THE FLOWER GARDEN
桜の章23
本来ならば明るい月が照らされている夜のはずなのに、今夜は雲行きが怪しい。
さしたる灯りもない暗闇の中を、鞍馬は名馬・疾風と共に急いでいた。
桂公爵からの使者が来たのは、つい先ほどのこと。
『至急、来たれし』
との言葉だけが、戸惑う鞍馬に渡された。
よほど、何かが起こったのかもしれない。
否そもそも、しずかをこの桜王宮から追放する任を得ていながらも、そうすることすらできず、むしろ陛下にしずかが認められつつあることを、叱咤したいのかもしれない。
確かにこのところ、思ったように動けなかったのは事実だった。
松伯爵の死を受け、その松伯爵に仕えていた撫子を身の置き所について、方々走り回っていたのだ。おかげで、撫子は、桜王宮への勤めが決まった。
これで、桜王宮の動きもわかる。
その一方で、鞍馬としては貴緒から受けた新たな提案を、受けるか否かで悩んでいた。
すくなくとも、貴緒様は、私が着いてくるものだと信じている。
だが、あまりに大それた提案に、鞍馬はうまく行くとも思えなかった。
ならば、方法はどうであれ、桂公爵についていくしかなかろう。いざとなれば、乗り換えればいい、それだけのこと。
「急げ、疾風」
鞍馬はそう呟いて、疾風の手綱を強く持った。
人目を避けるように館に入り、通された広間に、桂公爵はいた。
正確にいえば、その中央で、苛立ちを隠しきれないように、何度も歩き回っていた。
「お呼びでしょうか、桂公爵」
そう言って、叩頭する鞍馬の耳に、ピシャリと鋭い音がする。
驚いた鞍馬が思わず顔をあげると、蝋燭の灯りに照らされ、暗闇に桂公爵の青白い横顔が浮かび上がっており、鞍馬は生唾をゴクリと飲み込んでしまった。
鋭い音は、その手にある扇子を閉じた音のようで、その音を聞き、お付きの者が静かに広間を出て行き、鞍馬は桂公と二人きりになる。桂公は、暗闇の一点を睨みつけていたかと思うと、その扇子を再び開き、椅子にどかりと座り込んで、鞍馬に向き直る。
「全く持って、女とは無能な生き物」
いきなり言われた鞍馬は、戸惑いながらも、はぁと頷いた。
「あの売女、この私に逆らうとは」
誰のことを言っているかわからずに、鞍馬は尋ねた。
「…売女とは、西園寺しずかのことで―」
「あんなものっ、人間でなくただの動物と同じだっ」
「…失礼いたしました」
ただでさえ高めの声が、更に高くなる。
まるで女のヒステリーだと思いつつも、鞍馬は口を閉ざし、考え込む。
とすれば、誰のことを言っているのだろう。
鞍馬が黙り込んだ為なのか、桂公は大きく独り言を呟き続けた。
「前回同様、自分の立場もわきまえず、くだらぬ男に惹かれるとは。しかも、このような重要な時に。
黙って大人しくしておれば、妃にしてやるものを。
陛下も、陛下。身勝手に動き、私の忠告を無視しおって」
前回同様？
妃にしてやる？
…桂公は、白鳥華夜乃を王妃に置こうとしていたのか。
鞍馬はそう思ったところで、少し安心をした。
なるほど、華夜乃はあらゆる意味で妃には相応しい。
そもそも権力というものに興味がないのだから、操るのも容易いはず。
ただ一点、恋に落ちやすいことを除いては。
大方、相手は例の薔薇の副隊長であろう。
それを理由に、妃の座を拒否したのだろうか？それとも？
考え込む鞍馬に、桂公は突然話かけた。
「ところで鞍馬、野猿を追い払う件はどうなっておる？」
思わず鞍馬は姿勢を正す。
やはり、そう来たのか。
鞍馬は床に着くほどに頭を下げ、早口に答えた。
「はっ。申し訳ございません。色々と策は練っているものの、どういったわけか陛下のご加護がありまして、中々思うように動けない状況でござ―」
「鞍馬」
自分の名を呼んだ桂公の声の深さに、鞍馬は思わずゾッとした。
はい、と答えると、桂公はその声のままに続けた。
「この世界の中心にいるのは、誰だ」
鞍馬は答えないことで、桂公の出方を待った。
案の定、カタンと音がして、桂公は立ち上がる。
「この私だ。
有世などではない。この私なのだ。
よく、覚えておくがいい」
地の底から燃え上がるようなその声に、鞍馬は更に頭を床に押し付け、大声で「はっ」と返事をする。すると、桂公の気分もいくらか収まったのか、再び席につくと、今までの耳につく少し高い声が聞こえてきた。
「ところで、旧柏男爵邸が改修されはじめたこと、お前は知っているのか」
「え？いいえ…」
心の中で舌打ちをする鞍馬に、桂公はくすりと笑い声をあげる。
「女に手を焼くのも結構だが、ミイラ取りがミイラにならぬよう気をつけることだな」
全て見通しているとでもいいたげな桂公に、鞍馬は顔を背けた。それを見て、桂公は軽く咳払いをすると、真剣な顔つきに変わって話を続けた。
「有世が何か動こうとしている。
その前に手を打たねばならぬ」
桂公はそこでニヤリと微笑むと、鞍馬を見つめて言った。
「まずは、あの野猿からだ」
しずかはその夜、珍しく寝室にて窓枠に寄りかかりながら空を見上げた。だが、曇りがかった夜空には、星はおろか月すらも見ることができない。
しずかは諦めて、窓を閉めると、ベッドに横になった。
雅には手紙を書き、渡した。
夏目とも、もう二人きりで会うこともないだろう。
どちらもしずかが選んだ道なのだ。
寝返りをうつと、階下で何やら物音がした。
ようやく日向が戻ってきたのだろうか。
ここ数日、日向は朝早くに出かけては、夜遅くに戻ってくるという生活を続けているらしく、さっきも石崎が相川に怒りながら言っていたことを思い出した。
「行き場所を教えていただけないのです。
この、まさしく妃選びの重要な時期にですぞっ。
隊長としての任をどうお考えか、一度はっきりと聞いてみたいものだっ」
実際しずかも、ここ何日も日向と言葉を交わした覚えがない。
一昨日の夜、顔を会わせたが、言葉を交わすことはなかった。
あの時の日向。
ちょっと、おかしかったな。
生きてる感じがしなかったっつーか…。
何を考えてるのかは、相変わらずわからなかったけれど。
石崎に怒鳴り続けられていた相川を庇っているのか、その場にいた蓬が口を挟んだ。
「そんなに怒鳴ることないでしょう、石崎副隊長。
聞きましたよ。先日日向様は、陛下のご徴集にあわれたとか。
その日の午後には、あの旧柏男爵邸の改修工事が始められたんですよ。
これはもう、巷の噂と同様決まりということでしょう。
その証拠に、今回の貴緒様との一件。すべて陛下がお治めになったそうじゃないですが」
それは、と石崎の言葉が詰まったところで、蓬はまるで自分のことのように嬉しそうに答えた。
「新しいお妃様は、しずか様で決まりです」
つられたように相川も、微笑んだ。
だが、しずかは素直に喜べるはずもなく、その会話を聞くのが辛くなって自分の部屋へと戻ったのだった。
『お妃様は、しずか様で決まりです』
だけど、あたしは…。
肩を落とし、床をじっと見つめているしずかの前に、バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえたかと思うと、慌てた様子の蓬が顔を出した。
「しずかさまっ」
余程全速力で駆け上がってきたのか、蓬はそう言ってから、大きく深呼吸をした。
そのただならぬ様子に、思わずしずかが立ち上がると、蓬はいくらか呼吸を落ち着けてこう告げた。
「陛下がっ、陛下がいらっしゃいましたっ」
「え」
一瞬にして、しずかの頭は真っ白になる。
それから、ハッとなり、一瞬後ろの窓を見た。
追い返すのか、
それともここから逃げだすか。
だが、そう思っている間に、柔らかな声がしずかの寝室に響き渡っていた。
「やあ」
近衛の持つ灯りを、まるで後光のようにして、扉のところには、有世が立っていた。
雅が寝に入ったのを受け、その日の任務終了となった碓井は、自分の部屋に戻っていた。
副隊長という立場から、碓井にも個室が割り振られているが、そこはベッドと小さな机しかない、速水とは比べ物にならない場所である。
ため息をつきながら、碓井はベッドに倒れこんだ。
大きく息を吸い込むと、胸のポケットに入れたものが気になり、碓井はそれを取り出して目の前に揺らしてみせる。
青いリボンの結ばれたペンダント。
水仙の姫から、我が百合の姫に渡された手紙。
だが、言葉は何も書かれてなどいない。
いったい、どんな暗号があるというのだろうか。
ゆらゆらと揺れるそれを見ていた碓井の耳に、ふいにカツカツという誰かの足音が聞こえ、慌てて碓井は起き上がる。
まさか、速水隊長？
と同時に、ペンダントが手からすり抜けて、音を立てて床に落ちた。
ベッドの側に直立不動になる碓井だったが、その足音が自分の部屋の前を通り過ぎると、ほっと安堵のため息をついた。
そして、はっとペンダントのことを思い出した。
あの割れる音。大丈夫だったろうか。
碓井の予想は見事的中し、ペンダントヘッドは二つに割れてしまったかのように見えた。
慌てて手に取ると、それは二つに割れてしまったのではなく、単にロケットの蓋が開いてしまっただけだった。
ああ、よかった。
安心して碓井は床に座り込みそうになり、ふと足元に見たことのない紙切れが落ちていることに気づいた。几帳面だと速水から褒められることもあり、碓井は床にゴミや埃が落ちぬよう、日々綺麗に保つようにしているというのに。
なんだ、これは。
小さく千切りとったような紙には、走り書きのような言葉が記されていた。
「約束は、永遠だ。
あたしは、雅を守る。
だからあたしが、雅を傷つけるようなことはしない。
絶対に」
寝室にはしずかと有世しかいなくなっていた。
しずかが人払いをしたのだ。
蓬などは顔を赤らめて、慌てて部屋を出て行ったが、しずかとしては、単純に聞かれたくない話だったからにすぎなかった。
ソファーに座り、寛ぐ有世の世間話をいくらか聞いたところで、しずかは唐突に頭を下げ、頼みごとをした。
一瞬の間があってから、有世はしずかが言ったことを繰り返して尋ねた。
「百合の姫を妃に？」
振り返った有世の顔を、一瞬だけ雲の隙間から覗いた月の光が照らす。
有世の驚いた表情は、だがすぐに暗闇に飲まれていき、しずかは頷くと、話を続けた。
「そうだよ。雅は有世のことが本気で好きなんだ。
だから、あんなに速水にどやされても、貴緒に苛められても、ここでこうして頑張ってる。
森宮佳乃の真似事までして」
速水のいびりにも、雅は口答えせず、ただじっと耐えてきた。
貴緒からの毒入りといわれた紅茶も飲み干した。
自らを無くし、前妃である森宮佳乃になりきってまで、有世の心を引きとめようとした。
しずかは、雅のその一途な気持ちを、他の誰よりも強く感じていた。
有世は、そう話すしずかを初め見つめていたが、もう一度夜空を仰いで、はっきりと答えた。
「それは、できない」
「何でだよ」
しずかは思わずそう怒鳴りつけて、有世に駆け寄った。
睨まれるかと思っていたしずかだが、逆に有世は悲しそうな表情で答えた。
「私は、百合の姫に佳乃の真似事までさせてしまったのだな」
え？と逆に戸惑うしずかに、有世は丁寧に答えた。
「仮に私が百合の姫を選んだとしよう。
周囲からは今以上に比べられ、そして決して佳乃以上の評価は受けられずに、彼女は苦しむだろう」
「評価するのは、他の奴等だろ。そんなの有世が、雅を佳乃以上に愛せば、関係なくなる。雅だって佳乃の亡霊から解放されるんだっ」
激しく詰め寄るしずかと違って、有世は至って冷静だ。しかし、決して冷たく言っているのではない。
ブルーグレーの瞳には、深い悲しみが映し出されていた。
「それは違う。
おそらく彼女は、私が自分の中の佳乃を愛しているのだと思い込み、余計に苦しむに違いない。
死んだものの評価は、いつだって絶対的なのだ。越えたくとも越えられるものではない」
しずかはそこで言葉を呑んだ。だが、あの紅茶を飲み干した後にしずかに向けた雅の強い視線を思い出す。
「雅はもう十分苦しんでる。できることなら、ここから逃げ出したいくらいに。でも」
そこでしずかは言葉を切った。自分の思いとも打ち切るために。
「でも、有世のことが好きなんだよ。
有世が一生懸命、雅のこと大切にすれば、あいつは幸せになれるんだ」
それがしずかの出した答えだった。
『約束は、永遠だ。
あたしは、雅を守る。
だからあたしが、雅を傷つけるようなことはしない。
絶対に』
碓井はそっと声に出し、しずかから雅に書かれた手紙を読み上げた。
『約束は、永遠だ』
つまり、二人は何かの約束をした、ということか。
『あたしは、雅を守る』
その約束の結果ってことか、それとも約束自体のことか。
『だからあたしが、雅を傷つけるようなことはしない。絶対に』
水仙の姫が、姫を傷つけない。
しかし、二人はすでにライバルなのだ。
となれば、互いに傷つけあうことだって、あって当然。
なのに、傷つけないなんて…。
いやいや、『野猿の姫』とまで言われる水仙の姫のことだ。傷つけないというのは、本当の傷の意味かもしれない。つまり、手は出さないということ、か？
そこまで考えて、碓井は大きくため息をついた。
やはり暗号だったのかもしれない。
私には、解読不能なのだ。
二人にしかわからない内容に違いない。
かつては友人だった、二人。
だが、今は妃の座をかけて、憎しみ合うようになってしまった二人。
姫は陛下を懸想なさっていて、本心から妃になり、お側についていたいと考えている。
その一方で、水仙の姫は、陛下と仲がよろしいようで、先日も二日かけて陛下の寝殿にお泊りになったとか。
それを知った姫は、本当にお心を痛めて―。
「あ」
思わず、碓井は声を出して起き上がった。
もしかして、これは…。
水仙の姫は、妃の座を諦める、ということなのだろうか。
碓井は思わず、ペンダントと手紙を持って、雅のところに出向こうかと思ったが、ふと時間が気になり、足を止めた。足を止めると、その考え自体に、疑問を持ち始めてしまった。
時期を見よう。
姫にお見せするのは、水仙の姫の出方を待ってからでも、遅くはあるまい。
「雅は、有世のためだったら、命だって惜しまない」
力を振り絞るようにしてしずかは訴える。
だが、有世は悲しそうに微笑むだけだ。
「有難いことだとは思う、だが」
そして、一旦そこで言葉を切ると、有世は一歩しずかに歩み寄った。
「私には、もう心に決めた人がいる。だから、彼女を愛することはできない」
その視線が自分で止まったことが、なにを意味するのかを、しずかは一瞬で感じた。
そうであってはならないと、先に雅の話を切り出したのは自分だったのに。
澄んだ瞳に見つめられ、しずかは思わず言葉を無くしてしまった。
しずかが何もいえずにいると、有世は、握り締めていたしずかの右手を取り、そっと優しく包む。
「しずか。この先、どうなろうとも、私はお前となら、ただ自分の意志で、自分の道を進んでいける」
優しさだけでなくしなやかさを帯びた声が耳に囁かれ、しずかは有世の手を、荒々しくふりはらうことができなかった。
だが、忘れかけていた雅の視線を思い出し、空いていた左手で何とかその手を振りほどこうとした。
「あんたは、何もわかっちゃない。
ただ、あたしみたいなのが珍しいだけなんだ。ただの興味、好奇心なんだよ」
しかし、有世はその左手までもそっと包み込む。
しずかの瞳には、有世だけが映っていた。
何かが狂ってしまいそうだ。
しずかは慌てて視線を落とし、心の中で強く呟く。
ただの、好奇心なんだ。、そうなんだ。
そう思い込もうとした。
しかし。
「例えそうだったとしても」
思わずしずかは視線を上げる。そこには真剣な有世の表情があった。
「それが恋にならぬと、誰が言った」
もう駄目だとしずかは思った。
いけないと思うのに、どうしてか体が有世を受け入れようとしている。
自然と二人の距離が近づいていき、しずかの顔に有世の吐息がかかる。
思わずぎゅっと目を瞑ったところで、ふいに有世の吐息が消えた。
慌ててしずかが目を開けると、有世はしずかから視線を上げて、その向こうに話しかけていた。
「…日向」
慌ててしずかも振り向くと、そこには頭を下げた日向がいた。
「失礼いたしました。陛下」
有世が出て行った後で、しずかは残った日向に言った。
「呼んだ覚えはないけど」
「陛下がいらしたと聞いて、ご様子を伺いにきただけだ。邪魔したようだな」
そう言って、テーブル越しにしずかの反応を見る。
帰ってみれば、有世がしずかの部屋にいるという。
今夜、二人は結ばれるかもしれない。そう思い、いてもたってもいられなくなり、気づけばしずかの部屋の前に立っていたというのに、その気持ちを微塵も見せずに、日向はただじっとしずかを見つめていた。
「別に、そんなこと、ない」
視線に気づいたのか、それともやましい気持ちがあるのか、しずかはぷいっと顔を背け、立ち上がると窓辺に佇んだ。
そういわれて、いくらか安心した自分がいた。
そんな自分に日向は激しく失望をした。
日向は、そんな自分を否定しなければならなかったはずだった。水仙の隊長として。
「それでいいのか？」
陛下を愛しているのだろう？
しずか自身が気づく前から、日向は気づいていたつもりだった。
そもそも、そうなるようにと自分が仕向けたのだ。
そして、見事にしずかと有世は、日向の策略に嵌った。
だが、しずかは今揺れている。雅との友情の狭間で。
恋を取るのか、友情をとるのか、それとも、自分の気持ち自体を否定するのか？
しずかは窓の外に広がる暗闇を見つめながら答えた。
「…いいんだよ、どうせ不釣合いだし」
日向は気づかぬうちにテーブルの水仙を握りしめていた。香がぱっと広がり、そうして消えて行った。