THE FLOWER GARDEN
桜の章28
「やはり、見覚えがおありになるんですね。姫」
そう雅に話しかける碓井の声は、先ほどとは違い安らかだった。
碓井は本心から、安心していたのだ。
やはり、姫は姫だったのだ。変わらぬ清らかな心の持ち主なのだと、そう感じた瞬間、碓井は思った。
自分に託したしずかの気持ちと、
同じように変わらぬ雅を信じていた自分の気持ちが同じであったことに。
「碓井さん。これは…」
震えながら答える雅に、碓井は説明をした。
「以前、こちらに水仙の姫がいらしたときに、是非姫に渡して欲しいと、預かりうけました。
しかし、実際に渡してよいものか悩んで、ずっと私が持っていました。
でも、渡すべきだったんですね」
「え？」
聞き返した雅に、碓井から白いハンカチーフが差し出される。それは百合の騎士ならば義務付けられた胸のチーフだった。そして雅は、その時初めて自分が涙を流しているのに気づいた。
雅がハンカチーフを受け取り、涙を拭くのを確認して、碓井は別のポケットから小さく折りたたまれた紙切れを差し出した。
「これを」
戸惑う雅に、碓井は柔らかに答える。
「その中に入っていたものです。
その言葉の意味を、姫ならおわかりになるのでしょう」
震える手で雅はそれを受け取ると、急いでその手紙を開く。
小さい紙切れには、簡単に書かれていた。
『約束は、永遠だ。
あたしは、雅を守る。
だからあたしが、雅を傷つけるようなことはしない。
絶対に』
交わした約束。
『あたしが、雅のこと守ったげる』
忘れるわけなどない。
こっちに来てからは、あの言葉だけが頼りだったのだから。
「しずかさん…」
そして、今でもしずかがその約束を守ろうとしていることを、雅は気づいていた。
競技会の時も、
舞踏会の時も、
茶会でも。
しずかは、いつだって雅を助けようとしてくれていた。
それなのに、私は。
雅は再び溢れてきた涙を拭うと、心配そうに自分を見守っている碓井に視線を向ける。
「碓井さん、私―」
ところが、そこで突然扉が開け放たれた。
「碓井副隊長っ、大変ですっ」
駆け込んできた騎士の息が荒い。
そもそも、ノックもせずに部屋に入るなど、速水がいれば、即刻除隊処分になるほどの無作法だ。
だがそれ故に、騎士の焦りを碓井は感じることができた。
「どうした？」
碓井の問いかけに、騎士は息を整えながら、絶え絶えに告げた。
「隊長が、速水隊長がっ、水仙の姫と決闘をっ」
「何だって？」
しずかはただ、目の前の速水を睨みつけて叫んだ。
「あたしはお前を許さないっ、絶対に許さないっ」
速水はというと、その鋭い視線から逃れることはせずに、ただじっと冷静にしずかを見つめていた。
しずかは、鞍馬の言葉を反芻していた。
『妃となれば、速水の処分など、いくらでもどうとでもなる。
そうして、過去の出来事を、抹消することも。
しかも百合の姫は、陛下に恋をした。
妃になれば、彼女は望むもの二つを手にすることができる。
だが、その前に現れたのが、君だ。
自分を裏切り、絶望の淵へ追いやった君が、少しも変わらない様子のままで、何事もなかったかのように自分に微笑みかける。
君があの時迎えに来ていたら、君が彼女を裏切らなければ、彼女は速水から暴力をうけることもなかったはず。
その時の百合の姫の気持ち、君にだって想像するに難くないだろう』
ぐっと拳を握りしめたしずかに、速水は淡々と答えた。
「何を言いたい。姫のことならば、もうお前は関係ない。
姫も、お前のことは過去のことだと言っている。
姫とお前は、もう友人でも何でもないのだ」
速水はそれだけ言うと、さっさと馬車に戻ろうとした。
速水にとってしずかは、邪魔なものでしかなかった。
だがその背中に、しずかが怒鳴りつけた。
「違うっ。
あたしが言ってるのは、お前が雅にしたことだよ」
「私、が？」
速水は一瞬だけ、手を震わせた。だがそれを隠すように、それ以上答えずに勢いよく馬車の扉を開ける。
待てとばかりにしずかが速水を引き止める。
「忘れたとは言わせないっ」
それでも、速水は答えた。
「何のことだ」
いつの間にか、辺りには観衆が集まりだしていた。
桜稜殿に入る手前の広場だ。行き交う人も多い。
だからこそ、速水は恥を曝すようなことはしたくなかった。
だが、おい待てと肩にしずかの手が乗った時、焦りと同時に思わずそれを力いっぱいに振り払ってしまった。
しずかは僅かによろけたものの、数歩下がると、変わらず速水を見据えて睨んでいた。
ようやく自分の方を向いた速水に、しずかは背負っていた木刀を向ける。それは、かつて日向と戦った時に持っていた木刀で、護身用にと桜王宮に持ってきていたものだった。
おぉ、という驚愕の声が周囲からもれた。
だがしずかの耳には、最早そのような声も届いてなかったし、目にも入っていなかった。
ただ、目の前にいる速水だけが、しずかと対峙する全て。
そして、今倒すべき相手だった。
剣を構えると、久しぶりに背筋がしゃんとした。僅かに手が震えているのは、速水が怖いからでも、久しぶりに剣を持つことでもない。
ただ、憎かった。
雅を傷つけた速水が。
「だったら、思い出させてやるまでだっ」
騒ぎは、一番桜稜殿に近い薔薇組のいる花琳舎にも十分に聞こえていた。
「何の騒ぎだ？」
夏目と一緒にいた戸田がそう呟くと、扉が開いて、薔薇の騎士が姿を現した。
「隊長っ、大変ですっ。
桜稜殿の前の広場で、決闘がっっ」
「決闘？」
学園とは違い、この桜王宮にはそぐわないその言葉に眉をひそめ、戸田が呟くと、その騎士は大きく頷いた。
「はい。
百合の速水と水仙の姫が決闘を行っている模様ですっ」
ソファに座り込んでいた夏目は、思わず腰を上げた。
「しかし、水仙は今、自ら謹慎しているはずじゃ―」
そうすることで、しずかの罪を自ら償っているはず。
動揺する夏目に対して、戸田は当然とばかりに答える。
「やりかねませんよ、あの姫じゃ」
そもそも、今回の謹慎処分そのものが、異例の事態であるというのに、その上決闘などという騒ぎを起せば、どういうことを引き起こすのか、それはしずかにもわかっていてもよいはずだ。
だが。
足音を踏み鳴らして出て行こうとする夏目の前に、ふいに深紅の布が舞う。
「どこに行くの？優っ」
両手を広げて夏目の行く手を阻んだのは、赤いドレスを身に纏った華夜乃だった。
「…姫」
華夜乃は大きく息を呑むと、今までとは違う、姫としての立場で言った。
「貴方は、薔薇組の隊長よ。
貴方の居場所はここなの。
他の組の諍い事など、関係ないわ」
しずかの向ける木刀を、速水は器用にかわした。
百八十を超えるその長身だが、鮮やかな身のこなしは、さすが百合の隊長と思わざるを得ない。
そして、その一方でしずかは明らかに平常心を失っていた。
「ずっと言ってやろうと思ってたんだ。
いいか、雅は雅だっ。他の誰でもないっ。
佳乃なんかじゃないんだっ」
佳乃の名前を聞いて、無表情だった速水の表情が僅かに変わる。
「佳乃様を呼び捨てにするとは、なんと言うけしからぬことを」
「はんっ。敬称っつーのは、自分がそう思える相手につけりゃいいんだよっ。
有世を裏切っていたような女、あたしは認めないっ」
大きくしずかが振り下ろした剣を避けたところで、速水はふいにその動きを止めて聞き返した。
「…なんだと？」
その何も知らないという速水の表情と、
しずかの質問に答えなかった日向への苛立ちに身を任せ、しずかは思い切り剣を速水の喉元に向って突き立ててようとした。
「有世っていう相手がいながら、裏で日向とこそこそ付き合っていたような女、尊敬できるわけねぇだろっ」
一瞬の気の緩みなのだろうか。
僅かに速水の動きが滞り、シュッと言う音がして、木刀が速水の頬を切り、そこに一筋の赤い線ができていた。初めて速水に触れることができ、しずかはようやく動きを止めると、大きく肩で息を吸った。
悔しいけど、こいつ、強い。
口許を拭うしずかの前で、速水はゆっくりと頬に触れ、指についたその血を見ると、大きく目を見開いた。
そして、手をぐっと握り締めると、しずかに聞き返した。
「…今、なんと言った」
その声は今までとは異なり、ぞっとするほどの冷酷な声だった。
『その質問に答える義務が俺にあるのか？』
そう答えた日向の表情を、しずかは思い出していた。
お前には関係ない。
日向はそういっていた。
関係ないだって？
あたしは、あいつの復讐の道具なんかじゃねぇんだっっ。
そんな思いから、しずかも自棄になったかのように叫ぶ。
「できてたんだよ、あの二人はっ―」
「許さん」
しずかの言葉を遮って、静かに低く、だが篤く速水が呟く。
そして次の瞬間、携えていた剣を抜くと、しずかに向けて叫んだ。
「絶対に許さんっ。佳乃様を穢すようなその発言、断じて許すわけにはいかない。
この身に代えても、許さぬっ」
すっと剣を構える速水に、しずかも応える。
「上等だ。
こっちだって、雅を穢したお前を、絶対に許さないっ」
鞍馬が初音舎に戻ってくると、真っ先に梢が出迎えた。
「お帰りなさいませ、鞍馬様」
ただいまとだけ答えて自分の部屋に戻ろうとする鞍馬を無視して、梢は鞍馬に尋ねた。
「あの、何やら外が騒がしいようですが、一体何が―」
「関係ないよ」
「あの、でも―」
「余計な詮索はするなと言っただろう」
思わず大きな声が出てしまったのか、奥から副隊長である但野も顔を出した。
怒らせたと感じたのか、梢は俯いて謝った。
「…すみません」
肩が震えていることに気づいたが、鞍馬はそれを無視して淡々と答えた。
「反省してくれたのならいいよ。だけどね、姫。僕から同じ言葉を何度も言わせないで欲しいな」
突き放すような言い方に、梢は更に小さな声で答えた。
「すみませんでした」
少し前までの鞍馬であれば、おそらくその肩に触れ、優しく抱きしめたのかもしれない。
そうして、言い過ぎたと謝り、梢を褒めちぎる。
だが、そんなことはもうしなくてもよくなったのだ。
鞍馬は頭を下げたままの梢を無視して、立ち尽くす但野に命令した。
「但野、姫の新しいドレスを発注してくれ」
「え？あの、また舞踏会ですか？」
「いや、今度は、薄紅色のドレスだ。桜の紋章もあしらってくれ」
薄紅色、と聞いた但野の顔が強張った。
薄紅色のドレスに桜の紋章をあしらって発注するということの意味を、この桜王宮に仕えるものが知らないわけではない。
「ですが、薄紅色といいますと、陛下の許した者しか身につけることの出来ない色でして―」
加えて言うならば、桜の紋章というのは更に選ばれたもの、すなわち王妃にしか許されない紋章なのだ。
戸惑う但野の声を遮って、鞍馬は但野の名前を呼ぶと、こういった。
「但野。君には、僕の言った言葉が聞こえなかったのか？」
だが、但野はそれには答えられなかった。
王妃はまだ決まったわけではない。
しかも、現状で言えば菫は一番遠いところにある。
薔薇はやはり手堅いく、花族からの評価も高い。
百合は、前妃に瓜二つとあって、やはりこれも手堅いだろう。
水仙は、色々問題を起しているけれど、何とか首の皮一枚で繋がっているのは、陛下のお気持ちが強いことと、椿の宮という後ろだてもある。
そこからしても菫は、マイナス面もないかわりに、取り立てて強みとなるものもない。
なのに、どうして？
隊長の自信は一体どこから来るのだ？
黙りこんだ但野に、鞍馬は笑顔と共に明るい声を投げかけた。
「大丈夫。邪魔者は、すぐにいなくなるさ。百合も、水仙も。それから、薔薇もね」
かつて剣道をやっていたとしても、その試合とはわけが違う。
ましてや真剣と木刀だ。
まともにやったら、勝てるわけない。
しかも、こいつ、意外と強い。
剣を構えながら、しずかはじっとその間合いを計っていた。
どうすれば、いい。
どうすれば、勝てる？
どうすれば、雅を守れる？
すっと剣が振り上げられたかと思うと、速水は真っ向勝負をしずかに挑んできた。けれどそのスピードは、想像以上に速く、剣は重かった。
「っっ…」
何とか鍔でもってその攻撃を凌いだものの、速水の力に負け、しずかは後ろへを飛ばされると、そのまま尻餅をついた。
「って…」
強く腰を打ち付けて、しずかは思わず声をあげる。気づくと、手にしていた木刀は見事に折れていた。
思わずごくりと唾を呑み込んだしずかに、上から速水が見下ろして言う。
「どうした。言葉だけか、野猿の姫」
慌ててしずかは立ち上がる。
「うるさいっ。あたしは、あんたを許さないっ。
雅を穢したことっ、絶対絶対―」
その時、乾いた音が広場に響いた。
剣のあげる金属音ではない。
同時に、悲鳴に似た声が響いた。
「やめてっ」
しずかは叩かれた頬に触れながら、目の前に立つ雅の名前を呼んだ。
「雅…」
急いで駆けつけたからなのか、雅は大きく肩を揺らして呼吸をしている。その下で、ついさっきしずかを平手打ちした手が、微かに震えていた。
「嘘言わないでっ」
「嘘って…」
呆然としているしずかに、雅は叫び続ける。
「私は何もされてないっ。
穢されてなんかないわっ。
お願いだから嘘なんか言わないでっ」
「…雅」
その目に、涙が溢れていることに気づいたしずかは思わず息を呑む。
雅。
もう一度、心の中でその名前を呼ぶしずかの前で、速水が乱暴に雅の肩を払った。
「どけっ。邪魔するな」
小さな悲鳴を上げて、雅は床に倒れこむ。
しずかが慌ててそんな雅に駆け寄った。
「雅っ、おいっ」
めくれたスカートから見えた青い痣の色に、しずかは思わず息を呑んだ。
どうみてもそれは、今転んでできた痣ではではなかったのだ。
雅…。
しずかの視線に気づき、雅は慌てて足を隠すと、項垂れて唇をかみ締めた。
それだけで、しずかがすべてを理解するのに十分だった。
二人を黒い影が覆い、振り返ったしずかに、壁のように立つ速水が剣を掲げて言った。
「覚悟はいいな。
二度とその減らず口が叩けないようにしてやる」
振り下ろされる瞬間、しずかは目を瞑った。
逃げることはできなかった。
逃げれば、その剣が貫くのは雅になる。
あたしが、雅を守る。
今度こそ、本当に。
だから、逃げるわけにはいかない。
剣が何かを切り裂く音がした。
けれど、何の痛みも感じずに、しずかは目を開け、そして叫んだ。
「日向っ」
しずかに覆いかぶさるようにして、日向がそこに立っていた。
日向はしずかが目を開けたのに気づくと、ふっと微笑むようにして答えた。
「何をやってるんだ、お前は」
「何って―」
だがしずかが答える前に、日向の体がぐらっと揺れて、しずかに覆いかぶさった。しずかはそのまま日向を抱きかかえるようにして、床に座り込む。
「おい、ひゅ―」
背中に回した手に、ぬるりとした生ぬるい感触があり、思わずしずかはその手を眺める。
赤く染まったその手は、自分の手ではないように思えた。
日向の肩越しに見える速水が手にしてる剣には、しずかと同じく赤い血がべっとりとついている。
しずかは慌てて、日向の肩を掴む。
「日向？おいっ？」
だが血の気のないその唇から、返事はない。
目を瞑ったままで、日向はぐったりとそのまま床に倒れると、そのまま辺りに血が広がっていく。
日向？
誰か、日向をっ。
そう叫ぼうとしたしずかの周りに、再び近衛の剣がしずかを囲い込んだ。顔をあげると、同じように近衛たちは速水も取り囲んでいた。
「百合組隊長、速水恭介、ならびに水仙の姫、西園寺しずか。
桜王宮において禁止されている抜刀を行った謀反罪により、双方捕らえる」