THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章22
「申し上げますっ、百合組で内部紛争が起こったようです」
突然飛び込んできた知らせに、最初に口を開いたのは有世だった。
「内紛…？」
それから徐々に騎士たちがざわめき始めた。
規律を第一とし、その統制には他の騎士団からも一目置かれていたその百合組が、内部紛争を起こしたとあって、そのざわめきはまるで波紋のように、徐々に大きく広がっていった。
その報告をした近衛は弾む息を抑えきれずに、途中何度も大きく深呼吸を繰り返しながら、有世の問いかけに答えた。
「ええ、森らがクーデターを起こしたとか、逃げてきた百合の騎士がそのように申し上げておりまし―」
「雅は？」
最後の言葉を言い終わるかどうか、というところで、突然しずかが歩み寄り、その近衛の胸倉をつかみ上げた。
「雅はどうした？
え？雅はどこにいるんだよっ」
「落ち着け、しずか」
日向がそんなしずかを近衛から引き離す。近衛は、床に崩れるように座り込んで、激しくせき込んだ。
しずかは日向の腕を振り払うと、大広間に響き渡る声で言った。
「これが落ち着いていられるかっ。
雅のいるところで争いが起きてるんだぞっ、巻き込まれてるかもしれないんだぞっ」
しずかの悲痛な叫び声に、しずかを止めようとしていた相川もその手を止めた。
巻き込まれている可能性の方が、どう考えても高い。
しかも、森が雅を敵視していることは、相川の耳にも入っていた。
となれば、森の標的は、雅という可能性も高い。
黙り込む相川の耳には、心配そうな有世の声が聞こえてきた。
「それで…どうなっている？百合の姫は？」
「それが…おそらく白百合館の中にいらっしゃるものと思われます」
近衛の返事が聞き終わる前に、しずかは突然騎士たちをかき分けて、大広間を出て行こうとした。
「しずかっ」
慌てて日向がその腕を捉える。しずかは激しく振り払おうとしたが、今度ばかりは日向も手を放さなかった。
「放せよっ、行かなきゃ。
雅を助けに、あたしが行かなきゃっ」
声を上げるしずかに、有世も駆け寄ってきて、日向とは逆の手を捕らえた。
「しずか―」
しかし優しく諭すような有世の声にも、しずかを止めることはできなかった。
「約束したんだ。
雅と。
あたしが、雅のこと守ってやるって。
でも、あたしは一度それを破った。
だから、二度も破ることはできない」
それだけ言うと、しずかは無理矢理に二人の手を離した。
「しずかっ―」
「俺が行く」
有世の引き留める声を遮って、日向がそう言った。
「…日向」
「お前は予定通り、陛下との挙式を済ませるんだ」
しかししずかの表情には、不満がありありと見える。
「けど―」
「姫である限り、お前は俺の部下だ。俺の命令には絶対服従。
そう言ったのを忘れたか？」
日向に冷静に言われて、しずかも思わず息をのんだ。
「それ嫌なら、さっさと式を挙げて、妃になって、俺をお前の部下にすることだ」
しずかは心の中で、小さく畜生と答えた。
そういうということは、日向は絶対にしずかをこの桜王宮から出さないつもりだということなのだ。
「日向−」
睨みつけるしずかにくるりと背を向けて、日向は有世に向かって言った。
「ご安心ください、陛下。
百合の姫は必ずこちらに連れてきます」
有世は、自分を見つめる日向をしばらく見つめ返していたが、小さく息を吐くと頷いた。
「…すまない日向」
「いいえ。陛下をお守りするのが、我らが役目。当然です」
そう言ってにこりと微笑んで一礼し、踵を返した日向の背を、有世は引き留めた。
「ああ、待て日向。
お前ひとりで行かせるのは流石に危険だ。
但野、すまないが数人菫の騎士を連れて、日向に付いてくれないか？」
その瞬間、広間にざわめきが再び起こった。
「我々菫が、水仙の隊長の元に？」
有世に言われた但野も、顔を強張らせてそう繰り返していた。
別の組同士が組むということは、今までになかったことだったのだ。
有世は、深く頷くと、ゆっくりと答えた。
「敵地への潜入については、菫が一番秀でていると聞いた」
地道な動きと、組織力を問われる潜入捜査は、確かに菫が一番適している。
但野はそれでもざわめいている菫の騎士たちを振り返りながら、深く息を吐くと、有世の前に跪いて答えた。
「わかりました。こういった事態ですから、やむ終えませんね。
では、よろしくお願いします。成瀬隊長」
「ああ、頼む。但野」
但野の指示でその場にいた何人かの騎士も日向につき従い歩き出そうとしたところで、しずかが叫んだ。
「日向っ」
おい待てとしずかが伸ばした手を日向は掴む。
その一瞬、日向がにやりとほほ笑んだ。しかししずかには、そのいくらか自嘲気味の笑みが消えた瞬間の真剣に自分を見つめた瞳の方が焼き付いていた。
日向…お前何を考えてる？
何を、思ってる？
しかしそう口にしようとしたところで、日向は掴んだままの手をひっぱり、呆然と立ち尽くしていた相川の前にしずかを突き出した。
「あとのことは頼むぞ、相川」
「は、はいっ」
驚いた相川を見てか、日向は再びほほ笑むと、そのまま颯爽と広間を出て行った。
広い桜綾殿の廊下を歩きながら日向は口早に但野に尋ねた。
「白百合館の地図は、頭に入っているか？但野」
「ええ…おおよそのところは…」
戸惑いながらもはっきりと答える但野を見て、日向はにやりとほほ笑む。
「流石だな。馬は？」
「すみません、宿舎の方に…」
鞍馬と梢の一件を受けて、混乱の中二人が使う予定だった馬車に乗って但野たちはやってきたために、自分たちが使いなれている馬は初音舎の方においてきてしまったのだ。
「では、門の前で待っている。状況が見えない分、こちらが不利だと考えて、来てくれ」
そう言われた但野は、思わず足を止めかけた。
「それは、どういう…」
それに気づいた日向も足を止めるとくるりと振り返り、自分を見つめる但野とその他の菫の騎士たちを見つめて口を開いた。
「ここに再び戻ってこれる保障はないということだ。別れを告げたいものがいたら、十分に告げてきてほしい。ついてきたことを後悔してもらいたくはない。もちろん、お前たちもだ」
何人かの緊張感が但野の背中に伝わってくる。
だが、冷静に考えると日向のいう通りなのだ。
内情も知らないままに、戦地に赴くのだから。
別れを告げたいもの、そう言われた但野の脳裏に思い浮かんだ相手は、最期と同じく優しく素朴に微笑んでいた。
「…いいえ。後悔など。
それにもう、その相手には何も伝えることができませんから」
「そうか」
日向が淡々と答える。
飾りのない言葉に日向の誠実さを感じ、但野は日向の下で動くことに、期待で胸が弾んだ。
だがそれを素直に口にするには、状況から憚られ、但野は緩みそうになった口元を引き締めて答えた。
「では、ひとまず宿舎に戻ってからすぐに向かいます」
失礼とそう言うと、但野は日向を置いて、走り出した。
少年のように目を輝かせ、走っていた但野の背中を見て、日向は小さく息を吐いた。
『その相手には何も伝えることができませんから』
そう言った時の、一瞬但野に浮かんだ沈んだ表情。
おそらくは二度と会えない相手なのだろう。
遠くに行ってしまったのか、
それとも、すでにこの世にいないのか。
ふと思った。
その相手のことを、但野はいつまで思い続けていられるのだろうか。
ずっと？死ぬまで？
しかし但野は若い。
この先、多くの女性と出会うに違いないのだ。
その中には、心惹かれる女性もいるだろう。
それでも但野は、ただ一人の相手を思い続けていられるのだろうか。
そのようなことが、できるのだろうか。
あの有世ですら、佳乃ではなく今はしずかに想いを寄せているというのに。
『そうなるようにと謀ったのは、誰だと言うんだ？え？日向』
どこかからあの低い声が嘲り笑う声と共に聞こえてくるような気がした。
そうだ。
そう謀ったのは、俺だ。
そうして、謀った相手と同じところに来てしまったのも、俺なのだ。
その時、ふと遠くの方で聞き覚えのある女性の声が廊下に響いた。
「宮…。そのような恰好で歩かれては、なりません」
パタパタとかけてくる足音が聞こえ、振り返った日向の体に何か柔らかいものがあたると、その手が日向の体を捕らえた。
「行かないで、日向っ」
「桔梗の宮…」
廊下の遠くには、青ざめた表情の睡蓮がいる。
ふと下を向くと、自分に抱きつく桔梗の姿はいつもと違い、男装しているが、その顔にはいつもの仮面もついていない。
おまけにこんな声を張り上げていては、女性だと言うのがわかってしまう。
しかしそんな睡蓮の心配をよそに、桔梗は叫び続ける。
「約束したでしょう？私と。
私だけの騎士になるって。
私だけを守るって。
だから、行かないで。
ここにいて、私を守って。私のことを好きになって」
背中に回った桔梗の腕が、ぎゅっと日向を抱きしめる。
だがその手を、日向はそっと自分の体から離した。
「…すみません。
宮との約束のことは、忘れたわけではありません。
ですが、その前に私にはやるべきことがあるのです」
「日向っ」
背を向けて歩き出した日向に、桔梗は再び手をのばして、引き留めようとした。
だが、その手を日向はするりとかわすと、そのまま振り返ることなく廊下を歩いて行く。
角を曲がり、その姿が見えなくなったところで、桔梗は廊下に崩れ落ちると、そのまま声をあげて泣き出した。
慌てて睡蓮がそばに駆け寄ってきて、桔梗の肩を掴む。
「桔梗の宮様。どうか、落ち着いて…」
その時、かけてくる足音が聞こえたかと思うと、激しく息を切らせたしずかが立っていた。
「…日向は？」
「もうすでに出て行かれました」
廊下の先を見つめるしずかに、睡蓮はそう答える。
ついさっきまでここにいたのだと言うと、しずかが追いかけてしまいそうな気がした。だが、桔梗の手前、そうさせてはならないと思っていた。
そうか、と答えると諦めたのかしずかはその場に立ち尽くしていた。
これでよかったと思った瞬間、項垂れていたはずの桔梗が突然しずかに掴みかかっていった。
「日向に何かあったら、あなたのせいなんだから。
あなたのせいなんだからっ」
だがその力はあまりに弱弱しく、しずかは全く動じていない。むしろ、そんな桔梗を憐れんで、ただじっとされるがままになっていた。
しばらくはしずかを罵倒し、揺らし続けていた桔梗だったが、そのうちに床に崩れるようにして座り込むと、再び泣きだした。
しずかはそんな桔梗の姿をじっと見ていたが、深く息を吐くとそのまま口を開いた。
「…あんたの話、椿の宮から聞いた。
一度聞きたかったんだ。
どうして、あんたが男として偽ることになったのか。
隠居するにしても、そこまでする必要はなかったんじゃないのか？」
桔梗ははっとしたように顔を上げる。
「それは…っ。お姉様が勝手に決めたことで、私は―」
「あんたの人生だろ？
椿の宮が決めたとしても、あんた自身がその話にのらなきゃいいだけのことだ。違うか？」
きっぱりと拒絶するしずかに、桔梗は思わず縋るようにして伸ばしていた手を自分の胸に引き寄せた。
その様子を見て、しずかは苛立ちを隠さずに深いため息をついて、桔梗に言った。
「日向が振り向かないのは、あたしのせい。
あたしを殺そうとしたのは、貴緒のせい。
日向に何かあったら、あたしのせい。
まぁ、今日のことに関しては確かにあたしのせいだとは思う。
だけど、あたしは。
あたしは、あいつは絶対帰ってくるって信じてるから」
その言葉に、桔梗ははっとしたように息をのむ。
しずかもまたその桔梗の姿を見て、いくらか声色を和らげて言った。
「あんたも、自分の人生を、誰かのせいにばっかりしてないで、自信もって自分で決めろよ。
自分の人生だ。
他の誰も、責任なんか取れないんだ」