THE FLOWER GARDEN
桜の章12
陛下。
雅は、窓辺から寄り添い立つ桜と桃の木を見つめ、あの世界で一番幸福だった時間を思い出していた。
愛する人が隣にただいるという幸せ。
陛下。
重ねられた肌から伝わる、愛する人のぬくもり。
有世陛下。
だが、雅がいくら願っても、有世が雅の元を訪れたのは、あの一度だけだ。
そして、代わりに有世が向かったのは、しずかの元だった。
どうして。
どうして、私が手に入れたいと思うものは、すべてしずかさんの元に？
同じようにこの世界に迷い込んできたというのに、どうしてこんなにも境遇が違うのだろう。
そっと溢れそうになる涙を、雅は顔を上げてこぼれないようにする。
憎い。
あの人が、憎い。
「そんなに月を眺めていても、迎えは来てくれまいよ」
突如部屋に、見知らぬ男の声が響き、雅が慌てて振り返ると、暗闇の中から男の影が浮かび上がった。
「誰かっ、菖蒲っ、碓井さんっ、誰かっ―」
思わず窓の外からそう叫ぼうとした雅は、あっという間にその口を押さえられていた。
「せっかくの逢瀬に、侍女や付き人を呼ぶのは興冷めだ。百合の姫」
かすかに漂う花の香と、月夜が照らし出すその人形のように整った顔立ちに、雅は思わず呟いた。
「あなたは…」
菫組隊長・鞍馬櫂人。
その微笑みは、以前写真で見たのと違わず、ただ口許を引き上げただけの表情でしかない。瞬きすらしない瞳は、冷静に雅を見つめ、決して微笑んでなどいなかった。
強張る雅の表情に気づき、鞍馬はおどけたように言いなおす。
「それとも、こうお呼びしたほうがいいかな。遠山雅さん」
口を押さえていた鞍馬の手は、そのまま頬へと動き、痩せこけてしまった頬をすべるように撫でる。雅はその手を振り払うと、
「離してくださいっ」
と叫び、そのまま鞍馬から体を離す。そして、そのまま凛とした声で言った。
「これ以上近づいたら、本気で人を呼びます」
だが鞍馬はというと、振り払われた手を不思議そうに見つめている。
雅はからかわれた気持ちになり、思わず握りしめた手に、更に力を入れて言う。
「不法侵入者として、それから、妃候補への侮辱として、陛下にお話します」
だが鞍馬はにやりと微笑むと、テーブルに生けられた百合の花を一輪手にした。
「呼んでも構わないさ。
ただ君は、陛下に身も心も仕えなければならない妃候補でなければならないのに、他の隊長と逢瀬を楽しむ背徳の妃候補として名を広めることになるよ」
さあどうする？
鞍馬はそう尋ねるように、その百合の花を雅に差し出した。
雅は、にやりと笑った鞍馬を見て、握った拳を振るわせた。
「なんて卑怯な…」
雅が一向に百合の花を受け取らずにいると、鞍馬は諦めたようにパッと百合の花を投げ落とした。黄色い花粉が、白い床にぱっと散る。
「まあまあ、そんなに怒らなくても。
僕はね、君のことが実はずっと気になっていたんだ。いつも悲しい顔をしている百合の姫が。さぞかし速水に苛められているに違いないと」
鞍馬はそう言いながら、ゆっくりと雅の周りを歩く。カツカツと足音がなり、思わず雅は慌てたように答える。
「…違いますっ、そんなことはっ―」
「ただひたすら、陛下の傍にいるために、彼から受けるどんな屈辱にも耐えている君をね」
雅の心臓が大きく跳ね上がったと同時に、鞍馬は足を止める。
目の前に映る雅の華奢な肩が、小刻みに震えているのを見て、鞍馬はにんまりと微笑んだ。
決まりだ。
これで、百合は落ちたも同然。
鞍馬は再び雅の周りを歩き出すと、蒼白になったその表情をなめるように見つめながら、猫なで声を出す。
「僕はね、そんな君にとても感動したんだ。だから、とっておきの情報を持ってきたんだよ」
「情報？」
思わず顔を上げた雅を見て、鞍馬はほくそ笑む。
「君が何よりも嫌う、速水のことだよ」
ノックされ、日向は自然と扉に視線を向けると、失礼しますと言って楓子が女性の姿で現れた。この椿の宮の寝殿において、楓子爵は常にそうして桔梗の宮として生活しているようだ。
「お茶をお持ちしました」
楓子いや桔梗の宮は、そういうと、茶器を持ちながら扉を閉めようとした。だがその時、背後から腕が伸びてきて、桔梗に代わって扉を閉める。
慌てたように桔梗が振り返ると、日向はすっと茶器の乗った盆を取り上げた。
「…日向様」
「桔梗の宮に茶を入れてもらうなど、失礼になりますから」
「しかし―」
応接間の入り口で、押し問答になっているのを見て、椿の宮がなかば呆れたように言った。
「お座りになってくださいまし。桔梗がやりたいといっているのだから、桔梗にやらせておけばいいのです」
顔を赤らめた桔梗に気づかぬ日向は、仕方ないというように、そっと盆を桔梗に返す。
「椿の宮にまでそう言われては」
そうして席に座ると、桔梗がそっと茶を差し出す。同じく椿の宮にも茶を差し出すと、桔梗は失礼しました、とすんなりと出て行ってしまった。
パタンと静かに扉が閉まって、日向は茶をすする椿の宮に尋ねた。
「よく、いらっしゃるんですか。桔梗の宮はこちらに」
このところ、日向が椿の宮のところに来るときには、必ず桔梗とどこかで顔を合わせるのだ。椿の宮は、軽く咳払いをしてから、
「あなたと同じくらいですよ」
と答えた。
「そう、ですか」
日向も茶を飲んだところで、椿の宮が独り言のように呟く。
「最近は、肌の色艶もいいし、姉としては、安心半分、心配半分といったところかしら」
「心配半分？」
その表情が和やかなことに、日向がそう繰り返すと、椿の宮は再び茶を一口飲んで答えた。
「なんでもありません。ただの独り言です。それより、今日はお渡ししたいものがあって、お呼びしたのです」
椿の宮がそういって軽く手を二回叩くと、すぐにお付の竜胆が現れた。
そうして、机の上には、小さく三角に折られた白い紙がいくつか置かれた。
「この前お話していた睡眠薬です。一度に一袋で、十分。それ以上はお止めなさい」
日向は顔をはっと上げた。
「ここ数日間、お休みになっていないようにお見受けいたしますわ」
実のところ、椿の宮に言われたその通りであった。横になっても、目を瞑っても、あることが過ぎり、そのまま朝を迎えるのだ。
日向は一瞬、そのまま薬を掴みかけたところで、そっと手を引いた。
「お気持ちだけ、ありがたく頂きます」
椿の宮は、小さく溜息をつく。
「自分のところの薬師でないと安心できないのかしら」
「いえ、そういうわけでは」
一瞬だけ、日向の脳裏に、佳乃の姿が思い出される。
体が弱く、そのため、薬をよく欲した佳乃は、必ず日向に薬を頼んだ。そのたびに、日向は祈る気持ちで薬を届けていたのだ。
その思いは、結果としては叶わなかったが、ただその思い出だけが日向に残されていた。
「ご心配していただくほど、柔ではありませんから」
日向はそう答えると、茶を一気に飲み干した。
椿の宮の用事がそれであれば、自分はここにいる必要はもうない。
だが、日向が立ち上がる前に、椿の宮は懐から同じような薬を差し出した。
「わかりました。では、こちらを」
「これは？」
同じく三角の形をした紙は、薄い紅色であった。
椿の宮は、にこりと微笑み、答える。
「真実の薬」
「真実？」
「言うなれば自白剤です。必要ならば、水仙の姫に」
日向は手を伸ばすこともせず、乱暴に湯飲みを置いた。
「受け取れません」
「ならば、あなた用に。もちろん、捨てても私としては構いませんわ」
だが、日向は受け取らずに、そのまま立ち上がり、部屋を出て行こうとした。だが、把手に手をかけたところで、椿の宮の声が低く響いた。
「あなたたちが唯一に似ているところね」
「私と、しずか、が？」
振り返ると、椿の宮はゆっくりと茶を飲んでから、答えた。
「強情ということですよ」
床に座り込む雅の背中を一瞥し、鞍馬はほくそ笑むと、カツンと足音を鳴らして、部屋を出て行こうとした。下調べによれば、雅の部屋にそろそろ監視がやってくる時間だ。もっとも、雅はそのことに気づいていないのだが。
当初の予定は狂ってしまった。
他人を自分に手懐けるには、色々な方法がある。
何かを与えるか、弱みを握るか。
その相手が女である場合、最も有効な手段は、情だと鞍馬は考えている。
実際に与えられるものではないが、あたかもそうであるかのように振舞うこと。そして、そうだと信じ込ませること。そのために体を使うこともしばしばあるが、それは鞍馬にとって大した問題ではないし、何よりもその才知を、自分は持っていると思っていた。
特に、雅のような状況の女性は、何かにすがりたいと願っているはずで、それは女では満たされることなく、むしろ男にこそ求めているものだと、鞍馬は思っていた。
だが。
『離してください』
そう言って自分の手を振り払った雅を見た時、鞍馬は雅にはもうその求める相手がいるのだと瞬時に悟った。そして、それが有世であるということも。
即座に計画は塗り替えられた。だが、その判断は正しかったのだと、雅の背中を見て、鞍馬は確信すると、くすりと笑う。
「では、姫。御機嫌よう」
返事はあるわけもなく、また鞍馬自身も期待などしていなかった。
だが、二、三歩歩いたところで、小さな声ではあったが、凛とした声が鞍馬を引きとめた。
「お待ちください」
振り返るが、引き止めた雅は、床に座ったまま、鞍馬を振り返らずに言う。
「貴方に、聞きたいことがあります」
「何なりと」
「悠美、という名前の女性をご存知ですか？」
「悠美？」
僅かだが、雅の声が震えた。
「貴方が、間者として百合に潜り込ませた女性です」
「…ああ、彼女か」
ようやく思い出したように、鞍馬は答える。
「ただ語弊がある。彼女は僕にとってただの恋人だった。そして、彼女は百合の姫の侍女だった。それだけだ」
実際は、百合の情報を入れたいが為に、手に入れた女だった。
それが結果として、雅の侍女であり、また自分と関係を持った。
それだけだ。
鞍馬の答えに、雅は声を詰まらせるようにして、更に尋ねた。
「…ただの恋人だったなら、白百合の丘の出来事は、何も聞いてはいないのですね」
「白百合の丘の出来事？」
だが、それに対しての雅の返事はない。ただ、肩が小刻みに震えていた。
それが鞍馬にとって、答えになった。
「さあ」
そして雅の耳元に囁く。
「睦言を他人に語るほど、僕は無粋ではないからね」
雅の震えが止まる。
鞍馬は、立ち上がり、少しばかり声を張り上げた。
「ただ君に言えることがあるとするならば、彼女は、君の事をとても哀れんでいた。速水のことを恨むのと同じくらいに。
そして、速水は男の片隅にも置けない奴だと言っていた。僕もそう思う。だから、こうして君に話に来たんだ」
それじゃあね、と言って、鞍馬は再び歩き始めた。
だが、扉の前で思い出したように、振り返ると、
「くれぐれも、速水には気をつけて」
と、言い残した。
「おはようございます」
元気な声と共に、カーテンが開かれ、ぱっと明るい日差しが部屋に差し込んできた。
「姫様、今日はいい天気ですよ」
菖蒲はそういうと、ベッドに横たわる雅に声をかける。
「昨日の雨が嘘のようですわ」
雅の返事がないことに気づき、菖蒲は不安になって振り返った。だが、雅は横にはなっているものの、きちんを目をあけている。
「明日の鑑賞会、楽しみですね。姫様」
菖蒲がそう言うと、ようやく雅が口を開いた。
「そうね」
安心して、菖蒲は思わず満面の笑みを浮かべてしまう。
「今日は美味しい林檎が手に入りました。どうぞ、姫様」
菖蒲はそう言って、切った林檎を雅に差し出した。
雅は、じっとその林檎を見ていたが、ふいにこう言った。
「確かに美味しそうね。菖蒲」
「はい」
「あなたもひとつ、食べてみたら？」
え？という表情をした後で、菖蒲は驚いたような声を上げる。
「いいのですか？」
「もちろんよ。こんなにあっても、一人じゃ食べられないもの」
「ありがとうございます」
雅はそれから、ベッドから起き上がると、
「お先にどうぞ。私、顔を洗いますから」
と言った。菖蒲は、素直にありがとうございます、と答えると、大きな口を開けて、林檎を頬張った。
「美味しいですよ、姫」
笑顔の菖蒲に、雅はにこりともせず答える。
「そう。それはよかったわ」
美味しそうに林檎を口にいれる菖蒲を見ながら、雅は昨日の鞍馬の話を思い出していた。
速水の秘密を、鞍馬はひとつの物語のように語ったのだ。
「あるところに、一人の騎士がいました。
彼は、とても生真面目で、ただ一人王様だけに忠誠を誓っていました。周りが権力や女に溺れる中で、彼一人だけは、そのような低俗な人間にはならないと、高潔な人間である為に、厳しい騎士団の規律を頑なに守ってきました。
そんなある日、彼の前に、ひとりのお姫様が現れました。
それはそれは綺麗なお姫様で、彼は一目で心を奪われました。ところが彼女は、別の貴族の元に迎え入れられることになっていたのです。
でもそうすれば、お姫様ともう二度と会うことはできません。
また、彼は自分の戒律を守らなければならないので、自分の愛を認めることも、また伝えることもできません。
そうして、遠くからでもいいから、お姫様に会いたいと願う騎士は、ある日王様に伝えました。
美しい姫様がいます、と。
王様は一目でそのお姫様が気に入りました。
そして騎士は、王様と女王様となった姫様に忠誠を誓うことにしたのです。
実際、王様と女王様は、それはそれは愛し合っていました。
その仲睦まじいことが、それを見ていた騎士の心に、今までくすぶっていた気持ちに火をつけてしまったのです。
騎士は、お姫様を一生自分だけのものにしたいと、そう願うようになっていたのです。
ですが、それに気づいた騎士は悩みました。
自分のものにするということは、忠誠を誓った王様を裏切ることになるし、自分の戒律をも破ることになる。
騎士は悩みました。
そうして騎士は、王様を裏切ることなく、一生姫様を自分のものとする方法を思いついたのです。
騎士は、薬と称して、姫に毒を飲ませました。
そうして、王様のものとなる前に、姫を自分だけのものにしたのです」