THE FLOWER GARDEN
水仙の章12
とりあえず、ここはバツ、と。
しずかは、ノートに五角形を書き、線を書き加えると、赤く色づけされたところに大きなバツを記した。
次は、どこにしよっかな。
教室の後ろでは、宮内たちがこそこそ話しをしているのが分かる。
朝、出会い頭にしずかは宮内に向かって、あるプレゼントをした。
手を差し出したしずかに、宮内は下目使いで様子を伺ったが、
「やるよ」
と笑顔で言われて、つい手を広げた途端、そこに青虫が一匹乗せられた。
「キャーッ」
思わず投げ出された青虫をしずかはつかむと、そのまま宮内の机に乗せた。
「かわいがってくれよな」
わなわなと震える宮内を尻目に、しずかは着席した。
あたしがここにいるのは、雅を見つけるためだ。
雅をみつけたら、すぐに出ていくさ。
だからそれまでの辛抱だ。
しずかは昨日、そう心に誓ったのだ。
「あ、ほら。鞍馬様よ」
ふいに窓側の生徒が声をあげた。何人かが窓の方を食い入るように見つめ始めた。
菫の隊長、鞍馬は、日向と並んで女生徒の人気が高い。
といっても、しずかは前に雑色を追い払ったときに、水仙と、自分の悪口を言われていたものだから、興味もなかった。
決めた。今日は菫にしょう。
「思った通りだな」
日向は男が持ってきた話を聞き終わると、そう言って眼下に広がる水仙の泉を見つめた。
「百合以外でその情報を知っているのは？」
「おそらく、菫の鞍馬だけかと思われます」
鞍馬…と日向は心の中で呟く。
「しずかと遠山雅のことは、誰かに気づかれているか？」
「いえ。そこまでは、まだ」
日向は椅子から立ちあがると、男に命令した。
「しずかにはまだ伏せておけ。相川には俺から話す。お前はしずかと鞍馬が近づかぬよう、注意を払え。いいな」
男は深く一礼すると、部屋を出ていった。
思った通りの結果だった。
ことはそのまま、思った通りに進むはずだ。
「しずか。…お前は、孤独に打ち勝ったことはあるか…？」
日向はそう呟いた。
「あれ？こっち…かな」
しずかは歩きながらそう呟いた。自分の感覚では、菫の領地に向かっているはずだったが、目安になる青い花が見えず、しずかを不安にさせる。
昨日は、歩いていくとだんだん薔薇の香が漂ってきて、しかも目の前に塔があり、そこに赤い薔薇の旗が見えたので、それを辿って森を抜ければ良かったのだが、今日は行けども行けども、そういった目印になる塔もなく、また花の香も漂ってこない。
全く、どこにあんだよっ。
そう思った時だった。がさがさと音がして、鋭い声が響いた。
「誰だっ」
声は前方から聞こえてくる。
やべっ。
慌ててしずかは走り出した。森は深く、とにかくしずかは走り続けた。
しばらくして、しずかはついに自分がどこにいるのかわからなくなっていた。空にあるちょっといびつな月は変わらずしずかを照らしている。
なんか目印になるもん、ねぇかなぁ…。
と、しずかが辺りを見まわしたときだった。ゆっくりと吹いてきた風に、覚えのある花の香がのってきた。
この、気高く、濃厚な香…。
それは、雅が襲われた日にも、部屋に漂っていた花の香だった。そして、しずかの目の前には、一際高い白亜の塔があり、その先には、白百合の旗が風に靡いていた。
ここは、百合。そして、おそらく…。雅のいる場所…。
しずかはぐっと自分のしているロケットを握り締めた。そこには、雅の忘れ物のリボンも結びつけてある。
雅…。
木々をすり抜けていきながら、しずかは、雅の笑顔を思い出す。
『あたしが雅のこと、守ったげる』
そう約束したのは、ついこの前のことだった。でも、雅はすぐに姿を消した。
守ってやれなかった。
でも、今。あたしが雅のこと助けにいくからな。
突然、木々が立ち消えたかと思うと、しずかの前に崖が立ちふさがっていた。
百合の丘。
それは、一際高いところにあるのだ。
これを登るしかないのか。
そう決意を固めた時だった。
「誰だっ」
鋭い声が上から下かと思うと、一本の矢がしずかの後ろの樹に刺さる。
「侵入者かっ」
慌ててしずかは、森の中に逃げ込んだ。それでも、矢が何本か飛んできていた。
冗談だろ？
そして、何かが追ってくる音がした。馬の嘶く音がした。しずかは一応木刀を持ってはいた。でも、それで太刀打ちできるわけもない。
「きみっ」
突如、目の前に白いものが現れたと思ったら、それは一頭の馬だった。そこには、暗闇に一際輝く瑠璃色の制服を身にまとった男が乗っていた。
「乗って」
有無を言わせぬ速さで、唖然としているしずかを馬上に引き上げると、男は優しく甘い匂いを漂わせる笑顔を向けた。
「あんた、誰だ」
朽ち葉色のストレートの髪が、風に靡いていた。男は髪より一段明るい瞳を輝かせ、にっこりと微笑む。
「鞍馬櫂人だ。しっかりつかまっていてくれよ」
それだけ言うと、鞍馬は馬の手綱を引き寄せた。騎士たちの喧騒が遠のいていく。
しずかはじっとその、鞍馬の顔を見つめていた。
馬のスピードが落ちて、小さな小屋に入っていく。連れてこられたしずかは、馬から下りると辺りを見回した。
「ここどこ？」
「疾風（はやて）の小屋」
「はやて？」
鞍馬は乗っていた馬の背中を撫でた。
「彼の名前。僕は菫の鞍馬だ。お目にかかるのは初めてだね、水仙の姫。よろしく」
鞍馬は笑顔を浮かべてしずかに手を差し出した。薄暗い小屋に差し込む月明かりの中で、鞍馬は春のような温かい笑顔を浮かべる。少なくとも、そう言われてきたし、実際幾度となく何度この笑顔で女が落ちた。
つられて微笑むか、それとも恥ずかしがって俯くか。
しかし、しずかはそれを無視した。
「初めてじゃない。あたし、あんたの声なら聞いたことあるよ。
雑色に剣を向けて、あたしの悪口を言っていただろ」
一筋縄じゃいかなそうだ。
鞍馬は心の中で舌打ちすると、出した手をポケットに戻した。
「話していたのは君じゃなく、成瀬のことだよ」
さらりとそう言うと、鞍馬は話題を変える。
「…それより、君はなんであんなところにいたんだい？あれはどうみたって、お忍びだったけど。
まさか、百合に恋人がいるだなんてこと、ないよね。水仙の姫に限って」
「友達が捕まってるんだ」
しずかは素直に答えた。友達、と呟くと鞍馬は更に聞いた。
「名前は？」
「遠山雅」
名前を聞いて、鞍馬は表には出さずに驚いた。
姫が知っているということは、成瀬まで知っているということか。
いや、待てよ。
「遠山雅さんか。聞いたことないけどな」
「いや、絶対に雅はあそこにいるんだ。だって、雅を襲った人間の残り香が、百合の花の香だったんだ」
なるほど。自分の勘か。
ということは、遠山雅が今どういう状況にいるかまでは知らないな。
「ところで、成瀬は知っているのかい？君がこんなところにいること」
「知るわけねぇじゃん。あいつが信用できないから、あたしが自分で雅を探してるんだから」
はっきりと言われて、鞍馬は安心した。
なるほどね。隊長と姫の仲が悪いという噂は本当か。となれば、攻め方は一つ。
「それにしても、その恰好で今の百合に入るのは無理だよ。あそこはいつも厳戒体制だからね」
言い終わって、突然鞍馬はしずかの肩を抱いて、壁に押しつけるようにしゃがみこんだ。
「何すんだよっ」
立ちあがろうとしたしずかを、鞍馬は力で押さえつけると小声で言った。
「静かにっ。誰か来るっ」
何人かの足音が通りすぎていく。しずかは緊張で息を呑んだが、その音も遠のいていった。
ホッと安心したとき、別の気配を感じたしずかは、顔を寄せてくる鞍馬に気付いて突き飛ばし、立ちあがった。
「何すんだよっ」
しずかは、よろめきながら立ちあがった鞍馬を睨んだ。鞍馬は髪をかきあげて、しずかをじっと見つめていた。薄茶色の瞳が、鋭く光る。
「…君は妃になるべきじゃないよ」
その眼差しに、しずかは鞍馬の考えを読んだ。
「こっちだって、そんなこと思っちゃないよ。それに、悪いけど、あたしはどっかに脳味噌落してきたここのお嬢さん方とは違うんだっ、こんなことされて、簡単に落ちると思うなよなっ。さいならっ」
去り行くしずかの背中を見つめながら、鞍馬は音に出して舌打ちをした。
失敗したな。でも、次の攻め手は見つかった。
遠山雅だ。