THE FLOWER GARDEN
桜の章14
ざわめきたった中で、雅は隣にいる速水が鼻で笑ったことに気づいていた。
「愚かだ」
そして、そう小さく呟いたことも。
いつもの冷酷な表情を歪めて笑う速水を見て、気分の悪くなった雅は、渦中のしずかと夏目をただじっと見つめていた。
妃候補である姫に、他の組の隊長がダンスを申し入れる。
それがどれほどの罪に問われることなのか、雅には想像できなかった。
だが少なくとも、どちらにとってもプラスに働かないことだけは確かだ。
どうするのだろう。
しずかさんは。
有世は、いまこの場にはいないが、おそらくそれほどかからずに戻ってくるであろう。
戻ってきたところで、しずかさんが他の男性と踊っていたら？
彼女の気持ちが、自分にないと思って。
そうすれば、しずかさんを諦める？
そう考えた雅だが、ゆっくりと否定した。
…いいえ。きっと。
あの方は傷つくだけ。
優しい笑顔の影で、人知れず心を痛めるだけ。
雅は、心の奥深くで、そうしてひんやりとした感触を覚えた。
と同時に、周囲のざわめきが大きくなる。
しずかが、夏目の手を取ったのだ。
「はっ」
思わず、と言ったように速水の口から息が漏れる。それは、他人を卑下することで自分を高尚だと思い込んでいる嘲りの声であった。
その声に、雅は今すぐにでもこの場から立ち去りたくなった。
同じ空気を吸っているかと思うと、またこれから速水の手に触れられ、踊らなければならないのかと思うと、気分が更に悪くなった。
いっそこの会場から逃げ出せたら。
雅はそう思っていた。
「姫、私とも一曲いかが？」
俯いた雅の前に、そういって手が差し伸べられる。
顔を上げると、そこには鞍馬が艶やかな笑みを浮かべて雅を見つめていた。
「隊長っ」
菫の騎士がそう叫ぶと同時に、雅も周りもざわめきだしていた。
鞍馬はそれでも、変わらぬ笑みを浮かべている。その裏に毒が潜んでいることも、雅にはわかっていた。
すると隣の速水が、遅れて差し出されたその手を遮るようにと、雅の前に立ちふさがろうとした。
それが合図だった。
雅は、速水より早く鞍馬の手を取ると、毅然とした態度で答えていた。
「よろしく、お願いいたします」
その手に触れた途端、夏目は無意識に力強く握りしめたくなった。
だが、自分をまっすぐに見つめるしずかの視線を感じ、その手をそっとつかむ。
その手は、姫と呼ばれるにはふさわしくないほどに、引き締まった手であり、そして傷も多く見受けられる。
だがそれでも、夏目はその瞬間に、自分がどれほどこの手に触れたかったのかを強く感じていた。
二人の手が結ばれることを待ち望んでいたかのように、音楽が流れだし、二人はそれにあわせて踊り始める。
「どうして、夏目」
しずかがそう尋ねる。
その表情は、強張るほどに真剣だ。夏目はにっこりと微笑み返した。
「一応、しずかのダンスの元教官だからね。成果を体験してみたかったから、かな」
「嘘、つくな」
だがしずかは、その表情を緩めずに強くそう言った。
そう言うだろうとは思っていただけに、夏目は無言で僅かに微笑む。
だけど、しずかは本当の理由を知らない。
知る由もない。
その思いが、夏目の微笑を僅かながらに強張らせる。
自分の問いかけに答えないことで、しずかはいっそう夏目を睨むように強く見据えた。
「あたしは、許せないんだっ。ああいう苛めっぽいやり方―」
そうして手を離し、再び、この会場の正面で我が物顔で座っている桂公の元に向おうとするしずかの手を、夏目は強く引き寄せる。
「駄目だ」
「どうしてっ」
しずかはそう小さく叫んだ。
だがその声は、流れる音楽の中に溶け込んでいく。夏目は、そのまま強引にしずかの体を音楽にのせると、その耳元で囁いた。
「ここにいる限り、桂公爵を敵に回してはいけない。
気に入られる必要はないが、口出しすることもない」
しかも、桂公はすでにしずかに目をつけられているのだ。
小さな過ちでも、それを見逃してはおかないだろう。
「けど−」
「ここに居続けたいのであれば、陛下のお側にいたいと思うのであれば、尚更」
しずかは、驚いたように顔を上げる。そこには、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべる夏目がいる。
「夏目…」
言われてしずかは初めて気づいたのだ。
有世の側にいたい。
いつの間にか、自分がそう思っていることに。
どうして、夏目。
どうして？
不安そうな表情のしずかに、夏目は小さく頷いた。
「仔猫は、私が何とかする」
「何とかって？」
あの血の量では、助からない可能性の方が高いだろうことは、しずかにも容易に想像できる。だが、夏目は答えた。
「学園にいる薬師に頼む。菊島ヨネならなんとか出来るだろう」
「ヨネって…あ」
どこかで聞いたその名前に、しずかは小さく声をあげた。
君江が風邪引いたとき、その薬を調合をしていたとか、何とか、日向が言ってたっけ。
夏目は再びしずかの耳元に口を寄せ、囁いた。
「今夜、学園に戻る。そのときにでも薬を手に入れるから、だから」
どうか、このままで。
今だけは、このまま、わたしと踊ってほしい。
こうやって、しずかに触れていたい。
夏目は自分のさもしさが憎いと思いながらも、そんな自分を否定できずにいた。
無論、桂公の気を荒立てないようにと思った気持ちも嘘ではない。
しずかを引き止めたのは、心からそう思ったからだった。
だがその手に触れてしまうと、どちらが本心なのか、夏目にもわからなかった。
不安で夏目が目を瞑ると、しずかはすんなりと答えを出した。
「わかった」
だが夏目がほっと胸をなでおろす前に、しずかは言葉を続けた。
「ただし条件がある。あたしも、連れて行ってくれ」
鞍馬の手は、ひんやりと冷たく、柔らかそうに見える手もすべて固く、雅にどことなく人形の手を思い起こさせていた。
「昨日はよく眠れたかな？」
「ええ。おかげさまで」
それはよかったと微笑むその表情は、艶やかだ。
普通の女性であれば、うっとりとその身を預けてしまうのも、雅にもわからないでもない。
ただ、鞍馬の目は、ぎらりと強く光っているだけで、決して微笑んではいない。
雅はそんな鞍馬から視線を外し、こう言った。
「昨日の話を聞いて思ったことがあるんです」
「何かな」
「あなたは、嘘つきです」
一瞬、微笑んでいたはずの鞍馬の口許が強張る。雅は怯むことなく言葉を続けた。
「速水が佳乃様を殺せるわけない」
ごくりと、鞍馬ののど元が動くのが見える。
雅にとってはもう、この男は恐れる存在ではなかった。
「どうして、そう思う？」
「そんな度胸など持ち得ません。
今の速水を見ていれば、わかります」
はっきりそう言った雅を見て、鞍馬はおどけたように答える。
「…なるほどね」
動じない鞍馬に、雅は不安を覚える。
この人は、何を思っている？
何を企んでいるの？
すると、鞍馬は雅を引き寄せ、その耳元の口を寄せて囁いたのだ。
「では、こんな話はどうだろうか。
愛しい兄を奪った女、すべてのものの賞賛を得る女への嫉妬として、妹が毒を盛った」
一瞬、雅は頭が真っ白になった。
おぼろげになった足取りを、鞍馬はしっかりと支え、体を起こすと笑顔で言った。
「あながちない話でもあるまい」
すべての中心でないと気が休まらず、一際有世の愛情を貴緒が求めているということは、雅自身感じていることではあった。
雅に芽生えたその猜疑心に、鞍馬は更にうったえかける。
「ほら、さっきまで梅の宮と談話をしていた薔薇の姫が、気分が優れぬと出て行かれた。気づいたかな。薔薇の姫が飲んでいたのは、梅の宮に渡されたグラスだ」
振り返ると、たしかにテーブルに座っていたはずの華夜乃が、ただ一人でこの会場から慌てて出て行くのが見えた。座っていた席には、グラスが投げ出されており、その隣には貴緒が満足そうに微笑んでいる。その手元には、同じ色のグラスがあった。
「貴緒は、次は白鳥華夜乃を殺そうとしている。もともと相性も悪い、そんな相手にまた兄を奪われたらたまったもんじゃない」
そして鞍馬は再び微笑む。
「そして、その次は…？」
鞍馬の瞳には、雅だけが映っている。
かつて殺したいほど憎んでいた女の生き写し。
そして、再び兄を奪おうとする存在。
「身辺には十分気をつけたほうがいい」
柔らかく微笑むその瞳の中に、煮えたぎるような欲望が見え、雅は冷静に返した。
「あなたも含めて」
長い廊下に、カツカツとヒールの音が響き渡る。
遠くから聞こえる華やかな音楽。
だが、華夜乃の耳には届いていなかった。
高潮して赤くなった頬には、決して余裕など見られない。
一刻も早くここを立ち去りたいと、逸る華夜乃の気持ちとは裏腹に、華奢な靴がドレスの裾を何度も踏みそうになり、さらに華夜乃の気持ちを苛立たせる。
これもすべて、彼のせいなんだわ。
華夜乃はそう思った。
そう、すべては、夏目のせい。
自分がこうして、舞踏会から一人抜け出すことになったのも、
貴緒から厭味を言われ、何も言い返せなかったのも、
こうして自分が苛立っているのも、すべてあの夏目が悪いのだ。
桂公の一件があった後、舞踏会が始まり、当然のように華夜乃は隣にいるはずの夏目に手を差し出そうとした。だが振り返ったところで、夏目はおらず、しかもしずかにダンスを申し込んでいたのだ。
そして、二人は踊りだした。しかも、軽やかに。
戸田が気を使ってか、華夜乃に声をかけてきたが、微笑んでしずかと踊る夏目の隣で踊る気持ちには到底なれず、ただ立ち尽くしていた。
気づけばざわめきが更に大きくなっていた。
どうやら菫の鞍馬が、百合の姫である雅にダンスを申し込んだらしい。
そして、雅もそれを受けた。
夏目がきっかけだったのだろうか。
それとも鞍馬だったのだろうか。
気づけば舞踏会は、所属の組に関わらず、色とりどりのドレスを纏った男女が踊りだしていた。
ただ華夜乃は、その中を掻き分けるように会場の隅にたどり着くと、椅子を見つけてひとり座り込んだ。誰もが自分たちの相手探しに夢中になっているところで、やってきたのが貴緒だった。
「ご機嫌いかが？薔薇の姫」
いつもとは違い、こんな時に薔薇の名前を使うところが、貴緒らしい。
そうして貴緒は、お付のものに自分と同じワイングラスを華夜乃の前に置かせる。
華夜乃は小刻みに震えた手を隠すと思いっきり微笑んで、貴緒に言い返した。
「よろしくてよ、梅の宮様」
キッと貴緒が華夜乃を睨み返す。貴緒がそう呼ばれることをひどく嫌っていることを、華夜乃はもちろん知っていた。
「それはよかったわ。まあこれでもお飲みになって」
グラスには赤ワインが注がれた。香しいその香りに、華夜乃は僅かだが心を落ち着かせ、思わず手を伸ばす。
一口飲むと、いくらか心は落ち着いてきていた。
もう一口、と思ったところで、貴緒がニヤリと微笑んだ。
「でも、一度鏡をご覧になったほうがよろしくてよ」
どういう意味だと尋ねる前に、貴緒は高らかに言った。
「あなた、まるで男を寝取られたって表情だわ」
カチンと小さな音を立てて、グラスが倒れる。テーブルにぶつかり、割れることはないものの、ワインが零れて、クロスを赤く染める。そして、貴緒の靴をも赤く染めていた。
「失礼しました」
さりげなくついていた戸田がそういって貴緒の足元を拭く中で、華夜乃は立ち上がり、足早に会場を出てきた。
すべて、夏目が悪いのよ。
夏目がっ。
そこでふと華夜乃は、今までの夏目の不審な行動を思い起こした。
緋薔館から夜抜け出し、川辺で立ちすくんでいた夏目。
あの領地は、確かに水仙との境ではないか。
桜王宮に来てからも、抜け出していた夏目。
同時にこの領地を行き来できる人間など、そういるわけではない。
だが、その相手がしずかだったら？
しずかならば、タイミングは全て合う。
でもまさか。
夏目の恋人が、あの西園寺しずか？
足を止めた華夜乃の耳に、誰かが走ってくる足音が聞こえる。
音からすれば、男か。
夏目？
私が出て行ったのを見て追いかけてきたの？
男の息遣いが聞こえてきたところで、華夜乃は後ろから手を取られる。
夏目に違いないっ。
そう思って笑顔を浮かべながら振り返った華夜乃は、思わず顔をしかめた。
「富樫…」
薔薇の副隊長である富樫は、華夜乃の手を掴んだまま、息を整えながら、
「姫。…踊っていただけますか？」
と言った。
「私と踊って―」
「離しなさいっ」
華夜乃はそう小さく叫ぶと、富樫の手を振り切った。
「姫…」
富樫がいたく傷ついた表情を見せる。華夜乃はそれに少しだけ心を痛めたが、そんなことよりも、夏目への怒りの方が勝っていた。
許さない。
そんなこと。
私が夏目を、あの西園寺しずかに取られるなんて。