THE FLOWER GARDEN
桜の章25
日も暮れ、日向が疲れた様子で貴丹舎に戻ると、バタバタと相川や蓬たちが緊張した面持ちで集まってきた。
「どうでした？隊長」
「しずか様は？」
だが、日向が無言のままに首を振ると、落胆のため息が返ってきた。
「…やっぱり、厳しいんですね」
「でも、しずか様は何者かに騙されて―」
「蓬。根拠もないことを口にするな」
ぴしゃりと日向にいわれ、蓬は黙り込む。その落胆は、波紋のように水仙組の騎士たちに広がって行く。その前を日向は少し項垂れたままに自分の部屋へと向う。
「隊長、私たちはどうすればいいのでしょう？
どうすれば、しずか様を牢屋から釈放することができるのでしょう？」
相川が部屋に入ろうとする日向をそう言って引き止めた。
日向は扉に手を伸ばしながら足を止めると、ぽつりと呟いた。
「とにかく今は、待つしかない。
…悪いが、少し休ませてくれ」
「…はい」
扉を閉めると、廊下から騎士たちのため息が聞こえてきた。
だが日向が言ったことに、嘘偽りはなかった。
仮にしずかが罠に嵌められたのだとしても、それは罠にかかった者が悪い。
それがこの桜王宮の掟。
それに、手は尽くしたのだ。後は、待つしかない。
待つしか。
息苦しさを感じ、日向は喉のホックを外すと、そのままベッドになだれ込んだ。それから、寝返りをうち、大きく手足を広げるとため息をつく。
桜の枝を折り、不敬罪として近衛に捕らわれ投獄されたしずかを、何とか連れ戻そうとしたが、実際にしずかの犯した罪は拭いきれず、日向なりに手は尽くしたものの、釈放は厳しい。
有世もしずかを何とかしようと動いているようだが、結果は同じだった。
不敬罪に問われれば、まずこの桜王宮から追放されることは免れないだろう。
それはつまり、しずかが妃候補失格の烙印を受けたことになる。
そして、日向はおろか水仙組自体も、しばらくは桜王宮への出入りを自粛しなければならない。
きつく目を閉じた日向の耳に、鋭く扉をノックする音が聞こえた。
「日向様。
椿の宮が、お呼びだそうです」
客室で待つよう言われた日向が、ぼんやりとした頭でテーブルに飾られた椿を見つめていると、椿の宮は一人で現れた。
そして、単刀直入に話を始めた。
「しずかさんのこと、伺いましたわ。
陛下も、釈放されるよう動かれているとか」
穏やかなその表情からは、椿の宮が何を言わんとしているのかが伺えずに日向は曖昧に返事をする。すると、そんな日向に気づいてか、椿の宮は一旦言葉を切って、真剣な表情で話し出した。
「色々と噂は耳にしています。
おそらく今回のことを仕組まれたのは、しずかさんのことを快く思わない人の仕業」
「椿の宮様―」
はっとした日向が思わずそういうと、椿の宮はにこりと微笑んだ。
「ですが、規則を破ったのはしずかさんの罪」
口許を引き締めた日向に追い討ちをかけるように椿の宮は続ける。
「知っておいででしょう。
この桜王宮は人の欲望がうごめく恐ろしいところ。気を抜けば最後。誰かに蹴落とされても、それは蹴落とされた者に落ち度があったとして扱われることを。
少なくとも、貴方は」
そう言って椿の宮は真摯に日向を見つめた。
椿の宮の言うことは最もだった。
今まで、絶えず気を配っていたはずだったのに、ここ最近のしずかの動き方といい、誰かの罠に嵌りかけていたのは事実だった。
そう、これは自分の責任なのだ。
気づいていながら、しずかを向き合うことを避け、しずかから逃げていた自分の。
項垂れる日向に、椿の宮は優しく言葉をかける。
「とはいえ、私も卑怯なことをする人は許せない性質ですの」
椿の宮はそこで言葉を一旦切った。
「しずかさんが、釈放されるよう、私も働きかけてみましょう」
「椿の宮様…」
前々妃にあたる椿の宮ならば、それも可能かもしれない。
日向は目の前に一筋の光が差し込んだ気がした。
日向と目が合うと、椿の宮は再びにこりと微笑んで、但しと言った。
「但し、条件があります。
成瀬様は、ここ最近、桔梗のところに毎日のように通われているとか」
想像以上に、日向はドキッとした。
「…それは」
秘めた恋がばれることを恐れたのではなく、
ましてや桔梗の宮の実姉である椿の宮からの咎めを恐れたわけではない。
そんな日向の心を見抜いたかのように、椿の宮は言う。
「私はそれは構わないのです。
二人が恋仲になっても、双方の同意であれば。
ですが、あの子を逃げ場にするのはやめていただきたいのです」
それは椿の宮の立場からすれば、当然のことであった。
ましてや桔梗の宮は、かつて恋に破れたことで、自殺を図っているのだ。
日向とて、何も気づかずに桔梗の宮のところに通っていたのではなかった。どこか心の奥底で、桔梗ならばこのような自分でも追い出さないことをわかっていたからこそ、一定の距離を保って、付き合っていたのだ。
椿の宮は慈悲深い声で、最後に言った。
「そして、きちんとしずかさんと向き合うこと。
それが釈放の条件です」
「…隊長、夏目隊長っ」
ぼんやりとした景色がだんだんと輪郭を現していくように、背中越しの戸田の声がはっきり聞こえたところで、ハッとした夏目は振り返った。
「どうした、戸田」
そんな夏目に怪訝そうな表情を見せ、戸田は疑うように言った。
「私の話、きちんと聞かれてましたか？」
聞いているはずだった。
少なくとも、頭の片隅では。
しかし、今の夏目の意識は、この薔薇にはない。
「新しい騎士の話だろう。そのあたりは、もとより戸田、お前に任せてあるはずだ。
すまないが、用事があるので、私は―」
「隊長っ」
急ぎ足で部屋を出て行こうとする夏目を、戸田が引き止める。
「落ち着かれてください。
先ほどから、ずっと足が止まらず歩かれています」
ハッとして足元を夏目が見つめると、足を止めた今でさえ、憔悴を隠せないのか、微かに地を踏み鳴らしていた。
戸田が半ば呆れた声を出す。
「水仙の姫ならば、おそらくそう簡単には釈放されませんよ」
「戸田―」
「釈放されても、すぐにこの桜王宮から追放されましょう。そして、黄仙館に実質幽閉されるか、あるいはこの世界から出て行かれるか、いずれにしても、もう二度と会うこともない」
そこでうっすらと微笑む戸田を見て、思わず夏目は言い返した。
「戸田、やはりお前。しずかに何か言ったんだな」
僅かに激しくなった夏目の口調に動じることなく、戸田は頭を下げて答える。
「私はただ、薔薇の副隊長として、薔薇の繁栄の為お願いしたまで」
何か言い返そうと思う夏目だが、戸田の言っていることの正しさに、思わず口を噤む。
だが、ふいに思ったことを、つい夏目は口にした。
「お前まさか、今回のこと―」
「流石の私でも、水仙を貶める以上に、陛下の名まで穢すようなことはいたしません。
ですが、私以外にも、水仙の姫を恨んでいる人がいたということでしょう」
しずかが罠に嵌められたという事実は、噂としていくつかの尾ひれをつけつつ、広まっていた。
だがそれは、嵌められたしずかの、ひいては水仙の落ち度。
仮に犯人がわかったとしても、しずかの罪が拭われるわけではない。
夏目はぐっと手を握り締めた。
桜王宮の牢獄は、獄と呼ばれるだけあって、煌びやかな宮殿とは異なり、簡素な建物だ。
陽も当らず石の壁から漏れてくる冷たい風に、時には凍死するものもいるという。
いくらしずかが強いとは言え、そのような仕打ちに耐えられるかどうかは、別問題である。
項垂れる夏目に、戸田は優しく話しかけた。
「お忘れください、隊長。
そして、隊長の為に、ひいては薔薇の為にこれから何をすべきか、お考え下さい」
通された広間の中央に、その人物は座っていた。
そして、椿の宮が入ってきたことに気づくと、徐に立ち上がり、ゆっくりと振り返る。
「お久しぶりです、椿の宮様」
奥にはいくつもの灯りが灯っており、そうして背に光を受けているというのに、暗闇を感じてしまうのは、受ける陰鬱な印象の為なのだろうか。
そんなことを思いながら、椿の宮は、近づいてきた桂公爵にそっと右手を差し出す。
桂公爵は、その手に口付をする。
その手も、その唇も、ぞっとするほどの冷たさだった。
「お付の者は？」
椿の宮がそう言うと、桂公はその唇を離しながら答える。
「人払いいたしました。
その方がよろしいのでは？」
「ええ、そうね」
桂公はゆっくりと椿の手を引きながら、ソファへと誘う。だが、その直前で、椿の宮は桂公から手を離すと、そのまま窓辺に立ち、外の景色を眺める。
桂公はその後姿を満足そうにながめると、椿の宮と背中合わせになる自分の席にゆっくりと腰を下した。
「懐かしい。この館に初めていらした時も、貴女はそこで、そうして窓から見える景色を眺めていた」
「もう何年も昔のことを、よく覚えていらっしゃるのね」
「ええ。忘れられません。
そのあまりにお美しいお姿に、一目で心を奪われたのですから」
桂公はその時を思い出すように目を閉じる。
「初恋、でした。
結局貴女は陛下の下へと嫁がれましたが。
あの時、私は誓ったのです。
もう二度と、女の人を好きにはならないと」
目を開けると、目の前には変わらぬ気高い表情で椿の宮がソファに座っていた。
「それで、話は何でしょうか」
「単刀直入に申し上げますわ。
西園寺しずかを、釈放していただきたいのです。
貴方ならば、それも可能でしょう」
テーブルに置かれてあったグラスを手に取り、一口飲むだけの間があってから、桂公は答えた。
「初恋の君である椿の宮の頼みとあらばいくらでもお受けいたしますが、それに関しては申し訳ないがお断りいたします。
どの世界にも規則がある。
その世界に入るものであれば、その規則は絶対的。
世界を保つためにも、それを破ったものを、認めるわけにはいきますまい」
二人の視線は、真っ向からぶつかっていた。
どちらも揺るがない強い視線を、最初に和らげたのは椿の宮だった。
「紫の桜の伝説を、ご存知？」
「紫の桜？なんでしょう、それは」
「水仙の姫お付のものが、桜稜殿の侍女たちから聞いた話だそうです。
何でも、その桜を食された者の願いは、何でも叶うとか」
くすくすと桂公の乾いた笑いが部屋に響く。
「聞いたこともありません。ただの御伽噺でしょう。女というものは、そういった類の話が大好きですから」
「同じ日、水仙の姫のもとに、陛下から手紙が届いたそうです。その手紙には、陛下ご自身が紫の桜を欲するような言葉が綴られていたとか」
動じない椿の宮に、桂公はほうとだけ答えた。
「ですが、陛下はそのような手紙は書かれていないとおっしゃる」
桂公の、上がっていた唇の両端が、僅かに震えた。
「西園寺しずかが折った紫の桜は、色を塗り替えた偽物。
何より、桜稜殿より手紙を侍従に託したものも、侍女連中に紫の桜の話を吹き込んだ者も、つい最近まで松伯爵のところの侍女だそうです。
そしてその侍女を、桜稜殿に入れたのは、菫組隊長・鞍馬だとか。
薄紅の桜の花に、薄い藍色をかぶせれば、紫色に変わりましょう」
桂公は背もたれに深く寄りかかるようにして、天井を仰いだ。
「では、怪しいのは鞍馬でしょうな。
確かに、鞍馬には動機がありましょう。何せ今はお妃選びの最中ですから。
どんなライバルでも、いないほうがましというもの―」
「そしてその鞍馬が、ここ最近こちらに通われているという話も、聞いております」
ふむという小さな吐息がして、桂公は体を起こすと、先ほどとは異なり無表情のまま、椿の宮を見つめ返した。
「確か水仙がこの桜王宮にやってきた初めの夜を過ごしたのは、椿の宮様の邸宅だとか。
西園寺しずかに作法を教えたのも、椿の宮様。
成瀬日向の為ですか？それとも、西園寺しずかの？」
椿の宮を見据えるその瞳の陰には、炎のようなものが見えた気がした。
椿の宮は小さく息をはく。
「どちらでもありませんわ」
炎が僅かに揺らいだ。
「私にとって守りたいものは、いつだってあの子ひとり。
あの子の為ならば、鬼にだってなってみせます」
「さっびー」
しずかはそう呟きながら、体をさする。
この牢屋には、ベッドなどというものもなく、渡された布は薄汚れているばかりか、しずかの着ている服よりも薄く、まだところどころに穴が空いている始末だった。
こんなんで眠れねーっつの。
麗らかな春の陽気とばかり思ってた桜王宮だが、ここはまるで別世界のように薄暗く、何より寒い。
場所はわからないが、馬車に乗せられ、かなりの時間乗っていたようにも思うから、桜王宮の中でも端のあたりなのだろう。
「あー、さみーよっ。くそっ
このままじゃ風邪引くだろうっ。
何か温かいもん貸してくれよっ」
しずかはそう言って、扉の上部に作られた格子から、僅かに見える廊下に向って叫んだ。
だが、答えるどころか、誰も現れるような気配はない。
それでも、壁側に立つよりはいくらか温かかった。
何せ石壁からは、外からの冷たい隙間風が入ってくるのだ。部屋には窓のようなものはなく、隅に置かれた灯りだけが、この部屋を照らしていて、今が何時なのかすらわからない。
だが、体が疲れていた。
眠りたい、とは思うものの、その眠りを刺すような冷たさが遮る。
「あーっ、畜生！」
思わずそう叫ぶと、隣の牢屋から見知らぬ男の声が聞こえてきた。石壁の隙間から、お互いの声が漏れ聞こえるようだった
「無駄だよ。いくら叫んでも、誰も来ない。来るわけがない。
ここに入れられれば、半分の人間はこうやって死んでいく」
思わずしずかは、叫ぶのをやめ、隣の話に聞き入った。
「あんた、水仙の姫様だろう。野猿姫とか言う」
「野猿ってのだけ、余計だ」
しゃがれた笑い声が聞こえ、それから男は一通り笑い終わると、こう言った。
「あんたもかわいそうにな。
あの成瀬日向って男の復讐の道具にされて」
「復讐？」
「そう。愛する女の為の復讐さ」
しずかは仕方なく床に座り込み、呆れたように答える。
「女って、佳乃か」
再び笑い声が響く。
「こりゃ驚いた。前妃様を呼び捨てかい。
流石だねぇ。
その通りだよ。あの男は、殺された森宮佳乃様の犯人を見つけ、復讐するためにこの世界に戻ってきたんだよ」
「殺されたって。噂、だろ」
乱暴にしずかがそう答えるが、男は自信ありげに答える。
「噂かどうか。この世界じゃ、そんな話は日常茶飯事だからな」
笑い飛ばそうとしたしずかだったが、ふいに声を潜めた。
「…お前、何か知ってるのか？」
返事はない。
だがしずかは、そこに真実があるように思えた。
「おいっ」
大声を上げ、壁を叩いていると、ふいに廊下から別の声が響いた。
「静かにしろっ」
その時、いきなりまばゆい光が暗闇の中にいるしずかを照らした。
思い扉が開かれたのだ。
あまりの眩しさに、しずかは思わず手を翳し、扉の向こうをじっと見つめた。
光の中から、人影が見える。
もしかして、と思った瞬間、しずかは強く抱きしめられていた。
漂ってくるのは高貴な香。
「しずか…」
耳元で囁くその声に、しずかは答える。
「あり、せい…。どうして？」
有世はしずかの問いに答えることなく、しずかの頬や髪、手や肩などに触れながら話し続けている。
「何もなかったか？ああ、こんな寒いところにいたから体が冷え切っている。すぐに温めねば」
「ああ、でも。…大丈夫、だから」
しずかはそう答え、視界に映った人影に、小さく息を呑む。
やっぱり。
そう思ったのは、先ほど光の中に見た人影が、有世ではなく日向だと思ったからだ。
何の根拠もない、ただの予感でしかなかったが、それでも、そこに日向がいるはずだと、しずかは直感で思った。
だが、有世の肩越しに見えた日向は、しずかと目があうと、自然とすっと視線を逸らす。
日向？
有世の腕に抱かれながらも、しずかはじっとその先に立つ日向を見つめていた。