THE FLOWER GARDEN
桜の章13
延期続きだった桜の鑑賞会が、ようやく行われることになった。
青く晴れ渡った空をしずかが眺めていると、ノックと同時に扉が開き、日向が姿を現した。
「まだか、準備は」
慌てたように、しずかの髪を結い上げていた蓬が答える。
「すみませんっっ、もう少しで終わりますから、どうかお待ちになってください」
その下では、他の侍女が、ああでもないこうでもないとしずかのアクセサリーを選んでいる。
鑑賞会という名目の宴であるために、蓬は朝からしずかの為にドレスなどの準備をしているのだ。
日向は扉を背にして、溜息と共に答える。
「馬子にも衣装だ。そんなに飾り付けても、たかが知れている」
「何だってぇ？！…ぃてっ…」
思わずしずかが怒鳴りつけたところで、蓬がしずかの頭を軽く叩く。
「しずか様っ、動かないで下さいっっ」
「わ、わりぃ…」
しゅんとしたしずかを横目で眺めながら、日向は腕組みをして考え事をしていた。
今日の宴は、名目としては新種の桜を愛でるということではあるが、有世が謹慎を終え、初めて公の場に顔を出す宴でもある。
何かが、動く。
日向はそう考え、眉をひそめた。
鞍馬か、速水か。
或いは、桂公か。
とにかく、隙を見せたら、すぐに襲いかかってくるような相手だ。
いずれにしても、気を抜かないようにしなければ…。
真剣な日向を無視するように、蓬がそのとき歓声をあげた。
「できましたっ。
しずか様、お綺麗です」
何気なく、視線を投げると、そこには綺麗に着飾ったしずかがいた。
いつの間に…。
もとの素質が悪くないことは、日向も知っていたのだが、それに加えて、椿の宮の特訓と、何より『恋』という経験が、しずかをいっそう美しく見せていた。
鏡を見たしずか自身も、それに驚いたのか、いくらか頬を赤らめて、鏡に映った自分の姿に見入っていた。
「何だよ、じろじろ見んなよ」
言われた日向は、何事もなかったかのように視線を逸らし、咳払いをひとつすると、蓬の名前を呼び労う。
「上出来だ。あそこからよくここまで仕上げたな」
だが、しずかが大きくフンッと鼻であしらい、喜びかけた蓬の肩を落胆させた。
宴は、桜稜殿で行われた。
いつもなら外の景色が望める窓を、厚いカーテンで覆った宮殿の中に現れたしずかを見て、夏目は思わず息を呑んだ。
しずか…。
夏目だけではなく、その場に居合わせたものは、しずかの挙動に感嘆の声をあげた。
「あれが、あの野猿の姫か？」
「なんとまあ美しく変貌なさったこと」
「まるで別人のようだ」
「本当に。ドレスにしても、仕草にしても、お美しい…」
髪を全て結い上げたことで、しずかの顔が前面に出されているが、その肌の艶がシャンデリアの下でいっそう輝いていた。
周囲をにらみつけるように見渡していた
視線も、今はゆったりとたまに辺りを馳せるほどだ。
一ヶ月ほど前のことが、嘘のようだ。
ダンスを踊ったことはおろか、ドレスやハイヒールを履いたことのなかったしずかに、特訓だと夏目が教えたときには、三歩歩けばドレスの裾を踏むか、ハイヒールが脱げそうになって転びかけていたしずかが、今は堂々と歩いているのだ。
『人は変わる。その環境で、如何ようにも』
夏目は以前、自らしずかに伝えた言葉を心の中で反芻した。
『人は変わる。その意志に関わらず』
…しずかは気づいているのだろうか。
自らの気持ちに。
陛下に惹かれているということに。
夏目は痛む胸を押さえて、自分の目の前を過ぎるしずかを見つめた。気づいて視線を投げ返すかと思ったものの、返ってきたのは隣の日向からの冷たい視線だけであった。
だが夏目も、その視線から逃げることなく、真っ向から受け止めると、ゆっくりと微笑み返した。
そして、これはすべて日向の思惑通りなのか。
そう思いながら。
貴緒や椿の宮、桂公ら花族も席につき、最後に有世が自らの席に着いたことで、宴は始まりを告げた。
有世は席につく瞬間、ふとしずかを見止めると微笑んだ。それは春の陽射しのように柔らかく、受けたしずかは戸惑った。
そうして、二度も逃げ出したのは他ならぬ自分であるくせに、この笑顔を見たいと思っていたことに気づかされて、しずかはそっと俯く。
だがその瞬間、今度は別の方向から鋭い視線を感じ、しずかが顔を上げると、そこには椿の宮がじっとしずかを見つめていた。
『常に背筋を伸ばしておきなさい。決して俯いてはなりません』
しずかは椿の宮からそう厳しく教えられたことを思い出し、思わず背筋を伸ばした。すると、椿の宮も満足そうに微笑み返した。
ふぅ。油断も隙もあったもんじゃねぇなぁ。
小さく溜息をつくと、ふいに隣の日向が目に映った。
いつもならば、すっと前を向いている日向だが、その横顔は、どこか悩ましげに眉間に皺を寄せている。
どうかしたのか？日向ってば。
そういえば…。こいつ、痩せた？
よくよく見れば、顔のラインがシャープになった気がする。
顔色もよくない気がするし。
しずかは、ここ最近の日向のことを思い出した。
そういえば、相川もよく日向がいなくなるとか言ってたな。
…ま、何かまた企んでるんだろう、きっと。
しずかはそう思い、日向から視線を外した。
日向は、ずっと自問自答していた。
「悪いと思っているのならば、態度で示せ」
確かにそういったのは、自分だ。
「花族たちに、野猿の姫などと呼ばれぬようにすることだ」
そういったのも、自分だ。
そして、しずかはその通りにした。
それまでのこと。
だが、日向は胸の奥がざわついて仕方なかった。
何を、不安がっているのだ、俺は。
そう思ったところで、日向ははたと気づく。
不安。
自分は何かを恐れている。
だからこんなにも気持ちが落ち着かないのだ。
日向は更に自問自答を続ける。
じゃあ、何を恐れている？
…計画が、失敗することに？
そう思ったところで、日向は目を見開いた。
計画は、これまでにないほど、順調だ。
想像以上に。
そう、だから。
少しばかり不安になっただけのこと。
ただそれだけのこと。
そう、それだけの、こと。
壇上に速水が上がり、有世への挨拶と、新種の桜の説明をしてから、その手を大きく振り上げると、それが合図になり、一斉にカーテンが引かれた。
明るい日差しに目を細めながら、その視界に映る薄紅色の世界に、歓声が起きる。
限りなく白に近い桜が、視界を覆いつくすように立ち並んでおり、風に舞い散る花びらが、まるで雪のようにそこかしこに降り積もっている。
「わ…」
開け放たれた窓から、宮殿内にも花びらは舞い降りて、そうしてしずかの目の前をかする。しずかはそっとその花びらを手にした。
中央はうっすらと赤く、羽のように薄い花びらにそっと鼻を近づけると、高貴な匂いがして、それは有世の香と同じだった。
湧き上がる歓声の中から拍手が起こった一方で、どこかからざわめきが起き、しずかも顔を上げると、桜の木の下に一匹の仔猫がいた。
にゃぁとか細い声で鳴く仔猫は、体は泥に塗れており、親猫を探しているのか、桜の木の下で、精一杯鳴いていた。途端に人々の視線は、仔猫に注がれた。
「何だ、あの猫は」
苛立った速水の声に、碓井が答える。
「おそらくは紛れ込んだのではないかと」
それは速水の目にも、明らかに桜にそぐわないものに映った。
「ええい、そんなことはいいから追い出せ」
「はっはいっっ」
慌てて碓井たち百合の騎士が、庭へと駆け込もうとしたところで、ひゅんという鋭い音が鳴り、同時に仔猫の鳴き声が止んだ。
「桂公…」
有世がそう言って、自分の目の前に立つ桂公を見つめた。
その手には近衛から奪った弓があり、ついさっきまであった弓矢は、仔猫の体に突き刺さっていた。仔猫は、遠目にも動いていない。
桂公は弓を近衛に返すと、有世のほうを振り返った。
「せっかくの桜が台無しですぞ。
それに、無粋なものは、この桜王宮には不相応というもの」
表情は穏やかそうだったものの、漂う空気には一寸の猶予もなかった。
「しかし−」
有世はそう言ったものの、桂公はそれに応じることもなく、ゆっくりと自分の席に戻った。
その様子を初めはじっと見ていた有世だったが、耐え切れず庭へと駆け出して行く。
「陛下っっ」
何人かの近衛たちがそう声をかけたが、有世は足を止めることなく、仔猫のところまでいくと、その小さな体を抱き上げた。弓は背中に刺さっているものの、温かで柔らかい仔猫の体は微かに上下に動き、まだ生きていることを感じさせて、有世をほっと安心させた。
「まだ息がある。大丈夫、助か−」
「陛下っ」
そう叫んだのは、またも桂公だった。
有世に駆け寄ろうとしていた者たちも、その一声で足を止めていた。
桂公はだが椅子から立ち上がることもなく、先ほどまでの表情を少し歪めて答えた。
「その汚らわしいものなど、すぐに捨ててしまいなさい」
「しかし、まだ息が−」
「助からない。助かったところで、この桜王宮の中をそのような穢れたものが徘徊するなどこの私が許さぬ」
桂公の口調が明らかに変わったことで、庭に下りかけていた者も、宮殿にひっそりと戻り始めていた。俯いた有世の視界には、傷ついた仔猫が映った。小さな体は、傷つきながらもまだ小さく動いている。
「だが−」
「せっかくのお召し物が台無しだ、陛下。
すぐに着替えて戻ってこられるよう。
今宵の宴はみな、陛下のための宴なのですよ」
桂公の口調が再び穏やかなる。だがそれは、絶対的な力を持っていた。諦めたように項垂れる有世の脇には、近衛が二人つき、宮殿に戻るよう促している。
そして桂公は、うわべだけの笑みを浮かべてこう言った。
「さあ、桜の宴が始まりますよ、陛下」
有世は、そのまま仔猫と共に、庭から姿を消していた。
桂公に従い、汚れた服を着替えるためである。そうして桜の宴は、舞踏会へとうつり、先ほどの一件がなかったことのように、再び華やかな空気に包まれた。
だがしずかは、忘れることができずに、踊り始める人々の中を、そうして正面にいる桂公に向って歩き始めていた。
許せない、桂公のヤツ。
絶対に、許せないっっ。
「しずか様っ、どうされました？」
相川の手が止めようとしずかの肩に触れたが、しずかはそれを振り払い、歩き続けた。
「お待ちください、しずか様っ。あれ？隊長は？隊長はどちらに？」
許せない。
有世の気持ちを踏みにじった桂公を。
許せない。
まるで自分が絶対的に権力を持つような、あの言い方。
許せない。
許さない。
「姫」
誰かがしずかにそう話しかけたが、しずかは無視をした。
ところが同じ声は、そのまましずかの正面に立ちふさがり、しずかの足を止めると、深々と頭を下げたのだ。
「水仙の姫っ」
「…夏目」
深紅の薔薇組の正装をした夏目だ。
初めてそうと呼ばれたこともあり、戸惑うしずかの前で、夏目は顔を上げると、変わらぬ親しみやすい笑顔を浮かべて、こう言った。
「一曲、お願いできますか？」
その声に、辺りはざわめいた。
騎士団の隊長が、別の騎士団の姫に、しかも妃候補の姫に、ダンスを申し入れたのだ。
反逆。
そう思われてもしょうがない。
それでも夏目は覚悟を決めて、手を差し出すと、もう一度繰り返した。
「お願いいたします」