THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章05
先に目を逸らしたのは、しずかだった。
それから、徐にしずかは答えた。
「…ごめん、夏目。あたし…」
苦しく途絶えがちな言葉に、夏目はにっこりと微笑みながら答える。
「わかった。困らせて、すまない」
「そんな、あたしこそ…」
傷ついたのは夏目の方なのに、微笑む姿にしずかはどう答えていいのかわからなかった。
薔薇の騎士になってはどうかと問われたのであれば、受けていたかもしれない。
だが、夏目が望んだのは、そういうことではない。
日向や、薔薇の副隊長である戸田に言われた言葉を思い出し、しずかは今までどれほど夏目を傷つけていたのか、そして今も傷つけたことに、反省していた。
謝るのは、あたしであって、夏目じゃない。
だけど、あたしが謝れば謝るほど、夏目を傷つける。
俯いたまま黙り込んだしずかに、夏目がすっと手を差し出した。手のひらを見せるように差し出され、しずかが戸惑っていると、夏目が夕陽に照らされて目を眩しそうに細めながら答えてくれた。
「最後に、キスしても構わないか？」
「き、キ…ス？」
思わず声をあげたしずかに、夏目は慌てて両手と首を左右に振った。
「ああ、違う。手の甲に、別れの挨拶を」
「あ。…ああ」
別れ、と聞いてしずかは一気に現実に引き戻された。
夏目の誘いを断るってことは、もう二度と会えないってことなんだ。夏目とも。
無造作に手を突き出そうとしたところで、しずかは慌ててひっこめると、スカートで両手を拭くと、僅かに躊躇いながら差し出した。
相変わらず、マニュキアも、宝石も、何の飾りもない手だ。
白魚のような、すべりのよさそうな手でもなく、むしろいくつかのかすり傷さえ見える。
だが、そんなしずかの手を、夏目は恭しく受け取ると、その場に膝をつき、そこに口付けをする。ほんの一瞬触れた柔らかな唇が離れると、夏目はゆっくりと立ち上がった。
本当に、さよならなんだな。
なんて言えばいいのか、言葉に詰まったしずかは思いがけぬ強い力に、気づけば夏目の胸の中にいた。
柔らかな印象とは違う、厚い胸板に、強い腕に、しずかが戸惑っていると、夏目が耳元に囁いた。
「さよなら」
弾かれるようにしずかが顔を上げたときには、すでに夏目はしずかから離れ、背を向け歩き出していた。
その先にあるのは、棘の宮とも呼ばれる桜王宮。
一歩踏み込むごとに傷を負い、しかし戻ることも許されない、先の見えない迷路のような世界。
夕陽に向って歩き出した夏目に、しずかは思い切り叫んだ。
「夏目っ」
呼ばれた夏目が足を止める。ほんの数秒の間があってから、夏目はゆっくりと、振り返った。
痛いほどの夕陽の中で、表情はよく見えない夏目に、しずかは頭を下げると、かみ締めた唇の隙間から、声を絞り出して言った。
「…頼む、雅のこと」
どうか、助けてやって欲しい。
この状況で、この頼みごとが、どれだけ自分勝手なことか、しずかはわかっていた。
雅から嫌われた今、あの約束を守る義理も自分にはない。
おまけに桜王宮に立ち入れない自分には、雅を守るなど、到底不可能だった。
それを、夏目に頼むことが、自分に好意を持っていることを知りつつ頼むことが、さらに夏目を傷つけること、重荷になることも、わかっていた。
だけど、その罪を全部引き受けてもいい。
それでも、雅を助けたい。
助けてやりたいんだ。
頭を下げながら、ふるえるしずかに、神のような声が聞こえる。
「わかった」
夏目は一言そう答えた。
ハッとしたしずかが顔をあげると、すでに夏目の姿は、遥か遠くにあり、しずかが見つめる中で、川の向こう岸に渡ると、林の中に姿を消した。
夏目の姿が、完全に消えると、しずかはへなへなとその場に座り込んだ。
夏目。夏目。夏目。
困ったときには、必ず助けに来てくれた。
戸惑っているときは、必ず道標となってくれた。
夏目。夏目…。
イイヤツだった。
孤独なしずかの唯一の仲間だった。
夏目…。
最後の最後まで、そうしてしずかの我侭を許してくれた。
ありがとう、夏目。
どうか、夏目が幸せでありますように。
こみ上げてきた涙を押し留めるように、しずかはぐっと唇をかみ締める。それでも、堪えきれず嗚咽が漏れる。両手を思い切り伸ばし、しずかは手に触れた草を握りしめる。千切れた草から、太陽と土と緑の香が漂った。
すっかり陽は落ちていた。
片手にランプ持ち、日向は水仙の泉から繋がる小川に佇んでいた。
桜王宮から黄仙館に入ろうとする場合は、必ずこの小川を渡らねばならないのだ。
空には厚い雲が覆われており、辺りは暗闇に包まれていた。
その中で、日向は大きな木に凭れかかりながらも、その暗闇を睨みつけるようにして見つめていた。その息は、僅かに息が上がっている。
吉沢にはああいったものの、まだ、完全回復とはいかないらしい。
ならば、部屋で横になっていればいいものの、日向は吉沢の言葉が気になっていた。
事故が誰かによるものだとして、その犯人とは、誰のことなのだろうか。
他の侍女からの虐めにあい、逃げ出した侍女なのだろうか。
外にいる恋人に会いたくなって逃げてきた近衛なのか。
それとも…？
日向の脳裏から離れない人物には、それほどの行動力があるようには思えない。だからこそ、今の自分との関係がある。
それでも疼く胸を押えきれず、それを確かめるために、日向はこうしてやってきていた。
すると、突然草を掻き分ける音がした。
「誰だっ」
ランプを消し剣を手に、押し殺した声で問いかけながら振り返ると、頬に葉をつけた桔梗が目をまるく見開いて、驚いた表情で立っていた。
「ひゅう…が？」
「桔梗の宮…どうされました」
日向は桔梗に向けていた剣を、慌てて仕舞うと、桔梗が倒れこむようにして、日向の胸に飛び込んできた。
「会いたかった、日向」
大したことはないとはいえ、桔梗の足や腕には、いくつかの擦り傷ができていた。
悩んだ挙句に、日向は桔梗を連れ、黄仙館に戻ってきた。
楓子爵としての桔梗の姿は、男であり、また顔には仮面がある。
女としての桔梗の宮を知るものは、おそらくはこの黄仙館にはいない。おまけに桔梗の宮は、死んだことになっているのだから。
部屋に戻ると、心配して探し回っていた君江がいたものの、日向が人払いをするよう言うと、気恥ずかしそうに一瞬だけ桔梗を見てから、大人しくそれに従った。
夜中故に、目立たぬようにと僅かな明かりの中で、日向は前よりも更に細くなった桔梗の腕の傷の治療をした。
そんな日向の様子を見て、桔梗は実に嬉しそうに話を続けた。
「貴方にずっと会いたいと、神様にお祈りしていたのよ」
「桔梗の宮はどうやって、桜王宮から―」
「朱雀門で今日騒ぎがあったの。それを聞いて向ったら、誰もいない朱雀門が開いているんですもの。馬もすぐ側に、綱から放たれて呆然と立っているだけ。
神様の思し召しだと思って、私、得意じゃない馬に乗って必死で抜け出してきたのよ。だけど、途中で休んでたら、その馬逃げ出しちゃって…」
「では、椿の宮には―」
その名を聞くと、それまで笑顔だった桔梗の表情が強張った。
「お姉さまに知られたら、連れ戻されるに違いないもの。
お姉さまは、日向のこと…嫌いになったみたいだから」
そういうと、桔梗はごめんなさい、と謝った。
いいえ、と日向は答える。
椿の宮として怒るのも当然であろう。
一度掟を破ったしずかの追放を、白紙に戻したのは、椿の宮のお陰なのだ。
だが、それも結局踏みにじるようなことをしてしまった。
目にうっすらと涙すら浮かべている桔梗に、日向は優しく言った。
「お戻りになってください。椿の宮が心配していらっしゃ−」
「嫌よ」
頑なな物言いに、日向は息を呑む。
か細く、頼りない桔梗に、これほどまでに強い意志があるとは思っていなかったのだ。
「ですが」
「戻るなら、日向も一緒」
頑固な桔梗に、日向は心の中でため息をつくと、そっと答えた。
「無茶を言わないで下さい。
私は、おそらく桜王宮に入ることはできない、二度と。
それに、私にはすべきことがあります」
「すべきこと？」
日向は静かに頷いた。
「水仙の組の者たちの世話です。この先、どうなろうとも、彼らに非のあるようなことになってはいけない。それが上に立ったものの使命」
「騎士の方たち？」
「ええ。他にも世話人もいる。それに…」
「水仙の姫？」
しずかの名が突然出てきて、日向は戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
実際には、しずかが一番日向の中心にあった。
桜王宮にも戻れず、
両親のところにも戻れず、
友人の雅とも絶交を言い渡されたままだ。
これで水仙組が無くなったら、果たしてしずかは、どこに行くと言うのだろうか。
やはり…。かつての仲間なのだろうか。
日向も、当然、智広の存在は聞いていた。一応はしずかの客人ということで、この黄仙館に身を寄せているものの、馴染んでいる節もない。
おそらく、しずかを連れ戻しに来たのだろう。
そうしたら、しずかは戻るのだろうか。
ここから抜け出していくのだろうか。
そう考えると、日向は歯がゆい気持ちにさせられるのだ。
しずかを引き止める理由は、もう何もない。
だが一方で、ここに居てもらいたいと願っている自分が居る。
ここに。
黙りこんでしまった日向をじっと見つめていた桔梗だったが、ふいに口を開いた。
「日向は…水仙の姫が好きなの？」
ハッとしたように日向が顔を上げる。
口を開こうとする前に、桔梗はポケットからずっと手にしていたものを取り出した。
「忘れ物。最後に会ったときに」
目の前に差し出されたものは、日向が持っていたはずのものだった。ごくりと唾を飲み込んだところで、桔梗はそのロケットを開く。中から出てきたのは、しずかの今は亡き母親の写真だ。
本当の意味で、形見になってしまった。
しずかに渡したら、どんなに喜ぶだろうかと、一瞬日向は思った。
「この写真のひと―」
話し出そうとした桔梗から、日向は実に滑らかな動きで、それを奪う。
「確かにこのロケットは、姫のものです。こちらで預かっていたものでした」
正しく言えば預かったのは有世で、すり替えたのが日向なのだが、その説明をすれば、どうしてそのようなことを行ったのか、話せばならなくなる。日向として、理由のわからない行動の説明など仕様がなかったし、それ以上そこにある感情を探ることもしたくはなかった。
日向の省かれた説明を聞いた桔梗ではあったが、安心したらしく、よかったと安堵のため息をついてからこう言った。
「それじゃ、日向と水仙の姫は、別に恋仲じゃないのね」
恋仲と言われ、思わず日向は微笑んだ。
「宮は面白いことをおっしゃる。そのようなこと、言われたのは初めてだ。
私の趣味は姫とは違う、それにしずかは、陛下のことが―」
「好きなの？」
切り替えされて、日向は自分の軽口に気づき、重々しく答えた。
「…もう二度と、会うこともないが」
相思相愛だというのに、おそらく結ばれることはないだろう。
しずかは、百合の姫の為に身を引くことを決めているし、そもそも桜王宮には入れない。
そしてあの人も、陛下も、桜王宮を抜け出そうなどということは、お考えすらならない。いや、考えたところで、行動することもできないだろう。
そう思ったところで、ふと、カタンという音が日向には聞こえた。
「ねえ、ひゅ―」
「黙って」
話し続けようとする桔梗を遮り、日向はふっと灯りを消し、扉の側に寄る。
そうしてそっと扉を開け外を窺うと、暗闇の中に僅かな灯りが揺れ動くのが見えた。場所がわからないのか、灯りは立ち止まりながら、ようやく見つけた階段を上がっていく。
そこにあるのは、しずかの部屋だ。
誰だろう。夜も深いとはいえ、騒がれずにこの黄仙館に出入りできるとは。
例の、しずかの友人だろうか。
とすれば、今夜、決行の日なのか？
日向は気づかれぬようにと廊下に上体を出したところで、ふいにその灯りが、侵入者の顔を照らした。
その瞬間、日向はそこに凍りついたように立ち尽くした。
そして、体を部屋に戻すと、そっと扉を閉め、その場に座り込んだ。
「どうしたの？日向」
心配した桔梗が側に寄ってきてそう尋ねる。
しかし、日向は何も言えずにいた。
「ねえ、日向。日向は、もう一度桜王宮に戻りたいの？水仙組を存続させたい？」
その言葉を聞いて、日向はハッとしたように側にいる桔梗を見つめた。
僅かな月明かりの中でも、その目は澄んでいるのがわかる。
「どうなの？」
どこか虚ろな意識のままで、日向は答えた。
「…できれば、そうしたいとは思います。
だが…。諦めざるを得ない。せめて、しずかが妃候補のままでいられれば―」
頭の中が揺れ動いていた。
いや、もしかしたら。
戻れるかもしれない。
だが…。
黙りこんだところで、桔梗が答えた。
「…水仙の姫が、妃候補に戻れれば、どうにかなるかもしれないのね」
「宮―」
だが、事は簡単ではない。
自分にも言い聞かせるようにそう言おうとしたところで、桔梗がすくっと立ち上がった。
「やってみるわ。私。これでも、投票権を持っている楓子爵ですもの。
…だけど、条件があるの」
桔梗はそういうと、再びしゃがみ込んで日向の胸にその頭をもたれて言った。
「私、貴方が好き。
貴方も私のことを好きになって。そして、私だけの騎士になってほしいの」
ボーン、と時計が０時を回ったことを告げた。
約束の時間だ。
しずかは寝たふりをして横になっていたベッドから体を起こした。
すでに身支度は終えていた。荷物ももうない。
今となっては、片身になってしまった母からのペンダントも、手元には無い。
雅のことを夏目に頼んでしまった今は、しずかにとって思い残すものなど何もなかった。
立ち上がり、スカートの皺を伸ばす。
そういえばよく、君江に怒られたっけ。
相川もよく困らせたし、
石崎にはよく怒鳴りつけていた。
日向には…、助けてくれてありがとう、くらい言いたかったけど。
でも、もう時間は無い。
智広は、水仙の泉の近くの林に紛れるようにしているらしい。
そしてそこから馬小屋に行けば、相川も外へ脱出する道まで、案内してくれる。
心配することなんか、何もない。
智広たちとの生活も、しずかには何の不安もなかった。幼馴染で、気心知れた仲間だ。しずかのことも、快く迎い入れてくれるだろう。
しかし、部屋を見回すと、どうしてか思い出すのは、水仙の騎士たちの笑い声だった。
みんな、ごめんな。
あたしのために、解散なんかになって。
ごめん、それなのに謝りもしないで、出て行くなんて。
――おまえらしく、ないな。
ふいに、そう皮肉交じりの表情で言う日向が脳裏を掠めた。
…だけど、ここにはもう、あたしの居場所は無いから。
その時、突然キィという音がして、扉が開いた。
誰だっ。
しずかは扉の方に振りかえると、思わず呟いた。
「あり…せい？」
月明かりに照らされて、そこに立っているのは間違いなく有世だった。
「しずか」
有世はそう呟くと、まっすぐにしずかのところまで歩いてきた。
服装もいつもと違う、紫紺の服を着ている。
幻？
いや、そんなわけない。
「どうしたんだよ、こんなところに―っ」
しずかがその理由を問う前に、有世はしずかの前にやってくると、そのまましずかを抱きしめた。
「会いたかった、しずか」
漂う高貴な香り。
忘れようとしていた記憶が、しずかの心を揺さぶる。
…駄目だ、あたしは。
あたしは、雅を裏切ることはできない。裏切っちゃいけない。
葛藤の中で、しずかが有世から体を離すと、
「どうした、しずか」
と心配そうに有世が見つめる。
変わっていない、あのアーモンドの形をしたブルーグレーの瞳。
だけど、あたしは…。
「有世。ごめん、あたし―」
そういいかけたしずかの髪に、ふいに有世が手を伸ばす。
「何かついている」
そう言いながら、有世はゴミを取ると、そのまましずかの頭をそっと撫でた。
幼い頃、しずかは他の子供よりも一回り体の小さな子供だった。
力も弱く、気持ちだけが今と同じく強気だったが、それゆえに苛められることもしばしばだった。だが、家では絶対に弱音を吐かなかった。
しかし、母は気づいていたのだろう。
擦り剥いた膝。
泥だらけの服。
赤くただれた引っかき傷。
それらをつけて帰ってくるたびに、母はしずかを優しく抱きながら、髪を撫でて言ったのだ。
『大丈夫？しずか』、と。
しずかがハッとしたように顔をあげると、有世は優しく微笑みながら尋ねた。
「変わりはないか？
大丈夫だったか？」
格別の言葉でもない。
髪に触れることだって、前にも有世にされたこともある。
だけど、どうして今なのだろう。
どうして、今、やってきて、
どうして、髪を撫でてくれるんだ。
どうして、あの言葉なんだよ。
「有世…」
その言葉が、言い終わるかどうかのところで、しずかは有世の胸に身を投げ出すと、声をあげて泣き叫んだ。
桔梗の宮を送り届け、黄仙館から戻ってきた日向は、ふと見上げたところで、窓辺に佇む有世が見えた。
しずかの部屋の窓から外をのぞいていた有世も、ふいに日向の視線に気づき、階下を見つめた。
朱雀門を荷を積んだ馬車以外で、日々行き来している者たちが近衛だけだと日向が気づいたのは、薬を届けに桜王宮に入り浸っていた時だった。当時はわからなかったその理由も、しばらくしてから理解することができたのだ。
近衛には、表と裏の役割がある。朱雀門を通り抜けられるのは、主にその裏の事情からで、それ故に門兵にも詳しくは伝わっていない。
その裏をつくようにして、かつて有世に近衛の制服を着せ、黄仙館に来るよう仕向けたのは、日向だった。
「しかし、近衛の制服を着たからとはいえ、すんなり通れもしないだろう」
「門兵が近衛の為に朱雀門を開けるのは、日に二度のみ。その時間に、馬に乗って通れば、門兵は何も言いません」
「だが、問われたらどう答えればよいのだ」
「その時は、準備に遅れをとり、他の者に置いてけぼりをくらったと答えればよいのです。そうすれば、すんなり門はあく。あとは、悲痛そうな声を上げれば、大丈夫です。
門兵も、近衛と喧嘩しようなどとは誰も考えてはいません」
あれから変わりないのだとすれば、あと三十分で門が開く時間だ。
ここから馬を走らせれば、決して間に合わない時間でもない。
現れた有世は、日向の想像通りに、紫紺の制服を着ていた。
日向はそのまま無言で有世を厩に連れて行くと、馬を一頭を差し出した。
二人の間に会話は無く、だが、お互いが言わんとしていることは、分かり合っていた。
馬に跨ろうとするところで、日向は有世の耳に囁いた。有世も、それを聞き入れると、小さく頷き、そうして馬に跨った。
有世はできるだけ、音を立てずに馬の腹を蹴り、そうして黄仙館から出て行った。
小さくため息をつきながら、その姿を眺めていると、ふいに大きな欠伸が聞こえた。
「あれ？…隊長？どうされました？」
わらの中から起き上がったのは、制服のままで眠ってしまった相川だった。
その姿に思わずぎょっとした日向だが、平然を装って、逆に聞き返した。
「お前こそ、どうした。体中に藁がついているぞ」
「あ…いえ、何でもありません。待ちくたびれて、気づいたら眠り込んでしまって…あっ」
話してから事の重大さに気づいたのか、相川は慌てて口を手で押えた。
昨日が例の日だったのかもしれない。
ということは、あの客人はもういなくなっているのか。
相川、と日向はなだめるようにその名を呼んだ。
「君江との逢瀬ならば、もっとムードのあるところにしろ。じゃないと、君江の機嫌が悪くて仕方ない」
「はっっ、なっ、何をっ、隊長っ」
顔を赤くして反論する相川に、日向は微笑みながら答えた。
「君江にしずかの食事を待ってもらうよう伝えてくれ。まだ寝ているようだから、起こしてくる、それまで待つようにと。その後は、裁縫道具も用意するよう伝えろ」
「裁縫道具、ですか？」
何のために？と首を傾げる相川に、日向は自信たっぷりに答えた。
「舞踏会用のドレスを新調する」
夢を見ていた。
顔の見えない誰かに、襲われる夢。
誰だ、お前っ。
しずかはそう叫びながら、剣を必死に振りかざし、応戦していた。だが、しずかがふっと気を緩めたところで、足がもつれて、しずかは床に転がり込んだ。
やられる。
そう思ったところで、いきなり眩しい光がしずかのまぶたに飛び込んできた。
しずかはうっすらと目を開く。
光の中に映し出したシルエットは、背が高く、しずかはぼんやりとその光景を思い出すように見つめていた。
誰だ？
敵か？味方か？
そう思ったところで、シルエットから、低く、小ばかにした声がしずかに語りかけた。
「いつまで寝てるつもりだ」
ハッとして、しずかは身を起こした。
「ひゅ…うが？」
ようやく光に慣れてきた目が、そのシルエットを捉える。
そこには数週間ぶりに見る日向の姿があった。
「何だ、その幽霊でも見るような目は」
「いや…」
少し痩せたようだが、それでも変わらない様子で、日向はニヤリと笑った。
助けてくれて、ありがとう。
と言おうかと思ったしずかだったが、日向がくすりと笑って言う。
「その前に、服を着ろ」
言われたしずかは、ハッとして、慌ててシーツを抱き寄せた。ベッドの床には、しずかの服が、下着も含めて散乱している。綺麗に服をたたむ余裕など、昨日のしずかにはなかった。
しかし、日向に言われるまで、自分の裸を見られてたのかと思うと、恥かしさでいっぱいになった。
あ、有世。
そこで、ようやくしずかは隣にいるはずの有世を探した。
だが、の姿は無く、シーツに残った僅かな温かさだけが、昨日の出来事が夢でなかったのだと伝えていた。
昨日…。
しずかはそう思ったところで、顔を赤らめると、シーツの中にもぐりこんだ。
体のあちこちに、有世の残した痕跡を見つけ、そうしてしずかは昨夜の出来事を思い出し、更に顔を赤らめた。
小さい頃の母の思い出や、
夏目との事、
それに、最後だから、という気の緩みもあったけれど、有世と一夜を共にするなんて、しずかとしては、素直に喜ぶことができなかった。
しかも、疲れ果てた結果、部屋にやってきた日向に気づかないくらいぐっすり寝てるなんて。
そこでしずかはようやく外の明かりに気づいた。
あ、智宏っ。
「お前の客人、すでにここを抜け出したらしいな。部屋はもぬけの殻だった」
心を見透かされたように言われ、しずかは思わず声を詰まらせた。
「そっ…そう、か」
約束の時間に現れなかったら置いていくというのは、二人で決めたことだった。
ごめんな、智宏。
「甘い余韻の残る中ですまないが、お前に寝ている時間は無い」
「もう起きてるだろう―」
ムッとしてシーツから顔だけ出したしずかに、日向は妙に淡々と答えた。
「一ヶ月前の生活を思い出せ。
三日後には、再び桜王宮に戻る」
「え？」
「もう二度と、同じ過ちは犯すなよ」
何が何だかわからないしずかだったが、桜王宮に戻れることになった理由よりも、口許を引き締め何かを決意した日向の表情が、妙に心に残った。