THE FLOWER GARDEN
桜の章20
先ほどからしずかの前を、石崎は行ったり来たりと、左右に渡り歩いている。
「まったく、こんな時に隊長は一体どこに行ったというのだっ」
絶えず踏み鳴らす足音と、大きな独り言に堪えられなくなったのか、相川が笑顔でたしなめた。
「まあまあ、石崎。落ち着いて―」
ところが、石崎はそんな相川に喰ってかかる様に怒鳴りつけた。
「これが落ち着いてられるかっ。
貴緒様直々に苦情が来たのだぞっ。早々に謝らねばならないというのにっ。
ああっ。姫も姫ならっ、隊長も隊長だっ」
石崎はそう言って頭を抱える。
相川も、小さくだがため息をついた。
姫が粗相をして、陛下の実妹である貴緒を激怒させた。
当然、貴緒は謝罪とそれなりの対応を求めているのに、司令塔となる日向がいないのだ。
あーっと叫び声をあげた石崎の耳に、聞きたくもないしずかの声が響いた。
「石崎っ」
思わず石崎はファイティングポーズを取って、自分の前に立つしずかに向き直った。
「なっなんですかっ。今度ばかりはこの石崎も―」
「あたしと、日向と一緒にするな」
しずかはそれだけ言うと、腕組みをして椅子に深く座り、そっぽを向く。
「なっ」
何をそんなことをっ。
石崎の声は裏返りながら、とうとうしずかを怒鳴りつけた。
「姫っ、そんなことを言っている場合ではないのですよっ。
どうやって、貴緒様に謝るおつもりですかっ」
「だから、ごめんって、言やぁいいんだろ。言やぁ。そのくらい、あたしだってするよ。あいつに頭下げんのは癪だけどさ」
「姫っ」
しずかは、苛立ったように、テーブルにつけた手で、何度かテーブルを叩いて答えた。
「だってさ、あの時は本当にそうかもしれないって思ったん、だよ…」
しずかと貴緒の言い争いの最中、自分の紅茶を飲み干した雅は、別に何も変わらなかった。
分が悪くなったのは勿論しずかで、その瞬間に貴緒はしずかに、
『この落とし前、きちんとつけていただきますわよ』
とだけ告げると、その場を立ち去ってしまったのだ。
その後、騒ぎを聞きつけた相川がしずかを引き取りにやってきて、こうして貴丹舎には戻ってきたものの、貴緒の使いがやってきて、水仙組としての正式な謝罪を求めてきたのだ。
だが、隊長である日向は、出かけたまま帰って来ず、そうして今に至っている。
謝るとはいいながらも、心の中では納得していないしずかを見て、石崎はまたも大声で怒鳴りつけた。
「憶測で物を言ってはなりませんっ。
陛下の妹君の貴緒様に睨まれるとは。
ああ、これでもうこの水仙組も終わりです。
これでまた、肥溜め呼ばわれですよ…」
「こえだめ？」
顔をしかめたしずかを、石崎は一瞥したかと思うと、そのまま無言で部屋を出て行った。
「あ、おい。石崎っ。何だよ、ったく」
しずかを無視した石崎の姿が見えなくなって、そう呟いてしずかは椅子に再び座りなおした。代わりに相川が椅子から立ち上がってこう告げた。
「とりあえず、私は、石崎を追いかけますから。姫は…。お部屋にいてください」
パタパタと走り去っていく相川を見て、側に控えていた蓬が大きくため息をついた。
「しずか様…。お気持ちはわかりますが。
陛下にご迷惑になるようなことは、控えたほうがよいですよ」
「有世の迷惑？」
蓬は大きく頷いた。
「おそらく貴緒様のことです。陛下に姫のことを悪く言っているに違いありませんわ。そうしたら、陛下はしずか様と妹君との板ばさみです」
「別に有世は、板ばさみになんかならねぇだろ。いんだよ、貴緒があたしのことけちょんけちょんにけなすんだったら、あたしだって―」
「姫」
ぴしゃりと蓬がしずかの言葉を遮った。
「自覚を持ってください。妃候補としての」
「妃、候補？」
「いまや姫が最有力候補との噂ですよ。そりゃそうですよ。二晩続けて、陛下のお部屋に滞在なさったんですから。陛下は、今まで百合の姫や薔薇の姫、菫の姫ともお会いになってはいるものの、姫のようにお泊りになった姫は他にいませんっっ」
だから姫も、陛下を愛しているのであれば大人しくしていてください、と続けようとした蓬の耳に、聞いたこともないしずかの冷たい声が響いた。
「蓬」
「はい？」
しずかはすっと立ち上がると、くるりと蓬に背を向ける。
どうしたのだと不思議がる蓬に、しずかは低い声で言う。
「そういう言い方、やめてくれ。それに、あたしのことは、今まで通りしずかで構わないから」
そうして、どこに行くのかと問う蓬を無視して、しずかは部屋を出て行った。
桜稜殿の有世の寝室には、貴緒が涙ながらに訴えていた。
「お兄様っ。お願いです。
このままでは、私の面目が立ちませんわっ。
あの野蛮な女を、一刻も早くこの高貴な桜王宮から追い出してくださいっ」
茶会での出来事は、貴緒より早く有世の耳には届いていた。
その瞬間に、有世は全て自分のせいだと思っていた。
『私が、殺したも同然だ』
そうしずかに言ったのは、そしてその理由も答えなかったのは、すべて自分なのだから。
貴緒の性格からして、こうしてやってくることも見えていたし、その後の展開もだいたいの検討はついている。
有世の中では、すでに答えは出ていた。
「貴緒…。それは、できない」
有世がそういったとき、有世のベッドに臥せっていた貴緒が思わず顔を上げた。
「どうしてですか？
お兄様は、私のお願いがきけないとおっしゃるの？」
貴緒は小さい頃からそうだった。
すべてが自分の思うとおりになるべきだと、考える少女だった。
有世はため息をつくと、窓から離れて、貴緒に向き直った。
「しずかは、私の大事な妃候補の一人。しずかが粗相をしたというのなら、それは私の責任でもある。
しずかに代わって、謝る。
すまなかった」
「お兄様…」
ショックを受けた貴緒の表情は、だが徐々に赤みを差し、口調も目つきも荒々しいものへと変貌していった。
「そう。そこまで、あの女に肩入れなさってるのねっ。
お兄様も趣味が悪くなったものねっ。佳乃様も泣いてらしてよっ」
怒鳴りつけながら貴緒は立ち上がると、さっさと寝室を出て行こうとした。有世は、その後姿に思い切って声をかける。
「貴緒」
「なぁに？お兄様」
苛立たしくだが、それでも答える貴緒には、まだ有世への愛情が垣間見えた。
だが、有世はそれを振り払うようにして、続けた。
「丁度いいから聞いておきたかったのだ。
…お前は、あの日、どこにいたのだ」
「あの日？」
「そう、あの日。佳乃が逝ってしまった、あの雲ひとつない晴れ渡った日だ」
それは、風もおだやかで、桜の花も、はらはらと数枚が落ちていくだけの、穏やかな日だった。
あの日は、一生忘れないだろう。
そう思う有世の視線の先で、貴緒の背中がぴくりと動いた。
「蓬から聞いている。
珍しく、お前が佳乃の元を尋ねたこと。
その時、土産だといって、珍しい花の茶葉を持って行ったこと。
佳乃の体の為に取り寄せたもので、是非にと伝えたこと―」
「お兄様まで、私を疑っていらっしゃるの？」
貴緒の低い声が有世の響く。
ずっと聞いてみたかったことだった。
だが、直接聞くと貴緒を無下に傷つけそうで、ずっと有世は聞けずにいた。
だから、蓬やあの時佳乃の傍に控えていたものに、尋ねたのだ。
だがむしろ、貴緒に聞くべきだったのだ。
少しずつだが、有世は変わり始めていた。
「佳乃は。…佳乃は、確かにもう長くはなかった。けれど、あの日、突然に逝ってしまうような状況ではなかった。
何故、あれほどに嫌っていた佳乃を見舞ったのだ。
佳乃に何を渡したのだ？
何故、佳乃は逝ってしまったのだ？」
たたみかけるように言う有世に、貴緒は小声で答えた。
「…お兄様も、私のことを追い出そうとしているのね」
「貴緒。それは違う。私はただ―」
派手なドレスを靡かせて、貴緒が有世の方へと振り返る。
その目に涙はなく、ただ有世を睨んでいた。
「確かにお兄様が取られてしまうようで、佳乃様が嫌いだったときもあったわ。
でもっ、佳乃様がそんなに長くないって聞いて、私は今までの自分をすごく後悔してっ、だからお体に効くお茶も取り寄せて、お見舞いに行ったのにっ」
「貴緒―」
呼び止めようとした有世だったが、扉は乱暴に閉められてしまった。
やはり、傷つけてしまったのだろうか。
不安に思う有世に、いつかしずかの言った言葉が思い出される。
『だから、あたしも、強くなれると自分を信じて、願うんだ』
強くなれると、信じたい。
『なれる。有世が強く望めば』
だがその為には、しずか。
私にはお前が、必要なのだ。
そう思った瞬間に、有世は呼び鈴を鳴らし、近衛を呼び寄せた。
「明日の朝で構わない。
水仙の成瀬日向に、桜稜殿まで来るよう伝えてくれ」
有世の寝室を出て、貴緒は自分の部屋に戻ってくると、乱暴に扉を開けた。ついてきていた梔子には、下がるよう伝えると、貴緒はそのまま窓を開けようと
カーテンに手を伸ばしたところで、いきなりそのカーテンを強く引っ張った。カーテンは音を立てて切れていき、勢いあまったものは、レールから外れて床に広がった。何枚かをそうしたところで、呼吸を整えていると、後ろから艶やかな声が聞こえてきた。
「おやおや。貴婦人が、穏やかではないですね」
「鞍馬…」
愛人の一人である菫組隊長の鞍馬が、壁に寄りかかりながら、そんな貴緒をじっと眺めている。
「大方、あの野猿の姫のことなのでしょう。昼間のことは、かなり噂になっておりますよ」
そういえば、あの茶会に鞍馬は初めしか顔を出していなかった。
途中でいなくなったことに気づいたときは、今度会ったらきちんと罰を受けさせなければと貴緒は思っていたのだった。
「決めたわ」
唐突に、貴緒はそういった。鞍馬は小首を傾げる。
「何をですか？」
だが、貴緒は鞍馬を無視するように、言葉を続ける。
「見てらっしゃい。今にこの私に土下座する日が来るんだから」
息の荒い貴緒に、心の中でくすりと笑いながら鞍馬は尋ねた。
「水仙の姫ですか？」
いいえ、と貴緒は強く答える。
「あの野猿の姫だけじゃないわ」
鞍馬の表情が曇る。
では、誰を？
水仙の隊長である成瀬日向？
鞍馬の推測を無視して、貴緒はそれでも独り言のように話を続ける。
「お兄様にもがっかりだわ。私よりも、あんな野蛮人選ぶなんてっ。
見てらっしゃい。
絶対に、後悔させてやるんだから」