THE FLOWER GARDEN
桜の章27
「出て行けよ」
そう言って顔を背けるしずかに、鞍馬はくすりと微笑む。
「何だか相当な扱われようだね」
「当たり前だろっ、お前に騙されて、この前は恥かかされたんだからな」
明らかに苛立ってしずかは答えるが、それでも鞍馬の表情は変わらなかった。
「おやおや。随分な言われようだ」
だがその余裕が、余計にしずかの心を荒立たせる。
「どこから忍び込んだのかしらねーけど。出てってくれよ。
じゃないと、何するかわかんねぇぞ。
今のあたしは、すこぶる機嫌が悪いんだ」
しずかはそう答えると、はっきりと鞍馬を睨みつける。
鞍馬はふーんと答えながらしずかに背を向けると、窓枠に手をかけて、空を見上げるようにして言った。
「でもいいのかな。
今回は、百合の姫に関わる重要な話だっていうのに」
「雅の…？」
しずかの口調が戸惑うのを感じ、鞍馬は心の中でほくそ笑んだ。
西園寺しずかの最大の弱点は、陛下でも成瀬日向でもない。
そう、百合の姫である遠山雅にある。
にっこりと微笑むと、僅かに口の中に痛みが走った。だがそれをかみ殺して、鞍馬は平穏に言う。
「そう。どうして彼女がこんなにまでも陛下に拘るのか。
妃を望むのか。
知りたいとは思わないのかい？」
振り返ると、しずかは俯いて答えていた。
「知ってるさ。
雅は…。
雅は、有世のことが好きなんだから」
その虚ろな視線に、鞍馬は事が思惑通りに進んでいることを確信する。
恋愛と友情の狭間で、しずかが取るのは友情であろうと鞍馬は確信していた。
所詮、その友情などもありもしない幻想だけど。
そうしてこの部屋に程よく響くだけ、声を張り上げて鞍馬はしずかに尋ねた。
「じゃあ何故君を憎む」
しずかの返事はなく、鞍馬は話を続ける。
「同じ妃候補である君を、憎むのも当然といえば当然。
けれど、他の姫に向けられる視線と、君に向けられる視線とは、大違いだ。そうは思わないか？
もちろん、陛下が君のことを気に入っていることも、原因のひとつだとは思うよ。
でも、彼女が君に冷たく当たるようになったのは、陛下と君が出会う前からじゃないかな」
しずかが答えない原因が何なのか、最早鞍馬には関係ない。
鞍馬の脳裏にあるのは、ただ水仙と百合の脱落でしかなかった。
「君が彼女を裏切ったからだ。彼女じゃなくて、君が先に」
「どういう意味だ？」
顔を上げたしずかを見て、鞍馬は確信した。
妃に選ばれるのは、花族になるのは、この菫、この鞍馬でしかないのだと。
「来る、来ない、来る…」
そう呟きながら、桔梗の宮は手にしたマーガレットの花びらを一枚一枚ととっては、風に躍らせた。ひらひらと舞う白い花びらが、鬱蒼と茂る緑の中に吸い込まれるように消えていくが、その中から、待ち望んでいる姿が現れることはない。
『事が収まれば、彼もきっとあなたのところを訪れるでしょう。
それまで待つのです』
椿の宮にそうは言われたものの、この一週間ですら、一年にも思える心地だったのだ。
事が収まるのに、どのくらいかかるのか桔梗には検討もつかず、また、ただじっと待っている自信も今の桔梗にはなかった。
ここに来てれなくてもいい。
微笑んで、私の名前を呼んでもらえなくても。
ただ、一目でいいから、会いたい。
桔梗の思い込んだら他には目もくれない一途な性格を気にしてか、椿の宮は元気のない桔梗を励ますことを名目に、自分のところの侍女をこの桔梗の邸宅に送り込んだのだ。実際に、その侍女は、話題も豊富で、明るい性格でもあり、一緒にいると楽しい時間も過ごす事ができた。
だがその度に、笑い声が響くたびに桔梗は、何も話さなくても幸せだと感じることができた日向とのかけがえのない時間を思い出してならなかった。
それに。
あの事件以来、お姉様は私を過保護にしすぎる。
「…来る、来ない、来る。…」
花びらが残り一枚になったところで、桔梗はその手を止めた。
来ない…。
そう口にすると、尚更現実味が増すのが怖くなり、桔梗は一枚の花びらのついたマーガレットごと床に落とす。
ねえ日向。
二度と会えないなんて事、ないでしょう？
その証とでも言うように、桔梗は胸にかけていたペンダントを外し、手に取った。
日向が残していったこのペンダント。
これがある限り、あなたと繋がっていられる。
必ず会える。
そう信じていても、よくて？
ふいに木々がざわめいて、思わず桔梗は立ち上がった。
日向？
来てくれたの？
だが、それに答えるような人影は見当たらない。
ため息をついた桔梗の手から、ペンダントが落ち、地面に当たったためか二つに割れてしまっていた。
慌てて拾い上げると、それがロケットで、壊れたのではなく開いただだと気づいて、桔梗はほっと安堵のため息をついた。
だが、次の瞬間、
「これ…」
と桔梗は思わず息を呑み、中の写真を見つめ呟いた。
一瞬は誰だかわからなかった写真だが、こちらに向いているその視線に覚えがある。
揺ぎのない、強い視線。
凛とした風貌。
…似てる、水仙の姫に。
しずかよりはいくらか柔らかな雰囲気の女性が微笑む写真がそこにあった。
おそらくはしずかの血縁者であろう。
でも、どうして日向がこんな写真を持っているの？
どうして、水仙の姫の縁者の写真を？
桔梗は、胸の奥がざわめくのを感じた。
蓬は、しずかが食べ残した食事を持つと、部屋をノックした。
「しずか様？」
中からは返事をする声も、物音も聞こえない。だが、しずかが部屋に入ったことは他の騎士から聞いていたし、今のしずかにはこの部屋しか行く場所がないことも蓬は知っていた。
失礼しますと声をあげて中にはいる。寝室の扉が僅かに開いていることから、しずかはおそらく不貞寝をしているのだろうと蓬は思って話を続けた。
「おなかすきますからね、こっそり残りの食事、お持ちしましたよ。
じゃんじゃん食べてください。日向様には内緒にしておきますから」
だが一向にしずかの返事も、現れる様子もない。
その時風に煽られるようにして、扉がゆっくりと揺れたのに気づき、蓬は慌てて寝室に入ると、中の様子に思わず悲鳴を上げた。
「キャーッ」
駆けつけたのは相川たちで、日向もすぐさまかけつけ、床に座り込む蓬の腕を引き上げる。
「どうした蓬」
「しずか様がっ、しずか様が、お部屋にいらっしゃらないのです」
「何？」
相川が慌てて寝室に入り込むと、確かに頑丈に鍵をかけていた窓が、見事に開いていた。
「窓が開いています。無理やり鍵をこじ開けた後も」
冷静にそう答える相川に対して、部屋の隅の暗がりから、突然鞍馬が姿を現した。
「これはこれは、相変わらずの乱暴ぶりだね」
「鞍馬っ」
相川たちは、思わず剣を構えようとして、だがここが桜王宮の中であることに気づき、慌てて手を押える。その中で、蓬だけが鞍馬に真剣に尋ねていた。
「鞍馬様、しずか様をどちらに連れて行かれたのですかっ」
「おっと、それは心外だな。
彼女は私が連れ出したのではなく、自分の意志で、そこを開けたんだよ。私は彼女に贈り物をしただけで―」
だがその言葉を言い終わる前に、鞍馬は激しく壁に押し付けられた。
目の前には、激しく鞍馬を睨む日向がいた。
「日向様っ」
引きとめようとする蓬たちの声を無視して、日向は更に鞍馬の胸倉を締め上げようとする。そんな様子に鞍馬は微笑んだ。
「おやおや。水仙の隊長までも、姫君と同じくずいぶんと乱暴者なんだね」
すると日向は更に締め上げながら、抑えた声で尋ねた。
「…しずかはどこだ」
鞍馬がおどけるように肩をすくめると、一転して日向は激しく鞍馬に怒鳴りかかった。
「しずかに何を言ったっっ」
「隊長っ」
そのまま鞍馬は顎を突き上げる形になり、慌てて相川が間に入る。
謹慎中のこの時に、他の組と争いを起こしたなどとなっては、しかもそれが一方的であればあるほど状況は悪化することに、誰もが気づいていた。何よりも日向が、このような状況が一番わかっているはずだった。
日向の手が離れ、自由になった鞍馬はわざとらしく咳き込んでから、くくっと笑って答えた。
「珍しいな、凄腕の成瀬隊長が激昂するなんてこと」
顔を背けた日向にも、鞍馬は余裕の笑みを見せて言った。
「でも残念。心配してるのは、隊長だけだよ。
姫は相変わらず、友情ごっこにお篤いようだから」
貴丹舎を出たところに何故馬があったのか、しずかはたいした疑問もなくそれに乗った。
頭の中にあるのは、今さっき聞いた鞍馬の声と、これから行くべき場所のことだけだった。
睨みつけるしずかに微笑みかけながら、鞍馬は抑揚をつけ、情感たっぷりに話し聞かせた。
「こっちの世界に来てからも、百合の姫は君を探していた。君に助けを求めていた。
たった一人連れてこられ、その上の速水の冷たい仕打ち。監禁生活。
全てが絶望の中で、君が助けに来てくれることが、彼女のたったひとつの希望の光だった」
自分の名を呼び、伸ばされたあのか細い腕。
仕掛けられた罠。
だけど、それでも、あたしと雅は、心の中で誓ってた。
一緒に、元の世界に戻ろうって。
信じていた、お互いを。
心の底から。
だから、あたしは、諦めないで脱走計画をもちかけたんだ。雅に。
「あの日、君から贈られたペンダントに入った手紙を見つけた百合の姫は、確かに約束の時間、約束の場所にやってきた。それこそ、見つけられたら更にひどい仕打ちを受けるのは目に見えている。命がけで白百合館を抜け出して、そこに向った。
けれど、約束の時間になっても、君は現れなかった。
そして、代わりにやってきたのは、怒りに震える速水だった」
しずかが息を呑むのを待っていたかのように、鞍馬はそこで十分の間を空けて、そうしてかみ殺した声で言った。
「そして、速水は。
二度と逃げ出さぬよう、罰として、百合の姫を陵辱した」
「リョウ、ジョク？」
聞きなれない言葉に、しずかは答える。
「君が最も嫌っていることだろうね」
ふっとシニカルな笑みを見せて、鞍馬は答えた。
「レイプされたんだ。百合の姫は」
「碓井さん？」
ぼんやりとため息をついていたところで、突然話しかけられた碓井は、慌てて振り返った。
「はっ、あ、姫」
その瞬間、手のひらからそれが落ちたことに気づき、碓井は思わず目を見開いた。
それは、小さな音を立てて、床に落ちる。
願わくば、気づかれぬよう。
何事もなかったかのように、ぎこちなく微笑む碓井に、雅が尋ねる。
「どうか、しましたか？」
緊張のためか、冷汗までもが背中を伝うのを碓井は感じて答えた。
「いえ。あの、隊長は何ゆえ陛下に呼ばれたのであろうか、と」
有世に呼ばれたと、速水がこの荷葉舎を出て行ったのはつい先ほどだ。
百合組において、速水という存在が他の騎士に与える恐怖感というのを、雅は身をもって感じていた。しかし、その速水がこの館にいないのであれば、こんなに碓井が緊張している理由もない。
なのに、どうして？
不審がる雅の視線の中で、碓井はごくりと唾を飲み込んだ。
「…碓井さん」
雅はそう呟くと、一歩碓井に近づいて、そうしてしゃがむ。
まさか、と思った。
だが手に取ったそれは、本物で。
初めて見たのはまだこの世界にやってくる前のことで、それはかつて自分に贈られたペンダントだった。
だが、気づけば自分の手元から消えていた。
それでも、探そうとは思わなかった。失くしてしまった罪悪感よりも、贈り主に対する憎悪の方が勝っていたから。
二度目に見たのは、有世の部屋だった。
雅はそれを、しずかから有世への愛の証なのだと思った。
許せない。
贈り主に対する憎悪は更に増した。
だが、そのペンダントが、今ここにある。
雅の手の中に。
しかも、かつて自分が失くしてしまった大切な形見と共に。
「これ、は？」
どうして、と、雅はそう問いかけた。
「…隊長？速水隊長？」
カタカタと揺れる馬車の中で、そう問いかけられて慌てて速水は意識を戻した。
「どうかされましたか？」
「いや。なんでもない。考え事だ」
このところ、ずっとそうだった。
今までは、佳乃にかぶるようにして雅を見ていたというのに、最近ではその逆なのだ。
あの、雅の自分に挑むような視線に、かぶさるようにして、佳乃が現れる。
そして、言うのだ。
『彼は、悪くないのよ。速水さん』
つまりそれは、自分が悪いということなのだろうか。
佳乃様は、そうやって私を非難していたのだろうか。
だが、いくらそう速水の胸の中でそれを問うても、答える佳乃はもういない。
隣では、百合の騎士が少し心配そうに言っている。
「しかし、何でしょう。陛下から直々にお話があるなんて。もしや―」
だが次の瞬間、馬が激しく嘶いて、馬車が突然止まった。
「どうした？」
同乗していた騎士が馭者にそう尋ねたが、返事はなく、慌てて騎士は馬車を降りていく。
だが、
「何をするっ」
という声に続いてうめき声が聞こえ、仕方なく速水もいつもは帯刀しない剣を携えると、馬車を降りた。
「たいちょ―」
すると、目の前で、先ほどの騎士がそう言って、間もなく床に崩れ落ちた。
その奥から、怒りを露にした声が自分の名を呼んだ。
「速水っっ」
「お…まえ」
しずかは、今さっき騎士と格闘して荒立った息を整えるように大きく深呼吸をしていた。
そして、きつく結ばれた口許が、再び開くと、速水にこう告げた。
「あたしは、お前を許さないっ。
絶対にっっ」