THE FLOWER GARDEN
桜の章02
見上げたところで言葉をなくしているしずかに代わって、相川が口を開いた。
「…すごいところですね。風情があるというか、なんというか…」
肝試しにはもってこいなのかもしれない。深い緑の奥にある煤けたように汚れた壁の平屋。まるで幽霊屋敷。それがしずかに割り当てられた邸宅だった。
「ここが、貴丹舎…」
小さく呟くしずかの前で、ごほごほという咳と共にバタンと扉が開き、小柄な少女が箒を持って現れた。
「…蓬(よもぎ)？」
日向がそう声をかけると、少女はぱっと顔をあげ、日向を見止めると、途端に笑顔に変わった。
「あ、日向様っ」
子犬が主人に尻尾をふるように日向に駆け寄って来た少女に、日向は屈託のない笑顔を見せる。
「久しぶりだな、元気だったか？」
「はい、日向様も相変わらず素敵です」
あまり見ない日向の和やかな雰囲気に戸惑うしずかに向かって、日向はその少女を紹介した。
「しずか。蓬だ。君江に代わって、お前の世話をしてくれることになっている」
蓬と呼ばれた少女は、日向に向けた笑顔をそのままにしずかに向けた。
「蓬です。何でもおっしゃってください、水仙の姫」
「あ…あぁ。しずか、でいいよ」
どう答えていいのか分からずにいるしずかに、臆することなく蓬は言う。
「わかりました。
まずはこの蓬がお掃除して、この幽霊屋敷をぴっかぴかの御殿にしてさしあげますね、しずか様」
暗闇に変わったところで、急に降り出した雨を見つめながら、有世はこの雨で咲き誇っていた桜が、どれだけ散ってしまうかを憂いでいた。一年中桜の咲き乱れる桜王宮。だが、咲いた花を散ることは、誰にも止められない。
夜が近づいていた。今夜の有世の行動を、誰もが息を潜めるようにして見つめていることくらい、有世にもよくわかっていた。そしてそんな有世が決断を下す前に、花族である桂公爵および松侯爵、柊伯爵の三人が自分を尋ねてきた意味も。
だが、有世にはまだ決断できずにいた。
ふいに窓の外に、傘もささずに走りぬける人影が見える。微かにだが、胸の紋章が灯りに照らされた。
黄色の紋章。
不安になって振りかえった有世に、松侯爵は自信を漲らせて尋ねる。
「…いかがされましたか？陛下」
「貴丹舎の改築を、私は頼んではいたな？柊伯」
皆の視線は柊伯爵に集められる。だが柊伯は少しの表情も変えずにしわがれた声で答えた。
「ああ、そういえば。そんな気もいたします」
途端に有世の表情は曇る。
だがそんな有世を気にすることもなく、三人はそれぞれに有世の動向を見守っているだけだ。
「今日は水仙の姫が貴丹舎に来る日だ」
「…でしたか？」
苛立ちをぶつけることなど、無意味であることは有世がよくわかっていた。脇をすりぬけて、客室を出ていこうとした有世に、それまでずっと黙っていた桂公爵の少し高めの声が追いかける。
「誰も認めたとは、申し上げておりませんよ。陛下」
その頃、貴丹舎では軽快なリズムが鳴り響いていた。雨漏りを少しでも避けるために、相川が集めてきたコップやらバケツやらを床に置いたところ、雫の落ちる雨音が鼻歌を歌いながら掃除をする蓬にはうってつけだったらしく、その歌声が貴丹舎に一際大きく聞こえるようになったのだ。
しずかは溜息をついた。寝室はなんとか避けられたものの、客室は使い物にならない状態。裏口においては、鍵までもが壊れているという。
不安そうな表情の相川に、しずかは元気よく答える。
「ま。これで大丈夫だろ？今日は蓬も、あたしんとこで寝りゃ、問題ないし」
「ですが、姫」
部屋の明りも、どこか頼りなげで、一部ではろうそくに火を灯すほどであった。石崎が悔しそうに呟く。
「陛下もひどいことをなさる。こんな邸宅に姫を泊まらせるなど−」
「石崎」
しずかではなく日向が石崎を諭すように呼ぶ。その表情にも余裕がないことが、いつもの日向らしくなかった。そして苦しそうに呟く。
「事情があるんだ。陛下にも」
「では、どんな事情というんですか？
仮にも妃候補の姫ですよ。こんなボロ屋を割り当てるだなんて。薔薇の花琳舎も、百合の荷葉舎も、菫の初音舎ですら、すばらしく美しい邸宅だと言うのに。ここは荷葉の使用人の宿舎よりもひどいありさまじゃないですか」
日向が黙り込む。それこそが、本当の答えだとしずかが気づいた時、扉がいきなり開いて、視界に映ったその姿に、思わずしずかはその名前を口にしていた。
「桜小路…」
突然現れた有世は、頭からずぶぬれであった。雨に濡れて、溶けるような明るい髪が艶めいていて、なのにブルーグレイの瞳は熱く燃えるようにすら思えた。そして息も絶え絶えに、有世は大きく肩で呼吸をしている。
誰もついてきてないのか？
陛下、お独りで？
一瞬呆けていた日向は、慌てて指示をする。
「蓬、陛下に何か拭く物をご用意しろ」
日向のその声も有世には届かないのか、有世は黙り込んでいるしずかをまっすぐ見つめたまま、その真正面に立つと、深く頭を下げた。
「すまない。まだ改築途中である状態の貴丹舎に」
「大丈夫だ。蓬が掃除してくれてるし、風情ってのがあって、そんな悪くないぜ」
有世は蓬の差し出したタオルを受け取ることなく、わざとらしく笑うしずかを無言のままで、じっと見つめていた。しずかはそんな有世の真剣な表情に戸惑う。唇を噛み締めた有世の表情には、そうして固い決意が浮かび上がった。
「日向、荷物をまとめてくれ」
有世の声が珍しく低く響く。
「桜小路？」
しずかの問いかけに、顔を上げた有世は、部屋の隅々まで響き渡る声で言った。
「改築が終わるまで、桜稜殿に来てもらいたい」
蚊帳の中で息を潜めていた華夜乃は、隣にいる男に告げられる報告を密かに聞いていた。相手はおそらく男が出した密使であることは容易に想像できた。密使が消えてから、男は華夜乃に聞こえるように呟いた。
「ほう。初夜の相手は、水仙の姫か」
にやりと笑う男は外に控えている侍従を呼ぶと、立ち上がり動き始めた。息を潜めていた華夜乃が男に視線を馳せて言い返す。
「あなたがそう仕向けたのではなくて？
だからこそ、私を呼んだのでしょう？」
妃候補が桜王宮に入宮した一日目の夜。
有世がその夜を共にする相手は、そのまま妃の第一候補とも噂される。
本来ならば、妃候補は万全の準備をして、自らの邸宅で有世が現れるのを待っている。だが、華夜乃は、薔薇の姫として割り当てられた花琳舎を抜けだし、男に呼び出されたところへやってきたのだ。
華夜乃の問いかけに、男は侍従に身支度を整えさせながら、ふんっと珍しく顔を顰めた。
「私は嫌いなだけだ。水仙と言う花そのものが」
部屋中に置かれたたくさんの鏡に、その表情が映し出される。美しいその顔に醜い眉間のしわを見つけ、男は慌てて表情を和らげる。
「それにしても、陛下の趣味も、わからぬものよ」
そうして男は、鏡に映し出された自分の美しい顔に見惚れている。華夜乃はそんな男の表情を見て、ふふと微笑む。
「そうかしら？私はわりと好きですわ、あの姫」
「ライバルにそんな余裕の発言とは、相変わらずの自信。そもそも、妃になど、興味がないと思っていたが」
華夜乃が妃候補になったのも、そもそもは薔薇組の副隊長と一緒に過ごすためであることは、男も知っていた。だがそれに嫉妬することも、落胆することもなかった。男としては、華夜乃が美しくあれば、それでいいのだ。
その華夜乃が、突然にこう言った。
「気が変わったのよ。絶対に、負けないんだから」
その真剣な表情に、男は思わず微笑ましく答える。
「成瀬日向に？」
嫉妬という感情が女を醜くする一方で、怒りという感情が、女を時に綺麗に見せることを、男は知っていた。
男の言葉が的を得ていたのか、華夜乃は髪を揺らせてぐっと睨む。
美しい。
思わずにやりとした男に、華夜乃は強く言い返すだけだった。
「とにかく、私は妃になるのよ」
そういって華夜乃は男から顔を背けた。
「では今宵、別の男の邸宅にいてもよいと？薔薇の姫」
一瞬だけ、なぜか夏目が慌てたように自分を探している姿を思い浮かべる。すると華夜乃の心はいくらか安らいだ。
「妃というのは、陛下に気に入られるだけではなれない」
華夜乃はそう呟くと、ゆっくりと視線を男に戻した。
「あなたがそう教えてくれたでしょう？桂公爵」
取る物もとりあえず桜稜殿に戻ってきたしずかたちは、その中枢である寝殿に入ろうとしたところで、突然現れた男に行く手を遮られた。
「お待ち下さいませ」
男はそう言うと、廊下の真ん中で、深く頭を下げた。
「なんだ？」
思わず先頭を歩いていたしずかと石崎は足を止める。
男の服装は緑。他の騎士団のものでもなければ、近衛でもない人間だ。
「お引き取りくださいませ」
「何？」
戸惑うしずかを庇うようにして、日向が一歩前に出るとその男に尋ねる。
「お前は？」
「失礼致しました。私、柊伯爵の執事をしております平山と申します。柊伯爵より、命ぜられましたので、失礼ながらもお声をかけました次第です」
淡々といいながらも言われた言葉の意味を、ようやく理解した石崎が、顔を真っ赤にして言った。
「陛下が直々におっしゃったのだぞ？」
「ですが、柊伯爵は、陛下のためにも、汚れた物は陛下に近づけるな、と」
「なんだとぉ？」
汚れた物、と聞いたしずかが、思わず平山の胸倉を掴み上げそうになり、日向はそのしずかの腕を捉えて言う。
「やめろ、しずか」
いつもながらであるが、日向の力にしずかは勝てない。腕を小刻みに震わせていたしずかだが、仕方なくその力を抜いた。ふんっと横を向いたしずかを横目で捉えながら、日向は平山を睨みつけながら聞き返した。
「陛下のご命令に背けというのだな？」
「私は、花族であらせられる柊伯爵のご意向を伝え、実行したのみです」
「なんだと？」
石崎がまたも大声をあげた。先ほど通りぬけてきた桜稜殿から、物音が聞こえた。使用人がこの騒ぎに気づいたのかもしれない。日向は仕方なく決断をした。
ことが公になることを避けなければならない。
「桜稜殿に入らねばいいのだな」
「日向様？」
素直に平山の言葉を受け入れる日向に、石崎は驚きの声を上げる。日向は石崎をなかば無視するように振りかえって言う。
「相川、別邸を間借りする。平山。お前はそのように柊伯爵に伝えればいい」
とりあえず怒りを抑えきれない石崎をなんとか押し留めて、桜稜殿の別邸に先に向かわせた日向は、近くにいた侍女に有世にもその旨の伝えてもらうよう頼んだ。そして日向は、しずかのいる別邸へと向かおうとした。
その途中、日向は突然廊下の向こうに現れた人間に気づいた。夜のためか、暗闇ではっきりとその人間の顔はわからなくとも、立ち振る舞いで日向には誰だかわかっていた。それでも日向は、そのまま黙って背を向けて通り過ぎようとした。が、その人間はそんな日向に声をかけた。
「久しぶりに現れたかと思ったら、挨拶のひとつもなしか、成瀬日向」
小さく溜息をついて、日向はくるりと振り返る。一歩日向に近づいて灯りに照らされたその姿は、思った通りの人物だった。
「失礼致しました。変わられた桂公爵のご様子に、気づきませんでした。しばらくお会いしないうちに、いくらか落ちついた風貌になられましたか？それとも？」
歳をとったと言いたいことに気づいた桂公爵は、思わず声を荒げた。
「この桜王宮は、神聖なる場所。粗野な野蛮人など、不要だ」
静まり返った寝殿に、その声が響く。日向は逆に声を落としてはっきりとそれに答える。
「あなたに必要か不要かなど、私には関係ありません。陛下にとって必要かどうかが、問題なのです」
二人はしばし、睨みあった。お互いの表情は暗がりの中でわからないものの、決して笑顔でないことだけは確かであった。
ふいに日向は姿勢を正す。
「今晩はお騒がせをしてますが、明日には桜稜殿を出ます。ですが、陛下がどこに行かれるのか、それは陛下の自由」
それだけ言うと、日向は桂公爵の脇を抜けて行こうとした。その足音がいくつも刻まぬ前に、桂公爵はその高めの声を落ち着かせて言った。
「所詮は鳥かごの中の鳥。自由と言えども、本当の自由ではない。お前だって知っているだろう。だからこそ、お前は出ていった。そうではないか？」
足音が止まる。
次に聞こえてきたのは、日向の小さな声であった。
「失礼致します」