THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章09
夏目が有世と約束をしてから、数日が過ぎようとしていた。だが、華夜乃は宣告通り、動く気配など全く見せずに、一日をのんびりと過ごしていた。
有世は夏目との約束の通り、あの日以来毎日桂公のところまで出向いているらしい話は、周囲の人間から漏れ聞こえてきた。それに対し、桂公は一度も顔を見せないとも。
『しずかは、私が守る』
あの言葉は、本気なのだろう。
だとしたら、自分がすべきことは唯一つ。
夏目はゆっくりと立ち上がった。
花琳舎を出て、桜稜殿に居る華夜乃のところに向おうと馬に乗ると、副隊長である戸田が、慌てて追いかけてきた。
「隊長、どちらへ」
いつにない険しい表情の夏目が、気になっているようだ。だが、夏目は戸田を振り返ることなく答えた。
「もうこれ以上待つ理由もない。今夜中に、我々薔薇組は、姫を率いてこの桜稜殿から出る」
戸田の表情までもが、強張る。
副隊長という立場から、戸田には華夜乃がこの桜稜殿に入った経緯を知っていた。
桜稜殿から出て行くということが、それを命じた桂公へ反旗を翻すに近い行動であることも、わかっていた。
「しかし隊長、それはっ―」
夏目は動揺している戸田の言葉を無視して、言葉を続けた。
「我々の使命は、妃を薔薇組から出すことではない。陛下の勅命を受ければ、それを実行するまでだ」
隊長という立場から言えば、陰の権力者である桂公に刃向かうことも、近づいた妃の座を手放すような行為も、間違っていることは、夏目にもわかっていた。
やはり、私には隊長は向かないのだな。
桜稜殿に着き、ノックもせずに華夜乃の部屋に入ると、中にいた女中たちが驚いた表情を浮かべた。
「隊長、どうされましたか―」
女中たちでも一番重鎮の山吹が、思わずそう夏目に尋ねる。
紳士的と評される夏目の行動に慌てているようだった。夏目はそれに答えず、視線を馳せて目的を探した。すると、ソファの向こうから、華夜乃が姿を現した。
「あら、隊長さん。どうしたの？」
薄着のドレスと、どこかぼんやりとした表情に、華夜乃がうたた寝をしていたことが垣間見えた。
「花琳舎に戻ります」
「え」
戻る日は、今日ではないと華夜乃が言い返す前に、夏目はツカツカと華夜乃の側まで行くと、いきなり華夜乃を抱き上げた。小さな悲鳴を華夜乃は上げたが、夏目は華夜乃を下ろす気はないようだった。華夜乃も思わず、夏目の首に必死でしがみついた。
濃厚な、薔薇の香が漂う。
それに酔いしれる華夜乃を無視して、夏目は呆然としている女中頭に向って言った。
「山吹殿。用意を頼みます」
「陛下。どうされました？」
声をかけられた有世は、一瞬びくっとすると、振り返った。
そして雅を確認すると、ほっとため息をついた。
「ああ。百合の姫か。すまない。
この桃の樹を、ふいに眺めたいと思い、勝手に入らせてもらった」
有世の横には、月夜に寄り添う、桃と桜の木がある。
桃の宮と呼ばれ、この荷葉舎で暮らしていた佳乃の為に、有世が贈ったのがこの桜だった。
桃の樹を見上げる有世に、雅は笑顔で答えた。
「いいえ。陛下が見たいと思えば、いついらしても構いません。ただ」
「ただ？」
「お疲れのご様子が気になりまして」
光り輝くような風貌であった有世だが、月夜のためなのか、頬のあたりもいくらかこけている様に雅には思えた。
何より、その瞳に、いつもの柔らかな光がない。
雅の言葉を聞いた有世は、思い起こすように目を細めて答えた。
「そうだな、少し疲れたかもしれない。
だが、約束をしたし、当然の事だから、それも仕方ないな。
しずかの気持ちに応えるには、このくらいは」
最後には微笑みながらそう雅に言った有世だが、はっと気づいたようにその頬が強張った。
「すまない、このような話を姫にするとは」
妃にしてほしいと願った雅に言った言葉を有世は、今更ながらに思い出した。
俯いて、慰めの言葉を探す有世に、雅はゆっくりと首を振る。
「…いいえ。お話なさることで、陛下のお心が少しでも休まるのであれば、私にとっても幸せなことです」
強がりからでなく、幸せそうに微笑む有世を見て、その時雅は本当にそう思った。
『全てを認め、全てを許し、愛する人を愛す。
それもひとつの人生とは思わないでしょうか』
夏目に言われた言葉が、雅の心にすっと受け入れられていった。
疲れている表情の陛下よりも、微笑む陛下で居て欲しい。
例え隣にいるのが、私ではなくても。
例えお心にあるのが、私ではなくても。
雅の気持ちを理解したのか、有世は再び顔を上げると、雅に向ってきちんと話した。
「姫には申し訳ないが、私はしずかを妃に迎えるつもりだ。しずかも、私に心を許してくれている。
紆余曲折あったが、私たちは、お互いの気持ちを確かめ合った。
私は、必要なのは二人の気持ちだけだと思っていた。あとは覚悟のみと。
だが、しずかは違うと言う」
有世はそこまで言うと、今度は夜空を見上げた。
澄んだ星空には、無数の星が輝いていた。
「確かに、しずかは未だ妃候補でしかない。
桂公爵にいたっては、変わらずしずかを認めていない。
おまけに桜稜殿には、薔薇の姫が公然と住んでいる。
この状況で、私がしずかに誓いを立てても、実を伴っていないと思われても当然のこと」
だが雅には、しずかがそのように思うとは考えられなかった。
しずかさんは、人に対して何かを条件にするような人じゃない。
自分の気持ちに素直に動ける人だ。
「それは…水仙の姫が、そのように申し上げたのですか？」
思わずそう尋ねると、有世は、否、と答えた。
「しずかは、けじめをつけたいのだと言っていた」
けじめ。
陛下に対しての、けじめ。
…違う。
しずかさんの言うけじめは、自分に対してのけじめだ。
しずかさんと、私に対しての。
私を守ると言ったしずかさんが、自ら私を傷つけていると思ったのであれば、きっとそのままではいられない。
いくら陛下と想いが通じ合っていたとしても、
いくら妃にと言われても、
その前に、私への仁義を通すに違いない。
私の知っているしずかさんであれば。
きっと。
あの言葉は、決して異性への愛だけではない。
そういうことなのだ。
「どうかしたのか？」
黙りこんだ雅に、有世がそう尋ねたが、雅はこぼれそうになった涙を気づかれぬように拭くと、
「いいえ。何でもございません」
と答えた。
その時、暗闇の方からカサカサという物音が聞こえた。
雅は思わず、有世の腕を握り締める。
百合組の中にも、敵がいることを知った雅は、あの日以来心を休めるときがなくなっていた。
微かに震えるその手に、ふいに温かな手が重なった。
顔を上げると、やわらかい笑みを浮かべた有世が居た。
「心配するでない。あれは野良猫だ」
鼓動の高鳴りに気づいた雅は、慌てて掴んでいた手を離した。
「すみません。最近、魔物が出るなどという噂を耳にしたもので」
咄嗟にそう嘯いたが、有世は逆に気になったようだった。
「魔物？」
「はい」
雅は、女中である菖蒲から聞いた話を、そのまま有世に伝えた。有世は、始終真剣な面持ちで話を聞いていたが、その話が終わると、そうかと小さくため息をついて答えた。
「…そのような話があるとは」
「でも、陛下のお耳に届かない、ということは、単なる噂話なのでしょう」
雅はそう言うと、有世の表情が僅かに強張った気がした。雅の視線に気づいたのか、有世は慌てて言った。
「いや、そのようなことはない。桜王宮で起こる全てを、私が知っているわけではないのだ」
その言葉が寂しく響き、思いがけず雅は戸惑った。
そして、ハッと思い出したことを口にする。
「近衛の制服が盗まれるという話も、最近ございます」
「近衛の制服が？」
明らかに、有世の表情は慌てていた。
その証拠に、その先に話を雅が進めようとすると、
「長居をしてしまった。すまない、百合の姫。今宵のお礼は、いつか必ず」
と手短に話を終わらせようとしたのだ。
背を向けた有世に、雅は思わずこう言い返した。
「では、陛下。今から質問することに、お答えいただけますか？」
「答えられるものであれば」
この次、いつ有世に会えるかもわからない。
もしかしたら、二度と会えないかもしれない。
そう思うと、雅も必死になった。
「陛下は、覚えていらっしゃいますか？初めてお会いしたときのことを。
池に身を投げ出し、命を絶とうとしていた私を、陛下は助けてくださいました」
「勿論、覚えている」
有世の声も強張っている。だが、雅は止めなかった。
「あの時、陛下は紫紺の制服を御召になっていらっしゃいました。あれは、近衛の制服ではございませんか？」
ぴくり、と有世の肩が弾む。
答えは、無かった。
「何ゆえ、陛下が近衛の制服を盗みになるのです」
長い沈黙の後で、有世は重々しい口調で答えた。
「そうしなければ、私はこの王宮から抜け出せないからだ」
だがその答えに、雅は納得が出来なかった。
「どうしてです。陛下はこの王宮の長。家臣である私共があの門をくぐれなくても、陛下であれば、誰の許可を必要としましょう」
耐え切れず、というように有世は振り返って、押し殺した声で答えた。
「そうでもなければ、一人で約束の場所に向うことなどできなかったのだ」
「約束？どなたとです？」
雅が思わずそう聞き返すと、有世はハッとしたような表情になって答えた。
「それは…。答える義務は、私にあるのだろうか」
雅を見据えた目は、それ以上追求するな、と告げていた。
「…失礼しました。言葉が過ぎました」
考えてみれば、相手は陛下。自分は妃候補。
身分の差は、明らかだ。
頭を下げる雅に、有世はいつものように優しく答えた。
「いいや。
姫は、何も知らないのだな」
「え？」
驚いた雅が顔を上げると、有世は今までにない哀しそうな笑顔を浮かべていた。
「近衛は、私を守るためにいるのではない。私を監視するためにいるのだ」
「…ただいま」
扉を開けたところで小さくそう言ったが、誰もしずかに返事などしてくれなかった。
それもその通りかもしれない。
ここ数日、しずかは蓬や相川たちの言いつけを破って、一人で出歩いているのだ。
貴丹舎に居れば、石崎からは、有世が来ないことを責められ、
手持ち無沙汰でお菓子でも食べようとしたら、蓬からはせめて有世に手紙を書くようにと怒られ、
暇だから馬にでも乗ろうものなら、相川が怪我を心配して止める。
『お前はもう、陛下以外に受け止めてくれるところなんか、ない』
ふいに、日向の言葉を思い出した。
悔しいけれど、確かにそうかもしれない。
この水仙組だって、じきに解散するのだ。
本当のところ、しずかとて、自分が今何をすべきかはわかっているつもりだった。
だが、どうも気持ちが向かない。
雅に会う自信がなかった。
とぼとぼと階段を上っていく途中、ふいに日向はいるのかと、気になった。
あれからも、見計らっては日向の後を追いかけるものの、途中で巻かれてしまい、結局日向がどこの女のところに通っているのか、しずかはわからなかった。
どこか静まり返った館に疑問を持ちながら、しずかが日向の部屋の前に立った。
扉をノックすべきか、どうするかで悩んでいると、ふいに足元にきらりと光るものが見えた。
あれ？
これっ！
しずかは慌ててそれを拾った。
ロケット部分を開けると、間違いない自分とよく似た写真が現れる。
これ、あたしのロケット。
やっぱり日向が持ってたんだっ。
しずかは、思わずノックもなしに扉を開けた。
「日向？」
だが、目の前に置かれたデスクにも、ソファにも、日向の姿はない。
「おい、入るぞっ」
その時、奥の扉の向こうで、ゆらりと揺れる影が見えた。奥の部屋は、日向の寝室となっているはずだ。
「ひゅう…」
声をかけながら踏み込もうとしたしずかは、思わずそこで足を止めた。
カーテンを引かれたその部屋の、暗がりの中でベッドサイドには、確かに日向が立っていた。
上半身は裸で、腰にはタオルを巻いただけだった。
表情はうつろで、視線もどこにも定まっていないような感じだった。
乱れた髪を整えることもせず、けだるそうにため息をつく。引き締まった体が、上下に動いた。
そうして、思い切り顔を歪めると、日向は固く目を閉じた。
その苦しい表情に、見ているしずかの方も苦しさを感じ、思わず手にしていたペンダントを握り締めようとしたところで、ペンダントは小さく音を立てて、床に落ちる。
その音に気づき、日向がパッとしずかの方を見つめた。
「しずか…」
目を見開く日向の後ろから、ゆらりと別の影が動く。
「日向。どうしたの？」
ベッドから起き上がったのは、見知らぬ女だった。
可憐な風貌ではあったが、その表情は確かに女だった。
女は、か細い肩をむき出しにし、胸元にシーツを手繰り寄せると、ゆっくりとしずかを見据えた。
何故、館が静まり返っていたのか、
この女は誰なのか、
しずかはその時理解をした。
「待て、しずかっ」
逃げ出したしずかを追いかけようとした日向だが、桔梗がそれを引き止めた。
「行かないでっ、日向」
弾かれるように日向は足を止める。
桔梗は、すがるように話し続けた。
「一人にしないで。
側に居てくれるって、約束したじゃない。
…それに、その格好で姫を追いかけたら、噂の的になるわ」
その時になり、ようやく日向は冷静になった。
思いがけずしずかを見た時は、しずかしか見えていなかったが、桔梗の言うことは正しかった。
ここしばらく、桔梗のところには行っていなかった。
誰かにつけられているような気がしていたからだ。
それでも、大丈夫だと思った。待てるだろうと。
だが、桔梗は突然、この貴丹舎にやってきた。しかも、女性の格好をして。
戸惑ったのは日向のほうで、とりあえず人払いをすると、桔梗を部屋に迎え入れた。
涙ながらに会いたかったのだと繰り返す桔梗を、日向は責めることもできず、抱きしめるしかなかった。
「長居しすぎたみたいね。帰ります。
勿論、送っていってくれますでしょう？」
明るい声で桔梗がそう言う。
日向は足元に転がったペンダントを拾い上げた。