THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章24
手渡されたものを見つめて、戸惑いながら雅はしずかに問いかけた。
「しずかさん、本当にいいの？このドレスは―」
「いいんだって。
これから戦地に向かうってのに、ドレスは邪魔だし。
雅だって、血だらけのドレスは早く着替えたいだろう？
それに貴緒の服は、雅には丈が長すぎるん」
しずかはそういってにっこりとほほ笑む。
しかし、薄紅の桜色のドレスは、王妃にのみ許された色のドレスだ。
いくら雅の着ていたドレスが血だらけで一刻も早く脱ぎ捨てたかったとはいえ、
確かに代わりにと手渡された貴緒の服が、どれも丈が長くて、見栄えが良くなかったとはいえ、
有世が、しずかの為に用意したドレスだ。
着れるわけもない。
「でもこれは、しずかさんの―」
「いいから。ホラ。蓬、雅を手伝ってやってくれ」
しずかはそう言って、自分はさっさと別の服に着替え始めている。雅が渡されてしまったドレスを握りしめながらその姿を見つめていると、蓬が雅に声をかけてきた。
「さあ、百合の姫様」
蓬に促され、雅はされるがままに、薄紅のドレスを身にまとった。
背中越しに雅と蓬のやりとりと聞きながら、しずかは着替えた制服のスカートの裾を軽くはたいた。貴丹舎から服を持ってくる時間もなく、しずかも雅同様、
残されている貴緒の服に着替えることになってしまったのだ。ドレスがほとんどの貴緒の服の中で、制服だけが唯一動きやすそうな服だった。
そしてゆっくりと振り返る。目の前では薄紅のシフォン地のドレスに着替えている雅が立っていた。
先ほどまで自分がこのドレスを着ていたというのが嘘のように思えるほど、雅にそのドレスは似合っていた。
優雅で、繊細で、柔らかいデザインは、どうみても自分とは真逆なものに思えた。しずかはコルセットから解放された体を大きく伸ばすと、短くため息をついて、雅に言った。
「じゃ、行ってくるから」
「しずかさん―」
慌てて振り返り、そう言って不安そうに自分を見つめる雅に、しずかはにっこりとほほ笑んだ。
「大丈夫だから」
そして雅の言葉を遮るように、しずかは颯爽と部屋を出て行った。
広間には、すでに準備を終えた夏目たちが待っていた。
有世は、現れたしずかに気づくと、両手を握りしめて瞬き一つせずにじっとしずかを見つめた。
「しずか。
絶対に無理をするな。
無事に帰ってくるんだぞ」
「有世は心配性だな、ほんと」
軽く笑い、有世の手を振り払おうとしたしずかだが、思った以上に強い力で有世はしずかの手を握り返してきた。
少し驚いてしずかが有世を見つめ返すと、そのブルーグレーの瞳は、いつも以上に潤んで見えた。
その様子に、夏目が有世に声をかけた。
「ご安心ください、陛下。
姫は私どもが責任を持って、必ず連れて帰ってきます。
わが命に代えても」
「わが命って、夏目も大げさだよ」
しずかはそう言って笑い飛ばそうとしたが、広間の誰もが息をのんでその様子を見つめていた。
気まずくなったしずかは、慌てて口を閉ざす。
その言葉に、有世は視線を夏目へと移すと、大きく頷いて言った。
「頼んだぞ。夏目」
「はい」
夏目がそう頷くのを見てから、有世はゆっくりと視線をしずかに戻した。
「しずか。
私はここで、お前と日向の帰りを待っている」
「わかった」
にっこりとほほ笑むと、くるりと踵を返ししずかは颯爽と歩きだした。慌てたように夏目も有世に対して一礼すると、しずかの後に付き従い、同じようにそのあとを薔薇の騎士たちが続いた。
桜綾殿を出たところで、ふいにしずかは名前を呼ばれた。
「姫っ、水仙の姫」
「なんだ。菫の但野か」
しずかと同じく振り返った夏目がそう言う。
但野は、息を切らせて駆けつけると、しずかに深く一礼をしてこう言った。
「もしよろしければ、疾風をお使いください」
「疾風？」
首をかしげる夏目に、しずかは弾んだ声で答えた。
「鞍馬の馬だ。連れてきているのか？」
「はい」
但野はそう言って、脇に控えていた菫の騎士に命じると、少しして綱に引かれた疾風が現れた。
しずかは思わず駆け寄った。
「疾風！元気だったか？」
声をかけながら、背中をさすると、疾風も嬉しいのか鼻を鳴らす。
その様子を微笑ましく見、夏目は馬に乗ると振り返って自分に付いてきた騎士たちを見回した。
戸田ら薔薇組の騎士に加え、しずかの護衛役として水仙の相川もいる。そして菫の騎士も数人ついてきてくれていた。
「準備はいいか？」
「はい！」
夏目の声に、彼らは一様にそう答えた。
よし、と小さく気合いを入れると、夏目はようやく疾風に跨ったしずかを見つめた。
先ほどまでのドレスを着て、窮屈そうな表情とは一転して、リラックスしたしずかの表情を見ると、こちらの方がしずかの性にあっていると思わざるを得ない。
白馬に乗った王子ならぬ王妃。
おまけに、助けに行くのは、一人の騎士。
通常のお伽噺とは逆だ。
だけど、しずかはそういう方が似合っている。
夏目はひとり、心の中でくすりと笑うと、自身の気持ちも引き締めながらしずかに向かって言った。
「では行こう、水仙の姫」
しずかではなく、水仙の姫と呼ばれたことに、すぐにしずかは気づいた。
かつては友人だった夏目は、しずかが苦しい時には助けに来てくれた。
悩んでいた時は、話を聞いてくれた。
雅と会えなかった頃、そして雅に別れを告げられてからは、唯一の仲間と思える存在だった。
だが友情だと思っていたのは自分だけで、夏目の気持ちは違った。
それを告げられた時、だがしずかは夏目を選ぶことができなかった。
そして今、夏目はかつてのようにしずかの隣にいる。
隣にいて、しずかを守ってくれている。
だがそれに甘えちゃいけないんだ。
それが自分が選んだ道なのだと、しずかは自分自身に言い聞かせると、あぁと答えた。
馬を走らせて少ししたところで、遠くの空にいくつも煙の柱ができているのが見えてきた。
薔薇の領地に入ってきたところで、夏目は全員に馬の歩みを遅くするよう命じた。
この先は、いつどこから侵略者が現れてもおかしくはない。
「それにしても煙がひどいな」
「あの方向からすると、青菫館か」
ひと際大きな煙とわずかな炎が、東南の方向に見える。
そして、薔薇の園と言われるこの領地の奥からも、同じような煙が見え隠れしていた。
「それに我らが緋薔館も…」
ざわめく騎士たちを落ち着かせようと、夏目が声を張り上げる。
「落ち着くんだ、皆。
戸田。我らの目的は、緋薔館の保護ではない。
それに、敵がどのくらいの人数か、その把握もしないで緋薔館に乗り込めば、逆にやられてしまうだけだ。
他の者たちも、同様だ」
「…はい」
静まり返ったところで、夏目は全員の顔を見回しながら言った。
「探そう。日向を」
最後にはしずかを一瞬だけ見つめ、夏目はそう言った。だが、しずかが見つめ返そうとしたところで、夏目の体がぐらりと揺れた。慌ててしずかは、手を差し伸べる。
「おい夏目、大丈夫か？顔色があまり良くないようだけど。今日も遅れてきたし」
しかし夏目はその手を借りることなく、手綱を強く引き寄せると、小さく頷いた。
「ああ。大丈夫。少し風邪ひいただけだ。今日は遅れてすまなかった」
しかしその額には、大粒の汗が流れ始めていた。
風邪？
それにしても、顔色が冴えなすぎる。
しずかは浮かない表情の夏目に、そっと話しかけようとした。
「夏目、あたしに何か隠し事―」
「姫？」
だがその時、聞き覚えのある声がして、茂みからいきなり君江が現れた。
「君江？」
「姫っ」
駆け寄ってくる君江を、しずかは疾風から降りて抱きとめた。
その服は、ところどころ焼け焦げていたり、鋭いもので切られていたりして、君江自身のものではなさそうだが、血痕もみられた。
「おい、君江。大丈夫か？何があった？」
すると君江はいきなりしずかの胸で肩を震わせ、泣き始めた。戸惑うしずかの前に、茂みの中から次々と他の水仙の騎士たちも姿を現した。
「みんな、どうしたんだ？黄仙館は？」
富山が怪我をした熊田を抱えるようにして立っている。他にも見覚えのある水仙の騎士たちが現れたが、誰もが怪我を負っていた。
左足を怪我している熊田を、一旦木の幹に凭れかけるようにして座らせると、富山はしずかの前で深く頭を下げた。
「姫、すみません。
黄仙館は、やつらに…占拠されました」
「やつらって？」
しずかのその問いかけに、君江がヒステリックに叫びながら答えた。
「あっちの世界の奴らですっ」
そうして再び声をあげて泣き始めた。
君江の話は、こういうことだった。
しずか達が桜王宮に戻ってからすぐ、雑色の数が増えたように思っていたら、今朝突然塀が壊され、学校には火がつけられたという。
そして、塀の外からも生徒達は大勢押し寄せて、その手にはナイフなど武器があったという。そして、騎士団のバッチがあるものを中心に、彼らは切りつけてきたという。
有世と新しい王妃であるしずかの挙式ともあって、各組の要人たちは皆出払っており、騎士たちの数も多くはなかった。そのせいか、不意打ちを食らった形にあり、状況的には劣勢だ。
そしてその反逆軍は、黄仙館をアジトとして、次々と他の騎士団の領地を襲っていると言う。
「あいつら、どうしてかこっちの地図が頭に入ってるみたいで、
隠し通路使おうとしても、必ず先回りしてるんだ」
相川に治療を受けながら、熊田がそう言う。時々傷が痛むのか、熊田は唇を喰いしばって、うめき声をあげていた。
その隣で、富山が答える。
「他の組の状況はわかりません。
ただ聞こえてくる話だと、青菫館はすでに焼き放たれ、薔薇の園にも火がつけられたとか。
騎士たちの多くは殺され、女たちはどこかに連れて行かれるようです。おそらく、あっちの世界へかと。
白百合館の方は状況が全く読めませんが、やつらの勢いからすると、火をつけられるのもそう遠くありません」
その話に、しずかは思わず振り返って夏目の顔を見つめた。
薔薇の園にも火がついた、と聞いた夏目の表情は、流石にこわばっていた。
夏目とて、目の前にある薔薇の園や緋薔館に火がつけられてると聞けば、いてもたってもいられないだろう。
しかし、皆が自分の組のために動いてしまえば、バラバラになってしまうと判断し、さっきのように皆を諭したのだ。
しずかは深くため息をつくと、
「わかった。
とりあえず、相川は君江たちを連れて桜王宮に戻れ」
と言った。君江が尋ねる。
「姫は？」
首を左右に振り、しずかは答えた。
「日向を探す。日向がこっちに来てるみたいなんだ」
「姫、私も―」
立ち上がった相川の言葉を、しずかは遮って言った。
「お前は君江たちを送り届けろ、相川。
これは、命令だ。
水仙の姫の、私からの。
大丈夫、私には夏目たちもいる」
しずかがそう言うと、後ろにいた夏目も大きく頷いた。
その様子を見て、相川は小さくつぶやいた。
「…君江を送り届けたら、必ず戻ってまいりますから」
そうして、他の騎士から馬を数頭借り、相川たちは桜王宮に戻って行った。
「どうかしましたか？水仙の姫？」
小さく森に消えていくその姿をじっと見つめていると、ふいに夏目がそう言った。
反乱と聞いたところで、実のところしずかに実感はなかった。
桜王宮で一年中咲き続けている桜の花を見ると、このゆったりと流れる一日が、未来永劫続いていくように、思えていたのだ。
しかし現実に、熊田は負傷をし、君江の表情も強張ったものに変わってしまった。
遠くに見えるのは、青く茂る森ではなく、灰色の煙と、幽かに揺らめいて見える赤い炎。
「なんでもない」
しずかはそう答えると、黄仙館を目指し、歩き始めた。
黄仙館に近づき始めると、徐々に灰色の制服を着た人間が目立つようになってきた。
それそれ手にしているのは、騎士たちから奪い取った剣や斧である。
茂みに隠れて様子を見たところで、夏目が小さくつぶやいた。
「相当、警備が厳しいな」
「ってことは、親玉はこの中にいるって証拠だ」
これだけ統率のとれた反乱を起こせるということは、彼らに指令を出している人間がいるはずだ。
「日向は本当にここにいるんだろうか？」
ふいに夏目がそう口にした。
しかし、しずかは大きく頷いた。
「但野がそう言っていただろう。
それにあいつだって馬鹿じゃない。
黄仙館がこういう状況にあるって知ったら、きっと中に入って、敵の様子を探ってるんじゃないか」
どれだけしずかにひどい仕打ちをしていても、日向は水仙の人間に対しては違っていた。
それは騎士であっても、侍女であっても、変わらなかった。
そう…姫のあたしにだけ、冷たかった。
だからこそ、皆からの篤い信頼を得ていたのだ、としずかは初めて日向を認め始めていた。
だから、あたしは…。
悔しかったんだ。
妃になろうとしていたのも、もちろん日向との対決に敗れ、条件を呑まなきゃならなくなったってのもあるけど、
どこかであいつに認めてもらいたかったから。
だから、あたしは…。
初めて気づいた日向への気持ちに、しずかは戸惑っていた。
すると、突然目の前の茂みがわさわさと揺れた。
かと思うと、ふらりと人影が過り、そのままぱたりとその場に倒れこんだ。
木の影に見えた黄色い制服に、思わずしずかは疾風から降りると駆け寄った。
「あ、おいっ、…吉沢？」
倒れた男の体を仰向けにすると、確かに吉沢の顔がそこにあった。
体は傷だらけで、特に右の腹のあたりの制服が切り裂かれ、そこから血がにじみ出ている。
泥と血にまみれた顔が少しこわばったかと思うと、吉沢はうっすらと目を開けた。
「あ…あぁ、…これは、幻覚か？最後に姫の姿を見るなんてな」
「幻覚じゃない。大丈夫か？吉沢」
すると、吉沢はにやりと顔をゆがめて、
「さあ、わかんねぇ…」
と笑った。だがすぐに、気を失ったのか、目を閉じたまま、しずかのひざ元でぐにゃりと動かなくなった。
隣で様子を見ていた夏目が声を上げる。
「戸田、すまないが彼を桜王宮まで送ってくれないか」
「隊長！」
「私の方は大丈夫だ。それより急がないと、彼がもたないかもしれないぞ」
戸田からすれば、死にかけている他の組の騎士よりも、緋薔館の方が大事なのだ。
しかし、夏目の固い意志のある目を見て、戸田は大人しく従った。
「…わかりました」
戸田の馬に乗せようと、数人がかりで吉沢の体を持ち上げたところで、ふっと吉沢の目が再び開いた。
「…姫」
「なんだ？」
慌ててしずかが駆け寄る。
吉沢は何度もゆっくりと瞬きを繰り返しながら、はっきりとこう言った。
「…隊長を、見かけた」
「え」
「やつらと一緒に、黄仙館に入って行った」
「一緒に？」
やつらというのは、反乱軍のことだろう。
しずかが眉をしかめると、吉沢は弱弱しく頷いた。
「ああ…やつらに、囲まれるように」
「拉致されたということか？」
横から割り込むように夏目が口を開く。
日向がすでに反逆軍の手に捕まってしまったとなれば、助け出さなければならない。
それにしては、こちらの人数が手薄すぎる。
かといって、日向が殺されないとも限らないから、使いを出して、応援軍を待っているような時間の余裕はない。
唇をかみしめたところで、吉沢が答えた。
「そのようにも見えたし…、自ら進んで向かうようにも、見えた。隊長の手には…」
だが吉沢が話し終える前に、しずかが動いた。
「おいっ、しずかっ」
夏目の声を無視して、しずかは走り始めていた。
「待てっ、しずかっっ」
慌てて夏目も後を追いかけようとしたが、しずかの体はすぐに黄仙館へと向かう森の中へと消えて行った。
黄仙館の周りには、何人もの武装した男たちがいた。
正面突破はきついな。
しずかは、そう思うと、木の影に隠れながら、そっと裏の出入り口の方へと向かう。
裏の出入り口は、水仙の人間だけが知りうる場所で、建物の北の壁にそのまま扉がはめ込まれたようになっているのだ。
だが、そこにも、三人の男が立っていた。
畜生。
細かいことまで知ってやがる。
だけど、相手は三人だ。
やってやれないことはない。
しずかは、気合いを入れると、背中に背負っていた木刀を抜く。
三人が一斉に飛びかかってきたら、当然こっちの不利だ。
やるんだったら、一人ずつ。
手始めに、一人をこの茂みの方にやってこさせるか。
しずかは、心を鎮めると、深く息を吸い込んだ。
「キャーッ、助けてっ」
そう叫び、しずかは急いで木の上に登る。
しずかの声に、三人の男たちは何事かと話し合っていた。しかし、すぐに一人の男が、視察を言い渡されたのか、剣を抜くと、しずかのいる茂みの方にやってきた。
「おい？どうした？」
男はそう言いながら、茂みの中に入ってくる。
ちょうどしずかの足元を通りかかったところで、しずかはその背後に飛び降りた。
その物音に男が慌てて振り返ろうとしたその首の付け根あたりに、しずかは思い切り木刀を下ろす。
うっという低い声とともに、男はその場に倒れた。
一人目。
「おい？どうした？何があった？」
別の男が呼びかけとともにしずかの目の前に現れた。
「お前っ―」
そう言いながら剣を抜こうとした男の右肩にしずかは木刀を振り下ろす。
男が手にした剣は、そのまま地面へと落ちた。慌ててその剣を拾おうとしたところで、しずかは男に再び木刀を振り下ろした。
ばたりと男が倒れる音がする。
二人目。
あと、一人。
しずかが振り返ると、三人目の男がまさにしずかに襲いかかろうとしているところだった。
「この女―っ！」
男が振り下ろした剣を、しずかは慌てて右へと避ける。
風を斬る音がして、しずかの立っていたところのすぐ脇にあった木々が揺らめいた。はらはらと落ちる緑の葉を見つめながら、しずかは息を整える。
すぐに体勢を整え、木刀を身構えると、相手も同様にしずかに剣先を向けていた。
木刀と、剣だ。
まともにぶつかりあえば、しずかが負ける可能性の方が高い。
しかも、男は剣を上段に構えた。
かかって来い、って言うのか。
しかし、それが相手の挑発であることは、しずかにも見えていた。
迂闊に飛び込めば、あの剣があたしの体に振り落ちてくる。
だけど、いつまでもこうやってにらみ合っているわけにもいかない。
あたしは、日向を助けなきゃらならないんだ。
しずかが覚悟を決めて、木刀を握りしめると、男もそれを察したのか、一歩後ずさりをした。
畜生。
こうなったら、一か八かだ。
あいつの剣があたしの体に振り落ちる前に、あたしがあいつの体を突いてやる。
しずかは大きく息を吸った。
「西園寺しずかさん、ですか？」
だがその緊張感を打ち破るように、突然茂みの奥から坊主頭の別の男が現れて、しずかの名前を呼んだ。
「そう…だけど」
しずかの答えに、坊主頭の男は、剣を振り上げていた別の男に命令した。
「剣を下せ」
坊主頭の方が立場が上なのか、男は振りかざしていた剣を素直におろした。
どうなってるんだ。
どうして、あいつがあたしの名前を知ってるんだ？
そのしずかの質問に答えるかのように、坊主頭の男はわずかな笑みすら浮かべ、しずかに告げた。
「成瀬日向様がお待ちです。
どうぞ、こちらに」
男から発せられた言葉に、しずかは戸惑った。
「日向が？どうして？」
だが男はその質問には答えず、しずかに背を向けると、すたすたと歩き出してしまった。
「お、おいっ。ちょっと待てよ」
しかし男はしずかを待つ様子もなく、ただ先を歩いて行く。
「待てってば！」
何を話しかけても、返事がないので、しずかは諦めて男に付いていくことにした。
それにしても、日向があたしを待ってるってどういうことなんだ？
あいつは、あたしがここに来ることを予想していたのか？
それとも罠？
何の為に？
考え込むしずかをしり目に、男は黄仙館の正面玄関へ着くと、そのまましずかを中へと案内した。
つい数週間前はここにいたはずなのに、しずかはそうは思えなかった。
しずかがいたときには活気にあふれていた黄仙館だが、今はほとんど人のいる気配がない。
中にいる人間が違うだけで、これほどまでに印象が違うものなのだろうか。
そう思っていると、ふいに男の足が止まった。
「この先のお部屋に、成瀬様がお待ちです。
さあ。どうぞ」
男はそう言うと、しずかに一礼して、元来た道を戻っていく。
しずかは廊下にひとり、立ち尽くすことになった。
男が指した扉の向こうにあるのは、六角形をしたテラスだ。
五面がガラス張りになっていて、すぐ下には小川が流れており、池もある。そして、その水源となっている水仙の泉がよく眺められる。しずかも気に入っている場所だった。
ここに日向がいる？
しずかはごくりと唾を飲み込むと、その扉の把手に手を回した。
もちろん、罠かもしれない。
この中に、日向がいるとも限らないんだ。
だけど…いるかもしれない。
だったら、あたしは、少しでも可能性があるなら、そっちにかける。
しずかは深く息を吸い込むと、一気に扉を開けた。
中からは、眩いばかりの光が差し込んでいた。しずかは思わず片手で目の前で庇を作る。
「ひゅう、が？」
小さく名前を呼びながら、中を見渡すと、そこにはあったはずの応接セットは綺麗に取り払われており、代わりに中央に人がひとり、しずかに背を向けるようにして立っていた。
光の中にいるせいか、髪の色がサラサラと風になびいて、金髪にも思える。
しかし、そのやせ形というよりは引き締まった体格のシルエット、そして身にまとった鬱金色制服を見つけた時、しずかは確信したと同時に、その名前を呼んでいた。
「日向っ！」
その声に気づき、日向が振り返ろうとする。しずかは、駆け寄っていこうとしたその瞬間、
「来るな、しずかっ」
日向が強張った表情でそう叫んだ。
え？
そうしずかが思った次の瞬間、しずかは強い力で背後に引き寄せられていた。
利き腕である右手を勢いよくねじりあげられ、思わずしずかが悲鳴をあげそうになったところで、ふいに目の前に光るものがよぎった。
そしてそれは、しずかの喉元にあてられる。
ひんやりと冷たい感触に、思わずしずかは息を止めた。
「動くなよ、よく切れるナイフだからな」
耳元で、そう低い声が囁く。
ごくりと唾を飲み込むしずかの目の前で、
「離せ、道木っ」
と、日向が叫んでいる。
「みちき…？」
思わずしずかがそう呟くと、しずかの背後で男がにやりと笑って答えた。
「忘れちまったのか、俺の名前。相変わらずいい性格してんな。俺は覚えてるぜ、西園寺しずか」
その低い声に、しずかは思わず声を上げる。
「…あ」
転校して間もないころ、消えた雅を探して、初めて踏み入れたこっちの世界。
すぐに見つかって、しずかは牢屋に入れられた。
そして、同じく牢屋に押し込められていた男に、塀の中には何があるのかと尋ねた時に、聞かされたのだ。
『ある生徒は、夢のような御伽噺の世界があるという、また別の生徒は、生々しい世界があるという。どちらにしても、一度入ってしまえば、その夢は一生覚めることができなくなる』
それが道木だった。
初めて見る道木の顔は、精悍で、その立派な体格から言っても、どの騎士団の中にいてもおかしくなかった。
しずかの体から解けた緊張感に気づいた道木が、ふっと息を吐いて言う。
「思いだしたか。
おい日向。
お前の大事なお姫様を、離してもらいたかったら、全部こいつに話すんだ」