THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章08
抱きしめたその体が、かるく自分を押し返し、拒絶した。
思いがけない出来事に、戸惑いながら有世は腕の力を緩めた。
「しずか？」
しずかはするりと有世の体から抜け出し、背を向けて呟いた。
「…ごめん」
有世の動揺が、黙り込んだ空気でわかる。
しずかは搾り出すように言った。
「こういうの、嫌いなんだ」
「こういうの？」
しずかは小さく頷いてから、拳を握り締めて答える。
「つまり…。ケジメ、ついてないっつーか」
雅ともきちんと話をしないままで、有世とこれ以上逢瀬を重ねれば、あの夜の出来事は、たった一度の過ちとはいえない。
しずかとて、有世の体に包み込まれれば、その温かさに、このままずっといたいと思う。
だけどそうするなら、雅とちゃんと話をしなければ。
そうしなければならない。
沈黙がしばらく二人を包み込んでいたが、小さなため息と共に有世が呟いた。
「わかった」
カツンと足音がして、有世が背を向けたのがわかる。
ごめん、有世。
しずかはそう思い俯いたまま、黙って拳を握り締めていた。
そうでもしなければ、有世の背中を追いかけてしまいそうな自分が怖かった。
有世を拒絶した今、明日から有世が自分を擁護してくれるとも思えない。そうなれば、しずかは本当にひとりだ。
それでもしずかは、自らが救われることよりも、雅との友情をとった。
有世とちゃんと向き合うためには、雅と一度話さねばならない。
雅が赦してくれなければ、有世と一緒にいられない。
足音がどんどん遠のいていく。
しずかはぎゅっとスカートを握り締めた。
ふいに、足音が止まる。
扉を前に、有世は振り返ると、項垂れたままのしずかの背に話しかけた。
「けれど、どんなことがあっても、私はしずかを愛している。
それだけは、忘れないでくれ」
扉が閉まった瞬間、しずかは床に座り込むと、唇をかみ締めて、必死で涙が流れるのを堪えた。
日向が貴丹舎に戻ってくる頃には、うっすらと空には朝日が見えていた。
静まり返った貴丹舎に、人の気配はない。
しかし、有世が一晩をあかしたとすれば、そろそろ戻る時間だ。人が動き出すだろう。
その前には戻らねばならない。
日向は重い足取りを、それでも速めてそっと自分の部屋の扉を開ける。
扉を閉め、安堵のため息をつこうとしたところで、日向は思いがけぬ光景に、思わず息を飲み込んだ。
ソファの上には、横になっているしずかがいた。
定期的に肩が上下することから、どうやらぐっすり眠っているようだ。
だが、どうして。
戸惑いながらも、日向は上着を脱ぐと、そっとしずかにかける。
有世はどうしたのか、
そもそもどうしてここにいるのか。
揺り起こして問いただしたい気持ちはあったが、深い眠りの中にいるしずかと、疲れきった自分の体を前にして、日向はそうするのを止めた。
だが、体は疲れきっているというのに、脳が冴えきっているのか、どうにも眠れそうにない。
日向は窓辺に寄りかかると、そっとカーテンを引いた。
桔梗の元を出てきたときには暗闇だったというのに、すでに朝日が半分以上昇り始めている。
『また明日も来てね、日向』
帰りがけにそう言われたことを日向は思い出した。
心の奥が、ぞっとするほど冷たく感じる。
だけど、口や体は、そんな心を気にすることなく、熱く桔梗を愛撫していた。
いつからだったろう。
本音を隠し、偽りを口にし、人を騙すことを覚えたのは。
『どうして、日向』
そう呟いて責めるように自分を見つめたあの人は、もうどこにもいない。
日向が窓ガラスにそっと手を触れたところで、部屋には不機嫌そうな声が響いた。
「どこに行ってたんだよ。昨日」
窓ガラスには、起き上がったしずかが映る。
その表情は、声と同じくひどく不機嫌そうだった。
素直なしずかに、日向は心の中で笑うと、ガラスに映ったしずかの頬を、そっとなぞりながらぶっきらぼうに答える。
「どこだって、構わないだろう。それより陛下は？」
「有世なら帰った」
ぷいと横を向いて、しずかが答えた。日向は思わず手を止め、しずか本人を振り返る。
しずかは日向から視線を逸らしたままで、ぶつぶつと呟いた。
「嫌いなんだ。勢いで一晩だけ一緒に過ごしたってだけなのに、そのままずるずる関係続けるのは。
それに。…雅のこともある」
「いいじゃないか。遠山雅は、もうお前を見切っている。わかっているだろう」
日向がそう言い返すと、しずかの頬がぴくりと動いた。
間髪いれずに、日向はしずかを追い込むように、それにと続ける。
「お前だって、もう自分の気持ちに気づいているはずだ―」
「あたしはっ―」
日向の言葉に、しずかはずかずかと日向に歩み寄ってきた。だが、日向は更にしずかを追い込むように言う。
「陛下はお前を何としても妃に迎えようとしている。その気持ちを裏切るというのか」
「…っあたし―」
「お前はもう、陛下以外に受け止めてくれるところなんか、ない」
日向がはっきりとそう言い放った瞬間、しずかがハッと息を呑むのがわかった。
悲しみに打ちひしがれた表情だ。
机を飛び越え、手を伸ばせば、しずかには簡単に手が届く距離だ。
そうして、手を伸ばし、抱きしめてしまいたい。
ふいに沸き起こった感情を押さえ込むように、日向はしずかにはっきりと言い放つ。
「水仙組は、妃が選ばれた後、解散させる」
「どうしてっ」
しずかの目が、大きく見開かれた。自分の方にそのまま近寄ってきそうなしずかに背を向けると、日向は上ってくる朝日を見つめながら答えた。
「自分の犯した罪を償うことなく、このまま陛下の温情に甘えるわけにはいかない」
それは、桔梗との取引をする前から考えていることだった。
「…相川たちは、どうなるんだよ。君江は、石崎は」
しぼりだすようにそう聞き返したしずかに、日向は淡々と答える。
「できる限り本人たちの希望を聞いてやるつもりだ」
その時扉がノックされ、聞き覚えのある、まだ僅かに眠気の残る声が扉の向こうから聞こえてきた。
「隊長？お戻りですか？」
ああ、と日向は答えると、しずかに手を差し出した。
「相川だ。上着を返せ」
しかし、しずかは上着を握り締めたまま、日向を睨む。
「…しずか？」
「嫌だと言ったら？」
息を呑んだのは日向のほうだった。
「解散するのも、桜王宮も、全て何もかも、嫌だと言ったら、お前はどうする？」
しずかはそう言って、まっすぐ日向を見つめた。
だが日向はそんなしずかからすぐに逃れるように、上着から手を離して再びしずかに背を向けた。
「忘れたのか？俺の言うことは、絶対服従だ」
「でもそれは、あたしが水仙の姫であったらで、妃になれば、お前の上に立つことになる。立場は逆転だ」
そう言っただろう？と挑むように日向を見つめるしずかだったが、日向が振り返ることなく、しずかに言い返した。
「ならば妃になってみろ。話は、それからだ」
柊伯の死体が発見されたという情報が夏目のもとに届いたのは、その日の夕刻だった。
「柊伯の館の裏の林の中で、木の葉に埋もれている柊伯が発見されたようです。すでに息は引き取られていました。死因はわかりませんが、背中に大きな太刀傷があったとか」
「太刀傷？」
「はい。…巷では、ついに魔物が出たと噂になっておりますが、一部では侵入者がいるのではないかという話です」
無言のまま夏目は、僅かに眉をひそめた。
死因は、明らかに毒殺だ。
それに柊伯が倒れた場所は、桜王宮の片隅に残る今は使われていない柊伯の別邸だったはずだ。
そこから、柊伯の館まで、重い死体を運ぶのは容易ではない。
とすれば、やはり裏で動いている人間がいるということ。
しかも、一人じゃない。
でも、いったい誰が？
戸田の言う侵入者がいるのか？
何のために？
「夏目隊長」
その時扉が開いて、近衛が顔を出した。
「陛下がお呼びです」
「陛下が？」
思い当たることはなかったが、夏目は椅子から立ち上がると近衛に答えた。
「今行く。戸田、何か詳しいことがわかったら、教えてくれ」
同じ頃、雅も侍女の菖蒲から、柊伯の死体が発見されたことを聞いていた。
もっとも菖蒲の話によれば、柊伯は魔物に襲われたということだった。
「魔物？」
「最近多いんですよ。扉が突然壊れていたり。誰もいないはずの館に、気配があったり、物音がしたり。
それに物もよくなくなっているそうです。馬や牛、それに食べ物や、お鍋、果ては近衛の制服まで。
だから、魔物か亡霊がいるんじゃないかって」
確かに、苦しむ柊伯の表情は、魔物や亡霊にとりつかれたくらいに恐ろしいものではあった。
だが夏目は、死因は毒だと言っていたはずだ。
それとも、夏目の判断が違っていたのだろうか。
だが、発見された場所は、雅が呼び出された洋館ではなかった。
ということは、誰かが？
黙り込んで考えていると、ふいに菖蒲の視線を強く感じて、雅は慌てて答えた。
「怖いわね。でも、お鍋や近衛の制服なんて、魔物が盗んでどうするのでしょうね」
そうですよね、と菖蒲は答えると、知り合いの近衛の話を例に出した。
ある者は風呂に入っている間に、ある者は眠っている間に、気がつくと、帽子から靴から一式無くなっているというのだ。
「何のために？」
「さあ。でも近衛の制服は素敵ですからね。魔物にそういう美的センスがあるのであれば、わからなくもないですけど」
確かに、紫紺色の近衛の制服は、黒い帽子と編み上げのブーツとあわせると、とても見栄えがするものだ。
「けれど、制服とて高価なものですから、奪われた近衛に課せられる罰も軽くないらしく、近頃の近衛の方は、鍵つきの箱の中に制服をお入れになるそうです」
「だけど、それだけで…」
そう呟いた途端、雅はハッとした。
初めて会った時の有世が着ていたのは、たしか紫紺の制服だった。
確かに碓井は、雅を助けたのは近衛の人間だと言っていた。
だが、あの帽子を目深に被れば、顔はよく見えない。
ましてやあの頃の碓井からすれば、有世など遠い存在であるから、声を知っているわけでもないだろう。
しかし、仮に制服を盗んだ犯人が有世だったとして、どうして有世は盗まなければならなかったのだろうか。
それにそもそも、どうしてあの時、あの場所に有世はいたのだろうか。
「姫、どうかされました？魔物の話でもしたから、ご気分でも？」
急に黙り込んだ雅に、菖蒲が心配そうに声をかける。
「いいえ、なんでもないわ」
雅はそう答えると、再び黙り込んだ。
夏目が有世の部屋に出向くと、有世はそのまま人払いをし、夏目と二人きりの状態になった。
有世の話とは、実に明快なことであった。
「桜稜殿を出て行ってほしい、そういうことでしょうか」
やんわりとした言い方ではあったが、ようはそういうことだと夏目が尋ねると、有世は小さく頷いた。
「すまない」
夏目がそれに答える前に、有世は重々しい口調で、はっきりと言った。
「私にはもう妃にと決めた人がいる。ここに薔薇の姫にいてもらっても、それは姫を傷つけるだけだ」
ふっと息を吸ってから、夏目は答えた。
「水仙の姫、ですね」
「そうだ」
まっすぐに夏目を見つめた視線は、揺るぎなく、それほど有世の決意が固いことが見受けられた。
それを受け、夏目は一歩有世に歩み寄るような視線を向けて尋ねた。
「しかし、桂公はどうされるおつもりですか。お気づきだと思いますが、桂公は、我が姫を妃にと考えていらっしゃいます。
無論こちらは、陛下の寝殿です。出て行けといわれれば、我々はそれに従うまで。ですが、桂公がどう思われるのか」
有世の顔が、いくらか強張った。
それに夏目は怯むことなく、いいえ、と話を続けた。
「思われるだけでなく、桂公はおそらく行動に出ます。それこそ徹底的に。いつまでも、桂公から逃げたままで、水仙の姫を守ることができるのでしょうか」
しずかの帰還が有世の一人の判断により行われたことは、夏目の耳にも届いていた。
それを受けての、今回の事態なのだ。
以来、桂公は桜稜殿に出向くことはなく、また有世も桜稜殿から出ていない。
おそらくは桂公の怒りは頂点に達している。
どんな手を使ってでも、桂公はしずかの追い出しにかかるに違いない。
「しずかは」
その時、夏目の耳に有世の力強い声が聞こえた。
「しずかは、私が守る」
有世はそういうと、じっと夏目を見つめていた。
いつもは柔らかな眼光も、この時ばかりは、強く夏目を捉えていた。
一時の気の迷いなどではないことを確認し、夏目は深く平伏した。
「わかりました。近日中には、こちらを出て行きます。桂公には、私のほうから伝えます。
どうやら天真爛漫な姫には、桜稜殿の水は合わぬと」
「夏目」
驚く有世に、夏目はにこりと笑いかけた。
「失礼いたします」
翌日も、またその翌日も、日向は夜中に貴丹舎を抜け出し、そして明け方に帰ってきていた。
日向の口数が少なくなったことは、蓬も気にしているようだった。
その日も、夕食を終えるとすぐさま自室に戻ってしまった日向を思い出し、蓬はしずかの寝支度を手伝いながらため息をついていた。
「いつも腕組みをして、口を固く閉ざしたままなんですよね、このところの日向様。しかめっ面で、こう眉間にしわを寄せて」
まあ、それが憂いを帯びていて、更に色香が漂っていて素敵ではあるんですけどね、という蓬を無視して、しずかは尋ねる。
「最近夜中にどこに出向いてるか、知らないか？蓬」
「いいえ。あら、でもそういうことなら、どこぞにいい人でもいらっしゃるのかしら」
「え」
「女の人のところに通ってるってことですよ」
そう言われて、しずかは思わず言い返した。
「そんな女いるのかよ」
「知りませんけど、日向様は女性にもてますからね。そういう女性の一人や二人いても、全然不思議じゃないですよ」
心が少し騒いだしずかだったが、それを悟られないようにできるだけそっけなく、そうと答えた。
「そんなことよりも、しずか様。陛下はどうされたのでしょうか。あの日以来、こちらにいらっしゃることもなく、お手紙ですら届かないようですが」
「まあ、色々あるんだよ、有世にも」
しずかはそう答えると、綺麗にしたばかりのベッドにもぐりこんだ。
蓬が大きくため息をつくのが聞こえたが、しずかの頭は日向で埋め尽くされていた。
実際に有世からは、あの日以来ぱったりと連絡が途絶えている。
だがそれは自分が望んだ事でもあるし、しずかとしては耐えるしかなかった。
「悪い、蓬。あたし、疲れたからもう寝る」
再び蓬の大きなため息が聞こえたが、しずかは目を瞑った。
「おやすみなさいませ、しずか様」
しばらくして蓬はそう言って灯りを消すと、ひっそりと部屋を出て行った。足音が完全に消えると、しずかは慌しくベッドから起き上がり、着替え始めた。
だったら、日向がどこに行ってるのか、あたしが調べるしかない。
ベッドの中にクッションを詰め込んで、いかにも自分が寝ているような形を作ると、しずかはそっと部屋から出て行った。
その夜、日向が貴丹舎を出たのは、まだ数人の水仙の騎士たちが起きている時間だった。
途中何人かの騎士とすれ違うものの、尋ねるのは無粋とばかりに、日向と言葉を交わすものは誰もいない。
隠れていたしずかも後を追って足早に厩へと向かう。
『女の人のところに通ってるってことですよ』
蓬の言葉がしずかの脳裏に過ぎる。
日向が侍女たちでの人気が高いことも、理由はわからないがしずかも知っていることだった。
そう考えると、確かに女の一人や二人、いても当然って気はするけど…。
その時馬に乗った日向が、しずかの前を通り抜けた。馬とは言えど、日向は急いでいないのか、それほど早く走らせているわけではないようだ。
よしっ。
しずかは辺りを伺うと、そっとその後を追いかけた。
日向はそのまま、決して足を速めることなく、馬を走らせていた。
動きに無駄もないことから、おそらく目指している場所はあるのだろう。そう思うしずかは、木陰から月夜に時折照らされている日向の背中を見つめていた。黒いコートを着、襟を立てた様子、時間が夜ということからも、おそらくは昼間に会えない相手なのだろう。
ってことは、誰なんだいったい。
その時、強く風が吹き、雲が月を隠した。
途端にしずかは暗闇に包まれた。
「って」
木々の葉が大きく揺れ、しずかの腕を叩いた。思わずしずかは腕を押さえたが、ただの打ち身で済みそうだった。
何だよっったく。
軽く舌打ちして顔を上げると、雲は晴れ、再び月光が道を照らした。だが、そこにいるはずの日向がいない。
「あれ？」
思わず隠れていた茂みから飛び出したしずかだが、日向も馬も、影も形もなくなっていた。
どこいったんだ？あいつ。
その時、しずかの耳に、馬車を走らせる音が聞こえてきた。慌ててしずかが、元いた茂みに隠れると、少しして黒塗りの馬車がしずかが立っていた場所を通り抜けて行った。その窓にはカーテンがかかっており、しずかが中を垣間見ることはできなかったが、更に馬車はスピードを上げて暗闇に消えていった。
桔梗はその胸に抱きつくと、ほっとため息をついた。
「会いたかったわ、日向」
人目を憚って、日向と会えるのは夜のほんのひと時でしかないことが、本当に恨めしかった。
お妃など、さっさと決めてしまったらいいのに。
そうすれば、誰に気兼ねすることなく、日向とずっと一緒にいられる。
桔梗はそう思いながら顔を上げる。だが、日向は桔梗ではなく遠くを見ていた。その無表情さに桔梗が一抹の不安を覚えたところで、いきなり扉がノックと同時に開け放たれた。
「お姉様…」
そこにいたのは、姉である椿の宮であった。
桔梗は慌てて日向から体を離すと、平然を装って日向から視線を逸らさない姉に話しかけた。
「どうなさったの、お姉様」
日向はというと、そんな椿から逃げるように視線を落としている。
椿は小さくため息をつくと、桔梗に視線を向けた。
「すべて聞きましたよ、桂公から」
「ひどいわ」
内緒にしてほしいとは言わなかったものの、桔梗は桂公を恨んだ。
「桂公はあなたのことを心配して、私に話してくれたのです」
「心配？」
ええ、と椿は答えると、再び視線を日向に向けて言った。
「成瀬日向。あなたには、以前忠告したはずです。
この子を騙して、そうまでしてこの桜王宮に居座りたいのですか？」
少しの間を置いて、日向は椿と対峙したが、その間に桔梗が慌てて入った。
「違うわ。お姉様。今回のことは、私が勝手に決めたことなの。私が日向の為に―」
「私はあなたのことを、買被りすぎたようです」
椿は、桔梗を無視したままで話を続けた。すると桔梗は、椿の腕を掴んで必死に訴えた。
「日向を責めないで。日向は水仙組を存続させるために、私と約束しただけなの。私がどうしても日向が欲しかったの。日向に傍にいてほしかったの」
涙ながらに言われて、椿の声もいくらか和らぐ。
「桔梗…。あなたが桂公に渡そうとしている宝飾品は、お父様の形見なのはわかっていて？」
「それでも。…それでも私は、日向と一緒にいたいと思ったの」
桔梗は顔を上げて、椿に言った。
「許して、お姉様」
椿はそんな桔梗をしばらく見つめていたものの、小さくため息をつくと、少し離れたところで泰然としている日向に尋ねた。
「しずかさんには、このこと話したのかしら」
しずかの名前を聞いて、桔梗は動きを止めた。
今度は日向も、間髪いれずに答える。
「いいえ。彼女は関係ないですから」
「本当にそうかしら」
だがそれ以上、日向が答えることはなかった。
話をしても無駄かと思ったのか、椿は桔梗に向かって諭すように言った。
「しばらくであれば、桂公もお待ちくださるそうです。早めにお会いしてきなさい」
「嫌よ、絶対に嫌」
そう言って、華夜乃はぷいと横を向いたまま、頬を膨らませる。
夏目はそんな華夜乃に戸惑っていた。
「ですが、ここは陛下の寝殿。その陛下から直々にお願いがあったのです。お断りするわけには―」
「嫌ったら、嫌」
再びぷいっと華夜乃は横を向く。
「姫…」
思わずそうため息をつく。
桜稜殿から出ることを話した途端、華夜乃の機嫌はすこぶる悪くなった。
先ほどまで、花のように微笑んでいた笑顔が嘘のようだ。
しかし、夏目もまさか華夜乃に反対されるとは思っていなかった。
華夜乃が有世に思いを寄せているようには到底見えないし、そもそも妃になりたいと強く思っているとも考えにくいからだった。
夏目のため息を聞き、思わず戸田が言う。
「どうしてですか。ここでこうしていても、陛下はいらっしゃいませんよ」
華夜乃は再びそっぽを向くと、戸田を無視して夏目に話しかける。
「巷では、このところ桜王宮では魔物が出てるって噂よ。だったら、ここに居た方が安全じゃなくて？」
確かにこの桜稜殿にいれば、警備は一番確かなはずだ。
しかし、と夏目は真剣な表情で答える。
「花琳舎においては、我々薔薇組の騎士たちが全身全霊を持って、姫をお守りします」
「隊長さんも？」
華夜乃の視線が夏目に向けられる。夏目のことを名前で呼ぶようになった華夜乃だったが、それでは周囲にあらぬ誤解をうけかねないという夏目の言葉を受け入れて、夏目以外にも人がいる場合には別の名前で呼ぶことにしていた。二人きりの時は、別なのだが。
華夜乃の言葉を受けて、他の騎士たちの視線も、夏目に集まった。
「…勿論です」
詰まりながらもそう答えると、華夜乃は夏目に向かって身を乗り出すようにして、更に尋ねた。
「ずっと一緒にいてくれる？」
空気がぴんと張り詰めた。
いくら夏目が鈍感だとはいえ、華夜乃が求めていることはわかる。
夏目は、小さく咳払いして、低く答えた。
「姫をお守りするのが、我々騎士の役目ですから」
ようやく納得をしたのか、華夜乃の表情に笑顔が戻る。夏目はそれを、肯定と受け取り、話を進めようとした。
「では―」
だがその声を遮って、華夜乃がこう答える。
「じゃあ、引越しは一週間後。こちらに来るときに、準備が慌しかったから、今度はゆっくり準備して頂戴」
夏目は心の中で、大きくため息をついた。
翌日、定例の会議の為に桜王宮を訪れた桔梗であったが、待てど暮らせど、桂公は現れなかった。
柊伯も、松侯も亡き今、広間には、思いつめた表情の有世と二人だけだ。
かつて命を捧げたいほどに愛した相手ではあったが、今の桔梗にとっては、有世はただの人であった。
有世としても、桔梗の正体は知らず、ただ桂公の命令でやってきた楓子爵というくらいの存在のはずだ。
桔梗の正体を知るのは、椿と、桂公、そして日向と、睡蓮たち侍女のみだ。理由は聞いてはいないが、その方がいいだろうと椿が判断して決めた、というのを桔梗は全て決められた後で聞いた。顔を隠すために仮面を火傷のためと偽り、しゃべらないのも同じく火傷の後遺症だとしていた。無気力だった桔梗はそれに従うしかなかった。
お姉様は、いつだってそう。
相談なしに、すべて決めてしまう。
昨日だって、と思い返したところで、桔梗の脳裏に強く椿の声が響いた。
『しずかさんには、このこと話したのかしら』
『いいえ。彼女は関係ないですから』
『本当にそうかしら？』
椿が帰った後、日向はそれまでとは変わらぬ態度で、桔梗を胸に抱いた。
しかし、桔梗の胸につかえたものは、そのまま消化されることなく、今もその痛みが消えない。
「…すまないが、今日はお開きにしよう」
ふいに有世がそう言って、席を立った。項垂れたその様子に桔梗は気づくことなく、重い足取りで広場を出た。
『本当にそうかしら？』
桔梗は、椿の自信に満ちたあの言葉に、心が揺れていた。
確かに、日向は手に入れた。
毎晩、桔梗のところに来て、その胸に桔梗を抱きしめる。
だが、以前見られた笑顔はなく、どこか思いつめた表情だ。
口数も減った。
桔梗は怖かった。
以前、しずかとの恋仲を疑った時の、鼻で笑ったような日向を信じたかった。
だから。
日向が寝入ったところで、こっそりと、日向のポケットを探した。
何もないはずだと、そう思いたかった。
だが、それは確かにあった。
『こちらで預かっていたものでした』
ならば、日向に返した後に、それは持ち主であるしずかに渡っているはずだ。
だがそのロケットは、そこにあった。
中には以前と変わらない、しずかによく似た人の写真がある。
どうして、日向？
桔梗はそう思い、手を握り締めた。そこには、日向のポケットから持ち出したロケットがあった。
『本当にそうかしら？』
本当に？日向。
水仙の姫とは何でもないって、信じていいの？
考え込む桔梗には、周囲があまり見えていなかった。角を曲がりながら、何かが足元を走りぬけた、と僅かに感じた瞬間、いきなり体に何かがぶつかって、桔梗は尻餅をついた。
「いったぁ」
目の前には、同じようにひっくり返った貴緒がいる。貴緒は、
「待ちなさいよっ、タマッ」
と叫ぶと、起き上がりながら桔梗を罵倒した。
「しっかり前見て歩きなさいよっ楓子爵っ」
どうやら、飼い猫が逃げ出したのを追いかけているらしい。桔梗は打ちつけた腰をさすりながら起き上がったところで、先ほどまで手にしていたロケットがないことに気づいた。
慌てて左右を探すと、背後から貴緒の声が聞こえてきた。
「あら？何かしら」
桔梗は慌てて振り返ると、貴緒が床からロケットを拾い上げて、開けようとしているところだった。
「待ってっ」
思わずそう言い桔梗は駆け寄ると、呆然としている貴緒からそのロケットを奪い取った。
桔梗ですら、水仙の姫と似ていると思った写真だ。貴緒が見ても、そう思うに違いなかった。
桔梗は手にしたところで、ようやく安堵のため息をついていると、貴緒が一歩近づいてきて言った。
「あなた今…、待ってってそう言ったわよね」
桔梗が自分の犯した失態に気づいたときには、貴緒の手は桔梗の仮面を剥がそうとしていた。
慌てた桔梗は逃れようと後ずさりしたが、すぐに壁にぶつかり、貴緒に肩を掴まれて動けなくなった。
倒れた衝撃もあったのか、それとも久しく付けていなかった事が災いを招いたのか、仮面はいとも簡単に外れた。
伸ばしかけの髪が、はらりと桔梗の肩に落ちる。
「…そう、いうことだったの」
貴緒はそう呟くと、にたりと桔梗に微笑みかけた。