THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章07
夏目が開かれた扉の前で大きく息を吐くと、その中央の椅子に座っていた桂公がくるりと振り返って口を開いた。
「遅かったの、夏目」
「失礼いたしました」
息を切らし気味に夏目は口早にそう答えると、そのまま深く平伏した。
雅を送り届け、花琳舎に戻った途端、夏目は戸田から桂公からの要請を聞き、そのままに馬を走らせて来たのだった。
小言のひとつも出るかと思いきや、桂公はさらりと話を続けた。
「まあよい、それより事を急がねばならぬ状況になった」
「はい？」
思わず顔を上げると、桂公は手にした扇子で自分の方に手招いた。どうやら、近くに来るよう言っているらしい。
「…失礼、します」
桂公の考えに悩みながらも、夏目は立ち上がり桂公の傍らに足を進め、そこで跪いた。すると、桂公がそっと夏目の耳元に口を寄せる。強い香が鼻をくすぐったかと思ったその瞬間、桂公は顔を背けると、まじまじと夏目を見つめた。
「そなたらしからぬ香がするようだが」
隠す余裕もなく、夏目の顔が強張る。
唯でさえ百合の花の香は強い。着替えてくればよかったと後悔をしても、時既に遅しである。
どう答えるべきか悩む夏目だったが、桂公はそれをも追及せずに、話を進めた。
「まあよい。だが、この時期の女は控えるように。どこで何が足を引っ張るのかわからぬ」
どうやら桂公は、よほど急いでいるらしい。
夏目は短刀直入に尋ねた。
「…ところで、急がねばならなくなった、とはどういったことなのでしょう」
「あのじゃじゃ馬が戻ってくるのだ」
「じゃじゃ馬？」
更に夏目が目を見開き、その名前を口にする前に、桂公は、忌々しそうにはき捨てた。
「水仙の野猿じゃ」
馬車に乗り込む前にしずかは振り返ると、見送りに来ている君江に話しかけた。
「それじゃな、君江。今まで世話になった。元気でな」
しかししずかの心境は複雑で、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
一方の君江は、ほろりとこぼれた涙を拭うと、満面の笑みを無理やりに浮かべて気丈に答えた。
「やめてくださいしずか様。それじゃ、もう二度と会えないみたいじゃないですか。
君江は信じていますからね。しずか様が、お妃になって、またこの黄仙館にいらっしゃる日のことを」
妃、と聞いてしずかの心はより複雑になる。
確かに、一度追い出された自分を、有世が呼び戻すということは、しずかに執着しているからであり、
しずか自身も、有世の気持ちは充分にわかっている。
だからこそ、桜王宮を抜け出し、しずかに会いにやってきてくれたのだ。
呼び戻すことは、妃に据えるつもりなのだと君江が思うのも無理はない。
またしずかも、その有世に惹かれていた自分の気持ちをあの夜を境に、確信してはいた。
だが、それと妃になることは、別なのだ。
しずかにはまだ、自分が桜王宮に戻るべきか否かの答えが見つかっていなかった。
黙りこんだしずかに、君江がこっそりと話しかける。
「しずか様、そういえば以前されていたペンダントは、お持ちじゃないのですね」
「ああ、あれ？…うん」
今は両方とも雅のところにあるはずだった。
そう、雅との約束。
思い出したところで、更にしずかは落ち込んだ。
結局、守れなかった。
しかも、有世との逢瀬は、雅に対する裏切りでもあるのだ。
「無くされたのですか？」
「そうだな、うん…。無くしたんだ」
そうしてしまえば、気持ちも楽だった。
いっそ、あの百合の騎士が、投げ捨ててくれているほうがいいのかもしれない。
あたしにとっても、雅にとっても。
最後に見た雅の姿を思い出す。
そう、雅にとってあたしは、もう要らない人間なのだ。
あの約束だって、思い続けられるほうが迷惑なのかもしれない。
小さくため息をつこうとしたところで、君江が満面の笑みを浮かべて言った。
「ご安心ください。あのペンダントは日向様がお持ちですよ」
「え」
考え事をしていたせいもあるが、しずかとしては、君江の話をおぼろげにしか聞いておらず、余計に混乱しながら聞き返すと、その様子をみた君江が、逆に小さくため息をついた。
「まだ渡されてなかったのですね。日向様も、しずか様と同じで、意地っ張りだから」
決して嘘をついている様子のない君江に、しずかはごく自然に聞き返した。
「どうして日向が…」
「そりゃ、しずか様のために決まってるじゃありませんか。しずか様が無くされたから、探してくれたんですよ。日向様は」
しずかの中で疑問が起こる。
自分のペンダントを、しずかは無くしたことはない。
…とすれば、日向が持っているというのは、おそらく雅に渡した方だ。
「いつ」
「いつって…、姫が桜王宮に行かれる前ですよ」
その頃、桜王宮にある有世の寝殿では、侍女たちが噂話を始めていた。
「まさか、本当に戻ってくることになるとは」
「陛下も気がふれてしまったということなのかしら」
「でも、恋とはそういうものではないですか？」
「しかし、あの野猿姫と言われる人が、まさか王妃になるとはね」
「まだ決まったわけじゃないわ。桂公爵が許されるわけないもの」
「それで、今日の祝賀会にもご欠席されるのね」
「陛下が開かれた野猿姫の帰還を祝う宴ですもの。ご出席されるわけないわよ」
「そういえば、柊伯爵もいらっしゃらないとか？」
「ええ、でも桂公爵とは事情が違っていて、執事が言うのには、行方がわからないのだそうよ」
「行方不明？」
「あの内向的な柊伯爵が？」
「…どうしたのかしら、最近の花族の方々は」
以前あったような団結力はなく、その分桂公以外の人間たちの力を失いつつある姿は、侍女たちの目からしても明らかだった。それは逆に、桂公の力が増幅したとも言え、それはそれで桜王宮に平和をもたらすとは思えない。
一方で、ここ数日の有世に漲っているいつにない自信と力にも、彼女たちは驚いていた。
有世と桂公。
一国に、二つの王がいるこの状態が、災いとなることだけは、誰もが予感していた。
そしてその渦中に、しずかがいることも、
この災いが、これからますます大きくなることも。
「貴緒様。梢です」
ノック音と同時に、小さな声が聞こえてきた貴緒は、側に控えていた梔子に部屋を出て行くように目で指示してから、ゆっくりと口を開いた。
「入りなさい」
梔子の開けた扉から、青いドレスをまとった梢が体を押し込めるようにして部屋に入る。その慌しい様子に梔子は僅かに微笑みながらも、ゆっくりを部屋を出て行った。梢はそれを確認しながら、息を切らしたままで貴緒に言う。
「お望みのものは、先ほど持ってまいりました。侍女の茴香が後ほどお持ちいたします」
「ありがとう」
ソファに横たわりながら、ゆっくりと煙管から煙を出す貴緒の姿は、どう見ても部屋着であった。
梢は戸惑いながら貴緒に尋ねた。
「あの、貴緒様は、宴には」
「出るわけないわ。じゃじゃ馬が戻ってきたことを祝うような宴に、どうして私が出なきゃならないのよ」
一蹴され、梢は慌てて頭を下げる。
「失礼しました」
頭を下げながら、梢は早くここを出て行きたいと思っていた。
今日は有世が開催する宴のためにこの桜稜殿にやってきたのだが、当然梢は一人ではなく、広間には鞍馬も、その他の騎士たちも揃っている。
その中を掻い潜って、ここまで来るのは決して楽ではなかったし、
ばれたら鞍馬にも、そして貴緒にもしかられることは目に見えていたから、一刻も早く戻りたかったのだ。
そもそも、貴緒から菫の花を大量に持ってくるよう言われたのは、今回が二度目だった。
宴があるから無理だと答えると、逆にその時に持ってくればいいのだと言い返され、従うより他なかった。
結局、貴緒にとって梢とは妃候補でもなく、ただの召使と同じで、
また梢にとっても、かつて貴緒から受けた虐めのことを思い出すと、断ることのほうが恐ろしく、鞍馬に隠れてこっそりとその用意をしたのだ。
「どうなのかしら」
「え？」
「宴の様子よ。あなたが来てるということは、鞍馬まで来ているというの？」
梢も、貴緒が鞍馬のことを気に入っていて、何かしら関係があることは何となくわかっていた。
このところ鞍馬は夜更けになると、こっそりと館を出て行く。昨夜もそうで、帰ってきたのは明け方だった。
その先は、貴緒の所かと思っていたが、昨日はそうではないということに、梢は気づいた。
「…陛下からお誘いを受けましたので、お断りはできない、と」
「そう。他は？」
どうやら貴緒は行かないとは決めたものの、様子は気になっており、梢から聞き出そうとしているようだった。
梢は思い出しうる限りの広間の様子を話した。
「薔薇も、隊長と姫も揃ってお出になっています。百合は、速水隊長があのようなことになったので、今日は別の騎士が姫をエスコートして、お付の騎士たちがいつもより少ないように思いました。
花族の方々は、楓子爵のみご出席です。
桂公爵はご欠席とのこと、それから柊伯爵は行方不明だとか」
「行方不明？」
貴緒はゆっくりと煙を吐き出しながらそう聞き返した。
「はい。今朝執事が部屋を訪ねたら、誰もいなかったとか。
最近、桜王宮の中には不審な気配を感じたという噂もあるらしくて、魔物か亡霊かに浚われたんじゃないかと―」
「あんな皺だらけの老爺を、誰が浚うというのよ」
梢の言葉を遮って、貴緒がそう吐きすてた。
しかし、不審な気配があるという噂は、実しやかに流れていた。
梢も知らなかったのだが、実際に閉めたはずの扉が開いていたり、食べ物がなくなっていたりするらしい。
しかし、人であればあの朱雀門を通らねばならないのだが、勿論簡単に通れるわけもなく、だからこそ、魔物や亡霊ではないか、という噂になっているのだった。
しかし貴緒は、口に含んだ煙を、再び吐き出しながらゆっくりと言った。
「探しても無駄よ」
「え」
「どこかで老死してるのが、どうせオチよ」
そう言って貴緒は煙管を口にしてから、実に恍惚とした表情で、煙を吐いた。
馬車は、何事もなかったように走っていた。
先ほどからは、窓の外に薄紅の花びらが舞っている。すでに桜王宮内に入ってきたらしい。
しかし、今のしずかにはそれを懐かしいとか、後悔するとか思うよりも、君江の言葉が頭にこびりついて、離れなかった。
考え込むしずかの向かいの席には、腕を組み、軽く目を瞑った日向が座っている。
眠っているのかと思うと、たまに揺れるときには眉毛が上がることから、考え事をしているのかもしれない。
いずれにしても、しずかにとっては混乱している頭を整理することのほうが先決だった。
どういうことだ。
雅があの時持ってるはずだったものを、日向が持っていたというのか。
どこで？
いつ？雅に会ったんだ。
しずかが雅にあのロケットを渡したのは、雅が百合にいるとわかってすぐだった。
二人で逃げ出そうと、あのロケットに約束の時間と場所を書いて、渡したのだ。
それから、桜王宮に行くことになるまでは、時間はあった。
だが、日向と雅が顔を合わせる時間はあっても、おそらく言葉を交わす時間はなかったはずだ。
なにせ雅が捕えられたのは、速水のいる百合。いくら日向であっても、そう簡単に近づけるはずはない。
仮に何かの弾みで、日向があのロケットを手に入れたとしよう。
しずかが次に見たのは、有世の部屋。
ということは、あの時日向も有世の部屋に行っていたということだ。
それ自体は、たいした問題ではない。
実際に、雅はあの部屋に来ていたのだ。
だけどどうして、あたしのロケットと入れ替えた。
どうして雅の存在を、あたしに知らしめた。
どうして。
何を考えているんだ、お前。
しずかにとって、日向はいつもそうだった。
何をしたいのか、
何を考えているのか、検討もつかない。
だけど、その日向の駒になることは、もう嫌だった。
「日向」
決意をし、しずかがそう口を開くと、日向もさっと目を開いた。
「何だ」
だがその目は、しずかに向かうことなく、窓の外の景色を眺め始めた。
そのしずかという存在を、形式上は認めながらも、本心では無視しているような態度に、思わずしずかはむっとして、怒鳴りつけようとした。が、そのとき馬車が急に止まったことで大きく揺れ、それがしずかの怒りをいくらか和らげた。
一方の日向は、相変わらず外を眺めている。
「聞きたいことがある」
こっち向けよ、日向。
そういいたい気持ちを抑えて、しずかは続けた。
「あたしのペ―」
「悪いが後にしてくれ」
だが日向は、しずかの声を遮ると、淡々とそう言う。視線が左から右へと動くものの、やはりしずかを見止めている節はない。
目を合わさないのも、何かを企んでいるからか。
後ろめたい気持ちだからか。
「今、聞きたい」
必死に日向を見つめるしずかに、だが日向は答える。
「悪いが時間がない。降りるぞ」
その瞬間、扉が開けられ、日向は颯爽と降りていく。
「ちょっと待て―。…なんだこれ」
追いかけて降りようとしたところで、外の様子にしずかは足を止めた。
止まった所は、桜稜殿の入り口だ。
寝殿へと向かう階段には、いつもの赤い絨毯の上に、黄金に輝く布が引かれていた。
黄金、この桜王宮において、それは水仙組の黄色と同色とされる。
「素敵ですね、隊長に言われて用意した甲斐がありました」
自慢げに言う石崎を軽く睨み、また柱の影に隠れ、こちらの様子を伺っている無数の目に向かって、しずかは威嚇するように怒鳴りつけた。
「見せもんじゃねぇぞ」
慌てたようにその目は柱に隠れる。大方、桜王宮に勤める侍女や下男たちなのだろう。
相川の小さなため息の後に、日向がつぶやくように言った。
「半分そんなもんだろう。さ、行くぞ」
何だと、と言い返そうとするしずかの背中を掴み、その背に触れたまま、日向がはっきりと言った。
「堂々としていろ。決して俯くな」
桜稜殿は、静まり返っていた。
その中で、しずかの靴音だけが、耳障りに響く。しずかは前を歩く日向の後を必死で追いかけていた。リーチの違いとハイヒールのせいで、日向と並んで歩くのも、しずかにとっては小走りになってしまう。
「おい、ちょっと待てよ、日向」
不満げに言ったものの、日向は振り返りもせずに答えた。
「待てない」
「何でだよ」
「遅れてしまったからだ」
「何に？」
「約束の時間に」
聞いたことにしか答えない日向の背中に、ついにしずかは足を止めて怒鳴りつけた。
「あーもー、そういう回りくどい言い方やめろよ。
いったいお前は何をしに、どこに行こうとしてるんだ？」
少し歩いてから、しずかが来ていないことに気づいた日向は足を止めた。
「陛下の宴に招待されて、広間に向かおうとしている」
「宴？」
「お前の帰還を祝う宴だ」
「あたしの？」
嘘だろ、と驚くしずかに、いきなり拍手と高らかな笑い声が聞こえてきた。
「あれ？知らなかったんだ。
兎にも角にもおめでとう。君はまるで不死鳥のように蘇る。見事だな」
「鞍馬」
柱の影から、人形のような微笑を見せて、鞍馬が現れる。
日向よりも近いその位置に、鞍馬が影に隠れ、会話を盗み聞きしていたことがわかる。
鞍馬の出現に、相川たちお付の騎士の空気が一瞬にして張り詰めた。
だがその空気をぶち壊すように、鞍馬は高らかな笑い声を上げると、すっと真顔になって答えた。
「だがこの先は無理だろうね。この僕がいるから」
一瞬だけ鞍馬はしずかを凄むと、再び笑い声を上げる。
こいつ、バカにしやがって。
しずかが思わず鞍馬に何か言い返そうとしていると、日向の声が響いた。
「悪いが急ぐ。話は後にしてくれ」
おかげでしずかはいくらか冷静に戻ると、再び靴音を立てて、鞍馬の脇を通り抜けようとした。
だが、鞍馬は小さく鼻で笑うと、こう言った。
「残念ながら、君の歓迎会は今日は流れたよ。肝心の主役は遅れるし、陛下も寝室から出てこられない。おまけに先ほど花族で唯一ご出席されていた楓子爵が、退席されたからね」
「楓子爵が？」
聞き返したのは日向だった。
鞍馬は、軽く笑い声を上げると、日向のほうに向き直って答える。
「桂公の怒りを買うことに恐れをなしたのかはわからないけど、表向きにはご気分が悪いとかで、退席された。それを受けて薔薇組も退席したよ。
そんなわけで、広間には司令塔を無くした間抜けな百合が残っているだけだ。
つまりは、誰も君の帰還を喜んでなどいないってこと。むしろ忌み嫌っていると思ったほうが正しいね」
最後に鞍馬はしずかを見つめて、口の端だけ吊り上げて言う。
それは、微笑とは言えない表情だった。
誰も、あたしを受け入れない…。
その事実に、思わずしずかも息を呑む。
「鞍馬―」
「鞍馬様っ」
日向の声と、柱の影から現れた梢の声とが重なる。
しずかが梢の顔を見たが、梢は気まずそうに顔を逸らした。
何だよ、まるで人を化け物みたいに見やがって。
二人を見比べた鞍馬は小首を傾げて、楽しそうに立ち尽くすしずかを見つめ続ける。
「これでも親切に忠告してあげてるつもりなんだけど。
でも、君のところの隊長が乱暴なことをする前に、僕らも去ることにするよ」
鞍馬はそういうと、しずかの脇を軽やかに抜けていった。それに、梢も慌てて付いていく。
「しずか様」
しずかの両握りこぶしの震えに気づき、相川が声をかける。
だがしずかは、鞍馬を追いかけることなく答えた。
「いい、相川」
その奥から三人の様子を見計らっていたかのように、菫の騎士たちが陰のようにひっそりと鞍馬の後に続いた。
広間にやってきたものの、鞍馬の話は嘘ではなかったらしく、居合わせるのは百合の騎士のみだった。しかも、心なしか人数が少ない。
入ってすぐに、立ち止まった日向につられて、しずかも足を止めていると、すぐに副隊長である碓井が二人の前にやってきた。
「来るのが少し遅かったようです。
他の騎士たちも、花族も、皆が退席されました」
淡々と語るその様子に、しずかは敵か味方か判断を悩んでいると、視界の隅に雅の姿が映った。
気づいた瞬間、しずかはさっと視線を逸らす。
「陛下は？」
しずかの隣で、日向が碓井に尋ねる。
「事情はわからないのですが、寝室からお出にならないようです。近衛たちも戸惑っており、様子を見に行くうちに、一斉にいなくなりました。 もちろん、他の組の騎士たちも、時間も過ぎているからと退出されていきましたよ。
私も、あなたにひと言伝えれば、戻ります」
碓井の視線がしずかに止まったことで、しずかは思わず声を上げた。
「あたし、に？」
「はい。水仙の姫であるあなたに、です。
我が百合の隊長である速水が、あなたに剣を向けたことは、騎士らしからぬ行動でした。それに関しては、いま百合組を預かる立場の者として、謝ります。大変失礼いたしました」
碓井はそういうと、そこで大きく頭を下げた。
ざわめきが、水仙の騎士からも、百合の騎士からも聞こえる。
戸惑ったのはしずかも同じで、頭を上げるように言おうとしたところで、すっと碓井が顔を上げ、じっとしずかを見据えて、はっきりと言った。
「が、そこに至るまでのあなたの乱暴な行動には、我が百合としては、断じて許しがたく、姫に対しての暴言同様、今後は差し控えていただきたい」
口早に碓井はそういうと、しずかに続いて日向を睨むようにして話を続けた。
「そうして頂けないのであれば、こちらとて黙ってはおりません」
返す言葉をなくしたしずかに、碓井は再び頭を下げて言う。
「では、失礼いたします」
足音が響く中、碓井は雅のところまで戻ると、その場にいた百合の騎士たちも引き連れて、広間を出て行こうとした。
雅は、碓井に付き従うようにして、ゆっくりとしずかに向かって歩いてきていた。
しかし、その視線を感じた瞬間に、しずかは思い切り俯いた。
正面に来たところで、その足音が一瞬止まったようにも思えたが、それでも顔を上げられなかった。
…どの面下げて、会えるっつーんだ。
今のあたしが、どんな顔して雅に会えるっつーんだよ。
誰かが雅を促す声がして、目の前からその気配が百合の高貴な香と共に消えていく。
それから規則正しい騎士たちの足音が広間に響き渡ったものの、すぐに広間には静寂が戻っていた。
閑散とした広間には、ただ呆然とする水仙の騎士たちが残されていたのだった。
『つまりは、誰も君の帰還を喜んでなどいないってこと』
そう言った鞍馬の言葉が、痛いほどにしずかの心を貫いた。
勿論、ライバル同士だからというのはわかる。
だが、それぞれに向けられた敵意は、それだけではない。
明らかに、しずかを忌み嫌っていた。
「おい」
先を行く日向に話しかけられる。広間を出てから、日向はどこかに向かって歩いていたが、目指している場所がどこだとか、そういった説明は一切なく、しずかたちはただ付いていくしかなかった。
しずかが顔をあげると、日向がスタスタと歩いてきて、強引にしずかの顎を持ち上げた。
「下を向くなと言っただろう」
ムッとしたしずかが、目の前にいる日向をにらみ返すが、その目はさりげなくしずかから逃げる。
あたしから逃げるくせに、あたしには逃げるなっつーのかよっ。
ふんっと横を向くと、甲高い声が廊下に響いた。
「あらあら、お熱いわね。お二人はそんな関係だったの？」
「貴緒…」
そこには、扉の背にもたれかかりながら、二人の様子を見ている貴緒の姿があった。
「お兄様が悲しむわよ、またそんなこと聞いたりしたら」
「んなわけねぇだろっっ」
しずかがそう叫ぶと、あらまあ、と貴緒は目を丸くして言った。
「しばらく見ない間におとなしくなったかとおもったけれど、全然変わりないようね」
「余計なお世話だよっ」
しずかが桜王宮を追放されたことを知っていながらの言い方に、しずかは苛立って答える。
だが、貴緒は余裕に満ちていた。
「正直、戻ってくるとは思ってなかったわ。あなたが、王妃なんて立場に拘るとは思っていなかったし、むしろ嫌ってるんだとばかり思ってたけど、そうでもなかったってことね。残念だわ。戻ってこない方がよかったのよ。この桜王宮で、あなたの帰還を望んでいるのは、お兄様だけだもの」
鞍馬と同じ言葉に、しずかは思わず返す言葉をなくす。
それ見たことかと、貴緒は腕組みをしながら、しずかに向かって言い放った。
「いっそ、お兄様と一緒に出て行ってくださればいいのよ、この桜王宮から」
その言葉に反応したのは、むしろ日向の方だった。日向が鋭く睨みつけると、貴緒は作った微笑を見せて、なぁんてね と答えた。
すでに遠くなった日向の背中を見つめながら、しずかはトボトボと歩いていた。
どうして、あたしは、ここに戻ってきちまったんだろう。
どうして、あたしは、日向の後をついているんだろう。
皆に、笑顔で迎えられたいとは思わないし、それを願っていたわけじゃない。
だけど、ここまで睨まれ、蔑まれるのは、嫌だ。
ついにしずかは足を止めて、前を行く背に声をかけた。
「なあ、日向―」
だが日向が振り返ると同時に、横の扉から飛び出してきたのは、赤いドレスを着た華夜乃だった。
「ちょっと！私の靴はどこにあって？あら」
「白鳥…」
華夜乃はドレス姿なのに、足ははだしのままで、廊下に出てきたのだ。
驚いたのは華夜乃も同じだったようで、しずかの姿をまじまじと眺めると、つぶやいた。
「本当にいらしたのね。あ、優さん、こっちよ」
最後に手招きをした華夜乃の後ろから、ため息をつきながら夏目が出てきた。そして、華夜乃の視線の先を追いかけ、しずかを見つめるとハッと息を呑んだ。その口が自分の名前を呼ぶ前に、しずかは慌てて顔を背けた。
二人の只ならぬ様子に、華夜乃は目を潜めて二人を交互に見合う。
張り詰めた空気を壊したのは、日向だった。
「何をしている」
「…日向」
「ここは、陛下の住まいである桜稜殿の中―」
「引越ししましたの。つい先日」
にっこりと微笑みながらそう華夜乃が答える。日向がその答えに、眉をひそめた。
「引越し？桜稜殿での居住が許されるのは、陛下の親族或いは、それに準ずる人間のはず」
「そうよ。だから、桂公がお許しになったの」
「桂公が？」
日向が僅かに目を見開いた。
「そうあなたの思う通りにはいかないってことよ」
華夜乃が自信に満ちた笑みを浮かべる。
日向は口許を引き締めると、先ほどから変わらない夏目と、その夏目の視線から逃れきれていないしずかに、小さく言った。
「…行くぞ」
日向は珍しく苛立ちながら、目の前に立ちはだかる近衛に怒鳴りつけた。
「どういうことだ、立ち入り禁止というのは」
目の前に広がる大きな池にかかる橋を渡れば、有世のいる寝殿がある。
どうやら日向は只管ここへと向かっていたらしい。
しかし、近衛も一歩も引かない様子で答える。
「申し訳ございませんが、今はどなたも入れられないことになっております」
「陛下から召集されているのだ。きちんとした説明がなければ、こちらとて引き戻すわけにもいかない」
しばらく睨み合いが続いた後、ついに近衛が口を開いた。
「…実は先ほど、毒見役の者が、倒れまして。その調査中でございます」
毒見役、と聞いたところで、しずかも思わず近衛の顔を見つめ返した。
毒見役が倒れたということは、誰かが有世に毒を盛ろうとしたのかもしれない。
「程度は？」
日向も気になったのか、近衛に尋ねた。
「死には至っておりません。が、どういった毒なのか、またどこから入ったのか、探している最中でして、陛下の身の安全が保障されるまでは、一歩も外に出れない状況です」
「そうか。…相川、引き返すぞ」
「え？」
先ほどまでとは違う態度で、日向はもう寝殿に背を向ける。
「陛下には、貴丹にてお待ち申し上げていると、伝えてくれ」
そうして歩き出した日向を、慌てたように相川は追いかけた。
「しかし隊長―」
何とか隣を歩く相川のほうを、日向は全く見ずに歩きながら答えた。
「このままここで待っていても、仕方ないだろう。
毒が狙ったのが、陛下なのか、それとも別の目的かはわからないが、我々が入れないのは確かなことだ」
「別の目的とは、何ですか？隊長」
「陛下が出れないようにして、宴を欠席させる。
ここの奴らが考えそうなことだ」
ハッと息を呑んで、思わず相川が聞き返す。
「もしかして？桂公爵様が？」
しかしその声が廊下に響くと、相川は慌てて口を押さえると、びっくりしたように周囲を見回した。
だが日向はそんな相川を全く気にもかけることなく、足を進める。
「わからん。
だが我々が入れないとなると、陛下がお見えになるのを待つしかない」
再び日向の後を追いかけてきた相川が尋ねる。
「しかし、その別の目的が本当だとするなら、尚更陛下は桜稜殿の外には出れないのではないですか？」
相川のその言葉を聞いた日向は、にやりと微笑むと、自信たっぷりに答えた。
「いや、陛下は必ずいらっしゃる。
戻るぞ、貴丹舎に」
夜の桜稜殿は静まりを取り戻していた。
灯りを落とした部屋に、現れた男に向かって貴緒は言い放つ。
「全部用意したわ。あとはよろしくお願い」
「了解いたしました」
平伏した男は、足元に投げられた袋を拾うと、中身を確認してから、部屋の脇に置かれた包みを抱えあげた。
そうして、ふと振り返ると、ベッドに横になりながら煙管を吸っている貴緒に話しかける。
「しかし、今回は少しばかり注文されるのが早くないですか？あまり乱用されるようでは―」
「お黙りっ。お前の役目は薬を煎じる事でしょうっ。言われた通りに、さっさと作ればいいのよっ」
そして投げつけられたクッションを受け取りながら、男はため息をついて言う。
「…煙管の量も、少しばかり増えたようで。顔色も、あまりよろしくないようですな」
「お前のつくる薬が効かないからよ。もっと強いのを頂戴」
きっかけは貴緒の風邪を治すために煎じた薬を作ったのがきっかけだったが、以来貴緒にはその症状にあわせ、色々な薬を持ってくるようになっていた。
貴緒はもともと依存性が強い性格なのか、薬の度合いは切れるたびにより強いものへと変わってきていた。
「しかしこれ以上強いものでは、貴緒様のお体にも触りますよ」
「いいから言う通りにしなさいっ」
ヒステリックに怒鳴られ、男は肩をすくめると、
「薬で治すことも大事ですが、最後に頼れるのは、ご自身ですよ」
と言い残し、ひっそりと部屋を後にした。
貴緒は扉が閉まると、壁に向かって再びクッションを投げつけた。
「陛下がいらっしゃいました」
そのひと言が貴丹舎に響き渡ると、それまでの静寂が嘘だったかのように、周囲が沸き立った。
「陛下がいらしてくれた」
「さあ、皆、準備を！」
その雰囲気にのせられた蓬まで、部屋に一人いるしずかの両手を掴んで、にっこりと微笑んで言った。
「いいですか、しずか様。もう窓から逃げ出すなんてこと、なさらないでくださいね」
「んなことしないからさ。もう手、離せよ。蓬」
「だって嬉しいんですもの。しずか様が戻られたこと、こうやって陛下に見初められたことが」
そう言ってにっこり微笑む蓬を見て、しずかは大きくため息をついた。
どうやら蓬は、前科があることから有世が来るまでしずかを逃すまいと思っているらしい。
まあ、気持ちはわからないでもないけど、ここまでマンツーマンにしなくても。
もう一度ため息をつこうとしたところで、階下から相川の声が聞こえてきた。
「蓬っ、ちょっといいか？」
「はーい。いいですね、しずか様」
ようやく一人になったところで、しずかは大きく安堵のため息をついた。
だが、素直な蓬からの好意は、今のしずかにとっては嬉しかった。
あの桜稜殿での出来事は、やはりしずかの心を傷つけていた。
また、いつにも増してわからない日向の行動が、さらにしずかの気持ちを不安定にさせていた。
だからなのだろうか、桜王宮に戻ってくるときよりも、今のほうが有世に会いたい気持ちが強くなっていた。
何の取引も、裏もない、ただまっすぐな有世の気持ちは、徐々にしずかにとっての拠り所となっていた。
もうすぐ有世に会える。
そう思うと、後ろめたい気持ちと同時に、心が弾む。
その気持ちに戸惑いながらも、しずかはきちんと向き合うようになっていた。
ふいに窓の外に視線を投げると、誰かが出て行くのが見えた。
見覚えのある後姿に、思わずしずかは窓辺に駆け寄る。
あれ？日向？
こんな時間に、どこに行くっていうんだ。
窓を開け、呼び止めようかと思っていると、扉が開いて、蓬が顔を出した。
「しずか様、陛下がいらっしゃいました」
「あ、ああ…。今、行くよ」
立ち上がりそう答えたしずかが再び振り返ると、すでに日向の背中は暗闇に消えてしまっていた。