THE FLOWER GARDEN
桜の章04
日向に言われた場所に辿りついたしずかたちは、その蔦の蔓延った建物を前にして、たちすくんでいた。日向は別邸と言ってはいたが、そんなにいいものでないことは、しずかにもわかった。さしずめ桜稜殿の召使のかつての宿舎であろう。
石崎がまた騒ぎ出す前に、一行に追いついた日向が先頭にやってきて言った。
「まぁ、貴丹舎よりましだろう」
どことなく日向の声が先ほどよりも更に低いのがしずかは気になったが、日向の方は無言のまま、率先して扉を開けようとしたところで、控えめだがよく響く声が背後から聞こえてきた。
「失礼致します」
振り返ると、そこには一見地味な、だが品質の高いことの伺える深い緑の和服の女性が立っていた。
「私、椿の宮様にお仕えしております、竜胆（りんどう）と申します。椿の宮様からのお言伝を賜りまして、参上いたしました」
初めて聞く椿の宮という名前に、しずかだけが首を傾げている。鎮まり返った一行に、竜胆という女性は淡々と語った。
「見たところ、このような雨の夜に雨宿りする場所を探しているようにお見請け致しまして、よろしければ、我が椿の宮様の離れにどうぞと、椿の宮様が申しております」
道に迷ったことにしずかが気づいた時には、後にも先にも誰一人いなかった。
「あれ？日向？相川？」
一同は、そのまま竜胆という侍女の後をついて、緑の茂る平屋に入ったのだが、そこには長い回廊が広がっていた。しずかは最後尾で、先を歩いていた相川の後をついてきたつもりが、その迷路のような回廊にどうやら自分は取り残されてしまったらしい。
参ったな…。
もともと、しずか自身方向にどうやら疎い。更に、後ろが気になっていたことが、こういうことになってしまったのだ。
畜生。
しずかはぐるりと辺りを見回した。前後にあるのは、細い曲がりくねった廊下であり、右には壁が、左にはどうやら中庭のような茂みがある。中庭のような、と言ったのは、あまりに茂みが深いせいだ。その先にあるのは、建物の壁である。その壁には、窓ひとつなく、ただの塀のようにも思えた。
だけど、塀にしては、妙に奥行きがあるように思える。
しずかがそう思った時、すぐにガサガサとその茂みが音を立てた。咄嗟にしずかは、身を忍ばせる。それでも顔だけなんとか出すと、茂みの先には、人の気配があった。それから、数度コンコンという音がして、キィという何かが軋む音が聞こえた。
ぼそぼそと女の声が聞こえる。更に乗り出して見ると、そこにあったはずの壁には、小さな潜り戸が開いており、その奥から顔を覗かせた女と、こちらに背を向けるようにして立っている、大きく黒いマントのようなものを頭から羽織った人間がいた。身なりからすれば、華奢な感じのする男のようだ。
怪しいヤツ。
しずかがそう思って、その人間を凝視したが、その男はしずかの方を振り向くことはなく、知っている者かどうかすら、しずかにはわからなかった。
「ではお入りくださいませ。楓子（ふうし）様」
フウシ、という音が聞こえたが、それが誰なのかしずかにはわからなかった。
男が潜り戸を通りぬけるその瞬間、頭の布は下ろされたが、しずかの目に映った男の横顔には、何やら面のようなものが覆い被されて、ますます誰かわかることはなかった。そして、しずかの目の前で、再びキィという音がして、潜り戸は閉められた。
探しに来た相川に連れられて、ようやく日向たちと同じ応接間に通されたしずかは、安堵の溜息をつく前に、石崎に睨まれてしまった。
「まったく、どこにいらしてたんですか、姫は」
「悪ぃ悪ぃ」
はははと笑ってはみたものの、石崎の視線が和らぐことはなかった。実際、相川が来なければ、あの潜り戸を無理やりにでもしずかは開けていたかもしれなかった。
椅子に座っていた日向が、腕組をしながら鋭く言い放つ。
「振り返ってばかりいるから、迷うんだ」
「うっせーな、日向」
言い当てられたしずかは、思わず顔を赤くして怒鳴った。
「まあまあ姫、落ちついてください。今は深夜、ここは椿の宮の寝殿です」
相川にそう宥められ、しずかが黙り込んだところで、日向がまたも口を挟む。
「だいたいお前、自分が方向感覚に疎いことに気づいてないだろう」
「んだと？！」
思わずしずかが日向に掴みかかろうとして、その間に慌てて相川が立ち塞がったところで、応接間の扉が開いた。一瞬きょとんとしていた竜胆は、しずかたちの視線を一身に浴びたところで、気づいたように言った。
「どうぞこちらへ。椿の宮様がお待ちです」
「お待ちだってわりには、いねぇじゃんかよ」
そう言ったしずかは、足もとの床を蹴り上げた。確かに、そこに主の椅子とわかる立派な椅子はあるものの、肝心の主がいない。先ほどの部屋と趣の違う部屋に通されたしずかたちだが、少々お待ち下さいという言葉を残し、竜胆は再び姿を消してしまった。
思わず立ちあがったしずかに、石崎がぴしゃりと言う。
「言葉を慎んでください、姫。椿の宮様は、前々妃とも言えるお方ですよ」
前々妃？といったしずかに、相川が説明をする。
「桃の宮様であった佳乃様より以前に、この桜王宮で陛下のお側に仕えていた方です。今いらっしゃる姫宮さまの中でも、一番お仕えしている期間が長いのです」
陛下、と聞いてしずかは有世の姿をすぐに脳裏に思い描く。
そして、これから対面するであろう椿の宮が、自分よりずっと昔から有世の側にいたことを初めて知ったのだった。
「…そ、っか」
項垂れたしずかを見ていた日向の耳元で、相川が囁いた。
「どうかしましたか？隊長」
「何が？」
忌々しそうに答えた日向に、相川は微かに笑顔を見せる。
「いつもの隊長らしくありません。いくら、桜稜殿に入れなかったとはいえ、椿の宮の寝殿で、姫と掴み合いなどなされては−」
「らしくないのは、俺じゃないだろう」
小さくであったが、相川の声を遮って、日向はそう激しく答えた。
らしくないのは、しずかだ。
後ろなど、振り向きもしなかったしずか。ただひたすら、ひたむきに前を向き、進んでいたしずか。
それが今は、振り返り、立ち止まっている。
そこに探しているのが誰なのか、日向にはわかっていた。
らしくないのは、俺じゃない。
自分でも気づかぬうちに、変わり始めているのは俺じゃない。
そのとき、カタンと小さな音がして、奥の扉が開き、ようやく竜胆が現れた。続いてもう一人、侍女が現れ、そして、二人は深く頭を下げる。同じように、日向たちも立ちあがり、深く叩頭した。ただ一人、しずかを除いては。
そして竜胆たちの間から現れた女性に、しずかは圧倒された。その美貌、雰囲気、立ち振る舞い、その全てに。
漆黒の髪は、真っ直ぐに腰にまで届いており、夜の僅かな光の中でも艶めいているのがわかった。そして、その髪と同じく、闇よりも深い漆黒の着物の所々に浮かぶ紅い花は、その紅い唇と同じくらい強烈な印象を与えた。そして、切れ長の瞳が、重たそうなまぶたの奥からしずかを見据えていた。
「はじめまして、水仙の姫」
その声の深さに、しずかは戸惑う。
「ども。えっと、椿の…」
椿の宮、そう呼びかけてしずかは慌てて言葉を止めた。この世界に入って、一度もしずかはここでの称号で相手を呼んだことなどなかったのだ。そう呼んでしまうことは、しずかがこの世界を受け入れたように思えて、だからしずかは思わず口を閉ざした。
戸惑うしずかとは対照的に、椿の宮である東堂朱鷺子（ときこ）は余裕の笑みを浮かべて口を開く。
「呼びづらいのでしたら、朱鷺子で構いませんよ。あなたは？」
「西御寺しずか。あ、あたしもしずかでいいよ」
「わかりましたわ、しずかさんね。
皆、顔をお上げなさい」
椿の宮にそう言われ、日向をはじめ、皆が一斉に顔を上げた。椿の宮は、それぞれの表情を汲み取ってからゆっくりと口を開いた。
「お待たせしてすみませんでした。急用が入ってしまったもので。
貴丹舎の状況は、竜胆より聞いております。せめて屋根が直るまでは、こちらでゆっくりとなさって構いません。あなた方の寝室は、すでに用意してあります。今夜はもう遅いですし、どうぞお休みになって。
竜胆、ご案内さしあげなさい」
「はい」
すっと竜胆が立ちあがり、先ほどしずかたちが入ってきた入り口から出ていこうとした。そのあとに日向が椿の宮に、再度叩頭して続く。最後に残されたのはしずかだった。しずかに背を向け、再び奥へと戻ろうとした椿の宮に、しずかは思わず声をかけた。
「あ、朱鷺子…サマ」
椿の宮はゆっくりと振り返る。
「さっき、変な野郎がうろついてたぜ。仮面をかぶった男」
一瞬だけ、しずかにはその表情が強張った気がした。だが、椿の宮は、そのまま何事もなかったかのように答えた。
「ええ。私の客人ですから」
離れの部屋に通されて、竜胆が姿を消した途端、日向が口を開いた。
「急な来客は楓子爵か」
「楓子爵？」
「花族の一人だ。楓子とも呼ばれている。もっとも、表舞台には中々顔を出さないために、あまり花族としての存在感はない。
椿の宮の急用というのは、突然楓子が来たからそっちを優先したってことだな」
だからこんなにも椿の宮との対面が遅れたのだと日向は思う一方で、しずかは例の男がマントをかぶった上で、仮面をつけていたことを思い出した。
「どうして、そのフウシってのは顔を出さないんだ？」
石崎が自慢げに答える。
「楓子爵は、噂によれば顔に大きな傷跡があるとか。また喉も壊されていて、お声が出ないそうなのです。だから、表舞台にはほとんど顔を出すこともなく、また仮面をいつでもかぶっていらっしゃるのです」
「ふーん、なるほどね。でも、どうして、ここに？」
しかも夜更けに。
それは石崎も知らなかったようで、閉口したところで、日向が答えた。
「椿の宮と楓子爵は恋仲だという話がある。単なる噂だと思ってたんだが意外と真実なのかもな」
へ？と大口をあけてしずかは聞き返す。
「けど、朱鷺子サマって…、…桜小路の…」
その先をはっきりと言えないしずかに、日向はきっぱりと言った。
「人と人との関係は、簡単なものじゃない。特にこの桜王宮においては」
それはつまり、桜小路とも関係があって、でもその楓子爵とも関係があって、それは公認だってことなのか？
しずかの疑問に答えるように、日向が言った。
「とにかくここにいる限り、楓子爵とはあまり顔をあわさないことだ。向こうもあくまでもお忍びで来ているはずだからな」
「お忍び？」
言われてしずかは、中庭の隠し扉のような潜り戸からひっそりと中に入って行った楓子爵の姿を思い出した。
「いくら今は男女の関係にないとはいえ、陛下の前々妃と、花族の一人ができているなんてこと、公になってもいいはずないからな」
日向はそう言って、しずかを見た。その肩がほっと撫で下ろされたことに、日向は戸惑っていた。
実際、椿の宮が用意したのは、確かに離れの一棟だったようだ。割り当てられた部屋で、ひとりしずかは窓辺から、月を見上げていた。どうやら、雨は止んだようだ。
「待っているのか？」
ふいに渇いた声が響いて、しずかは俯いて答える。
「待ってる？何を？…ただ、眠れないだけだ」
そう答えてはみたものの、眠れない理由は、待っている人にあることを、しずかはまだ気づいていなかった。本人が気づかぬことが、いいことなのかどうなのか、まだ日向にはわからなかった。だが、待ち続けるしずかの姿を、どうしてか日向は見たくないと思った。
日向は自分に背を向けたままのしずかに低い声で話しかける。
「陛下は貴緒が体調を崩したとかで、今日は桜稜殿で夜を明かす。ここには来ない」
はっきりと言われたしずかは、思わず振り返って怒鳴った。
「別にっ、あたしは桜小路を待ってるわけじゃ−」
だが、そのときの日向の顔が、あまりに強張っていて、驚いたためにしずかはそこで言葉を止める。
何か、あったってのか？
だがその問いは言葉になることもなく、また日向が答えるはずもなく、再び静寂の中で、低く掠れた声が響いた。
「明日にもここは出る。今日はさっさと寝ろ」
「うっせー」
しずかはそう怒鳴り、手元にあったまくらを投げつけてみたが、それは日向の立っていたはずのところに虚しく当たるだけだった。部屋には扉が閉まる音が微かに残り、しずかの気持ちを宥めてもくれなかった。