THE FLOWER GARDEN
桜の章22
碓井が広間に戻ってくると、扉の真正面に速水が立っていた。自分に向けられたその背中に、思わず碓井が足を止めると、気づいたのか速水が言った。
「どうした、野猿の姫は」
「無事、帰られました」
「そうか」
その背中には、言った言葉以上の思いは感じられない。
予感と言うのにはまだ早いが、このところの速水にはあまり覇気が感じられない。
そう、思い返せば、あの日からだ。
姫が速水にたてついた日から。
思わず握りしめた手から、くしゃという小さな音が漏れる。
しずかから雅に、碓井が預かった手紙だ。
『それに、あんたなら。少なくとも雅に渡さないで、手紙を捨てることしなさそうだしな』
そういって、強い視線を投げかけたしずかを思い出し、碓井は握り締める手を緩めた。
あの水仙の姫は、何を言いたかったというのだ。
私ならば、言うことを聞くとでも思ったのだろうか。
見くびられているのだろうか。
だが、私にでも、手紙に書かれている内容は、容易に想像がつく。
一緒にこの世界を出ようという言葉に、違いない。
それは、かつての姫が求めていた言葉。
だが、今は違う。
「隊長―」
そう言って速水に差し出そうとしたところで、乱暴に扉が開いて、別の騎士が現れた。
「碓井副隊長。姫がお呼びですが。…し、失礼しましたっ」
速水の背中を見て、その騎士は慌てたように頭を下げた。
雅のことも気になるが、目の前の上長を無碍にもできないと思う碓井に、珍しく速水が言った。
「行け」
戸惑ったのは碓井の方だ。思わず返事が遅れてしまった。
「はい」
失礼します、と言って碓井は手紙を握りしめると、足早に広間を出て、雅の部屋へと向った。
雅が自分を呼ぶというのは珍しい。しかも、名指しだということで、碓井の気持ちも逸る。その途中で、手の中で握りつぶされた手紙に気づいた碓井は、その封筒の中にある固い物に気づいた。
直径２センチくらいで、厚みは１センチもないくらい。振ると、何やら音がした。
何だろう。
まさか、爆薬のようなものではないだろうな。
思い切って碓井が封を切ると、中から出てきたのはペンダントだった。
何だ、これは。
手紙の類はまったく入っていない。
ただそのペンダントのチェーンには、紺色のリボンが不自然に結ばれていた。
ただのペンダントとリボンにも思えるが、それとも何か暗号が隠されているのだろうか。
そう考え込んでいるうちに、碓井は雅の部屋にたどり着いた。
部屋には、雅のベッドに横たわる侍女の菖蒲と、その脇に立つ心配そうな雅がいた。
「どうかされましたか、姫」
「碓井さん、すみません。私じゃなくて、菖蒲の具合がよくないようなのです。彼女にお暇を出したいのですが」
顔を覗き込むと、確かにその赤い顔からは、汗が滝のように流れている。
流行病かもしれない。
一刻も早く、姫の傍から離さなければ。
「承知いたしました。代わりのものは、すぐに」
そういうと、碓井は傍に控えていた騎士を呼び、菖蒲を部屋から連れ出すよう指示した。騎士たちに抱えられて部屋を出て行く菖蒲を心配そうに見ていた雅だったが、扉が閉まった瞬間に大きくため息をついた。
そして、自分を見つめる碓井に気づくと、
「どうかしましたか？」
と尋ねた。
「いえ」
碓井はそう答えながら、先ほどのペンダントをぐっと握りしめて答えた。
手紙はなく、なんの言葉も書かれていないが、二人にしかわからない何かがあるのかもしれない。
碓井はそう思い、こっそりとそのペンダントをポケットにしまった。
うっすらと目を開けると、鳥の鳴き声と、緑の濃い匂いがした。
暗闇の中には、赤い光が一筋に差し込んでいる。
赤…。
ここは？
「目が覚めましたか、水仙の姫」
突然そう言われたしずかは、パッと身を起こした。
どうやら小さな山小屋のようだった。高いところにある窓からのぞく空は、すでに茜色に染まっていた。
「無礼なことをしてすみませんでした」
ふいに隣からする声に、しずかが顔を向けると、そこには深く頭を下げた男がいた。
「お前は―」
「薔薇組副隊長、戸田と申します」
薔薇といわれ、しずかは思い出した。
そうだ。よく、夏目の隣にいる奴だ。
では、ここは薔薇のいる花琳舎か、というとどうもそうでもないらしい。
小屋の中には戸田以外に人はおらず、辺りの物音からしても、人の気配すらしない。
戸田は、頭を下げたままに話した。
「どうしても、水仙の姫にお願いしたいことがありまして、ですが、誰かに聞かれては非常にまずいことだったもので、あのような手段を取りましたことを、まずお詫びします。
すみませんでした」
口調は、礼儀正しい。
だが、その礼儀の正しさが、余計に胡散臭いとしずかは思った。
「その前に、ここはどこだよ」
頭を下げていた戸田が、ゆっくりと答えながら顔を上げる。
「桜王宮の外れの森です。ここならば、人目にもつかない」
目が合った瞬間、しずかは睨まれていると確かに感じた。穏やかそうな表情をしながらも、その瞳が燃えるようにしずかを睨みつけている。
単に他の騎士団の姫だから、ではない理由がありそうだった。
そんなしずかの表情に気づいたのか、戸田はこう言った。
「警戒されているようですし、早く話を終えましょう」
「で、何だよ」
「これ以上、夏目隊長に近づかないで頂きたいのです」
瞬きひとつせずに戸田が答えたが、しずかは鼻で笑うようにして答えた。
「近づくって、あたしと夏目は、友達だ。だからお互いの組の不利になるような話もしない。それに、あんたが心配してるような関係じゃない」
だが戸田の目は笑わなかった。
「水仙の姫はそうでも、隊長は違います。
それに、昨日のような時間に外で会っている男女のことを、他人はそうは思いません。共にこの桜王宮の掟を破り、抜け出すような男女には特に」
「お前…」
僅かにしずかの声が震えた。
どうして、こいつがこの前のことを知っているんだ。
まさか、夏目？
いや、夏目はそんな奴じゃない。
絶対に違う。
しずかの執拗な視線を無視して、戸田は自分の話を進めた。
「傷を負うのは、夏目隊長だけではありません。水仙の姫も、妃候補のスキャンダルとして、妃失格となりましょう。友達と言うならなおのこと、密会と思われる行動も含め、今後お二人で会うようなことは、一切止めて頂きたいのです」
妃失格。
一瞬、有世の笑顔が過ぎる。
そうなれば、きっと有世とは二度と会えない。
ごくりと唾を飲み込むしずかを、戸田は変わらず睨むように見つめて話を続ける。
「水仙の姫は知らないのでしょう。
一騎士団の隊長と言えど、敵は他の騎士団のみならず、同じ薔薇の中にもいる。隊長も、いつ足を掬われてもおかしくない状況なのです」
しずかは目の前の戸田を睨んだ。
副隊長という立場であれば、いつかは隊長にと思うのは当然の心理だ。
こいつも、その一人だってことか？
戸田はそこで初めてしずかから視線を外すと、すっと立ち上がった。
「話はそれまでです。
外に馬が控えています。宮殿の傍までは、その馬をお使いください」
先にどうぞ、というように、戸田は小屋の扉を開ける。赤い光が差し込んでしずかを包んだが、しずかは立ち上がらずにじっと戸田を睨んでいた。
動かないしずかにしびれを切らしたのか、
「ならば、私から先に―」
と戸田が言い、小屋を出て行こうとした時。
「戸田っつったよな」
そうしずかが呼び止めた。
「はい」
「夏目は違う、っていったよな。どういうことだ」
片足を立て、そこに肘をついてしずかは戸田をにらみ付けた。
そうして戸田の反応を待っていた。
逃げるのか、突っ込んでくるのか。
夏目にとって敵か、味方か。
見極めたいとしずかは思ったのだ。
戸田は、振り返ると、真っ向からしずかを睨みつけて言った。
「隊長は、水仙の姫の為にならば、その任を降りる覚悟でいます。
この世界において、それがどういう意味であるか、今の貴女ならばわかるでしょう」
「日向様？」
気づけば、馬車は止まっている。どうやら、貴丹舎に戻ってきたらしい。
いつまでも降りない日向に、馭者が声をかけて来たのだ。
扉が開き、日向はそこから見える貴丹舎を見つめた。
あの話をすれば、石崎は狂喜乱舞するであろう。いや、石崎に限らず相川も、おそらく蓬も。
一刻も早く伝えるべきなのは、日向もわかっていた。
だが、どうしてか降りる気になれない。
『しずかには、私から伝えたい。今日ここで話したことは、他言無用だ』
笑顔を輝かせ、有世が言った。
日向は、声も出さずに小さく頷いた。それが、精一杯だったのかもしれない。
去り際、有世は日向を引き止めてこう言った。
『お前も、そろそろ水仙の隊長の任を解かれる頃だろう。その後のことはどう思っている？』
日向が答えずにいると、有世は懇願するように答えた。
『私は、お前にもここに残っていてほしいのだ。
しずかと同じく、私の力になってもらいたい』
それはつまり、有世の妃となったしずかの側に仕えるということでもある。
日向は、自ら扉を閉めると、心配そうな馭者にむかってこう言った。
「すまないが、行きたいところがある。そこに向ってくれないか。
北西の外れの館だ。そこまで頼む」
はい、という声がして、扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。
梢は、侍女の茴香と共に馬車に乗っていた。
貴緒に唐突に菫の花を持ってくるよう呼び出されたのだ。
鞍馬は例によって初音舎にはおらず、仕方なく梢が持って行くことになった。
どうも昨日の一件を受け、貴緒はしずかからの謝罪を待っていたところ、有世からの侘びが入り、しずかの罪は免除ということになったそうなのだ。もちろん、面白くないのは貴緒で、どうやら自棄酒としてスミレ酒を欲しているらしく、大量の菫を持っていくことになり、馬車はゆるゆると、まるで桜王宮の敷地を遊覧するかのように進む。
鞍馬が館に戻ってこないのは、最早珍しいことではなくなっていた。
貴緒のところなのか、
それとも以前の茶会で見かけたどこぞの姫なのか。
梢にはわからず、ただ待つことしかできなかった。
いつか、鞍馬が自分のもとに戻ってくると信じて。
ふいに視線の中に、古い建物に張り巡らされた布が見えた。
どうやら改築工事のようだ。
「ここは…？」
ふいに口から出た言葉に、隣の茴香が外を見て答えた。
「旧・柏男爵邸です」
花族である柏男爵の席は、前・柏男爵の死後から、今に至るまで空席になっている。
だからこそ、鞍馬は、今回の妃選びで一旗あげて、自らその席に座ろうとしているのだ。
その邸宅が、改修工事をしてるということは…。
梢を乗せた馬車が、その脇をゆっくりと過ぎていく。
何かが、動き出しているのだ。
誰かが、どこかで。
それは確かな予感として、梢の心をざわめかせた。
夜、寝静まった時間に花琳舎を抜け出すことは、気づけば夏目の日常になっていた。
そうして、貴丹舎の方向にでむく。運がよければ、しずかに会うことができる。
いつものように花琳舎を出て、貴丹舎の方に向おうとした夏目は、突然声をかけられて驚いた。
「夏目さん。どちらにいらっしゃるの？」
肩を大げさに震わせ、振り返った夏目は更に驚いた。
「姫…。どうしました、こんなところに」
そこにはワイングラスと、小さなボトルを持った華夜乃が立っていた。部屋を抜け出してくるような時間ではない。言葉をなくしている夏目に、華夜乃は笑顔で言った。
「眠れなくてワインでも飲もうかと思ったら、貴方の姿が見えて。ねぇ、ワインでもいかが？」
この一言を言うために、窓から歩いてく夏目を見つけた華夜乃は、グラスを抱えて急いで部屋を抜け出してきたのだ。だが、そんな雰囲気は微塵にも見せずに、華夜乃は余裕の笑顔を見せる。
「お嫌いじゃなかったのですか？」
夏目は少しばかり不審そうに尋ねた。それでも、華夜乃は笑顔を崩すことなく答える。
「好きになったのよ。貴方に言われて」
艶やかなこの笑顔を見て、今まで何人の男が華夜乃に傅いただろうか。
「それとも今夜、何か用事があって？」
華夜乃は夏目がしずかに会いに行こうとしたのだと疑っていたのだ。
しかし、一方の夏目は、会いたいとは思っていても、そういう約束をしていたわけではない。
「いえ」
近くにあった噴水に、華夜乃は無理やり夏目の手を引いて、その縁に腰掛ける。そうして華夜乃は上目遣いに夏目をじっと見つめて言った。
「ねぇ。優って呼んでもいいかしら？」
「え？…ええ、どうぞ」
面食らった夏目の声が思わず裏返る。そんな姿さえ、今の華夜乃には愛らしく見えて仕方なかった。
一方で夏目には、華夜乃の考えがわからなかった。
つい最近までは、夏目を虫けら同然に扱っていたというのに。
それに答えるように、急に華夜乃はしおらしい声になる。
「私って馬鹿だったわ。貴方のこと…優のこと、ずっと勘違いしていたの」
「そんなこと、ないです」
グラスには赤ワインが注がれていく。夏目は注ぎ終わると、ボトルを置いた。そして、グラスを華夜乃に渡す。華夜乃は笑顔で受け取った。
「あら、許してくれるのね。優しい人」
そうして、夏目もグラスを取ろうとしたとき、近くの木々が急にざわめいた。
風ではない。
誰か、侵入者がいるのだ。
華夜乃は慌ててグラスを置くと、夏目に抱きついた。
「キャッ」
夏目はそんな華夜乃を背中で守りながら、立ち上がった。
「誰だっ」
ガサガサと音がして、緑の中から現れたのは、驚いた顔のしずかだった。
「夏目…あ」
その顔が更に驚いたのは、華夜乃に気づいたせいだ。
しずかだと気づいた華夜乃も、戸惑っている夏目の後ろからすぐに顔を出した。
「あら、西園寺さんじゃない。どうかしたの？まさか、この薔薇組の誰かとお約束でも？」
華夜乃は明らかに夏目との逢引を疑ってそう言った。だが、しずかはあっけらかんと答える。
「別に。日向の顔が見たくなくて、抜けだして歩いてたら、ここに来ただけ。
あ、そのワイン。うまそうだな」
慌てて差し出そうとした夏目だが、華夜乃のことを思い出して止めたところ、華夜乃が言った。
「どうぞ。お飲みになって」
差し出したのは、華夜乃のグラスだ。しずかはすぐに受け取った。
「サンキュ。へぇ、思ってたより優しいんだな。白鳥ってば」
華夜乃は不機嫌に答える。
「それはどうも」
縁に座った華夜乃の前で、しずかは豪快に一気にワインを飲み干した。
「プハ―ッ。うまいっ、お、気が利くな、夏目」
空になったグラスに、新たなワインを夏目が注いだ。そんな夏目の態度にも、華夜乃はいらついていた。気づけばしずかは二杯目も飲み終わり、夏目は三杯目を注いでいる。
それを飲もうとしたしずかに、ついに華夜乃は言った。
「西園寺さん。あなた遠慮って言葉を知らないようね」
グラスを傾けようとしていたしずかだったが、納得してグラスを華夜乃に差し返した。
「あ、そか。悪い。じゃ、これいいや」
「ワインじゃないわ」
そういうと華夜乃はぷんっと横を向く。しずかは答えを夏目に求めたが、夏目にもよく事情が飲み込めていない。呆れた華夜乃はしずかからグラスを取り上げると、しずかに向って言った。
「夜遅くに、男と女が二人きりでワインを飲んでいるところに、ズカズカと入り込んでくることを、私は言っているのよ」
「だって呼んだのは夏目だし」
確かに、『誰だ』と呼びかけたのは自分だと夏目は思った、しかし、華夜乃の求めているのは違うことらしい。
「優のせいだっておっしゃるのっ？」
しずかは、スグル？と口の中で呟いた。そして、それが夏目の名前であることをようやく気づいた。
「そっか。引き止めたのは、あんただったな」
言い返そうとした華夜乃だったが、あたっていることに気づいて、思い切り空気を吸い込んでしまった。それから、落ち着いた声で言った。
「…それは、社交辞令というものよ。ねえ、優」
夏目は何かを言おうとしたけれど、何といっていいのかわからなかった。しずかを弁護すれば、華夜乃は怒るだろうし、だからといって、華夜乃の言うことは正しいとは思えない。
そんな夏目を助けるためにか、しずかが言った。
「よくわかんねぇけど、あたし行くわ。夏目、白鳥。ワインうまかった。サンキュ」
そうして夏目が引き止める前には、しずかはもう緑の木々の中に消えていた。一瞬悩んだ夏目だったが、華夜乃に一礼すると、しずかの後を追おうとした。
「待ちなさいっ」
しずかがようやく消えて、しずかの使っていたグラスではなく、夏目のグラスでのんびりワインを飲もうとしていた華夜乃は、慌てて声をかけた。
「どこに行くの？追いかけるとでもいうの？」
その声に夏目は振り返る。
そして、華夜乃がどうして急に、自分にこんなにも親しくするのかを理解した。
夏目は一旦、華夜乃の前まで戻ってくると、慎重に言葉を選んだ。
「違います。姫、今の言い方は誤解を招きます」
「誤解されたら何か問題があるっていうの？」
そのくってかかるような華夜乃の言い方に、夏目は確信した。そして、真剣な表情で答える。
「いいですか、姫は妃候補なのです。そして、私は姫のいる薔薇の隊長です」
「わかってるわ。でも、どう問題があるというの？夜中に一緒にいても」
夏目はそこで大きく息を飲み込んだ。華夜乃はそんな夏目の表情の迫力に負けそうになった。
「姫はいずれ陛下の妃となるのです。私と何か関係があるとなれば、それは背徳行為になり、不敬罪に問われます。姫は候補から降ろされるんですよ」
夏目の言うことが正しいがために、華夜乃は何もいえなくなる。
「いいですね、二度と、誤解されるような言い方や、態度は慎んでください」
それだけ言うと、夏目はしずかの後を追っていった。
「しずかっ」
呼び止められたしずかは、振り返って笑顔になった。
「夏目。あれ？どうした？白鳥は」
夏目はしずかの肩に、両手を置くと、息を切らせて真剣な表情で言う。
「さっき、姫の言っていたことなんだが。あれは、気にしなくていいから」
しずかはぽかんとしている。
「さっきって…。ああ、邪魔したこと？」
「邪魔なんかじゃなくて」
夏目は必死に説明しようとしたが、しずかは唐突に話を変える。
「夏目ってさ、優って名前なんだ。いい名前だな」
一瞬夏目の頭の中が真っ白になりかけた。
そんな話をしている場合ではない。
「…自分では気に入ってはいないが。
とにかく、困るんだ。私と姫は、何でもないから」
しずかはにっこりと笑うと、夏目の肩をぽんと叩く。
その作れた笑顔に、夏目はすぐに気づいた。
「わかったよ。そうだよな、妃候補の姫と、騎士団の隊長が、そんな関係になっちゃまずいもんな。
それに、夏目はそういうことするよな奴じゃないよな」
そして、夏目はしずかが何を言わんとしているのか気づいた。
自分としずかも、同じ関係なのだ、と。
「ああ」
答えに納得したしずかは、またにっこりと笑う。
「ワイン、本当にうまかった」
それじゃ、と手を上げてしずかは夏目から去っていこうとする。そんなしずかを夏目はまた呼び止めた。
「誰と、会っていた？」
しずかはゆっくりと振り返った。もちろん笑顔だ。
「別に。日向がむかつくからさ、ほんと散歩に出てただけ。誰ともあってねぇよ」
「そうか」
じゃな、とまた手をあげて、しずかは部屋に戻っていく。その後姿を見て、夏目はため息をついた。
微かに漂ってきたのは、甘い濃厚な薔薇の香。
夏目でもない、華夜乃でもない。
薔薇の香。
その夜、日向も遅くに貴丹舎に戻ってきた。
桔梗の宮は、変わらず温かく、微笑ましく、日向を迎え入れ、夢のような時間を過ごし、気づけば夜更けになっていた。
とはいえ
、さすがに泊まるわけにはいかず、日向は重い体を引きずって、この貴丹舎に戻ってきたのだ。
昨日とは違い、相川が部屋の前に立っていることもない。
どこか安心しつつ、日向が部屋に入ろうとしたころで、ギィという小さな音がして、冷たい夜風が僅かに吹き抜け、誰かが貴丹舎に入ってきたことがわかる。
侵入者か、と思わず腰の剣に手をやる日向の目の前に現れたのは、しずかだった。
しずかも、それまでは日向に気づかなかったようで、疲れた表情を見せたところで、ようやく気づき、顔を上げた。
何か、言うべきなのだろうか。
陛下の気持ちを。
けれど。
目が合ったのは、ほんの数秒。
だが、次の瞬間。複雑な想いを抱えたまま、二人は一言も交わさずに、お互いの部屋に向っていた。