THE FLOWER GARDEN
桜の章03
「隊長」
呼びかけられた夏目は、驚いて振り向いた。木陰に隠れるようにして自分の後ろに立っていたのが、自分の部下であったことに、夏目はいくらか落胆と、安堵の表情を見せる。
「…戸田か」
目の前には、貴丹舎。
桜王宮に、それぞれの組の領地などない。すべてが、皇帝陛下・有世の領地だ。
だが、敵対する組の姫にあてがわれた建物を目の前にして、水仙の騎士に追われても夏目にはそれを批難することはできない。しかし見つけたのが、同じ薔薇組副隊長である戸田という安堵。
だがもし、見つけられたのが水仙の騎士だった場合に、しずかの何らかの情報を得られたかもしれないという期待が、戸田によって打ち砕かれた。それが、落胆。
戸田は、雨に濡れていた夏目に、そっと自分の傘を差し出した。
「陛下はもうすでに桜稜殿に戻られております。それから、水仙も、ここを出払っております」
「出払った？ではどこに？」
有世が水仙の姫を訪ねたという話は、すでにどの騎士団でも噂になっていた。
戸田は自分がそれを報告した時の夏目の動揺を覚えていた。気になっていたところで、ふと見れば夏目は姿を消していた。不安になった戸田が、こうして貴丹舎にやってきてみると、案の定夏目が少し離れた場所から、灯りの消えた貴丹舎をそっとみつめていたのだ。
出払った？ではどこに？
陛下の行方ではなく、水仙の行方を気にかけることに、戸田は言い知れない不安を覚え始めていた。
「わかりません。当初の予定では、桜稜殿へ向かったとのことですが、門前払いをくらったとかで、桜稜殿には入れずに、どこかへと向かった模様です。が、その足取りはつかめておりません」
そうか、と夏目は小さく呟く。落胆とも、安堵ともとれる表情だ。
戸田は、邪念をふりはらって、夏目を追いかけてまで言いたかったことを口にした。
「そんなことよりも、隊長。姫までも姿を消しております」
「姫が？…もしや−」
「夜着を脱ぎ捨てて、平服に着替えたようです。誘拐などではありません。ここは桜王宮。野蛮な人間はおりません」
自分の中の疑惑を否定されて、夏目は安堵する。と同時に、それが姫の意思の上での脱走であることに気づく。
つまりは、逢引き？
「ここは桜王宮です。薔薇の園のようにはいかない。そのことを、姫にもわかっていただかないと、隊長」
「わかった」
戸田が何を言いたいのかはよくわかっていた。だが今の夏目には、それを受けとめる余裕がなかった。
…いったい。いったいどこへ行ったんだ？
しずか。
雨が静かに降り続いていた。
人払いをした部屋には、今は雅ひとりしかいない。
「陛下がいらしたら、お相手をするんだ。いいな」
去り際に、速水がそう言っていた意味を、雅は何となく理解はしていたが、はっきりわかったのは、菖蒲のこの言葉である。
「今夜は必ず、陛下は姫のところへいらっしゃいますわ。だって、こんなにも佳乃様に瓜二つなんですもの」
その言葉が、どれだけ雅の心に深い溝を作っているのか、菖蒲は知る由もない。むしろ雅は傷ついてなどいないように、明るく聞き返した。
「今夜？」
「ええ。だって、今夜は姫様方が入宮されて、初めて迎える夜ですもの。陛下もきっと一番ご寵愛されている姫様のところにいらっしゃいますわ」
その言葉に、思わず雅は息を止めた。
一番ご寵愛されている姫。
桜稜殿に一番近いと言われる花琳舎を割り当てられたのは薔薇の姫であった。
だが、宿舎の場所は、実際有世だけが決めるものでもない。
事実、前妃の佳乃も、二番目に近いこの荷葉舎だったというくらいである。
今夜有世が自分の前に現われたら。
誰もいない部屋で、雅は窓辺に佇んで雨に濡れた空を見上げる。月は見えるはずもない。だが、雅は願わずにはいられなかった。
どうか。
今夜陛下にお会いできますように。
どうか、どうか。
そのとき、カタンと物音がした。ふいに窓ガラスには、扉を開けた人間の持つ灯りがぼんやりと映し出された。
…陛下？
衣擦れの音と、自分に向かう足音がする中で、雅は体全身を緊張させていた。
ノックをしたところ、少し間があってから、誰？という声がした。
「貴緒？」
有世がそう言って扉を開けると、ベッドから上半身を起こした貴緒が有世を見つけて首を傾げる。
「どうかされまして？お兄様」
慌てて隠したシーツの隙間の鎖骨のあたりに見える痣に気づかないフリをしながら、有世は入り口に立ったままで妹に話しかける。
「申し訳ないんだが、お前が荷物をおいてある部屋をひとつ借りたい」
そもそも、桜稜殿には貴緒の部屋は用意されていない。そのために貴緒は有世の客室を、あるだけ全て占領していた。
「どうしてかしら？」
「貴丹舎は改装中だ。だから、改装が終わるまでの間、その部屋のひとつを水仙の姫に貸したい」
途端に表情が強張り、ツンと横を向くと、貴緒ははっきりと言った。
「…嫌よ」
「貴緒」
「お兄様は、そうやって私を追い出そうとしているのね。またこの前のように」
言葉につまりながらも、有世は否定をする。
「それは違う、貴緒」
だが、貴緒はそんな有世の言葉を聞くこともなく、ベッドに突っ伏して泣き始めた。
「ひどいわ、お兄様」
それが嘘泣きであることくらい、有世にもわかっていた。
だが、自分が貴緒を突っぱねられないことも、有世にはわかっていた。
いつだって貴緒は、有世の側にいたがった。他に何人もの付き人がいようとも、有世を側においておかないと、気が済まなかった。そして、有世も、今までずっとそんな貴緒を受け入れていたのだった。ただ、一度を除いて。
「…すまなかった」
小さくそう言うと、そのまま踵を返して部屋を出ていこうとした有世に気づき、貴緒は慌てて顔をあげる。
「どこに行くの？」
「断らねばならないからね、水仙の姫に」
自分に背を向けた有世に、貴緒は慌てて答えた。
「だったら、貸してもいいわ。だからお兄様、今日は貴緒のところにいて」
思わず有世は足を止める。貴緒の不安そうな声が、有世に向けられる。
「怖い夢を見たの。今夜は、独りじゃ眠れないわ」
もともと、周りの人間の注目を浴びていないと癇癪を起こす性格なのはわかっていた。中でも、有世が他の人間に対して興味を持っていると、貴緒は何とかして有世の目を自分に向けようとした。時に、やりすぎるほどに。
だからこそ、有世は決意したのだ。
もう誰も、傷つけてはいけない。
「…わかった」
違う。
そう雅が気づいたのは、相手の匂いであった。
雨の夜、いつもより匂いが立ち込めているが、その香は、有世の香でも、ましてや百合や他の組の香でもなかった。
「…誰？」
そう呟いて振返った途端、灯りを顔の正面に当てられ、その眩しさに悲鳴を上げそうになったが、その前に相手が雅の口を押さえていた。後ずさりをして逃げ出そうにも、雅の背中には窓があり、最早逃げ出す余裕もなくなっていた。
その手からも、相手が男であることは雅にもわかっていたが、灯りに照らし出されたその驚きの表情にも、まったく見覚えのない顔だった。
「これは…」
神経質そうな細面には、驚愕の表情が初め浮かんでいた。
「噂には聞いていたが、これほどまでとは。
まるで、生き写しではないか…」
恐怖に慄き硬直している雅の頬を、その男は雅の口を抑えつけていた手を離して、そっと触れた。その手の冷たさに、雅が冷静さを取り戻した時、男の薄い唇がにやりと真一文字に広がる。
「いやっ」
反射的に、雅は男の手を振り払うと、逃げ出そうとした。
有世であるはずもない見知らぬ男。だが、男はその雅の腕をつかむと、そのまま二人は縺れ込むようにして、床に倒れた。灯りは、床に落ちたショックで消えて、部屋にはかすかな光のみが残されていた。
必死で逃げようとする雅と、それを掴まえようとする男の息遣いだけが、部屋に響いていた。
誰か助けてっ。
雅はそう叫びたかったが、今までのことを思い出していた。
叫んでも、泣き叫んでも、それに気づいても、誰も助けてくれなかった。
誰も。
逃げ惑う中で、手に触れたものを、雅は思いきり男の頭に投げつけた。うっ、という小さなうめき声がして、男の力が緩んだ腕から慌てて雅は抜け出す。
「助けてっ。助けてっ、陛下っ」
思わず口から飛び出したその言葉に、男は頭をさする手を一瞬止めた。一方で、起き上がった雅は、テーブルの上に置かれていた果物ナイフを見つけると、ぐっと握り締めた。そして、起き上がり、自分に向かってきた男の顔につきつけた。
「これ以上近づいたら、あなたを刺します」
暗闇の中から浮き上がった青白いその顔に、やはり雅は見覚えがなかった。だが、男が多分この桜王宮で、それなりの地位を得ている人間であろうと思っていた。服装が、明らかに騎士団とも、また近衛とも違っていた。その装飾はむしろ豪華絢爛だったのだ。
「…ナイフを、下ろせ」
男はそう言って、また一歩雅に近づいた。だが、雅がさらにナイフを男の鼻につきつけたために、その足と止めざるを得なくなった。
「出ていってください」
間があって、男は一歩下がった。それでも、ナイフを引かない雅を見て、もうニ、三歩後ずさりをした。それでも、気を緩めない雅に向かって、男はこう言った。
「…所詮。所詮お前など、佳乃様の代わりでしかない。
このさき、陛下がお前に目をくれようとも、それはお前を通して、その影に佳乃様を見ているんだ。
勘違いするな」
そして、くるりと踵を返すと、慌しそうに部屋を出ていった。
次の瞬間、雅はナイフから手を離すと、するすると床に座りこんでいた。涙が流れそうになったが、すぐに扉が開け放たれて、灯りが部屋中を照らした中で、碓井が血相を変えて現れた。
「どうかしましたか？姫」
だが、雅はなにも言わずに、ただ真正面を一心に見ているだけだ。
「姫…？」
碓井は雅の視線を追いかけてみるが、無論そこには何もない。だが、ふと床に落ちている葉を、碓井は見つけた。
「これは…」
刺々しく、固い葉。
「…柊？」
貴緒の溜息が合図となったのか、床からほとんど裸の鞍馬が起きあがって小声で尋ねた。
「陛下は？」
「外に出たわ。あと二十分は戻ってこない」
貴緒は小さく笑うと、まるで他人事のように呟く。
「初夜をどの姫宮とも迎えないとは、どこの騎士団も苛立っているでしょうに」
それを仕向けたのは、あなたでは？と鞍馬は言いたい気持ちを抑えて、ベッドでまだ寝そべっている貴緒の隣に立つ。先ほどまで熱くなっていた体が、有世の
場で一気に冷やされていた。できるならば、さっさと自分の部屋に戻りたい。だが、貴緒はそんな鞍馬の心に気づいてか、そっと鞍馬の裸の胸に触れて、くちづけをする。
「あなたのところの姫はいいのかしら？」
「待つのが趣味のような女ですので」
二十分後には戻ってくる陛下と鉢合わせないためにも、鞍馬は早々にここを退散せねばならない。そのためにはこのベッドに散らばった自分の制服を見つけなければならなかった。だが、貴緒が体に触れてくるため、思うように見つからない。
待つのが趣味。まさしくその通りの女だ。
貴緒から、梢の話を聞かされた時、すでに鞍馬の中での梢はお荷物となっていた。
その話とは、単純である。
かつて貴緒は、梢を苛めたことがあるということ。
そして、今もその気持ちに変わりはないということ。
それが、鞍馬にとって、どれほどのハードルになるのか、おそらく梢も貴緒も気づいてないであろう。
そもそも、こんなところを陛下に見られてもすれば、自分の地位はない。それがかなり前から続いていた関係だったとしても、そんなこと言い訳にすらならない。
だからこそ、鞍馬は貴緒をなかば無視するようにしても、服を探しているのであった。
ようやく見つかり、着替え始めたところで貴緒がふいに問いかけた。
「ところで、鞍馬はどうしてそんなに男爵位を欲するの」
留めていたボタンから手を離し、鞍馬は答えを一瞬悩む。
つい、ねだるようにして言ってしまった言葉であった。
だが、その為に鞍馬は新たな妃探しを提案し、また貴緒とも関係を持ち、ここまでやってきたのだ。
そう、全ては柏男爵の地位を得るために。
だが、素直にそう答えるべきでないことくらい、鞍馬にもわかっていた。この自己中心的な姫宮の、ご機嫌を損ねることを一度でもすれば、それが自分の命取りになることも。
「…そうすれば、私は貴緒様のお近くで、ずっと一緒にいられますから」
やわらかな笑みをむけると、途端に不機嫌そうだった貴緒の顔が緩む。
「鞍馬…。でも、だったら、私の衛兵として仕えた方がいいわ」
「え？」
思わぬ返事が出てきて、鞍馬は一瞬慌てた。だが、貴緒は、冗談ではなくそのまま答える。
「花族になるなんて、ミイラになるようなものよ」
先日の妃選びの一票を貴緒が投じるという話だが、漏れ聞こえた話によれば、花族から却下されたらしい。
それが影響しているのだろうか。
この桜王宮においては、陛下の次に花族は権力を持ち、決して無視できるような存在ではないのだ。
返答に戸惑う鞍馬の顔を覗きこむようにして言った。
「それよりももっと、いい考えがあるの」