THE FLOWER GARDEN
水仙の章11（薔薇）
「姫」
温室の扉に手をかけようとしたところで、華夜乃は声をかけられた。
扉のガラスに映し出されているのは夏目だ。そして、その手にはワインボトルとグラスが一つある。
「ごめんなさい、夏目さん。私、今夜も気分が優れませんのよ」
慌てて振りかえって華夜乃はそう答えた。
富樫との約束の時間はもうすぐで、だからこそこの温室に来たのだ。到底夏目とワインを飲む時間などない。
中に富樫かいるかもしれないからと、華夜乃は扉の前に立ちふさがった。そこで夏目と視線が合う。まっすぐな視線に耐えきれず、華夜乃は顔をそらした。そのまま顔をあげずにいると、夏目の呟くような声が聞こえた。
「…あなたが私を蔑んでいるのは知っています。
確かに歴代の薔薇の隊長に比べ、私は劣っているかもしれません。
部下が優秀だからこそ、規律を守っていられるのでしょう。しかし、私はそんな優秀な部下の者から選ばれたという誇りがあります」
他の3人の隊長に比べ、夏目の評価は一段低かった。そんな夏目を支えているといわれているのが、富樫や戸田も含めた幹部たちだったのである。
しかし、華夜乃には興味のないことだ。話を聞くのが面倒になった華夜乃は、夏目を無理やり遮っていった。
「私、ワインが駄目なのよ、ご存知なかったかしら？」
視界の端に映る夏目は俯いている。
これでもう話は終わると華夜乃は思った。それでは、と扉を開けようとした時、夏目の強張った声がした。
「甘いカクテルはお好きでも、ですか」
華夜乃はさっと顔を上げてしまった。夏目の瞳は、しっかりと自分に向けられている。
そういえば、昨日何か忘れてしまったのは、グラスではなかっただろうか。
そう、今夏目が手にしているような…。
それでも華夜乃は冷静に言った。
「…初めに言っておいたはずよ。私が薔薇の姫となる代りに、私の自由を保証していただくことを。プライベートなことに口を挟まないで頂戴」
「妃候補のあなたにプライベートなどありません」
すぐさま夏目に言い返されて、華夜乃は驚きながらも夏目を睨んだ。
その視線に負けたように、夏目は大きく深呼吸をして、声を落ち着かせた。
「…鞍馬が何やら動いているようです。ご注意ください」
そして、そのまま華夜乃の前から姿を消した。ワインも、グラスも、その場に残したままだった。
華夜乃が慌てて温室に入りこむと、薔薇の中に佇む富樫が見えた。華夜乃はほっとしてかけより、抱きついた。しかし、富樫の声に甘いささやきなどなかった。
「隊長と何のお話しを？」
その様子に、初め華夜乃は驚いた。すでに夏目が富樫に詰問をしたと思っていたのだ。そして、最悪の場合は騎士を辞めさせられたことも。しかし、富樫は何も知らずに華夜乃の前にいる。
その理由を華夜乃はこう思った。
グラスは一つしか置かれてなかった。つまり夏目は私が一人で飲んだと思っていたのね。
やっぱりお馬鹿な隊長さんだこと。
「華夜乃様？」
一人微笑む華夜乃に、富樫は首をかしげる。華夜乃は笑顔でワインとグラスを差し出した。
「飲みましょう」
富樫は、そのグラスが忘れたグラスで、華夜乃が持ちかえったと思ったようだった。安心している富樫を見て、華夜乃は微笑んだ。
「我侭お嬢様のいいなりか。あんた、将来嫁さんの尻に敷かれるタイプだな」
華夜乃と分かれ、緋薔館に戻ろうとした夏目に、空から女の声が降ってきた。見上げると樹の上に座っているしずかが見える。
「君は、水仙の」
夏目の次の言葉を聞く前に、しずかは樹から飛び降りた。慌てて夏目が助けようと差し出した手も必要ないほどに、しずかは鮮やかに着地した。それから軽くスカートを直して、しずかは自己紹介した。月夜に輝く凛々しい瞳が印象的だった。
「西御寺しずか。あんた、薔薇の隊長の夏目だろ？聞きたいことがある」
「何だ？」
「あんたのところに遠山雅って女の子、迷い込んでないか？」
「さあ。私の知っているところではいないと思うが」
「そっか。わかった。
それよりさ。いくらあんたんとこの姫だからって、あんな風に言われて腹立たないわけ？」
しずかの歯に衣着せない言い方に、夏目は苦笑した。
「姫の行動には一切口出ししないのが条件で、うちにきてもらった。仕方ない。
それより、成瀬こそ、君がここにこうして居ることに、何も言わないのかい？」
「さぁ。勝手に抜け出してきたからな。ま。ばれても大して怒らねぇんじゃないかな。あいつのことだから」
しずかは少しばかり日向のことを思い出して、こうして勝手に薔薇の隊長と出会ったことに怒る日向を想像し、このことも秘密にしようと考えた。
一方で、夏目はこの粗野な姫に意外にも親近感のようなものを覚えていた。
そういえば、敬語や命令口調にならないで話せたのは、日向しかいなかったことを思い出し、夏目はくすりと笑った。
「相変わらずのようだな。日向も」
成瀬から日向と呼び方を変えたのに、しずかは気付いた。
「あんた、日向の友達？」
その質問に、夏目はすぐには答えられなかった。
「仲間だった。日向が薔薇にいたころの」
「あいつが薔薇に？」
しずかは驚いて夏目の顔をまじまじと見つめた。驚いたのは、夏目も同じだったようだ。
「聞いてないのか。そうだな、あいつが自分から話すようなことはしないか」
「まじで？」
「ああ。次期隊長の名も高かった」
「けど、それじゃなんで水仙に」
しずかも、数日間この世界にいて、組にはそれなりのランクがあることに気付き始めていた。伝統ある薔薇に対して、水仙は万年最下位のようなものだ。
「ある事件があって、日向は自ら薔薇を辞めた。薔薇だけじゃない。騎士としての地位もだ」
騎士以外の人間は、虫けら同然だと言っていた宮内の言葉が、いやにしずかに響いた。
つまりは雑色として、過ごした時期もあるということ。
次期隊長とまで言われてた男が。何で。
「そのある事件って？」
「それは本人から聞いてくれ。早く戻った方がいい。そろそろうちの騎士達の見まわりの時間だ」
夏目は緋薔館に戻ることにしたらしい。しずかにそういうと、歩き出してしまった。
しずかは夏目から、もっと聞き出したいと思った。
「騎士を辞めたんなら、どうして水仙の隊長になれたんだ？」
歩き出していた夏目の足が止まる。
ゆるやかな風が吹いて、しずかの鼻を薔薇の香がくすぐった。
「それは私も知らないことだ」
夏目はそれだけ言うと、さっさと薔薇の中に消えていった。
「何か半端な感じで気分わりぃ」
しずかは声に出して呟いたが、不思議と夏目の印象は悪くなかった。
丸くころんとした瞳に、嘘はないのを分かっていたからかもしれない。
あまり背は高くなく、それが柔らかな声と重なって、高圧的に見えなかったせいもある。そしてその軽いくせのある、目と同じ錆色の髪が完全に消えた途端に、わさわさと人の気配がした。
夏目の言っていたように、見まわりの時間のようだ。
雅はここにいない。
しずかはそう感じていた。夏目の対応からもそれは伺えたし、この薔薇の香をかいで思い出したのだ。
あの時の花の香とは違っている。
となれば、ここに用はなかった。