THE FLOWER GARDEN
桜の章26
「つまんねーっっ」
しずかはそう叫ぶと、ベッドに大の字になって転がる。
すると、蓬があらまあと声をあげた。
「しずか様っ、そのような恰好で横になるときは、お気をつけ下さいませっ」
蓬の視線の先では、スカートの裾がめくれて露になったしずかの大腿と、僅かに見える腹がある。
「いーじゃん、別に」
しずかはそう言って大きく伸びすると、扉をノックする音と共に日向が現れ、しずかのその恰好を見て、思わず立ち尽くしているのが頭上に見えた。
慌ててしずかは、起き上がり、スカートの裾を元に戻す。
「ノックくらいしろよ。淑女(レディ)の部屋に入るときくらい」
日向は咳払いをしながら、ベッド脇の椅子に腰掛けて答えた。
「淑女と呼ばれるに相応しくなったら、いくらでもやってやる。どうだ、調子は」
「どうもこうも。こう一週間ここに缶詰にされて、飽き飽きしてる。
いいだろ、ちょっとくらい外の空気を吸っても―」
そう言って立ち上がり、窓を開けようとしたしずかを、蓬が引き止める。
「しずか様っ」
だが、蓬が引き止めようと引き止めまいと、その窓は開かない。
そのように、日向が細工をしたのだ。
「駄目だ」
日向はそう答えると、腕組みをして答える。
「そもそも、こうしてここに戻ってこれただけでも、有り難いと思え」
「へぇへぇ、感謝してますよ。有世には」
有世の恩赦でもって釈放されたのだと、しずかはこの貴丹舎に戻ってきた時に日向に聞かされた。
だから、逃げるな。
そう日向に言われたしずかに、返す言葉はなかった。
あれから一週間が経つ。
釈放されたとはいえ、しずかにも非があることは明らかであり、日向はしずかに十日間の謹慎を告げた。そしてこの間に、しずかの今回のことが妃としての欠格事項にあたるかの審議が、花族で行われていた。
結果はまだ出ていないが、予測も出来なかった。
有世が、今までとは異なり、積極的に動いているというのだ。
もともと、しずかを妃にしたいと感じていたこともあるが、どうやら今回の事件を引き起こした原因のひとつに、自分の発言があるからと責任を感じているそうだ。
吉とでるか、凶とでるか。
全くわからぬままに、日向はこの一週間を過ごしていた。
勿論、椿の宮との条件もきちんと果たすために、この一週間は桔梗の宮の館には一歩も踏み入れることなく、また一日に一回は、監視の意味も含めてしずかの部屋を訪れていた。
向き合うよう言われても、どうしていいのかわからない日向としては、そうすることしかできなかった。
小さなため息をつきながら、日向は胸ポケットから一通の手紙を出して、しずかに手渡す。
「陛下からだ。こころして読むように」
「ハイハイ、わかりました」
有世からの手紙は、毎日のようにしずかの元に届いていた。
内容は、自分の非を詫び、そしてしずかを妃へと望むようなものだった。
しかし、しずかはそれにどう答えていいのかわからずに、返事は返さないままであった。
手紙を開こうとしたしずかは、ふいに日向の視線を感じ、手紙を閉じる
「何だよ」
「…いや」
用が済んだということだろうか。
日向は立ち上がると、思い出したようにしずかに尋ねた。
「最近は、あのペンダント、してないんだな」
しずかが母親の形見としてもっていたペンダントは、いつもその首にかけられていた。
対を成すそのペンダントは、だが今では両方とも雅のところにあるはずだ。
だが、しずかはそうは答えずに、
「…まあな」
とだけ言った。
あの手紙の返事は、まだ雅から来ない。
心に過ぎる暗い影を打ち消すように、しずかは日向に言う。
「それが、どうかしたか？」
「いや。なんでもない」
日向は振り返ることなくそう答えると、静かに部屋を出て行った。
扉を閉め、そこに寄りかかりながら、日向は右胸のポケットに触れる。
確かに、あのペンダントはそこにあったはずだった。
有世の部屋で見つけた、しずかがお守りとして置いていった片身のペンダント。
それを見た時、日向は何故か自分の持っていた新しいペンダントと入れ替えていた。その行動に自分自身わからずに、しずかの母親の写真が入った方を持ち続ける日々が続いていた。だが、ある日気づいたらポケットの中から消えていたのだ。
どこかで落としたのかもしれない。
しずかに詫びるには、自分が持っていたことをまず言わねばならない。そして、それを伝えるということは、何故摩り替えてしまったのかを話さなければならなかった。
無論、理由のわからぬことを話せるわけもなく、月日だけが過ぎていった。
「それじゃ、まだ…水仙の姫の欠格審議は行われている最中なのですね」
雅がそう答える。その背中を見つめながら、碓井は答える。
「とはいえ、復帰できる可能性はほとんどないと思います。
陛下のお慈悲で、お妃が決まるまではこちらにいられるかもしれませんが、決まり次第、水仙は追い出されるでしょう」
「そう…」
雅はそう答え、窓の外に広がる景色を眺める。
その声に、僅かばかりの哀れみを感じるのは、気のせいだろうか。
碓井は雅の背中を見つめながら、ポケットに忍ばせているペンダントをそっと握りしめる。
結局、渡せないままに、碓井はいつも持ち歩くようになっていた。
今が伝える時なのかもしれない。
声を出そうとしたところで、背後から冷たい声が雅の部屋に響き渡った。
「哀れか、あの野猿の姫が」
「隊長っ」
振り返ると、数人の騎士を引き連れた速水が無表情のままに立っている。碓井は慌てて、平伏した。
速水は、振り返った雅を見据えながら一歩一歩、雅に向って歩き出す。
「だが、それもこの世界の掟。
騙したものでなく、騙されるものが悪い。
他人を哀れんでいる余裕など、お前にはないのだ」
「わかっています」
前までは視線すら合わせられなかったというのに、今では真っ向から速水を見据えている。
そんな雅から視線から逃れるようにくるりと体の向きを変え、速水は呟くように答えた。
「それでいい。
昔に捕らわれているのは、あの野猿の姫だけなのだから」
速水はそれだけ言うと、カツカツと足音を鳴らして、部屋を出て行った。
緊張の糸がほぐれて、碓井は小さくため息をつく。ふと、雅に視線を投げかけると、再び碓井に背中を向け、窓枠についたその手が、微かに震えているのが見えた。
「…姫。姫は、以前、水仙の姫のご友人であったとか」
「昔の話です」
振り返ることなく、さらりと雅は答える。
その時手の震えは止まり、代わりにぴくんと何かに反応したように、碓井には見えた。
「では、その時に何かお約束されたことは？」
「約束？」
ええ。
その約束を、今でも水仙の姫は守るのだと言っているのです。
姫は。
姫は、一体どのような約束をされたのですか？
碓井はごくりと唾を飲み込む。開け放たれた窓から、吹き込んできた風が、ふわりと雅の髪を揺らした。
「それがどうかしたのですか？碓井さん」
何事もなかったように振舞う雅に、碓井は諦めて言った。
「いいえ。何でも、ありません」
少しばかり騒がしい。そう思っていたら、唐突に扉が開いて、桔梗の宮が現れた。
「お姉さまっ」
しかも、女性の姿で、だ。
通常は、この部屋に来るまで、桔梗は楓子爵として仮面をつけて現れるというのに。
しかも、関係の知れるような言葉を叫ぶとは。
「…私が許可するまでは、口を慎みなさいと言っているはずですが」
「ひどいわっ、お姉さまっ」
冷静に淡々と答える椿の宮とは対照的に、桔梗の宮は食ってかからんばかりの勢いだ。
「竜胆。白湯を」
「はい」
侍女の竜胆にそう言って、椿の宮はため息をつく。
二人だけになったところで、椿の宮は、桔梗の肩に手を置いて、諭すように言った。
「どうしたというの、桔梗。
そんな姿、誰かに見られでもしたら―」
「日向に何を言ったの？」
「日向？」
「聞きましたわ。
水仙の姫が釈放される前に、お姉さまがここに日向を呼び寄せたって。
その日以来、日向は全然私のところに来てくれなくなったの。
きっと、お姉さまが何か日向に言ったのね。
一体、何を言ったの？」
「落ち着きなさい、桔梗」
だが桔梗の宮は、その言葉を一向に受け入れる様子も見せずに、肩の手も振り払うと、更に椿の宮に言う。
「お姉さまはいつだってそうよ。
私が人を好きになるのが、許せないんだわ。
有世様の時だって、真っ先に反対したのは、お姉さまだった。
お姉さまは、悔しいんだわ。
自分が恋することができないから、誰かを愛することができないから、
それができるあたしが憎くてたまらないんでしょ―」
「落ち着きなさいっ」
思いがけずに大きな声が出る。
桔梗の宮は目を大きく見開いていたが、驚いたのは椿の宮も同じだった。
大きく息を吸い込むと、弾んだ胸を落ち着かせるように声色を落として言った。
「確かに、あの日成瀬日向を呼び寄せました。
あなたのことで、少し話もしました。
けれど、決めるのは彼自身です」
ハッとしたように桔梗の宮が椿の宮を見つめる。その視線には、不安が溢れていて、椿の宮のいくらか優しい声に戻って言う。
「姫があんなことになっては、隊長としての役目を果たしてないと罵られても、答えようがないでしょう。確かに、水仙の姫はお転婆がすぎるところはありますが、芯はまっすぐな人。
彼がきちんと姫のことを守っていれば、今回のようなことにはならなかったはずです」
それでも桔梗の宮の視線は、たえず不安で揺れ動いていた。
諭すように椿の宮は言う。
「落ち着きなさい。桔梗。
このままだと、水仙はこの桜王宮から追放されてしまうのですよ。
事が収まれば、彼もきっとあなたのところを訪れるでしょう。
それまで待つのです」
「つまり、水仙の姫は謹慎が解ければ、今まで通りの妃候補としてこの桜王宮に居続けると？」
暗い地下室のようなところで、鞍馬は思いがけず声を張り上げた。
静まり返った中で、その声は大きく反響する。
落ち着くように、と男は軽く咳払いをした。
どこかで見たことのある顔だと思ったら、いつぞや桂公爵の館で見かけた付き人だった。
人目につかないところで話をしたい、というので、鞍馬は初音舎の地下に連れて来たのだ。
鞍馬の声に反応して、誰かがやってくるかとも思ったが、暫く黙り込んでも何の物音もしないことで、安心した男は答える。
「まだ、決まったことではありません。
ですが、松侯爵亡き今、花族は、桂公爵、柊伯爵、そして楓子爵の三人のみ。桂公爵と柊伯爵が水仙を選ぶことはないでしょうが、楓子爵の票は見えません。
それに、人数が少なくなったこともあり、前王妃である椿の宮の影響力が、今まで以上に大きくなっています。そこにきて、水仙は、椿の宮との仲もいい。現に、今回の釈放だって、裏で椿の宮が動かれていたという話があります。
そして、楓子爵はその椿の宮の恋人とも呼ばれるほど仲がいいのです」
その先に言わんとしたことを、鞍馬は代わりに口にする。
「二対二、か」
花族と、椿の宮で票を投じると、水仙が得る票数は二票。
対して、残りの騎士団は三つだ。
唇をかみ締める鞍馬に、相手は追い討ちをかけるように言った。
「いいえ。桂公爵と柊伯爵の仲は必ずしもよろしいものではありません。場合によっては、票が割れることも」
仮に、桂公爵が菫を推したとしても、
柊伯爵が百合を推せば、楓子爵と椿の宮の二票と獲得した水仙の勝利になる。
「そして、何より、陛下が水仙の姫を望まれています」
それは確かなことだった。
力が入りすぎてか、口の中に微かな血の味が漂い始める。
どうやら唇を強くかみすぎたらしい。
鞍馬がそっと唇に触れると、ぬるりとした感触があった。
「それから。…実は、桂公爵より、ご伝言がありまして」
「何だ」
僅かな光の中で、男は整いすぎた顔を、壊すことなく答えた。
「足のつくような愚か者は必要ない、と」
血の気が、体中からすっとひいていくのが、鞍馬にはわかった。
思わず体がぐらりと揺れたが、壁に寄りかかることで、何とか倒れずにすんだ。しかし、男は鞍馬のそのような状況に気づいていながらも、淡々と話を続けた。
「今回のことに鞍馬様が絡んでいることを、一部の人間が気づかれており、そのことで桂公爵自身も疑いをかけられたとか」
何か言い返そうとする鞍馬に、男は変わらぬ表情のままに言った。
「失礼、いたします」
食堂では、長いテーブルの端と端に、しずかと日向が向き合う形で食事をしていた。
「そういやさ、聞きたいことがあった」
「なんだ」
しずかは、口の中の食べ物を飲み込むと、軽くグラスを飲み干して言った。
「…ヨネの婆さんがさ、言ってたんだ。
毎週、薬をもらいにやってきたって」
「陛下からの命だ。当然だろう」
「雨の日も、嵐の日も、欠かさず、毎週」
「病に雨も嵐も関係ない」
「じゃあ、なんで」
そこまで言って、しずかはごくりと唾を飲み込んだ。
「なんで、戻ってきたんだ。この世界に。
どうして好きでもない白鳥を娶った。
どうして、薔薇の騎士を辞めたんだ―」
カタン、と日向が手にしたグラスと、テーブルにいささか乱暴に置く音がして、思わずしずかは言葉を飲み込むと、日向が代わりに口を開いた。
「食事中は、声を荒げるな。
椿の宮から教わらなかったか」
そういいながらナプキンで口許を拭う日向に、思わずしずかはテーブルを叩いて叫ぶ。
「聞けよっ、あたしの話っ」
「お前こそ、聞き方が回りくどい。
らしくないんじゃないのか。
一体、何が聞きたい」
しずかは思わず立ち上がると、その弾みでグラスが床に落ちた。
「森宮佳乃のことを、愛してたのかどうかってことだよっっ」
ガシャンとグラスが割れる音がして、蓬が慌ててその破片を集めた。
日向は軽く咳払いをして、淡々と答える。
「佳乃様には陛下が―」
「有世は、関係ないっ。
お前はどうだったかって聞いてんだっ」
しずかがそういうと、日向が顔を上げて、ジロリとしずかを見返した。
「じゃあ聞く。
その質問に答える義務が俺にあるのか？」
それは、としずかが言葉を詰まらせると、日向がそれを無視して蓬に声をかける。
「蓬。次の食事を運んでくれ」
「は、はい…」
割れたガラスを手にしながらも、蓬がそう答えて台所へと向おうとしたところで、しずかがナイフを日向に投げつけた。ドンッという音がして、それは日向の後ろの壁に突き刺さる。
日向の近くにいた石崎が、ひぃと声をあげて、腰を抜かした。
「抜刀禁止。桜王宮の掟だ。それも忘れたの―」
「うっせーっっ」
日向の淡々と語る声を遮って、しずかはその声を貴丹舎中に轟かせた。
「だったら、あたしをただの道具として扱うな。
お前の復讐劇に付き合う義理は、あたしにはないっ」
それだけ言うと、しずかは踵を返し、食堂を出て行った。相川が慌ててその後を追いかけようとする。
「しずか様っ」
だが、それを日向が制して言う。
「いいから、放っておけ。
但し、この貴丹舎からは一歩も出すな」
しずかは、そのままの勢いでこの貴丹舎を出て行こうとした。
日向と同じ屋根の下なんて、まっぴらだ。
ったく、何なんだよ、あの態度は。
偉そうにっ。
だが、玄関には厳重な鍵がかけられていた。無理やりあけようとしたところ傍にいた騎士がそれを制し、仕方なくしずかは階段を踏み鳴らして、自分の部屋へと向った。
「あーくそっ、むかつくっ」
部屋に入ったところで、テーブルにあった林檎を寝室に投げ込む壁にぶつかる寸前のところで、誰かの手がそれを掴む。そして、聞き覚えのある声がした。
「まあ、そう怒らない。
せっかくの綺麗な顔が歪んで見えるよ」
「鞍馬」
しずかは、そう呟く。
鞍馬は、片手に持った林檎を、一口かじると、にっこりと微笑んだ