緋色。女生徒の胸には深紅の薔薇の紋章が輝いていた。
何気なくしずかと視線が合う。女生徒は、その大きな瞳を更に大きく見開くと、じっと憂いを帯びたまましずかをみつめていた。
高くすっとほっそりとした鼻に、透き通るような肌。大きな瞳を縁取る黒々とした睫。しずかは、息を呑むことはなかったが、美人だと素直に思った。何より、自分でそれをわかっていて、
華がある。少々唇が厚いのが、少女でない女というものを感じさせた。その整った顔立ちを見つめていると、女生徒はゆっくりとしずかに向かってきた。
「クラスメートと喧嘩なさったようね」
「誰？」
見覚えのない顔に、しずかは相川に尋ねた。女生徒の顔が少し歪んだ。相川はそっと耳打ちをする。
「薔薇組の姫、白鳥華夜乃様です。後ろの男は薔薇組副隊長の富樫」
紹介された華夜乃は、しずかに向かって刺のある笑顔を向ける。
「よろしく」
軽く首を傾げ、カールされた髪が肩で弾んだ。その少し舌足らずな声に、しずかは気持ちが悪くなりそうだったが、とりあえず答えておいた。
「どーも」
華夜乃の後ろに付いていた富樫が華夜乃に急ぐように耳打ちをしたが、華夜乃は聞かずにしずかに話しかけた。
「あまり派手なことをなさると、ますます水仙の名が落ちますわよ」
昼の鞍馬といい、どうも水仙の地位は低いところにあるようだ。
「望むところだね」
しずかがそう答えると、華夜乃の眉が上がった。しずかは更に忌々しそうに言った。
「日向なんか、落ちるとこまで落ちりゃいいんだ」
その言葉に、華夜乃はいくらか笑顔を見せた。
「ずいぶんと野蛮なことおっしゃるのね」
日向の選んだ姫というから、日向の気持ちがしずかにあるのかと思っていた華夜乃だったが、この様子からして二人はそんな甘い仲ではないようだ。
余裕で微笑む華夜乃に、しずかは顔をしかめていった。
「あんたこそ、そんな言葉使って疲れないわけ？」
華夜乃は、こめかみの辺りをひきつらせると、その質問には答えずにしずかに尋ねた。
「あなた、成瀬日向がお嫌いなの？」
「ああ、大っ嫌いだね」
二人の様子を見ていた生徒たちが驚きの声をあげる。慌てて相川がしずかを宥めるように言った。
「姫っ」
もはや華夜乃の笑顔は勝ち誇ったものとなっていた。
甘い仲どころではない、犬猿の仲なのだ。
そんな華夜乃を見て、富樫がはっきりと耳元で言った。
「行きましょう。こんな奴らを相手にしている時間はありません」
しかし華夜乃は、そう言った富樫の手をそっと振り払うと、しずかに向かって言った。
「あなた、水仙にはもったいないくらいの方ね」
そっぽを向いていたしずかが、華夜乃に視線を戻す。
「一つご忠告さしあげますわ。
成瀬日向の言葉は、全てが真実になっていきますのよ。それが例え嘘であってもね。そのためになら何でもする男よ」
それだけ言うと、華夜乃はさっさと歩いて行った。追いかけた富樫が、華夜乃に言う。
「何であんなこと言ったんです。水仙の問題は、水仙で解決すればいいじゃないですか」
「あんな野蛮な姫ですもの。ちょっとくらいぺナルティー差し上げないと、つまらなくてよ」
華夜乃は笑顔のままだった。
もっと憎しみ合いなさい。
残された形になったしずかに相川が言った。
「姫に対するあてつけですよ」
さらりと言った相川に、しずかは日向はもちろん君江にまでも不信感を募らせていった。華夜乃の残していった強い薔薇の香が妙に鼻についていた。
「ここの領地を詳しく説明してほしいとは？」
自分の部屋に戻ってきたしずかは、まずは相川を呼びつけた。
「ああ、つまりさ。言われたわけよ、日向に。他の領地には踏み込むなって」
「それは私共が姫を危険地帯にはお連れしませんから」
「万が一、もしもあたしが一人で動かなきゃいけないってこと、あるかもしれないだろ？」
白々しい嘘がばれたか、としずかが不安に思う中で、相川が呟いた。
「…そう、ですね」
まず相川は大まかな五角形をかき、上の一部に線を引き、三角形をつくると、残りは綺麗に四分割した。
「上を北としますと、まず上部には陛下がお住まいの紫禁城がございます。別名桜王宮です。
そして、我が水仙の領地は、ここ。南西に位置します。薔薇は北西、百合が北東、菫が南東ですね。そして、校舎がございますのが中心部で、ここはどこの管轄でもない、というのが決まりごとです。各領地には、それぞれの花が咲き誇ってますので、色を目安になさるといいかと思います」
赤は薔薇、白は百合、青は菫。そして水仙は黄色。
なるほどね。
しずかは今日見た、緋色の制服と瑠璃色の制服を思い出した。
「そういや、濃い紫色の制服来てる奴を見たんだけど、あいつらも雑色？」
「いいえ。彼らは近衛の人間です。基本的には桜王宮を守ることを仕事としております。ということで、桜王宮は我ら騎士団の管轄ではありません」
ふむふむ。ちょっとだけ事情がつかめてきたぞ。
「サンキュ、相川」
しずかがそう言ってさっさと相川を追い出そうとしたときに、石崎が顔を出した。
「姫。隊長がお呼びです」
「白鳥華夜乃に会ったそうだな」
部屋には日向一人だけだった。椅子に座って背を向けて、窓ガラスに映るしずかを確認するとまずそう口を開いた。動かないしずかを見て、日向はしずかの隣に映っている石崎に、部屋を出ていくように言った。扉が閉まるのを確認して、日向は再び口を開く。
「感想は？」
「別に。かなり自信家みたいだったけど、そう悪い奴でもないみたいだな」
「ライバルを誉めるとは、余裕だな」
ゆっくりと日向は椅子を回す。そしてしずかと正面から向き合った。
「だが向こうも同じようにこちらのことを思うかはわからない。余計な接触は避けておいた方がいい」
「そんなことより聞きたいことがある」
「何だ」
「雅のことだ」
日向の顔色は変わることなく、艶のある声が響いた。
「その話なら、昼に言っただろう。捜査中だし、まだ拉致されたとも限らないと」
「でもお前はあたしを襲った男を知ってたはずだ。あたしはあの時、お前に男と同じ軍団か、と聞いた。お前は違うが同じような身分だと答えた。それはつまり、あの男もどっかの騎士団にいるってことだろう？あの男はどこの組の人間だ」
しずかは真摯に日向を見据えていた。はぐらかしはできないことを日向は感じ取った。
「剣の捌き方がこなれていたから、こちらの世界の人間だと思って、同じような身分だと答えたんだ。お前自身見ていたからわかるだろうが、相手は黒い色の服を着ていたからどこの組の所属かはわからない。俺にわかるのはそれまでだ」
すんなりと答えられて、しずかは戸惑った。
「…殺されてないと判断できたのは、何故だ」
「殺す必要がないからだ」
「幸せだと言ったのは？」
「女は男の付属品であるほうが幸せだからだ」
そこで、しずかは日向を睨みつけた。何度言われても納得がいかないセリフだ。日向もそんなしずかの視線を真っ向から受け止めて答えた。
「おそらく遠山雅はこちらにいる。だが、騎士に拉致されたのか、雑色に拉致されたのか、もしくは近衛の人間に拉致されたのかまではわからん。それは捜査中だ。ただ、こちらの世界に入っているならば、元の世界に戻れないのだから、そのうち見つかる」
「…元の世界に戻れないって？」
しずかの視線が揺らいだ。
相川に言われたのは、立ち入り禁止になっている、とだけで、戻れないとは言われていない。
「そういう掟になっている」
「…聞いてない」
「そういや言ってなかったかもな」
白々しく言った日向に、とうとうしずかは右手を振り上げた。
「…ざけんなよっ」
だがその右手は、日向によって押さえられる。力の差があることは、昨日知らされていた。だからしずかにできるのは、日向の腕を振り払うことだけだった。
「約束したはずだ。二ヶ月間は俺の管轄下になること。今、ここを出ていけば、お前は二度とこちらに戻れない。となれば、遠山雅とも会えないということだ」
最後まで聞かずにしずかは扉を激しく閉めて、出ていった。すぐに扉がノックされ、相川が顔を出す。
「他の領地に踏み込ませないようにしておけ」
日向はそう言うと、深く溜息をついた。