THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章16
投票の日を明日に控えた朝、石崎は真剣な面持ちでじっとしずかを見つめて言った。
「姫、いいですか？
今日一日だけは、絶対に、絶対にこの部屋を出てはいけませんっ」
普通であれば、食堂でとる食事も、今朝はしずかの部屋に運ばれてきた。
目の前に並ぶ食事を頬張りながら、フォークとナイフを持ち上げて、しずかは石崎に聞き返す。
「部屋？この館の外に出るなって方がまだわかるんだけど―」
「いけませんっ」
甲高い石崎の声が部屋中に響き渡る。
思わずしずかも手を止めた。石崎は、わなわなと肩を震わせながら、一気にたたみかけるように話した。
「だいたい、昨日の一件からしても、まだきちんとご説明いただいておりませんっ。
百合の姫にお会いになると出ていかれた姫様が、どうして桜王宮にいらっしゃるのですか！
しかも貴緒様を近衛が捕えた場所に居合わせて、しかもその時貴緒様に剣を向けられていたのが姫だなんて…。
ああ、想像するだけで恐ろしい。
お怪我がなかったのが奇跡なくらいだ。
わかったな、相川っ。
絶対に姫を外に出すなよ。
出したらお前はクビだ、クビ」
最後には、隣にいた相川にまで石崎は当たり散らした。
昨日しずかを取り逃がしてしまったのが相川だからということもあるが、しずかは反省から顔を俯かせた相川を見て、思わず石崎に言い返した。
「クビってお前にそんなこと決める権利―」
ないだろう？という前に、石崎は顔を真っ赤にすると、館中に響き渡るほどの大きな声で叫んだ。
「クビにしたくなかったら、姫は部屋を一歩も出ないことですっ。
わかりましたねっ」
「…わかったよ」
確かに石崎の言うことに筋はある。
しずかがわざとらしいくらいに大きくため息をつくと、石崎がもう一度くどくどしく言った。
「今日一日だけですっ。今日だけはお静かになさってくださいっ。
明日になれば、王妃が決まりますからねっ」
石崎の甲高い声は、自室にいる日向の耳にも当然聞こえてきていた。
もう少し落ち着けばよいとも思うが、決戦を明日に控えて石崎も必死なのであろう。
昨日の貴緒が捕えられたという出来事は、少なからず桜王宮に混乱を招いた。
貴緒は花族二人の殺害は否定しているそうだが、実際に使われた毒薬と、柊伯爵の館より消えていた宝飾品が貴緒の部屋から見つかったのは事実だ。
その毒物を貴緒に命じられて作ったという薬師も、それを認めている。
貴緒は、作らせたのは確かだが、その後に何者かによって盗まれたと言っている。だが、もちろんその証拠はない。
また、花族二人が殺された日の貴緒のアリバイを証明するものはおらず、ただ貴緒と花族の確執は昔から囁かれていたことであったために、動機だけが十分にあった。
しかし、どれも証拠としては曖昧で、その真実はいまだ闇の中だった。
それ故に、近衛も貴緒を捕えたものの、その処罰を与えることもできず、ただ貴緒を牢屋に閉じ込めることしかできなかった。
そうでなくとも、お妃の投票日を明日に控え、桜王宮全体が慌ただしいのだ。
おそらくはこのまま、王妃が決まって落ち着くまでは拘束し続けることになるのだろう。
日向はぼんやりとそんなことを考えながら、目の前で燃え上がる炎を見つめていた。
それは、今朝届いた桔梗の侍女である睡蓮から手紙だった。
そこには、桔梗の宮の病状が書かれていた。
昨日早く、桔梗は椿の宮に呼ばれて出かけたらしい。椿の宮が人払いをしてしまったので、何を二人が話したのかは睡蓮は知らないが、それからの桔梗は元気を無くしてしまっていた。馬車に乗り、気分も悪いといいだしたところで、突然女性が現れた。それが、しずかだというのだ。
しずかは楓子爵が桔梗の宮であることを知っており、睡蓮を追い出すと、二人でほんの二、三分話をしたという。
その後しずかは、馬に乗ってどこかに消えてしまった。
慌てて睡蓮が馬車に乗り込んだところ、桔梗は泣き崩れていた。
それ以来、睡蓮が話しかけても桔梗は答えず、食事も取らないでいるという。
『お忙しい時であることは重々承知しております。ですが、宮の様子を見ていると、今にもか弱く動いている心臓を自ら止めてしまいそうで、心配でたまらないのです。
どうか、どうか、宮のご様子を見に、いらしてはいただけませんでしょうか』
日向は、消えゆく炎を見つめながら、どうしてしずかが楓子爵が桔梗の宮であることを知っていたのかと考えた。
桔梗の宮は、しずかが学園にやってくる前にとうに死んだことになっている。
しずかの性格上、桔梗の名前すら、聞いたことないに違いない。
とすれば、誰かがしずかに話したか。
思い当たるのは、椿の宮だけだ。
しかし、あれほど桔梗を守ることだけ考えていた椿の宮が何故。
その時廊下をどたどたと歩く音が聞こえ、続いて石崎の甲高い声が響いた。
「いいか、相川。姫は絶対に外に出すんじゃないぞ。
それから、隊長にも気を配るんだ。
ここのところ、隊長も姫と同じく、気がつけばどこかに出てしまっている。
何をなさっているのかわからないが、投票前に何か問題に巻き込まれるようなことがあっては困るからな。
ばれないように、しっかりと見張るんだ」
本人に聞こえていることなど気づいてもいない石崎に、日向は僅かに笑みをこぼした。
すると、扉がノックされ、石崎が顔をのぞかせた。
「隊長、とりあえず姫には部屋から一歩も出ないよう伝えておきました」
「ありがとう」
「ところで、隊長は姫が貴緒様のところにいた理由をご存知ですか？」
「さあ」
「姫も説明しないのですよ。
ただ聞いた話では、近衛が部屋に入った時に、姫は貴緒様に短剣を突きつけられていたって話です。もう一歩、近衛が入るのが遅れていたら、姫も第三の被害者になっていたんじゃないかというのが、もっぱらの噂で」
その話は日向も聞いていた。
しずかが貴緒の部屋に向かったということは、それなりの理由があるのだろうが、普通に考えれば、いくら剣道の有段者である貴緒であっても、しずかが劣勢になることはない。
…となれば、その前に何らかの取引があったか。
日向はすくっと立ち上がった。
「隊長、どちらへ？」
目ざとく石崎が聞いてくる。
「野暮用だ」
「お供します」
「女のところだが？」
はっきりと言われ、石崎は思わず顔を赤らめる。
「いやっ、でもっ」
「安心しろ。俺は厄介事には巻き込まれはしない」
にやりと笑うと、流石の石崎も何も言えなくなったようだった。
日向はそのまま貴丹舎をあとにした。
部屋には蓬がいて、しずかの一挙手一投足をじっと見つめている。
やってられないと大きくため息をついたところで、部屋の外にいた相川が顔をのぞかせた。
「しずか様」
「何だよ」
不機嫌に答えるが、相川はそれに怯むことなく笑顔を見せる。
「近衛の方がしずか様にご面会されたいと。昨日の貴緒様の件だそうです」
普段であれば会いたくないと言いたいところだが、こう閉じ込められている状況では、誰でもいいから話をしたい気持に駆られ、しずかは答える。
「わかった。通してくれ」
現れた近衛の背丈は高く、引締った体つきをしていた。
中肉中背で、どちらかといえば見栄えのする小奇麗な男たちというしずかの今までの近衛のイメージとは少し違う男だった。
目深に被った帽子の下から覗く顎も、しっかりと角ばっている。
近衛は堂々と部屋の中に入ると、しずかの正面の椅子にどかりと座りこんだ。
そして部屋の隅に立つ蓬に気づくと、事情聴取にあたるから出ていくようにと伝えた。
扉が閉まり、二人きりになったところで、しずかは切り出した。
「貴緒は元気なのか」
すると近衛は唐突に豪快に笑った。
「殺されかけたというのに、心配するとは。
水仙の姫は、お心が広いのですね」
「そういうわけじゃ、ねぇけど」
その気取らない笑い声に、しずかはいくらか警戒心を解く。
確かに殺されかけたのも事実だし、貴緒は虫が好かない相手だが、それでも誰もが貴緒を見つめるだけで助けようとしなかったのが、哀れに思えていたのだ。
近衛は笑い終えると、しずかに向き直って尋ねた。
「昨日、梅の宮の部屋から、桜の樹の枝が見つかりました。強い力が加わったのか、枝は中央あたりで割れていましたが。
これは水仙の姫が？」
「違う。貴緒が…あいつが、折ったんだよ」
まるで自らの権力を見せつけるように、貴緒は桜の枝を切った。
そのことを思い出すと、ますますその後の出来事が哀れに思えて、しずかは俯いた。
しずかの言葉を取りだした手帳にかき取りながら、近衛は大きく頷いた。
「…なるほど。では梅の宮の罪状はもうひとつ増えることになりますね」
思わずしずかは眉をひそめた。
「不敬罪？そんなはずないだろ、だって貴緒は桜小路の人間だ」
だから、自分は桜の枝を折っても、罪には問われない。
あの時貴緒はそう言ったはずだった。
近衛は帽子の下から口元に不遜な笑みを浮かべて説明をした。
「水仙の姫は、大事なことにはいつも気づいていないようですね。
いつも表面だけを見て、簡単に判断し、行動に移す。
人が動くにはそれなりの理由がある。理由と、原因。
それを見逃すから、今回のようなことにもなるのです。
あと一歩で殺されそうだったと言うのに」
「どういう意味だ？」
思わずそう言って立ち上がるしずかに、近衛は手帳を胸にしまいながら答えた。
「梅の宮は、陛下の妹君ではあるが、桜小路家の人間ではないということです」
突きつけられた言葉の意味をしずかが理解するのに、ほんの数秒かかった。
「え」
ようやくそう口にすると、近衛は淡々と説明をし始めた。
「簡単にいえば、腹違いの妹ということになりましょうか。亡き会長の愛人が勝手に産んだ子供。あくまでも桜小路家は認知していない存在です。唯一、桜小路有世だけが妹と認めているのみ」
その言葉に、しずかは茫然と立ち尽くしていた。
嘘だろう、そう思う一方で、有世の行き過ぎた貴緒への過保護を思い出す。
…そういう理由があったからなのか。
そんな貴緒に、あたしは何て言った？
『有世だってそうだ。あんたのことが可哀想だから、あんたの我儘許してやってんだ』
『だからいつまでたっても、ひとりぼっちなんだ』
貴緒の味方が、唯一有世なのだとして。
でもその理由を、兄弟愛ではなく憐情なのだとしたら。
それは、貴緒のプライドも、存在も、すべてを否定することになったのではないだろうか。
しずかはすとんと椅子に座りこむ。
あれほどに貴緒が逆上した理由を、しずかは初めて見つけた気がした。
傷つけちまった、貴緒のこと。
黙り込むしずかを前に、近衛は口元に笑みを浮かべたままに答える。
「ここに来るには、皆それぞれに理由がある。現実から逃げだしたくなるようなね。
けれど、ここは夢や理想の世界ではない。
花は枯れるものだし、人を刺せば、相手は死ぬ。そして、一度死んだら、ゲームのようには生き返らない。
我々は、きちんと現実と向き合わなければならないんだよ、水仙の姫」
深いその声に、しずかは自責するのを止めて、近衛を見つめた。
「…お前は、誰だ」
目深にかぶっている帽子の奥からは、鋭い眼光が見えるのみ。
だが近衛であれば、こういう場では帽子を取るのが礼儀ではないだろうか？
立ちあがろうとしたしずかを制するように目の前の男は立ち上がる。
「また会おう。西園寺しずか」
「待てっ」
しずかが追いかけようと手を伸ばした時、男は懐にしまいこんでいた手をしずかに向け、何かを投げつける。
目の前にいきなり薄紅色が広がり、咄嗟にしずかは顔を背けた。
バタンと扉の閉まる音がして、しずかが目を開けると、床には桜の花びらが沢山散っていた。
逃がしたっ。
しずかが慌てて扉から飛び出し、廊下の角を曲がろうとしている男の背中を追いかけようとした。
が、そんなしずかを傍に控えていた相川が捕まえる。
「しずか様っ」
「離せ、相川っ」
「しかし今日はお部屋から一歩も出てはいけないと、石崎にも強く言われております」
「そうじゃないっ、あいつだ、あの男っ、近衛なんかじゃないんだっ」
「え？」
相川がそう呟いた時には、すでに男の姿はなかった。
しずかは館中に響くように叫んだ。
「追いかけろっ」
睡蓮について入った部屋では、桔梗が横たわっていた。
傍に立つと、確かに以前よりも細くなったのがわかる。
そして、痩せこけた頬には、涙の跡が見えた。
日向はそのベッドに腰かけると、そっとその頬をぬぐい、むき出しになっていた手を、中に入れようとしてふと気づいた。
右手に、爛れた跡がある。かつての火事の傷跡かとも思ったが、どうも最近の傷のようだ。
「…日向？」
弱弱しい声がして、日向が視線を顔に移すと、桔梗が目を開けていた。
「日向…本当に日向なのね」
日向は握っていた右手から手を放すと、そのまま桔梗の頬の触れ、再び流れた涙をぬぐった。
「中々こちらに来れず、申し訳ない」
桔梗は涙をぽろぽろとこぼしながらも、首を左右に振った。そして、右手で日向の頬に触れる。
「会いたかった…」
日向が笑みを見せると、桔梗も弱弱しくだが微笑み返した。
だが、肉の落ちた頬はひきつっているようにも見える。
「食事はきちんと取っているのですか」
尋ねる日向に、桔梗は表情を曇らせる。
「それはいけない。食事をとらないと、よくなるものもならない。
睡蓮殿、何かのど越しのいいものでも用意してくれないか」
「わかりました」
入口に控えていた睡蓮はそう答えると部屋を出ていった。
起き上がろうとする桔梗を助けた日向は、その手を握りながら尋ねた。
「宮？この傷はどうされました？火傷のような…」
そう口にした時、日向ははたと気づいた。
『次会う時には、ヨモギでも持って行ってやるんだな』
そういえば、数日前しずかはそう言ってはいなかっただろうか。
ヨモギは、火傷にいいという。
思えば、あの時しずかの頬についていた黒いものは、煤だったのではないか。
その答えを桔梗に求めようとした時、いきなり桔梗は体を曲げて嗚咽し始めた。
「宮…？」
「ごめんなさい。
ごめんなさい、日向」
溢れだした涙と同じく、桔梗は止めどなく話を始めた。
貴緒に自分の正体がばれ、唆されるようにしてしずかを呼び出し、旧柏男爵邸に閉じ込めて火をつけたこと。
だがしずかは、脱出して、自分を追いかけた来たこと。
そして、桔梗のお面を外し、楓子爵が女性であり、日向の恋人だということに気づいてしまったこと。
翌日、椿の宮がしずかを呼び出し、桔梗のことを全てを語ったこと。
そして昨日、しずかからどやされて、貴緒の話をしてしまったこと。
それで、しずかは貴緒の所に出向いたのか。
あの猪突猛進の性格では、おそらく果たし合いでも申し込んだのだろう。
そして楓子爵が桔梗の宮であることをしずかに言ったのは、やはり椿の宮か。
わからなかったことがするすると頭の中で解決していく中で、日向は顔をあげると、いまだ涙の止まらない桔梗に向って呟くように言った。
「…どうして、宮」
それだけが唯一わからないことだった。
いくら貴緒に唆されたとはいえ、どうしてしずかを殺そうとしたのか。
日向はその答えを待った。
すると、桔梗の宮は、急に顔を真っ赤にして声を荒げた。
「あなたに私のそばにいてほしいのよっ。
体だけじゃない、心も、全部、私のものになってもらいたいのっ。
水仙の姫のことなんか、考えてもらいたくないのっ」
その答えに、思わず日向は言葉を無くした。
しかし、一呼吸すると桔梗の目を見て語った。
「…確かに、しずかのことを考えていないこともない。しかし、宮。それはあくまでも我が組の姫だからです。
妃候補だからだ。
この先妃が決まってしまえば、私はしずかに会うこともなく、しずかのことを考えることもなくなります」
しかし桔梗の宮は大きく頭を振った。
「嘘よっ」
「…宮」
桔梗の宮は、日向の答えなど聞いていないように、か細い体のどこにそんな力があったのかと思うほどの強さで答えた。
「口ではそう言っても、貴方は心の中では今も水仙の姫のことを考えている。
私を見つめている時でも、私を抱いている時でも、いつでも。
日向、お願い。あの人のことなんか忘れて。
私のことだけを見て」
そう言うと、桔梗の宮は日向の胸にすがりつくようにして再び声をあげて泣き始めた。
日向はそのふるえる肩をそっとさすりながら、こみあげてきた思いを心の中に封じ込めた。
相川は、がっくりと肩を落としたままで、目の前で腕組みをするしずかに報告していた。
「近衛には報告しておきました。どうやら、近衛の一人の制服が盗まれたそうです」
「そう、か」
結局、近衛のふりをしてしずかの前に現れた男は捕まえられなかった。
…それにしても誰なんだ、あいつ。
目的は、何何だ？
聞かれたのは、昨日の貴緒との一件だけだ。
あとは男が一方的に話していただけ。
その目的が見えずに腕組みをして、しずかは唇をかみしめていた。
まあ、おかげで警備がさらに厳重になったってことはあるけど、その理由がわからない。
不審者が簡単に侵入したということで、石崎の鼻息は荒く、しずかの部屋への出入りはもちろん、貴丹舎への出入りもいつも以上に厳しくなった。
その中で、隊長である日向までもがいなくなっていたということに気づいた石崎がさらに腹を立てたというのは、言うまでもない。
「最近同じような盗難が相次いでいますし、この桜王宮内にも、不審者がいるという噂もございます。
ですからどうかしずか様お一人で外には出られないようお願いします」
「わかったよ」
石崎がまた相川をどなりつけたのだろう。
項垂れる相川を見て、しずかも頷くしかなかった。
桔梗の邸宅を出た日向だったが、すぐに貴丹舎に戻る気持ちにはなれなかった。
あてもなく歩いていると、二本の薄紅の樹が立ち並ぶその下に立っていた。
桜と桃。
永久の愛を近い、有世が植えたものだ。
しかし、その有世は、次の王妃を迎え入れようとしている。
おそらく、今までにない、王妃には程遠い女を。
ふいに日向は、しずかに言われた言葉を思い出した。
『お前の復讐劇に付き合う義理は、あたしにはないっ』
巷の噂は、日向も耳にしていた。確かに、有世がしずかに惹かれるよう動いていたのは自分だ。
だが噂は噂。
聞き流していた日向だが、しずかに言われた時に、気づけば自問していた。
復讐なのだろうか、これは。
否、違う。
否定する一方で、日向は心の片隅に芽生えていた動揺を隠せなかった。
『あなたは…。いったい何をしようとしているの？』
瓜二つと言っても過言ではない雅の言葉は、そのまま今は亡き人の言葉にも思えた。
俺がやろうとしていることを、貴女は許してくれるのだろうか。
それとも詰るだろうか。
そう思ったところで、ふと日向は笑みをこぼした。
この世にいない貴女が、そんなことできるはずもない。
それだけ自分の心が揺れているのだと、日向は小さく息を吐くと、ぐっと顔を上げた。
綺麗な満月が、二本の樹の間から覗いている。
彼らはもう心を決めている。
俺にも、迷っている時間はない。
…すべては、明日決まるのだ。
陽が落ちて、牢屋の寒さは一層強くなっていた。
先ほどから、何やら女性の甲高い声がたまに響くのだが、速水は全く気にも留めず、じっと座ったままだ。
すると看守がふらふらと速水の前にやってきて、話しかけてきた。
「困ったもんだ、貴緒様にも。
確かにもらうもんはもらってるから、侍女は入れたけどあからさまにされると、他の者に対して示しがつかん」
だが速水は何の返事もしない。
看守はその様子に小さくため息をついて言った。
「明日で、お妃が決まるらしいな」
しかし反応はない。
速水は目をつぶるでもなく、どこか壁の一点をじっと見つめたままだ。
「相変わらずだんまりか」
看守は今度は大きくため息をつく。
近衛の取り調べがない間中、こうして速水は黙り込んだまま、一点を見つめてじっとしている。
近衛の中には、そんな速水のことを気が触れてしまったのだというものもいるが、看守はそうは思っていなかった。
むしろ、修行僧のような研ぎ澄まされた空気が、速水には漂っている。
看守は、速水からの答えを諦め、独り言のように呟いた。
「そうやって、あんたが誰を守ってるかは聞かないが。
だけど、全部無駄だったようだな」
僅かに速水の目が見開く。
だが看守はその変化に気づくことなく、速水でもない誰かに話すように言った。
「おれは、あんたんとこの姫を応援してたんだ。
あれほど佳乃様に瓜二つのお人もいない。
だけど、あんたんとこの姫は、森って男が敵視しちまってるからな。
噂じゃお妃選びが終わったら、殺して自害したってことにしちまおうって話だぜ。
そうやって、百合の尊厳を守るんだとさ」
くだらない、看守はそう呟いて、速水の前を去っていった。