THE FLOWER GARDEN
桜の章18
気づけば有世は、窓枠にもたれるようにして眠りかけていた。
ふいに朝の冷たい風と、僅かな光を感じ、有世はゆっくりと体を起こすと、目をうっすらと開けた。
「待たせたな、有世」
光の中に立っているのは、満面の笑みを浮かべたしずかだった。
「しずかっ」
そう小さく叫んだ有世に笑いかけると、よっという掛け声と共に、しずかは部屋に降り立った。
「薬は？手に入ったのか？」
慌てて立ち上がる有世の問いかけに答えるように、しずかは手にしていた小さな布袋を掲げると、
「仔猫の様子は？」
と聞き返し、そのまましずかは仔猫のいる籠に向う。覆っている布を隠すと、弱弱しい呼吸をして横たわっている仔猫がいた。
「夜更けまでは鳴き声をあげていたものの、もうここ数時間は鳴き声すらあげない」
心痛な面持ちでそう語る有世の前で、しずかは袋からヨネから預かったものを取り出す。
「こいつを傷口に塗って、それから水をたくさん与えること。
二日も寝ずに見てりゃ、一週間後には親猫のもとに戻れるってさ」
そういってしずかが薬を差し出した瞬間、しずかは有世に抱きしめられていた。
「あ、ありせ―」
どうしたんだ、と問いかける前に、有世は更にしずかを強く抱きしめる。
「ありがとう。ありがとう、しずか」
想像以上の力強い腕に、しずかは戸惑いながら、答える。
「そんなことより早く、薬を」
だが有世にはそれに答えることなく、ありがとうしずか、と繰り返し、しずかを抱きしめている。
漂ってくる高貴な香り。
力強い腕。
耳元で囁かれる言葉。
全身の力が抜けてしまいそうなほどの眩暈と、胸が早鐘と打つように高鳴り、しずかは息苦しさを感じた。
「有世、くるし…」
思わずそう口にすると、有世はまわした腕の力が強すぎると思ったのか、すまないと言って、そっとしずかから腕を解いた。ようやく開放されたしずかは、肩で大きく呼吸をする。だが、高鳴った鼓動は、なかなか鎮まろうとしない。自分の体が思うようにいかない苛立ちにしずかが戸惑っていると、有世はしずかの両手を取り上げ、強く握ると、まっすぐにしずかを見つめて言った。
「ありがとう、しずか。しずかのおかげで、この仔猫を助けることができる。本当に、本当に感謝する」
輝く有世の瞳を見ていると、また眩暈に襲われる気がして、しずかは大きく息を吐きながら、そっと顔を背けた。
「そんな、別にあたしだけの力じゃないさ。こいつだって、頑張ってここまで生きて来れたわけだから」
するりと手を離そうとするものの、有世はしっかりと握り返す。
「いや、しずかのおかげだ。しずかと、このお守りのおかげだ。ありがとう」
そういった有世の手には、確かにしずかが渡したペンダントが輝いていた。だが、それを見た瞬間、しずかは思わず声を出していた。
「あれ？」
見間違うはずはなかった。
そのペンダントは、元は両方共にしずかの手の中にあったものだったのだ。
だが、しずかには分かっていた。
二つのペンダントの違いを。
そして、片割れのペンダントの持ち主を。
一旦落ち着いた鼓動が今度は激しくしずかの胸を貫いた。
「どうかしたか？しずか」
心配そうな有世に、しずかは、そっと尋ねる。
「雅…、ここに来たのか？」
間違うはずなどない。
自分が、雅にお守りだといって渡したはずのペンダントだ。
共に抜け出すために、利用したペンダントだ。
だが何も知らない有世は、笑顔すら浮かべて答える。
「みやび？ああ、百合の姫か。確かに、ここに来た。姫は心優しく気配りが上手なのだな。宴での無礼を詫びに夜更けにわざわざここまでやってきてくれた。
しずか、それがどうかしたのか？」
夜更け。
今度は胸を締め付けるような痛みが、しずかを襲う。
夜更けに、有世の部屋を訪れる。
その意味が、決意がわからぬほど、しずかも子供ではない。
「…なんでもない」
しずかはそう答えると、思いがけず返ってきたペンダントをスカートのポケットにそっとしまった。
明け方の花琳舎は寝静まっていた。それでも夏目は物音を立てぬようにと自分の部屋に向う。誰かに見つかってはいけない、ということではないが、事情を聞かれたくはなかった。
しずかは、無事薬を陛下のところに届けられたであろうか。
仔猫は、助かったのであろうか。
そうなればいい、と夏目は思った。
しずかに啖呵を切ったのは、正直売り言葉に買い言葉だった。それでも、そこまでしても、あの時しずかを桂公の前に行かせてはならないと思っていた。思いがけず、一緒に旅をしたが、これもいい思い出になるのかもしれない。
『今回の妃選びが終わったら、私は隊長から降りるつもりでいる』
すでに戸田にしずかのことを知られてしまった以上、決意を撤回するわけにもいかない。そもそも、伝えた気持ちに偽りはない。
目映いドレスを纏い、妃である王冠を着け、有世の横で笑うしずかを想像すると、胸は痛んだが、それでも夏目はそうなってくれるよう願った。そうしていなければ、それこそ薔薇の名を穢す行為に及んでしまう弱い自分に負けてしまいそうだった。
小さなため息と共に、自分の部屋の扉を開けると、ソファに佇む人影があった。そうして、夏目に気づくと、その影はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
「姫…」
華夜乃は不機嫌そうに尋ねる。
「どこにいらしたの？」
「すみません。その…」
答えに悩む夏目の前に、華夜乃はゆっくり歩いてくると、なめるように下から上へ、夏目を見回し、小首を傾げた。
「女の所かしら？」
夏目は思わず、ごくりと唾を飲み込む。
「…まさか。違います。探し物をしておりまして」
「探し物？」
「ええ、無事に見つかりました」
それでも華夜乃は疑わしい視線を投げかける。
今まで、これほどまでに華夜乃に見つめられたことのない夏目は、戸惑いながら、逆に聞き返すことにした。
「姫。顔色が悪いようですが、昨晩はよく眠られましたか？」
だが華夜乃は答えることなく、ただじっと夏目を見ている。その大きな瞳の下には、うっすらとクマができていた。
「もしかして、一晩中寝ずに？」
途端に華夜乃は顔を赤くして激昂した。
「何をっ…」
だが、ぐっと息を飲み込むと、声量だけをいくらか落として、華夜乃は棘のある言葉を矢継ぎ早に口にした。
「ええ、そうね。心配していたわ。でもちゃんと眠っているのでご心配なく。
ただ、忠告させていただくけれど、薔薇の隊長として、相応しくないことはなさらないで欲しいの。
夜中、誰にも何も告げずに出て行かれるとか、部下の騎士たちを監督しないで自由にさせるとか、姫である私を差し置いて他の姫とダンスなさるとか」
夏目は深々と頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
「謝って済むことではないわ。二度とこのようなことがないようにして頂戴」
「了解いたしました」
ふんっと荒い息が聞こえてきて、夏目は顔を上げる。ツンと横を向いてはいたものの、華夜乃は言いたいことを言って、いくらかすっきりした表情をしていた。
しかし、どうしたというのだろう。
夏目にとっては、今まであれほど自分の存在を無視していた華夜乃が、こうして自分を詰ったことが、意外でならなかった。
と同時に、深い眠気に夏目は襲われた。欠伸をしたら、それこそまた詰られそうだからと何とかかみ殺したものの、やはり昨日寝ずに動いていたツケが回ってきたようだった。
「姫」
「何かしら？」
「申し訳ないのですが、横になってもよろしいでしょうか。昨日は一睡もできなかったものでして」
華夜乃は、ツンと横を背いたままで答える。
「ええ。どうぞ」
夏目は悩みながらも、一応許可はもらったのだから、華夜乃を置いて、自分のベッドに向う。
上着を脱ごうとして、ふいに華夜乃がまだ部屋を出て行っていないことに気づくと、何となく華夜乃に背を向ける。上着を脱ぐと、その顔に似合わず鍛え上げられた夏目の体が露になった。だがそれも、戸田との不要な争いで、いくつかの傷を負っていた。深手を負うほどではないからよかったものの、後で軽く手当てをしておかないと、と
思いつつ夏目はベッドに入る。
華夜乃は、というと、正直どうしていいのかわからなかった。
確かに、昨日の夜は、寝付けずにこうして朝を迎えていた。どうして眠れないのか、それが夏目を心配しているからだとは、言われるまで気づかなかった。
でも、どうしてこの私が心配なんて？
だから、その理由を、夏目が薔薇の隊長であるということにした。
薔薇の隊長に何かがあっては、薔薇組全体の評価につながり、ひいては薔薇の姫である自分にも繋がる。
だから。
でも。
言いたいことは言えたはずなのに、どうしてか出て行くことができず、持て余した華夜乃は、思わずテーブルに飾られていた深紅の薔薇を手にした。
「いたっ」
指に鋭い痛みが走り、薔薇を手放すと、指から赤い血が流れ出している。一旦はベッドに入りかけていた夏目が、慌てて華夜乃の元に戻ってきた。
「大丈夫ですか？姫」
「棘が…」
すると夏目は、華夜乃の怪我した指を、口に含んだ。
思わず華夜乃は目を見張った。夏目はそのまま指を強く吸うと、放して、吸い上げた血を床に吐き捨てる。
「万が一、棘に毒があってはこまります」
そうして、夏目は再び華夜乃の指に口をつける。
「…ありがとう」
華夜乃はそう答えながら、目の前の夏目をじっと見つめていた。
あどけない顔からは想像していなかった鍛え上げられたその体に、華夜乃の鼓動は跳ね上がる。考えてみれば、夏目とこんなに近い距離にいるのも、初めてだった。勿論、自分が距離をおいていたのだが。
華夜乃は唇をかみしめたまま、黙って夏目の言う通りにしていた。
暗闇が徐々に赤く染まっていく。
まさに夜が明けようとしていた。
雅は窓からその様子を眺めながら、決意を固めていた。
昨日の夜は、眠ることなどできなかった。
もともと、有世の部屋で夜を明かそうと決心をして出向いたのに、たかがペンダントひとつで動揺し、そのまま大人しく引き下がってしまった。
このままじゃ、駄目なのだと、あれほど誓ったのに。
そもそも、雅に有世の部屋に出向くことを決意させたのは、他ならぬ速水だった。
宴が終わり、この荷葉舎に戻ってきた途端に、速水は雅を殴りつけた。いや、正式には碓井が慌てて間に入り、雅は側にあった机に体を強く打ち付けるだけで済んだのだ。
「お止めくださいっ、隊長っ」
「うるさいっ。この私が、どれほどの屈辱を受けたと思うのだっ。この淫乱がっ」
速水はそう叫ぶと、目の前で自分を抑えようとする碓井を殴りつけ、机に寄りかかっている雅を無理やりに立たせる。
「鞍馬と何を話したというのだっ、何を約束したとでも言うのだっ」
激しく肩を揺さぶらたものの、それでも雅はしっかりと速水の顔を見据えて答える。
「約束など何もしておりません。世間話をしていただけです」
「嘘をつけっ」
「嘘ではありません。そんなことしても、仕方ないですから」
「何だと？」
いつもと違い冷静な雅に気づいた速水は、揺さぶるのを止めて、じっと雅を見つめた。それでも、雅は淡々と答えるだけだった。
「ただ踊っただけです。ご覧になっていらしたでしょう」
確かにその通りだった。
ほんの数分間二人は踊ったものの、終わると雅はすぐに速水の隣の席に戻ってきた。
「…まあ、よい。陛下には、鞍馬が無理に誘ったことだと私のほうから伝えておく」
速水はそういうと、雅から手を離し背を向けると、いつものように自信に満ちた演説を始めた。
「いずれにしても、薔薇も菫も、終わったも同然。
いくら陛下がいないとはいえ、隊長自らがあのような行為に出られては、不敬罪と思われても仕方ないだろう。
水仙ははなから相手にもなっていない。我らが百合の勝利はほぼ確実だ」
殴られた頬を押さえつつも、脇で控えていた碓井が、賛同するように小さく頷き、速水はにんまりと笑った。
だがそこに、雅の冷静な声が、冷や水のように速水に降り注ぐ。
「そうやって、じっと待ちながら、いつか目的のものが足元に転がってくるのを待つんだわ。あなたのやり方は。そうすれば、あの桜の木よりも高い自尊心が崩されることもないのだから」
「どういう意味だっ」
速水が振り返り、雅を睨んだ。
肩をわなわなと震わせ怒りを露にする速水は、今の雅には滑稽にしか思えなかった。
「何でもありません」
雅は静かにそう答え、深く頭を下げる。
怒りの矛先を無くしてしまった速水は、しばらくそのまま雅を睨んでいたものの、そのまま頭を伏せる雅を諦めたのか、大きく足音を鳴らして、部屋を出て行った。
そう、待っているだけでは、結局何も手に入らない。
何を犠牲にしても、私は妃になる。
妃になって、陛下のお側に。
その為なら、どんなことでもする。
山陰から姿を現した朝日に、そう雅は誓った。
早朝の貴丹舎は、いつもと変わらず静まり返っていた。だがあと一時間もすれば、朝食の準備に蓬が起きることを、しずかは知っている。
その前に、としずかは手にヨネから預かった薬を持ち、日向の部屋へと向う。
思った以上に疲れているようで、先ほどから体が重い。
有世の部屋には簡単によじ登れたのに、いつものように二階の自分の部屋によじ登る気力がなく、しずかは勝手口から中に入った。
雅が、有世の部屋にやってきた。
実際、二人の間にどんな会話がなされたのか、何があったのか、しずかは聞けずにいた。
仮に聞けたとしても、雅の残したメッセージの意味は変わらない。
『負けませんから』
以前そう言って、自分をにらみつけた雅を思い出す。
雅は、本気だ。
本気で、有世のことが好きで、あたしとの関係を切るつもりなのだ。
有世は、どうなんだろう。
追い返さなかったってことは、雅のこと少なくともちょっとは好きだってことだろうし。
何より雅は、有世の最愛の妃と呼ばれた森宮佳乃に瓜二つなのだ。
嫌いなわけ、ない。よな。
『だがね、ここだけの話。佳乃様も、日向にお心があったんじゃないかって話もあるんじゃよ』
しずかは、ヨネが言ったことを思い出す。
それが本当だとしたら、有世はそれを知っていたんだろうか。
それとも、気づいていなかったのだろうか。
気づけば日向の部屋の前だった。しずかは、よしっと気合を入れると、把手に手を伸ばした。
できれば、日向が部屋にいませんように。
そして、薬だけ置いて出て行けますように。
扉をゆっくりと開ける。そこでしずかはため息をついた。安堵ではない、落胆のため息。
日向は、正面の机にそのまま伏せて眠っていた。その恰好からしても、眠ってしまったというのが相応しいようだ。
まだ寝てるようだし、このままこそっと置いてこう。
足音を立てぬようにして、しずかは日向に近づくと、机にそっと袋を置く。結局しずかにとっては、何が入っているのかわからなかったし、それよりも聞いた話の方が気になっていた。
『あれだけ真摯な男、わたしゃ知らん』
ヨネは日向のことをそういった。
だが、しずかにはそうは思えなかった。
目の前の日向は、いつも何を考えているのかわからず、だが気づけばいつも日向のペースに巻き込まれている。
『毎週、愛する人の為に薬をとりに来ては、持って行っていた。雨の日も、嵐の日も、変わらず』
少なくともしずかにとって、日向はそのような一途な男ではなかった。
愛ゆえに一途だったのか、それとも単にしずかを見下しているのか。
しずかにはわからない。ただ、悔しさだけが残っている。
それなのに日向は、というと、無防備な寝顔だ。
だけど、本当のことは、わからない。
心の奥で、こいつが何を考えてるかなんて、わからない。
しずかは心の中でそう呟いて、日向に背を向けると、途端に日向の少しかすれた声がしずかを呼び止めた。
「元気だったか？ヨネさんは」
しずかはハッとして思わず振り返る。
「お前っ、どうしてそれをっ」
「この袋を見ればわかる」
ニヤリと笑い、日向は今しずかが置いた薬の入った袋を持つ。すべてを見透かしていたような言い方と、さっきの寝顔まで演技だったのかという思いに、しずかはますます悔しくなって日向から顔を背ける。
「たまには顔出せってさ」
「ああ、そうだな。そういえば、しばらく顔をあわせてないな」
珍しく柔らかなその言葉が、日向と佳乃の恋の思い出のように感じられ、しずかは胸騒ぎと共に言葉を飲み込んだ。
カタンと椅子から立ち上がる音がしたかと思うと、しずかは右腕を日向に掴まれていた。
「また随分と傷物になっているようだな」
「うるせーよ」
荒々しくしずかはそう言って、腕を振り払う。確かにこの一晩で、しずかの腕にも足にも、無数の擦り傷ができていた。
「陛下に差し出す姫君だ。本物の傷物になっては困る」
本物？としずかは思わず振り返った。
「どういう意味だ？」
「夏目が一緒だったろう」
日向は手にした袋を見つめてそう言う。しずかは、苛立ちを露にして答える。
「あいつとあたしは友達だ。お前には関係ない」
「我が水仙の姫と、薔薇組隊長だ。何かあった後では困る―」
「だったら余計、お前に言われたくない！」
思い切りしずかがそう叫ぶと、日向は手を止めると、ゆっくりとしずかを見つめ返した。
「どういう意味だ？」
朝焼けに照らされた日向の表情からは何も読み取れず、しずかの苛立ちは募るばかりだったが、何も言えず、何も聞けず、仕方なく足をドンッと踏み鳴らす。
「自分の頭で考えろっ」
捨て台詞のようにそう言うと、しずかは大きな音を鳴らして、部屋を出て行った。