THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章03
「どうしたんだよ、相川」
しずかはそう言って、黙って目の前を歩く相川に話しかける。相川はただ黙々と、水仙の館の中を歩いていく。
その先にあるのは、隊長である日向の部屋だ。
日向？
「おいまさか―」
日向に何かあったのか？
そう尋ねようとしたところで、ふいに日向の部屋から大きな声が聞こえてきた。
「解散？この水仙がですかっ？」
石崎の声だ。
それから、ぼそぼそと誰かの声が聞こえてくると、石崎の謝る声が再び聞こえてきた。
「すみません…」
どうやら日向に叱られたようだ。
しかし石崎の言葉は、しずかの耳にきちんと届いていた。その証拠に、相川は無言のままで、どこか急ぎ足だ。
「おい相川」
しずかがそう話しかけても、いつもとは違って、決して立ち止まろうとしない。振り返ろうとすらしない。
「本当なのか？解散って」
「噂ですよ。そんな噂があるだけです」
模範解答のように、相川の返事がすぐにかえされた。しずかが黙っていると、相川は足を止め、振り返りながら言う。
「この領地を羨んでいる他の組の、他愛もない噂話です」
にこりと笑うものの、どこかその表情がぎこちない。
あり得ない話ではない。
自分がしでかしたことを思うと、そのくらい、あの桂公ならやってしまうだろう。
「だけど―」
その時突然、石崎が目の前の扉から出てきた。
「ああ、相川。ちょうどいい。これから探そうと思っていたんだ」
「すまないが、これから私は姫と―」
石崎の顔はいつも以上に青白く、しずかを見止めると、僅かに目を見開いて小さく言った。
「隊長がお呼びだ」
相川は一瞬悩んだものの、
「わかりました。姫、しばしお待ちを」
と答えた。しずかとしても、急いでいたのは相川のほうであるから、断る理由などない。
部屋に入っていく相川の背中を見ながら、しずかは安堵のため息をついた。
何だよ、あいつ。思わせぶりな態度しやがって。
だけど、じゃあなんだっつーんだ。
至急って。
その時、中から相川の驚いた声が聞こえてきた。
「えっ」
だが当然のように、その後の会話は聞こえてこない。
気にならないわけ、ない。
しずかは辺りを見回すと、扉にそっと耳をつけた。
耳をつけたところ、聞こえてきたのは、ぼそぼそと話す会話。
「…なんと、お伝えすれば？」
相川の声だ。
少しして、聞き覚えのある低く掠れた、だけど不思議と艶のある声。
「お前に、任せる」
相川より聞き取りづらいのは、怪我のせいなのかもしれない。
日向。
しずかは心の中でそう呟いた。
「…わかりました」
しばらくして、重々しく相川が答えるのが聞こえた。
何を相川に任せたというのだろうか。
日向は。
すると、急に扉が開き、
「姫？どうされました」
と相川が、思わず床に転びそうになったしずかを見て言った。
僅かな隙間から、中が垣間見えた。
その中で、ベッドに転がっていた腕が、動く。
日向？
けれど、すぐに扉は閉められてしまった。
思わず唇をかみ締めたしずかだったが、気を取り直したように立ち上がると、スカートの裾を払いながら相川に尋ねた。
「なんでもない。それより、用事って何？」
「すみませんが、ご一緒していただけますか？」
相川はそれだけ言うと、再び無言になった。
用意された馬車に乗り込み、しばらく走った後止まっても、それは変わらなかった。
相川に続いてしずかが降り立ったところは、学園の裏と表を遮る大きな壁。その半地下に位置する、牢獄の入り口だった。
「…どういうことだよ」
しずかが問い詰めるようにそう尋ねると、相川は地下へと続く階段を下りながら言う。
「しずか様に、会いたいと言う方がいらっしゃいまして」
「あたしに？」
誰だろうと思いながらしずかはその階段を降り、牢獄の中に入る。
その足音を聞いてか、奥のほうから、聞き覚えのある声が、しずかの名前を呼んだ。
「おいっ、しずかかっ？」
その瞬間、しずかの中で時が目まぐるしく戻っていくのがわかった。
声のする檻のあたりから手が伸びて、開くはずのない鉄格子を掴み、揺らす。
いくらか風貌が変わっていたように思ったのは、あの時このような場所で会うことがなかったからだろうか。
無精ひげのあるその顔は、だがしかししずかのよく知った顔。
「智広…」
しずかの前に現れたのは、かつての悪友ともいえる、大沢智広だった。
ため息をつくようにして、横になった日向を見て、側にいたヨネが話しかけた。
「それほど心配かい？あの姫が」
「そうではない。ただ―」
思わず起き上がる日向に、ヨネはため息混じりに答える。
「これじゃ、会わせなかったのは逆効果かねぇ」
「どういう意味だ」
だがそれに答えることなく、ヨネは軽く腰を叩くと、
「それじゃ、そろそろ私は戻ろうかのう」
と答えた。
「戻る？」
日向が聞き返すと、ヨネは皺くちゃの笑顔で答える。
「自分の部屋にじゃよ。ここにはもう居る必要もあるまい」
少し離れたところに控えていた君江が思わず聞き返す。
「でも、ヨネ婆様。まだ、日向様は―」
ヨネは君江をジロリと睨んでこう答えた。
「ヨネ姉様、とお呼び。
日向の怪我は、あとは時間が治す。
三日もすれば、一人で歩けるようになるさ。
一週間もすれば、無茶しなければ、問題ない程度にはなっているはずだ」
それを聞いた君江は、涙ながらに礼を言う。
「ありがとうございます」
「感謝する、ヨネ」
日向はそう言って、ヨネを見つめたが、ヨネはふいっと顔を逸らした。
「だが、あんたの病気はまだ治っちゃない」
「病気？」
日向が負ったのは、怪我であって、病ではない。
ヨネは、続けて言った。
「医者には治せん病気じゃ。無論、私にも治せん。時にも治せん。
それができるのだとしたら、あの姫しかいない」
しずかが？
戸惑う日向の横で、君江が尋ねた。
「それは命に関わる病なんですか？」
「関わるといえば、関わる。そうでないといえば、そうではないかもしれない」
そうしてヨネはニヤリと笑う。
ふと目が合いそうになった日向は、思わず視線を逸らしてしまった。だが、そんなことに気づかない君江は、至極真面目に、日向を心配して聞き返す。
「何ですか、その病は」
質問は君江からというのに、ヨネは顔を背けた日向の横顔を見つめながら答えた。
「恋、じゃよ」
え？と、君江が思わず息を呑む。
日向といえば、変わらず顔を背けたままだった。
だがそれが、強情な日向の答えなのだと、ヨネは無視して独り言のように呟く。
「趣味がいいのか悪いのか、わからないが。
まあ、わしも嫌いじゃない。
あの子は、いい瞳をしとる」
鉄格子の扉が開かれ、しずかは相川を伴って中に入る。
智広は、昔と変わらず、よぉと声をかけてきた。
触ったら刺さりそうなほどツンと立てた髪も、変わらない。
へらへらとした笑顔も、態度も昔と同じだ。
だが、身に纏っているのは、いつもの制服ではない。ここの制服だ。
「智広、どうしてこんなところに」
すると智広はポンと、しずかの肩に手を置いた。
「お前を探してたんだよ。ところで何？姫って。っつーか、何、そいつら。子分？」
子分と呼ばれた相川が、思わず智広に剣を向ける。
「止めろ、相川」
「ですが、姫」
肩に手が、と言いたい相川に、しずかは冷静に答える。
「あたしの友達だ。だから、一応剣は下げてくれ」
渋々、という感じではあったが、相川は剣を下ろし、鞘に収める。だがそれでも警戒をしてか、柄には手を乗せたままだ。
相川のそういった警戒心を察知してか、智広もじろりと相川を睨んだままで、口を閉ざしてしまった。
仕方なく、相川、としずかは呼びかけた。
「悪いが、こいつと二人だけにさせてくれないか」
反対されるかと思ったが、相川は素直に一礼すると、牢屋を出て行った。足音が響き、だが数歩歩いたところで止まった。
これでいいか、というようにしずかが智広を見ると、智広もいくらか警戒心を解き、しずかの頭や肩を小突いた。
「やっぱシンデレラなのかよ、お前。雰囲気もなんか変わったよな、お嬢様って感じ」
「そんなんじゃない、けど…。色々あるんだ、色々」
一言では説明できずに、しずかはそう答えてから、
「それより、どうしてここにいるってわかった？」
と尋ねた。
仮にしずかを探しに学園に来たとはいえ、それは表の世界。しずかが雅を探したように、おそらく表ではしずかは学園に存在しないことになっているはずだった。
ああ、それが、と智広は至って明るく答える。
「お前を捜して、うろついてたらさ、えらくガタイのいい男に教えてもらったんだ。
ここに来て、水仙の姫に会わせろ、って言えばいいんだって。けど何だよ、水仙の姫って？」
えらくガタイのいい男？
思い描くのは全て裏の世界の住民だ。学園の表世界にいる生徒の顔など、しずかはほとんど覚えてなかったし、そもそもしずかが水仙の姫であることを知っているというのは、裏の世界の人間だ。
だが、裏の世界からは、逃げ出せないはずでは？
ふいに智広の視線を感じ、しずかの答えを待っていることに気づく。
だが、何をどう説明していいのか、しずかは戸惑い、逆に聞き返した。
「そ。それより、何だよ、学校は？」
「ああ、サボリ。大丈夫、あと一週間くらいは休んでもギリギリ卒業できるように出といたし。
それより、お前…」
智広はそう言ってから、ふいに辺りを見回した。そして、怪訝そうな表情になると、小声でしずかに囁いた。
「もっと、静かに話せる場所、ねぇのかよ」
牢獄は十分静かな場所ではある。だが、それゆえに二人の会話を、他の何人もが側耳立てているのが気配でわかった。しずかは、ああと小さく頷くと、
「わかった。相川」
と声を張り上げた。はい、と相川がすぐさま駆けつける。その表情から、相川も会話を聞いていたのだとうかがい知れた。
しずかは、そのまま相川に言った。
「こいつを牢屋から出して、黄仙館にお迎えしろ。あたしの客人だ」
男は、突然鞍馬のところに現れた。
すぐに桂公の使いのものだと気づいた鞍馬だが、鞍馬が口を開く前に桂公が館に来るよう言っていると聞き、二つ返事で男に付き従い、桂公の館へとやってきた。
以前にも入った広間に通されると、男は鞍馬に待つようにと告げ、姿を消してしまっていた。
静まり返った広い空間に一人。目の前には空席があり、月明かりが差し込んでいる。
その中で、鞍馬は肩を揺らして、緩む頬を引き締めるのに必死だった。
桂公から来るように、だと。
やっと認めたのだ、この俺を。
この俺の力を。
愚か者と言ったことも撤回し、俺を褒めちぎるに違いない。
そうして、柏男爵ではなく、鞍馬には松侯爵が相応しいと、言うに違いないのだ。
思い描いたシナリオがすぐ目の前にあって、鞍馬は思わず気を緩める。
「ふっ」
堪えきれず笑みがこぼれると、そのすぐ後に扇子の音が聞こえた。そうして酔わせるような濃厚な香があたりに漂う。
鞍馬はその場に平伏した。
再び静まり返った中で、しばらくしてから微かな衣擦れの音がする。
そうして、桂公は無言のままに席に着く。
そしてまた、辺りは静寂に包まれた。
通常であれば、ここで桂公から何か話があり、鞍馬は顔を上げることを許される。
だが、桂公は何も言わない。
入るなり、だが桂公は無言のままだ。
沈黙と、多い被るような香の重みに耐えかねて、鞍馬は思わず、顔を上げて桂公に話しかける。
「相思相愛とは、このことでしょう。私も桂公にお会いしたいと思っておりました―」
途端に、冷たい氷のような声が響いた。
「誰が面を上げてよいと言った」
「はっ」
鞍馬は慌ててそう答え、床に額がつくほどに平伏した。
一瞬だが、月光に照らされた桂公の顔は、微笑とは対照的に、ひどく冷たい視線で侮蔑するように鞍馬を見据えていたのだ。
どうしてだ。
何だというのだ。
松侯爵になれ、というのではないのか。
鞍馬の戸惑いは、ひっそりと、染み渡るように桂公に届いたようだった。
「何故呼び出されたのか、わかってないようだな」
桂公はそういうと、バサバサと辺りに何かが広がった。
鞍馬は遠慮がちに、顔を僅かに上げる。
すると、目の前に一枚の写真が飛び込んできた。
目を見開いて思わず顔を上げると、そこかしこに撒かれたのは、すべて鞍馬と貴緒の写真だった。
智広は、しずかのベッドにダイビングすると、そのままぐるぐると寝返りをうち、それから思い出したように起き上がって自分を見ているしずかに言った。
「すっげー、本物の姫じゃねぇかよ。この暮らし」
はしゃぐ智広に、しずかは思わず答える。
「まあそれも、あと少しだけどな」
「え？」
「何でもない」
しずかは慌ててそう答える。
相川の『解散』という言葉が、しずかの心に残っていた。
あの相川の対応からすれば、その可能性の方が高い。そういうことだ。
そうなれば、その原因となったしずかが、ここに居られるはずもなかった。
ため息をつきそうになり、しずかは会話を変えた。
「で、何だよ。話って」
こちらに戻ってきてから、しずかは人払いをした。
場所も寝室にしたから、いくら相川が扉に耳をつけようとも、聞こえないに違いない。
しずかの言葉に、智広は、ベッドに腰掛けると、ああと小さく呟いてからこう言った。
「お前、聞いてないんだな。やっぱり」
「何をだよ」
まさか、智広が、組の解散のことを知っているのか？
そう思うしずかに、智広は全く違うことを告げた。
「お前の母さん、死んだんだ」
想像していなかっただけに、智広の話はなかなかしずかの頭に入っていかなかった。遠くに聞こえる騒音のように、しずかの耳に入っては、すぐに流れ出ていく。
「交通事故だったらしい。運転してたのは、再婚相手のお義父さんだって。
二人で旅行中、海沿いの道を走ってて、ハンドル操作ミスで、二人とも海に落ちて、そのまま。
葬式や、なんかはもう済んだんだってさ」
「事故？」
「詳しくはわからないけど、そう新聞に載ってた」
智広はそういうと、新聞から切り取った小さな記事をしずかに差し出した。
十センチ四方もない紙に、それは書かれていた。
しずかの母親の写真も、義理だけれど父となろうとしてくれた人の写真も、載っていた。
淡々と書かれたその記事をいくら読み直しても、しずかにはふたりの死が現実には感じられなかった。
母さん？
しずかはそっとその写真をなぞる。大事に持っていた写真入のペンダントは、今はもう手元にはない。おそらくは雅が持っていて、そうして二度としずかの手に入ることはない。
「大丈夫か？しずか」
黙りこんでいるしずかを気遣って、智広が言う。
「あ、あぁ…」
智広はズボンのポケットに手をいれると、そこからフィルムケースを取り出して、テーブルに置いた。
「俺、西園寺家に乗り込んで、無理やりお袋さんの遺灰、少しだけど持ってきてやったんだ」
フィルムケースに入れられたグレーの灰は、だがしずかにとってはどうしたてもそれが母だとは思えなかった。
ほんと？母さん。
「お前、満足してるわけ？ここの生活」
ふいに智広がそうしずかに言う。答えの見つからないしずかに、智広は続けた。
「行きたがってなかったろ、もともと。でも、お袋さんの為にって」
しずかの記憶は緩やかにあの時に戻る。
この学園に来る前の、
小さなアパートに二人でひっそりと暮らしていたあの時に。
すべては、母の再婚から変わった。
「戻らないか？俺たちの、あの街に」
「え？」
戸惑うしずかに、智広は頭を描きながら言う。
「俺さ、こんなんだけど、一応学校卒業したら、近くの整備工場で働くこと、一応決まってんだわ。そうしたら、少しだけど、ましな暮らしできるだろうし。そうしたら、お前一人くらい、なんとか養ってやれると思うし。
本当は、ずっと言いたかったんだ。だけど、お前、全然違う世界に行っちまったもんだから、もう諦めてたんだ。
お袋さんの為だったんだろ、全部。
だったらさ」
智広の言うとおりだった。
ここにきたのは、母の為だ。
そして、表の世界から裏の世界に来たのは、雅の為だった。
桜王宮に入ったのも、全て雅の為。
だが、そう思うしずかの頬が僅かに疼く。
雅に叩かれた頬。
そう。けれど雅は、そんなしずかを拒否したのだ。
「…それともお前、こっちに来て好きなヤツできたのか？」
黙りこんだしずかに顔を赤らめた智広が言う。
一瞬だけ、有世の顔が思い出された。
「そうじゃない、けど…」
そして、それは君江や相川たち、水仙組の騎士たちの顔に変わり、蓬の顔になり、そうして最後に日向の顔になる。
慌てて俯いたしずかの肩に智広は手を置くと、力強く握りながら言った。
「明日にはもう、抜け出すつもりだ。
実は、俊介たちもこっちに来てくれててさ。明日の夜、迎えに来てくれることになってんだ。
だからお前も、そのときまでには考えてくれないか」
ばら撒かれた写真を這い蹲るようにして必死に拾い上げる鞍馬を、桂公は冷たい表情で見ていた。言い換えるなら、軽蔑。それは、鞍馬が最も忌む視線だ。だが、今はそのようなことを言っている余裕はなかった。
ようやく拾い上げたところで、鞍馬は座り込む。荒ぶった息を落ち着けようとしていると、桂公は続けて言った。
「して、柊伯とは、何の約束を取り交わしたのか」
柊伯、と聞いた鞍馬はそのまま背中を震わせた。数枚の写真が、はらりとその腕から落ちていく。
「私と同じく、柏男爵にしてくれと、頼んだというのか。
お前は私の力を見くびっていたのか。
私と柊伯は、お前にとって、同等というわけか」
あらぶる桂公の声に、鞍馬は必死で頭を下げる。
「いえっ―」
「私が何も知らぬと思ったのか、この戯けがっ。
世界を支配してるのは、この私だっ」
桂公の投げた扇子が、鞍馬の顔を掠め、音を立てて床に落ちる。繊細な扇子は、その骨を折ってしまっていた。
ぽたり、と鞍馬の頬から血が滴った。だがその様子を見ても、桂公は一歩も近づかずに、最後に言い残した。
「妃には薔薇の白鳥華夜乃を選ぶ。柏男爵には、その功績として夏目を。松侯爵は空席のまま。
お前はもう二度と、私の前に顔を出すでない。さすれば、菫からの追放は免除する」
そういうと、桂公はさっさと部屋を出て行った。
それは、忠告ではない。
確実な命令だった。
姫には白鳥を、
男爵には、夏目を。
一人残された鞍馬は、そのまま床に手をついたまま、ずっと体を震わせて、俯いていた。
ぼんやりとしずかが部屋の窓から外の景色を見ていると、ふいにノックが聞こえて、相川が顔を出した。
「相川」
無言のままに差し出したのは、一通の手紙だった。
「昨日、しずか様宛に届きました手紙です」
しずかはそれを受け取る。宛名は確かにしずかの名前が書いてあった。
裏の差出人を見て、慌ててしずかは中身を取り出す。
すでに封筒は開けられていた。
便箋はたったの一枚。
読み終えたしずかの手から、そうしてはらりと手紙は床に舞い落ちる。
差出人は、しずかの義理の父の母、つまりしずかにとっては義理の祖母だ。そして、溺愛していた息子と、しずかの母の再婚に、最も反対した人物。
手紙は簡単に、二人の死と、しずかへの遺産について簡素に書かれたもので、弁護士の名も記されていた。
つまりは、これっきり、縁を切りたいということなのだろう。
むしろそれは、こっちから言いたいくらいだ。
いつもなら、そのくらい言いかねないしずかだったが、それほどの力がなぜか起きない。
そのことよりも、智広から聞いても実感のなかった母の死が、じわりじわりと現実として受け止められ始めていた。また、そうして感じれば感じるほどに、それはしずかの心を冷たく凍らせた。
相川はその手紙を拾い上げると、そのまま凍り付いているしずかに、そっと手渡して言った。
「ご友人の方が、一歩御早いようでしたが」
「相川っ、お前まさか―」
話を聞いていたのか、と聞き返そうとしたしずかに、相川は出来る限りの笑みを浮かべて答える。
「しずか様に仕えるようになってから、楽しい日々でした。
辛いことも沢山ありましたが、それより何よりも、笑顔で過ごしていた時間の方が多かったように思います。
私は、しずか様のお選びになる道に、付き従う覚悟はできています。例えそれが、しずか様との別れになっても、この相川はしずか様の為に、何でもいたします」
「相川…お前やっぱり…」
聞いてたんだな。
智広の話。
だが相川はそれに答えることなく、再び微笑んだ。
「お気持ちが固まったら、どうか私にも一言お伝えください。
抜け道など、あの素人よりも、私の方が詳しい」
相川と幾度となく呼んだその名を、しずかは初めて声にならぬほどの小さな声で呼んだ。
いつもは大声で怒鳴りつけていたのだ。
だが、相川はいつもと違わぬ笑顔をしずかに向けている。
「…考えさせてくれ」
しずかは、搾り出すようにそう答えると、ひっそりと部屋を出て行った。
貴緒はその頃、風呂に入っていた。
一連の騒動を受けてか、すっかり桜王宮では華やかな会も行われなくなり、毎日が暇で暇で仕方なかった。
こういう時こそ、鞍馬と過ごしていたいと思うのに、鞍馬はなかなかやってこなかった。
貴緒としては毎晩会いたいくらいなのだが、妃候補を選別する期間に、菫組隊長という立場の鞍馬としては、そういったこともできないらしい。
「色々と大変なのですよ」
以前、苦笑いを浮かべたようにしてそう言われたこともあった。
それにしても、手紙の一つくらい寄越してくれればいいものを。
小さくため息をついた貴緒だったが、ふいに物音が聞こえた。
「誰っ」
返事はない。
侍女である梔子の名前を呼んでもみたが、その返事もなかった。
大方どこぞの近衛と逢引でもしているのであろう。
主人を差し置いて、自分の恋路に走るなんて。
不安と怒りに駆られながらも、貴緒は風呂から上がることにした。
バスローブを羽織り、洗面所に向うものの、そこには誰もいなかった。
気のせいかしら。
ふいに戸棚が気になって、開ける。
その置くには隠し棚があり、そこには「惚れ薬」と呼ぶ秘薬が隠されている。
惚れ薬、という言葉に間違いはない。
貴緒は、皆に愛されたいのだ。認められたい、崇められたいのだ。
いや、それは願望ではない。
確かな現実でなくてはならないのだ。
だが、中には貴緒の現実に見合わない者もいる。だからこそ、この秘薬が必要なのだ。
棚を開けて、数を数える。
きちんと前と同じ数だけ包みがあり、貴緒はほっとする。
さっきの気配は、気のせいね。
そう思いながら、貴緒は梔子を探しに部屋に向った。
「梔子？いないの？」
だがそこには誰もいなく、ただ開け放たれた窓から、カーテンがゆらゆらと揺らめいていた。
「全く。今度逢引してたら、この宮殿から追い出してやるんだから」
貴緒はそうひとりごちると、そっとその窓を閉めた。
しずかはひとり、池の前に座り込んでいた。
足元に転がっている石を投げ入れると、それは波紋を描き、池の底に落ちていった。
智広は、相川が用意した別の部屋にいて、ふかふかのベッドですっかり熟睡をしているらしい。
相川は、君江と一緒に、水仙の花を取りに行った。
日向は、変わらずベッドで眠っているらしい。
他の騎士達は、それぞれの仕事があるそうだ。
もう一度石を投げ入れる。
再び波紋が出来て、水面が揺れた。
水面に映っていた水仙の花が、そうして歪むのを、しずかはじっと見つめていた。
考えることは沢山あるのだ。
母の死。
智広の誘い。
日向の怪我。
雅、有世。
だが、どうしても気持ちがすべてを拒否をする。
固い石のように、じっと俯いたまま、動こうとしない。
水面が徐々に穏やかになっていく。すると、先ほどは見えなかった、誰かの人影がそこに浮かび上がると同時に、懐かしい声がした。
「らしくないね、俯いているしずかとは」
驚いてしずかは立ち上がる。
久しぶりに会うその顔に、しずかは思わず叫んだ。
「夏目っ、どうしてここに」
すると夏目は、心に染み渡るような優しい笑顔を見せて、臆することなく答えた。
「会いに来たんだ。しずかに」