THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章04
扉がノックされ、有世は手にしていた手紙を慌てて戸棚に隠したところで、近衛によって扉が開かれた。久しぶりに見たその顔に、思わず有世は凝視する。
「失礼します、陛下」
目の下にくまが見える。いくらか頬もこけたようだ。
痩せたというよりは、やつれたといった風貌に、有世は心配そうな視線を向けながらも答える。
「何用だ、鞍馬。悪いが私は―」
「折り入って陛下にお願いしたいことがありまして、ご無礼と承知しつつもこちらに参りました所存です」
叩頭するその姿に、以前のようなまばゆいばかりの自信に満ち溢れた勢いはない。
ゆっくり話を聞いてやりたいところではあったが、そのような余裕は有世にはなかった。
「時間はあまりないが、それでもよいのか？」
「はい」
「言うてみよ」
すると鞍馬は、有世のすぐ側までやってくると、足元に縋り付かんばかりに、床に平伏した。
「陛下っ、この鞍馬っ、一生の願いでございます。
どうか、我が菫組の姫を陛下のお側に置いていただけないでしょうか」
悲痛な叫びにも似た声が、部屋に響く。
以前にも似たようなことがあった。
あの時は、それぞれの思いに嘆き、哀れんだ有世だったが、今は鋭く鞍馬に聞き返した。
「それは姫の意思か？」
その声がいくらか優しく聞こえたのか、鞍馬はハッとしたように顔を上げ、すがるような上目遣いで有世を見つめた。
「当然でございます。
先日の夜、こちらに来てから、姫の胸は陛下への気持ちがいっぱいで、何も喉を通らないといった状況でございます。おそらくは陛下との甘い夜が忘れられず―」
「鞍馬」
「はい」
話を遮られ、鞍馬の表情が強張る。
それを見て、一瞬心が揺らいだ。
だが、有世の脳裏に、梢の涙とそれからあの強い瞳が過ぎり、苦しそうに顔を歪めると有世はくるりと鞍馬に背を向け、こう言った。
「私は、嘘は嫌いだ」
「嘘、と申しますのは？」
戸惑いながら聞き返す鞍馬に、有世ははっきりと答えた。
「あの夜、私は姫と床を共にしてはおらぬ」
ぽかんと、鞍馬が口を開け、目の前の背を見つめた。
しかし、頭の中で色々考えたのか、すぐに頭を下げて答えた。
「は…、も、申し訳ございません。私としたことが、早合点いたしました。
して、陛下。陛下は姫のどこが気に入らぬというのでしょうか。姫の気持ちは常に陛下に―」
堪えきれず、有世は鞍馬の言葉を遮ると、振り返り、声を張り上げて言った。
「姫が愛しているのは、私ではなく、お前だ、鞍馬」
今度の言葉には、思い当たる節があったのか、鞍馬の目は、左右に揺れ始めた。それでも鞍馬は必死に食い下がった。
「ご冗談を。
陛下は、誤解されております。確かに姫を育てたのは、この私。それ故に、姫は恩情を感じているかもしれませぬが、それが愛情のはずもございません。言うなれば、師弟愛、親子愛に似たものでしょう。
陛下のご気分を悪くさせるような振る舞いがあったのでしたら、姫にはきつく言っておきますゆえ―」
話しながら、そこで鞍馬は言葉を止めた。
何故ならば、有世が無言のままで自分の脇をすり抜けたのだ。
その先にあるのは、この部屋の出口だ。
慌てて振り返った鞍馬に、有世は今までになく強い口調で答えた。
「そのようなことはしなくてよい。
すまない、鞍馬。私には、もう決めた女(ひと)がいるのだ」
水仙の泉では、周囲の目が気になるからと、しずかは夏目を林の中に連れ出した。
「びっくりした。来るなら来るって言えよ、って、そんな方法もないか。
だけど、どうやってあの門から抜け出したんだ？」
しずかのいる世界と、有世のいる桜王宮は、朱雀門と呼ばれる大きな門で仕切られており、その門は定時に通る運搬者と、花族の許可を得たものだけが通れるのだとしずかは聞いていた。
すると夏目は、僅かに微笑んで答えた。
「運搬用の馬車の馬が、開門時にちょっと騒ぎを起こしてね。その間に」
「そっか…」
しずかはそう呟く。
ここと、桜王宮をつなぐ門が開放されたのかと思ったのだ。
だが、状況は何も変わっていない。
つまり。有世には、もう、会えない。
そう思ったところで、しずかはその考えを振り払うように、明るく尋ねた。
「元気だったか？夏目は」
夏目はにっこりと微笑む。
その表情を見るだけでも、しずかは心が和んだ。
「まあまあだな。…そう、日向の様子はどうだ？」
「順調らしいぜ。相変わらず部屋で寝てるみたいけど。
あたしは、あれ以来会ってないから」
聞いた話だと、ヨネが自分の部屋に戻ったらしい。
ってことは、元気になったってことだろう。日向は。
そう思ったところで、しずかは自分の腕の中で血に塗れていく日向を思い出した。
雅と会った、あの日以来…。
「あ、あれっていうのは―」
「知ってる」
説明しようとしたしずかを、安心させるように夏目が答えた。
「そっか。うん、そうだよな。夏目が知らないわけないか」
冗談めいた口調でしずかは言うものの、夏目は何も答えない。
その沈黙が怖くて、しずかは話を続けた。
「どうだよ、白鳥とか、鞍馬とか、元気か？」
「ここ最近、茶会も集会もないから、他の組のことはわからないが、姫は変わらずだ」
「そう。よかった」
夏目の表情が僅かに曇ったことに気づかずに、しずかは相変わらず艶やかで、でもどこか憎めない華夜乃を思い出し、答えた。
俯いたしずかに、夏目が尋ねる。
「しずかは？」
「あたし？…あたしは」
元気だ、ということは簡単に思えたくせに、しずかは思わず言葉を詰まらせた。
元気なわけはない。
だけど、そう答えるわけにもいかない。
「相変わらず、だよ。ホラ、な」
わざと力瘤を見せる素振をすると、クスクスと夏目が笑った。
その笑顔を見ていると、しずかはほっとした。けれど、決まってその次には、言い知れない不安に襲われる。
林が途切れ、草原が見えた。
この先にあるのは、あの小川だ。
雅と、待ち合わせをしたはずの、あの小川。
しずかは足を止めると、声を落として言った。
「だけど…。水仙は、解散かもしれないらしい」
呟いてから、しずかは必死に夏目を見つめた。
「知ってるんだろう。夏目」
しばらくはしずかの真摯な視線を黙って受け止めていた夏目だったが、ふっと気が抜けたようにして、微笑んで答えた。
「桂公はね、そう主張してる。だけど、陛下がそれだけは一歩も引かないから」
「有世が？」
あの太陽のような笑顔を思い出し、しずかの胸はいっぱいになる。
そうと答え、夏目は話を続けた。
「しずかは、何か思うところがない限り、人に切りかかるような性分ではない、と。
事情聴取をするよう近衛に命じてはいるが、当事者の速水が、口を割らない」
「速水が？どうして」
雅が否定をした今、しずかはいずれ速水にも謝らねばならないと思っていた。
鞍馬の企みに唆され、雅を傷つけたのは自分なのだ。
不名誉なことを言われ、逆上した速水の気持ちも、わからなくもなかった。
すべて、あたしが悪いんだ。
そう思っていたしずかだったものの、事態はそういう方向には向っていないようだ。
「断食を命じられても、折檻を加えても、口を割らない。終いには、花族も処罰を与えられなくなっているし、百合組としても、処罰が決まらねば、次期隊長も立てられず、困り果てている状況だ」
ただならぬ百合組の状況を聞いてしずかはハッと気づいたように尋ねた。
「…雅は？雅は、元気か？」
微笑むであろうと思われた夏目は、しかし顔を背けるようにして答えた。
「百合の姫は、私も会っていない。ただ…」
「ただ？」
一呼吸置いて、夏目がしずかを見据える。
話すか悩んでいるのかもしれない。
しずかが夏目を見つめ返していると、根負けした夏目が、小さくため息をついて答えた。
「おそらく、今回の妃候補は辞退せざるを得ないだろう」
僅かな物音で、雅はゆっくりと目を開ける。
窓からは、夕陽が差し込んでいた。
会えないならばせめて手紙でも有世に、と思う雅だが、最後に言われた有世の決意に、なかなか書き出しの言葉が見つからずに、気づいたら眠っていたらしい。
「菖蒲？」
部屋には誰もおらず、雅は侍女の名前を呼ぶが、辺りには人の気配もなかった。
どうかしたのかしら。
何かあったのかしら。
不安にかられ、雅は恐る恐る階段を下りる。
すると、大広間から、何やら話し合う声が聞こえてきた。
僅かに開かれた扉の隙間からは、大勢いる百合の騎士達が見えた。中央には、碓井と、森が向き合うようにして立っていた。森は、碓井に次ぐ地位の男である。かつては速水と隊長の座を争ったらしいのだが、それも速水に負け、副隊長の座も、そうして碓井に奪われ、ここ数ヶ月は影が薄い存在だった。しかし、
速水が失態を犯したということで、急にその存在が浮上してきたのだ。
椅子に座り、腕組みをして俯く碓井に、森は声を張り上げ、両手を大きく振りながら演説を始めた。
「速水隊長も、早々に身の潔白を上申すればいいものを、こうも黙り込んでしまったが故に、逆にこのような妙な噂が飛び交ってしまった。
それだけではない。もはや、我ら百合組の行く末も、水仙と同じく解散だとわめいている戯け者まで出てくる始末。これをどう収拾してくれるというのだ」
碓井は頬を強張らせながら、苦し紛れに答えた。
「おそらくは、隊長にもそれなりの考えがあるのでしょう。森殿、そう、結論を急がれるな」
「我々にそのような流暢なことを言う時間はないっ」
突然に、森がそう叫び、目の前の机をドンと叩いた。
森はそのまま、顔を上げた碓井にたたみかけるように訴えた。
「何を迷うことがあるのだ、碓井殿。
我が高潔なる百合組には、災いをもたらす女など必要ない。
このような状況になり、姫を陛下に差し出すわけになどいかず、さりとて、組の厳格な規律を破って、唯百合の姫としてあの姫を迎えるわけにもゆくまい。
ならば、引き取り手のあるうちに、渡したほうがよいに決まっている」
慌てて立ち上がった碓井を遮るようにして、別の騎士が森に尋ねた。
「引き取り手とは？」
ハッとした碓井が森の言葉を遮る前に、森はあっさりと答えた。
「柊伯爵だ。
つい先日、身請けの話があった。
伯爵なら、身分も百合と相当以上、それに他に姫宮もいない。
姫にとっても、喜ばしいこと」
途端に騎士達はざわめきだした。
その声は、大概が森の意見に賛成の声だ。
その中で唯一人、碓井は森に言い返す。
「だが、姫は…。
姫は、妃候補なのだ、森殿」
だが森は、ニヤリと笑って答えるだけであった。
「我が組の規律は、碓井殿もご存知のはず。
隊長の罪は、百合の罪、ひいては姫の罪。それを忘れて、己の欲の為に生きるなど、百合には相応しくない。
清廉潔白の身を証明するためにも、ここは妃候補の座を自らおりるのが望ましいのではないか？碓井殿」
部屋の中では、力なく椅子に座り込む碓井が見える中で、雅も壁に手をついたまま、するすると床に座り込んだ。
柊伯爵に、身請けされる？
陛下の側にいられないだけではなく、会いたくもない男のところに、物のように引き渡されるの？私は。
暫くの間、雅はそうして菖蒲に見つかるまで、その場に座り込んでいた。
再び頬が疼く。
雅に叩かれたそこは、傷にはならなかったものの、しずかの心には深く刻み込まれてしまっていた。
黙り込んだしずかに、夏目が心配そうに声をかけてきた。
「しずか？」
痛みを忘れるために、しずかは思い切り拳を握りしめる。
だがそれでも、頬は痛んだ。
「夏目の言った通りだよ。
人は変わる。
雅は、あたしのことなんか、嫌いになったんだ」
「しずか」
「じゃなきゃ、会って早々、あたしの顔、叩かないだろう？」
「しず―」
徐々にしずかの声は荒立ち、それからついにしずかは叫んだ。
「組は解散、雅には嫌われる、母さんは死んだ。
いったい、あたしはどこに行けばいい？」
「死んだ？」
目を見開いた夏目が、思わず声をあげた。
しずかは小さく頷いた。
「酔っ払った義父と一緒に、崖から海に落ちたってさ」
「しずか―」
「もうどこにもないんだ。あたしの居場所なんか」
俯いてはいけない、としずかは思った。
下を向いちゃいけない。
今、そんなことしたら、そんなことしたら、あたしは…。
あたしは、あたしじゃいられなくなる。
こみ上げてくるものを、必死でしずかが押し留めていると、ふいに隣から夏目の優しい声が響いた。
「薔薇に、来ないか？」
「どうだ、調子は」
面会謝絶だという君江を押し切り、日向の部屋に吉沢が現れたのは、同じ頃だった。
実際、一定の階級ではない騎士からの見舞いを許すと、逆に日向が疲れるということで、今は相川や石崎など、上級の騎士しか日向の部屋への出入りは許されていない。
それを無視した、相変わらずの規則なんか糞食らえという雰囲気の吉沢に、日向も安心して答えた。
「まあまあだ。何、元気だといえば、色々動かなければならないから、こうして横になっているだけだ」
正直なところ、ここに戻ってきてからというもの、いや正確には、日向がしずかの代わりに速水の剣を受けてからというもの、相川も、君江も、水仙の騎士の誰もが見えない明日を憂いでいるのが、日向にはわかった。
それが日向には耐えられなかった。
太刀傷を受けた同情など、まっぴらだったし、
水仙の解散を憂う暗い表情など、見たくもなかったのだ。
どうせならば、隊長としての自分の能力不足を責めてくれるほうがマシだった。
その中で、吉沢は、らしいというのか、変わらずの態度で日向に接してくれるのだ。
有難いと日向は思った。
変わらず吉沢を睨みつけている君江に外に出るよう伝えると、日向はベッドから起き上がり、窓辺に立った、そんな様子を見ながら、吉沢はまたニヤリと笑うと、珍しく真剣に答えた。
「まあ、無茶するなよな。この組は、あんたの組なんだから。
この先、何があろうと、この組のやつらは、全員あんたについていく」
つられるようにして、日向もニヤリと微笑む。
だが、僅かに背中に痛みが走り、うまく笑えたか自信はなかった。
「それより、何やら朱雀門が騒がしいらしいぜ」
朱雀門とは、桜王宮の唯一の入り口となる門である。
思わず眉をひそめた日向の耳元に、吉沢も囁いた。
「運搬の馬車が朱雀門を入ろうとしたところで、突然火の車になった。
慌てた門兵が、門を開けたままにその場を離れたり、救助を求めに行ったりして、一騒動あったらしい」
「被害者は？」
「荷物は全焼だったが、幸いにも、御者は無事だった。
ただ、馬が二頭がその場から消えている」
日向はゆっくりと視線を吉沢に向けた。
それに答えるように、吉沢もニヤリと微笑んだ。
「脱走者がいる可能性があるってことだ」
夏目の突然の誘いに、しずかは戸惑っていた。
「薔薇って、薔薇には白鳥が―」
「姫は王妃になる。薔薇の姫の座は、空座だ」
王妃にと言う言葉を聞いて、しずかは思わず息を飲んだ。
だけど、まだ決まったって連絡はない。
しずかの希望に満ちた無言の問いに、夏目はそのまま答えた。
「先日、桂公からも非公式に話を受けた。正式に決まるまでは、問題は起こさぬように、と」
太陽のような暖かい笑みを浮かべる有世。
その横には艶やかに微笑む華夜乃。
確かにお似合いだ、としずかは思った。
下馬評通り。
そうつまり、当然ってこと。
最初から、決まってたのさ。
そう考えたところで、しずかはふと夏目の言った言葉を反芻した。
「…それじゃあ、薔薇に来いって」
どういう意味なんだ、としずかが問いかける前に、夏目はしずかの目を見て、軽く息を吸うと、
「私だけの姫として、薔薇に来て欲しい」
と真剣な表情で答えた。
初めて見るそんな夏目の横顔を、痛いほどの夕陽が照らしていた。
困った。
ほとほと、困った。
男は、空っぽになっている籠を見つめて、そう心の中で呟いていた。
今宵は、愛しい恋人との大事な逢瀬となるはずだった。
それなのに、朝から、厩の掃除だった。
確かに、この前は逢瀬の時間に気をとられ、気づけば、集合時間に遅刻をしたのは自分の失態ではあったが、それにしても、近衛に厩の掃除をさせるというのも、いかがなものかと思う。
腐っても近衛。
陛下をお守りする、桜王宮でも花形な職業なのに。
体にしみついた匂いを洗い落とそうと、風呂に入ったところ、出たら用意したはずの真新しい制服がないのだ。
困った。
ああ、困った。
タオルを体に巻きつけて、うろうろと歩くものの、制服は見つかるはずもなく、目に付くのは、厩の匂いのたっぷりしみ込んだ制服だ。
匂いを我慢するべきか、
それとも逢瀬を諦めるべきか。
だが、愛しい恋人の笑顔を思い浮かべると、どうしたって、会いに行きたくなってしまう。
しかし、今宵洗えないのであれば、それは明日も同じ制服を着なければならないということであり、それは、他の近衛の恰好の笑いの的となることも、男には想像できた。
いやしかし、もう三日も会ってないのだ。
今夜こそ。
それに、もしかしたら、またひょっこり出てくるかもしれない。
以前にも同じようなことがあった。
風呂に入って出ると、あるはずの制服が消えていた。
上長にはこっぴどくしかられた。しかし、結局お咎め無しに終わったのは、陛下である有世がその上長を優しく窘めてくれたからだ。それから間もなくして、
無くしたはずの制服は、男の部屋の前に置かれていた。神様はいるのだと、男は神に感謝をし、助けてくれた有世に対しては、それまで以上の忠誠心を誓ってき
た。
だが、今回も、同じことが起きるとは限らない。
しかも、桜稜殿では、陛下である有世よりも、花族の桂公爵の方が権力を手にしているという噂がある。いまや、有世の後光には、影が差しているのだそうだ。
ああ、困った。
だが、脳裏に描くのは、恋人の愛くるしい笑顔。
…きっとまた、出てくるさ。
男はそう思うと、むせ返るような匂いのする制服を、えいやっと来て、すぐに桜稜殿を出て行った。