THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章20
それはまだ、鞍馬が梢に微笑みかけてくれていた時のことだ。
「もしも、陛下が姫の元にいらっしゃるようなことがあれば、この薬を飲みものの中に入れて、陛下に飲ませてもらいたい」
鞍馬はそう言って、薄いブルーの綺麗な小瓶を梢に手渡した。小瓶の中では液体が踊っている。
「これは？」
何でしょう？と尋ねる前に、鞍馬は微笑んで答えた。
「菫に代々伝えられる秘伝の惚れ薬だよ」
「惚れ薬？」
聞き返す梢に、鞍馬は子供に教えるように丁寧に答えた。
「シェークスピアの『真夏の夜の夢』にも出てくるだろう。菫には、惚れ薬の効用があるんだよ」
あの時の鞍馬は、まだきちんと梢の目を見て、ほほ笑みかけてくれていた。
梢が気分がすぐれないと言えば、心配そうな表情を浮かべ、
梢が転びでもしそうになれば、慌てて手を差し伸べてくれた。
梢が新しいドレスを着たら、まっさきにそれに気づき、似合うよとほめてくれていた。
だが、今の鞍馬は、梢の存在すら抹殺しているかのようだ。
有世としずかの結婚式が数時間後に控えているというのに、ドレスを着た梢の部屋に鞍馬は一向に現れない。
昔の鞍馬であれば、心配性な梢を気にかけて、ずっと傍にいてくれていたはずなのに。
ドレスを着た梢を見て、綺麗だとほめてくれていたはずなのに。
鏡の前で項垂れていると、ノックもなく扉が開いた。
「鞍馬様っ」
驚いたように茴香が声をあげ、つられて梢も扉の方へと振り返る。
そこにはけだるそうな表情の鞍馬が、壁にもたれるようにして立っていた。
「どうされました？
おまけにその格好…式典は、あと数時間後に始まるんですよ」
茴香がそう諭すように言うほど、鞍馬の格好は髪も服も、乱れていた。
そしてうっすらとその頬が赤らんでいる。
酒を飲んでいるのかもしれないと梢は思った。
その証拠に、鞍馬はにやりと微笑むと茴香に言い返す。
「あんな茶番…無駄なことを」
「鞍馬様」
咎めるように茴香が名前を呼ぶと、鞍馬もいくらか反省したのか、
「わかったよ。それじゃ、風呂の用意をしてくれ。それから、服の準備もだ」
と言った。わかりましたと答えて茴香が部屋から出て行くと、そこには梢と鞍馬だけが残された。
鞍馬はシャツのボタンを更にひとつ開けると、大きな音を立ててソファへと体を沈めた。
その様子を鏡越しに見つめながら、梢はどう話しかけていいかを悩んでいた。
おそらく今日のこの式典が、梢の菫の姫として立つ最後の公の場であった。
巷には、花族の廃退から、騎士団は再構成されるのではないかという噂がある。そうすれば菫の姫という立場はなくなる。
それにそもそも梢は妃候補として菫に迎え入れられたのだ。王妃が決まってしまえば、必要のない存在だ。
一方で鞍馬は、有世に気に入られたことから、この桜王宮に住まうようになるのではないかという話もある。
そうなれば、梢が鞍馬を会えるのは、今日が最後なのかもしれないのだ。
もっとも、鞍馬が梢を自分の姫として迎えれば話は別だが、撫子という存在がその可能性を否定する。
撫子のことを思い返したところで、ふいに梢は今朝のことを思い出した。
『鞍馬魁人には愛人がいる。
お前は利用されているだけ。
お前は玩ばれただけ』
そう梢に手紙を書いて、撫子の存在を伝えた謎の主は、今朝も手紙を寄こしてきた。
『鞍馬魁人は永遠に貴女だけのものです』
前より口調が何倍も和らいだその手紙に添えられていたのは、小さいが鋭い刃をもつ短刀だった。
どうしてと思った次の瞬間、梢はその意味を理解した。
鞍馬をこのナイフで殺してしまえば、もう撫子の元に彼が行くことはなく、永遠に梢のものになるのだ、と。
しかしその考えのあまりの恐ろしさに、梢は急いでそのナイフを手紙と共にチェストの一番上の引き出しの中に入れた。
唯一鍵がかかるここには、他にも梢が他人に見られたくないものが入っている。
それにしても、あの手紙の主は誰なんだろうか。
梢がふいにそう思ったところで、鞍馬が急に口を開いた。
「悪いが、水をくれないか」
茴香も他の侍女もいない。それが自分に向けられた言葉なのだと気づいた梢は、慌てて立ち上がり、チェストの上にある水差しとグラスを手に取ろうとする。
チェストの上の鏡には、鞍馬の後姿が映っていた。
これで本当に最後なのだろうか。
もう二度と、魁人様には会えないのだろうか。
そう思うと目頭が熱くなる。
鞍馬と過ごした日々が、梢の中で走馬灯のように駆け抜けていく。
幸せだったあの日々は、もう二度と戻らないのだろうか。
ずっと側にいて、梢だけを見つめて、自分だけの王子さまだと思っていたあの頃には。
梢はグラスに水を注ごうとしたところで、はっとその手を止めた。
鏡には、梢のことなど気にも留めずに、楽しそうに鼻歌すら歌っている鞍馬が映っている。
梢は小さく息を吐くと、そっとチェストの一番上の引き出しを開けた。
「優…さん？」
現れたその姿を見て、華夜乃はそう呟いた。
するとそれにこたえるかのように、目の前の格子越しに立つ夏目がゆっくりと微笑む。華夜乃が慌てて立ち上がり、格子に手を伸ばそうとすると、夏目が鍵を使って牢屋の中に入ってきた。
突然の出来事に、華夜乃が言葉を無くしていると、夏目は人差し指を口に当ててから、ゆっくりと微笑んで小声で説明をした。
「お久しぶりです。すみません、こちらに来るのが遅くなってしまった。
これは、差し入れです。牢屋は冷えますから」
夏目がそう言って華夜乃に差し出したのは、毛布と湯気の立った紅茶だった。この一週間ほど凍える日々を送っていた華夜乃は、思わず必死でその紅茶を手に取り、一口飲む。
香ばしい匂いと、温かなものに包まれて、華夜乃の心はほっと寛いだ。
夏目はそんな華夜乃に毛布をかけると、正面に座り、その様子を眺めながら言った。
「姫、ちょっと痩せましたね」
夏目の視線に気づいた華夜乃は、慌ててカップから手を離した。
恥ずかしさで顔を赤らめた華夜乃は、夏目の視線から逃れるように顔を背けると、
「どうして」
とだけ尋ねた。
夏目を裏切ったのは、自分だ。
それなのに、夏目はこうして華夜乃のところにやってきた。しかも、温かい紅茶を持って。
それどころか、心配そうに華夜乃を見つめている。
その全ての答えを求めて、華夜乃はそう呟いた。
しかし夏目はそれには言葉ではなく、ただ笑顔で答えると、華夜乃に向って深々と頭を下げた。
「すみませんでした。
姫をお守りするのが私の役目であったのに」
むしろ詰られて当然と思っていた華夜乃は、その言葉に戸惑った。
お馬鹿な隊長さん。
幾度となく夏目のことをそう思ったことを、華夜乃は思い出した。
「…怒らないのね、あなたはいつも」
誘いを断った時も、
嘘をついた時も、
夏目は華夜乃をしかりつけることなく、いつもひっそりと見守ってくれていたのだ。
あふれ出そうになった涙をこらえて、華夜乃は話し続ける。
そうでもしなければ、声をあげて泣き出してしまいそうだった。
「本当は、知っていたのでしょう？
前からの私と富樫の関係を。
なのに、どうして咎めなかったの？どうして引き離そうとしなかったの？」
問い詰められているというのに、夏目は笑顔を浮かべて柔らかく答えた。
「富樫は優秀な部下です。非常に魅力的な男です。
あなたが惹かれるのも当然です。あなたが薔薇を選んだその理由も、彼にあることは私にもわかっていましたから」
「じゃあどうして私を薔薇の姫に？」
だったら選ばなければよかったのだ。
選ばなければ、これほど夏目を卑下することもなかったし、
夏目を苦しめることもなかった。
夏目は、くすりと微笑むと、幸せそうな笑みを浮かべて答えた。
「美しかったからです。そして、あなたが王妃に一番ふさわしいと思いました」
その笑顔を見た瞬間、華夜乃の中からあらゆる毒が涙となって流れ落ちた。
「わたし…バカだったわ。
あなたのこと、好きだって素直に認めないで、あなたのことを詰って裏切って」
涙を拭おうとハンカチーフを持って華夜乃へと伸びる手を握り、驚いた表情を浮かべた夏目の唇に、華夜乃は自分の唇を重ねようとし、目を閉じた。
しかし、あと数センチというところで、それを夏目が制した。
「姫…。
おやめください」
華夜乃が目をあげると、夏目はそっと華夜乃の肩を押し、体を遠ざけた。
「どうして？私はあなたのことが好きなのよ。
富樫は一時の気まぐれ。確かに昔は、彼を愛してもいた。
けれど、気がついたらあなたのことが気になって仕方なかった。
でもあなたは、私の方を見てくれなかった。だから私―」
そこまで言ったところで、華夜乃ははっとした。
「…好きな人がいるのね？」
夏目の返事はない。
だが、それは答えているも同然だった。
西園寺、しずか。
その名を思い出し、華夜乃は声を震わせて言う。
「でもあの女は、もうあなたの手の届かない所に行ってしまったのよ」
夏目は悲しそうに微笑んで答えた。
「だからと言って、すぐ忘れてしまえるほど、器用な人間ではありません」
華夜乃が悔しさで唇をかみしめていると、夏目は突然頭を下げた。
「すみません、もう行かなければ。式典前にしなければならないことがひとつ増えてしまって。
姫がここを出られるよう手配はしておきました。すぐにとはいかないかもしれませんが。一週間以内にはそうできると思います。
私は迎えには来れませんが、おそらくは薔薇の騎士の誰かがやってくることでしょう。
お元気で、姫」
華夜乃が口を挟む間もなく、夏目はそう言うと、くるりを背を向けた。
お元気で。
二度と夏目に会えないのではないか。
ふいに華夜乃はそう感じた。
「待ってっ」
自然と手が伸び、夏目の腕を掴む。
思い切り引くと、勢いで振り返った夏目の胸の中に、華夜乃は飛び込んだ。
鞍馬に見つからぬように梢はそっと引き出しを開けると、その奥に隠してあった小瓶を取り出し、栓を抜いた。
もらったときと同じく青いガラスの瓶からこぼれおちたその秘薬は、グラスの中に落ちると、水の中に瞬く間に溶け込んで見えなくなっていった。
「まだか？水」
不機嫌な鞍馬の声が突然に響き渡る。梢は慌てて左手にそれを握りしめると、右手でグラスを持って鞍馬の所に向かった。
「…遅くなって、すみません」
そう言ってグラスを差し出すと、鞍馬が梢を凝視した。しかし、それも一瞬のことで、グラスを受け取るとすぐに梢から視線を外し、グラスに口をつける。
愛する人の命を奪うことで、永遠に手に入れる。
それも一つの愛かもしれない。
だが梢は、たとえ薬の力だとしても、鞍馬の心を手に入れたいと思った。
本心から出た愛の言葉ではなくとも、何度も呟くうちにそれは真実に変わるかもしれない。
こちらが愛していけば、その愛にいつか本当に答えてくれるかもしれない。
梢はそう願いながら、背中にまわした左手を強く握りしめた。
突き出た喉仏が上下に動いて、鞍馬は水を飲み干した。
そして、ゆっくりとテーブルにグラスを置きながら、鞍馬がくすりと笑い、梢に話しかける。
「見納めだな」
「え？」
久しぶりに話しかけられたことにも驚き、梢がそう答えると、鞍馬がにやりと更に笑みを浮かべた。
「この桜王宮だよ。姫…いやもう、姫とは言えないな。お前にとってここは二度と―」
しかし鞍馬は言い終わる前に言葉を詰まらせると、両手を大きく前に投げだした。腕にグラスがあたり、床に落ちて激しい音を立てた。
だが鞍馬はそれを気にすることなく、苦しそうな表情で右手で自分の喉元のあたりをかきむしるようにして、梢の方を見た。
「…おい…。水に、何を、入れた…？」
歪んだ口元からこぼれる言葉は、苦しそうに梢の耳に届く。
鞍馬の顔は、いつの間にか真っ青になっていた。
「あ、の…」
言葉を詰まらせる梢の前で、鞍馬は床に倒れ込んだ。
「…魁人さま？魁人様っ！」
鞍馬は一層顔を歪めると、床の上で激しくもがいた。
予想外の反応に、梢はどうしていいのかわからなくなり、立ち尽くしていると、扉が開き、副隊長の但野が現れた。
「どうしました？姫…隊長っ？
隊長っ、しっかりしてくださいっ、鞍馬隊長！」
床の上でのたうち回る鞍馬に気づいた但野が駆け寄り、鞍馬に手を差し伸べるが、鞍馬はそれを振り払い自力で立ち上がろうとした。
だが、上半身を起こしたところで突然ぱたりと床に崩れ落る。鞍馬は、目を見開いたままで体をぴくぴくと痙攣させている。
「私…」
惚れ薬というのは、飲み始めはこれほど苦しいものなのかと思っていた梢だったが、只ならぬ鞍馬の様子を見て、どうやらそうではないらしいと気づき始めていた。
立ち尽くす梢を置いて、但野は鞍馬に声をかけながらその体を起こし、梢のベッドに寝かせると、扉の外にいた見張りの騎士に医者を呼ぶよう命令する。
そして青い顔のまま戻ってくると、茫然としている梢に話しかけた。
「どうしたんですか？姫。
何があったんですか？」
鞍馬はもう痙攣もなくなり、今度はぴくりとも動かなくなっている。
梢が床に崩れていく寸前で、但野に抱きかかえられた梢は、そのままソファに座らされた。
「どうしたんです？姫。
どこかの組からの差し金ですか？
それとも別の？」
百合も水仙も、使い方次第では毒薬にもなる。それにここ数ヶ月間にこの桜王宮で起きた事件は、すべて毒殺だと言われているから、薔薇が怪しくないとも言えない。
それに鞍馬のことだ。
敵は他にもいるのだ。桂公などはそのいい例だろう。
但野はそう思い、青ざめた表情の梢に問いかけた。
「姫？」
目を見開いたまま震える梢の肩を但野が軽く揺すると、何かが梢の手から落ち、床に転がった。
但野は床に落ちた青い小瓶を手に取ると、梢に尋ねた。
「これは？」
梢は小刻みに震えながら、思いだすように言った。
「…惚れ…薬だって…。
魁人様が。
菫に、伝わる…秘伝の…ほれ、薬…。
本当は、陛下に飲ませるようにって言われてたのに、私…」
その言葉を聞いた但野は、顔をしかめる。
「菫に伝わる惚れ薬？
そんなもの、ありませんよ」
梢はその言葉に、大きく目を見開いた。
だって、と口を開くものの、声が出てこない。
だって、魁人様は、惚れ薬だからって…。
「第一そんなものがあれば、我が菫から王妃を輩出することなど、いとも簡単なはずです！」
その言葉に、梢は床へと座りこんだ。
ならば、この薬は何だというのか。
そして、鞍馬はこの薬を有世に飲ませて、自分に何をさせようとしたのか。
但野は素早くその小瓶の栓を開けると、そばにあった水槽に数滴たらした。すると、中で泳いでいた金魚が一分も経たないうちに腹を上に向け、浮きあがってきたのだ。
「これ…毒薬ですよ」
但野は信じられないというように叫ぶ。
梢の頭は混乱していた。
とすれば、鞍馬は有世を殺すつもりだったのだ。しかも、梢の手を使って。
呼んだはずの医者がやってこないことにしびれを切らした但野は、再び梢を立たせてソファに座らせると、梢の肩を強く揺さぶりながら言う。
「とにかく、誰か呼んで来ますからっ。
いいですね、姫はここにいてくださいっ」
大きな音を立てて、但野が部屋を出て行く。
梢は茫然としながらも、不思議と鞍馬が茴香に向って言っていた言葉を思い出していた。
『あんな茶番…無駄なことを』
無駄だと言ったのは、いずれ有世が殺されることを予期していたからなのだろうか。
用意周到な鞍馬のはずだ、梢が有世を殺せなかったとしても、いくらでも次の手を打ったに違いない。
そうして、鞍馬は何を手にしようとしていたのだろうか。
狙っていたのは、爵位ではなかったのか。
もしかして…王位？
梢はゆらりと立ち上がると、ベッドに横たわっている鞍馬の顔を見つめた。
いつもは穏やかに見せていた表情は、今は苦しみに歪んでいる。
死をいうものを目の前にしているというのに、なぜかその表情を浮かべる鞍馬の方が、笑顔の鞍馬よりも生身の人間臭さを感じられた。
結局、あなたは誰も愛していなかったのだ。
誰も信じていなかった。
私も、撫子という女も。
ただ一人、自分を除いて。
梢はそっと鞍馬の頬に触れる。するとこわばった筋肉がいくらか和らいで、少し微笑んでいるようにすら見えた。
顔をあげると水槽が目に留まった。
その脇には、鞍馬から梢への最後の贈り物がある。