THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章15
妃が決まる日まで、あと二日となっていた。
ここ数カ月も続いていた戦いに結論が出るのも、あと二日。
場合によっては、その結果によっては今まであった騎士団同士の勢力関係が変わることもありうる。
つまり、しずかが妃となれば、常に底辺だった水仙組が、伝統のある薔薇と百合に並ぶこともありうるのだ。
だが、薔薇の上にだけは行かせてはならない。
この私が、薔薇の隊長である限り。
しかし、しずかの気持ちを考えると、夏目の気持ちは激しく揺れ動いた。
有世を慕うしずかの気持ちは、できる限り叶えてやりたい。
だが、薔薇の隊長としての立場を思えば、そういった私情は挟むべきではない。
強くそう思ったところで、夏目はふぅと息を吐いた。
…やはり自分は、誰かの上に立つ性分じゃないということだ。
誰かの上に立つためには、自分を殺さねばらならない。私情を捨てきれない自分は、そう言った意味でも失格だ。
だがそれもあと、一週間ほどのこと。
『今回の妃選びが終わったら、私は隊長から降りるつもりでいる』
そう戸田に告げた時にも心の片隅に僅かにあった迷いは、今はもうない。相変わらず戸田は反対しているが、夏目はそれに聞く耳を持たない。
次の隊長は、戸田が相応しい。
隊長になる方法は、それぞれの組によって異なるが、薔薇は代々副隊長の中から、隊長が選出する仕組みになっている。
薔薇には戸田の他にも、富樫などもいるが、頭脳、判断力、行動力、統率力のどれをとっても、戸田が突出している。
戸田には軽くそのことを匂わせたが、ものの見事に反対された。
「そんなこと考えないでください。
隊長、それよりも隊長はご自身のことを。
巷では、この妃競争の裏には、各騎士団隊長の花族入りがかかっているとも聞きます。
もし我らが姫が王妃となれば、隊長はいずれその仲間に」
華夜乃が妃となれば夏目を柏男爵にという話は、以前桂公からそれとなく聞いていた。
だが、もしそうなっても、夏目はその話を受けるつもりはない。隊長という立場と同じくらい、自分に爵位は相応しくないと思っていたし、何より犯した罪を考えれば、その罰を受けるのが先であろう。
それに夏目自身、この桜王宮に来てから花族という存在に疑問を持つようになっていた。
花族は対外的には陛下の補佐役と言われているものの、実際には桂公を中心とした有世の監視役なのだ。
桂公に至っては、桜王宮を治めているのは有世ではなく自分だということを、顕著に口にすることさえある。
あれを、不敬罪と言わずに、何といおうか。
「隊長、ワインは？」
ふいに隣に座る戸田にそう言われ、夏目ははっと気づいた。
今は夕食の時間。
広いテーブルには、夏目たち薔薇組の幹部と、向かいの席にぽつんと華夜乃が座っている。
目の前に置かれた残り僅かになったワイングラスに気づいた夏目は、慌ててそれを手に取ると、残りを一気に飲み干した。
「ああ、頼む」
戸田がグラスに赤ワインを注いでいる向こう側で、そっと華夜乃が立ち上がった。
「姫？ご気分でも？」
気づいた夏目がそう尋ねると、華夜乃がびくっと肩を踊らせて顔を上げた。
「いえ…、…ええ、そうなのよ。もう十分だし。
失礼させてもらうわ」
だがその目は夏目に向かうことなく、定まる様子もない。華夜乃はそのまま夏目から逃れるように、そそくさと食堂を出て行こうとする。
酔っているのかとも思ったが、華夜乃のテーブルを見ると、食事にほとんど手がつけられていないのがわかった。
華夜乃の我侭で身勝手な行為に慣れている他の騎士たちは、そのまま何事もなかったかのように食事を続けたが、夏目は慌てて立ち上がると、食堂を出ようとした華夜乃の腕を掴んだ。
「お待ちください、姫」
すると華夜乃は先ほど以上に驚いた表情で、夏目を見つめる。
「あら…夏目さん。…どうかして？」
余裕を見せようとしてか微笑んだが、かえってそれがぎこちない笑顔となる。その笑顔をじっと観察するように見ていた夏目は、ふいにその首に痣を見つけた。
あれは…。
強張った表情になった夏目の視線に気づいた華夜乃は、慌てて髪の毛でその首を隠す。
「あらやだ、夏目さん。そんなに見つめなくても、大丈夫。気分が悪いと言っても、大したことないわ。
少し横になっていれば治るから」
そして華夜乃は半ば夏目の手を振り払うようにして、そそくさと廊下に出て行った。
そう言えば以前は何かあればすぐ呼び付けられていたのが、ここ数日は一切そういうことがない。
飽きてしまったと言えばそれまでだが、別の相手が見つかったという可能性も大いにありうる。
そしてその相手と、深い関係になる可能性も。
夏目はしばらくその様子を眺めていたが、ふいに席に戻ると、戸田を呼びその耳元に小声で伝えた。
「戸田。姫の様子がおかしい。調べてくれ」
何やら女の悲鳴が聞こえたと貴緒が思った瞬間、扉が思い切り開け放たれた。
「おいっ」
中央に立ち、そう声を上げたのは、しずかだった。
貴緒はわざとらしくため息をつくと、本を閉じて、ベッドから起き上がった。
「誰かと思ったらあなたなの。
相変わらず礼儀がなっていないのね」
するとしずかは、止めて下さいと叫ぶ貴緒付きの侍女の梔子を振り払うと、ずかずかと部屋に入ってきて、貴緒に向って何かを投げた。
思わず貴緒がそれを手に受けると、それは木刀だった。
貴緒がその意味を求めて顔をあげると、しずかもその手に木刀を持ち、じっと貴緒を睨みつけていた。
「これは、何のつもりかしら？」
まるで花のように剣をまじまじと眺めたところで、貴緒がそうしずかに尋ねると、しずかはぶっきらぼうに答えた。
「決闘を申し込む」
「決闘？」
「ああ。一対一の戦いだ。
あたしのこと殺したいくらい嫌ってるなら、これで正々堂々あたしのことを負かしてみやがれ」
剣を構え、今にも貴緒を斬りつけそうなしずかの迫力に、思わず貴緒は笑みを浮かべながら答える。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。確かに私はあなたなんか大嫌いだけど、殺したいほどって―」
「楓子爵を利用して、そうしようとしただろう」
しずかのその言葉に、貴緒の顔から一瞬笑みが引いた。
が、貴緒は再びにっこりと微笑んで答えた。
「あら？あの冗談を本気にしたの？ほんっとに昔から世間知らずなんだから」
「それを知って、利用したのはあんただろ」
そう言って、しずかはすっと剣を上げ、上段に構える。
貴緒は真剣なしずかの眼差しをじっと見つめていたが、再び微笑むと小首を傾げながらしずかに問いかけた。
「で、もし私が勝ったなら、あなたはどうなさるおつもり？死んでくれるとでも言うのかしら？」
自分が勝てば、貴緒に土下座して謝らせようと思っていたものの、その逆のことを自分が何も考えていなかったことに、しずかはこの時になって初めて気づいた。
また、やってしまった。
楓子から貴緒の名前を聞くや否や、しずかの頭には貴緒に土下座させることしか考えていなかった。無論、頭を下げるだけでは気が収まらない。だが、一人乗りこんで貴緒を倒しても、卑怯者と言われるだけだと思い直し、決闘と言うことですべてを正当化できると思っていたのだ。
貴緒が悪いにしても、その言葉には一理ある。
だが、ここまで来た以上、後にはもう引けない。
「ここから出て行ってやるよ。そのままあんたの前には二度と現れない」
やけになってそう言うと、貴緒は初めて本気で微笑んだ。
「素敵ね。
でも待って。あなたは凄腕の剣士なんでしょう。聞いたわ、百合の騎士たちを何人も倒したって。
だけど、私は決闘なんかしたことのないレディよ。フェアじゃないわ」
貴緒がレディかどうかは別として、フェアじゃないのは確かにそうかも知れない。
またも自分の計画の甘さに気づき、しずかはぎりぎりと奥歯を噛みしめながら尋ねた。
「…どうすればいい」
腕組みをして悩むふりをした貴緒は、ああと思いだしたように答える。
「ハンデを頂戴。私はこれを使うわ。
あなたには、そうね。
この桜の枝なんてどうかしら」
貴緒はそう言うと、ベランダに出てそこに突き出ていた桜の木の枝を一つ手にした。
桜の枝を折るということは、有世に対する不敬罪に値する。
その咎で、一度牢獄に入れられたしずかが思わず息をのむと、貴緒は誇らしげに微笑んだ。
「桜小路の人間ですもの。私が桜の枝を折っても、罪にはならないのよ。お兄様と一緒でね」
そして、その枝をしずかに向って投げる。
受け取ると、その先に咲いていた桜の花がはらはらと落ちた。
「どうかしら？」
ベランダから戻ってきて貴緒がそう聞き返した。
しずかはその枝を握りしめて感触を確かめる。
微かに漂う香りに、有世を思い出した。
「…いいだろう」
しずかがそう答えると、貴緒はにこりと微笑み、部屋の隅に控えていた梔子に言った。
「扉を閉めて頂戴」
あと二日で、投票の日になる。
あと二日で。
そう思えば思うほど、有世は焦っていた。
桂公に話をした時、桂公と楓子が薔薇に二票、自分はしずかに票を投じたとして、残りの貴緒と椿の宮の二票は自分が説得してしずかに入れてもらおうと有世は考えていた。
二人の説得にあたる前にと、一応楓子爵にも頼みに行った。
何もしないよりはいいだろうと行ったその考えは、行った後でも変わらなかった。
仕方ない。
誰もが桂公を恐れているのだから。
でも、あの時自分に向って初めて顔を上げた楓子爵のことを思い出すと、ほんの少しではあるが希望の光があるように思えたのだ。
あとは信じるのみ。
そう思う有世は、続いて椿の宮の所に向かったのだが、これがすべての始まりだった。
久々に訪れた椿の宮邸で、有世が通されたのは、広い和室の客間であった。
奥には御簾が掛けられており、そこに椿の宮がいた。
昔と変わらぬその様子に、有世は心を許して話し出した。
「当初より、宮がしずかに快くしてくれていることは、私も聞いている。
だからこそ、是非しずかに票を投じてもらいたいのだ。
しずかも、初めは作法のなってないところもあったかもしれないが、宮の教育のおかげで、しずかも立派な姫になっている。宮もそう思わないか？」
御簾の奥からは、くすくすと笑う声が聞こえてきた。
「私の所に頭を下げにいらっしゃるなんて、陛下は本当に水仙の姫がお好きなのですね」
和らいだ椿の宮の声に、有世も微笑み返して答えた。
「ああ。しずかがいれば、私は何でもできる気がする」
「桂公爵にも勝てると？」
椿の宮の声が鋭くなる。
有世は声を低くして答えた。
「可能性はある。私が一票、貴女が一票入れれば、しずかに二票。桂侯爵は薔薇の姫に、楓子爵もそれに倣って薔薇に二票。貴緒の票は正直読めないが、私は頼みに行くつもりだし、もしかしたら楓子爵もしずかに入れてくれるかもしれない」
有世が答えたところで、御簾の奥でカタンと何かが床に落ちる音がした。
「楓子爵が？水仙に？」
そう椿の宮が声をあげた。
「実はこの前、頼みに行った」
「陛下が、楓子のところに、水仙に入れるよう頼みに行った？ですって？」
椿の宮の声は明らかに震えていた。だが有世はそれに気づくことなく話を続ける。
「ああ。そうだ。
桂公爵の手前、楓子爵と二人で話したことは皆無だったが、話してみるとそれほど悪い人柄でもなさそうだ。感触もなかなか―」
「あの子に…水仙の姫を妃にせよ、と？」
衣擦れの音がして、悲鳴のような甲高い椿の宮の声が響いたところで、ようやく有世は御簾の奥の異変に気づいた。
「…ああ。そうだが、それが―」
どうかしたのか、と尋ねる前に、椿の宮の冷たい声が、まるで頬を叩いたかのように響く。
「お引き取りください」
「椿の宮？」
しかし椿の宮は有世の言葉など聞かずに繰り返した。
「お引き取りください。これ以上陛下とお話しすることはございません」
再び衣擦れの音がして、有世は椿の宮が御簾の奥に下がろうとしていることに気づき、慌てて立ち上がり御簾に駆け寄る。
「椿の宮っ、待ってくれ。いったいど―」
「無神経にもほどがあります」
「無神経？椿の宮、それはどういう意味だ、椿のみ―」
しかし有世の声も虚しく、御簾を上げたそこに椿の宮の姿はなかった。
桜王宮の王である有世に、無神経などと言えるのは、しずか以外にこの椿の宮くらいであろう。
それ故に、その言葉は有世の心に深く刻まれた。
昔馴染みともあって、つい心の内を話したことが、宮の気に障ってしまったのだろうか。
かつて自分が王妃であったにも関わらず、次の妃の話をする有世に嫌気がさしたのだろうか。
しかし、王妃を退いたのは、椿の宮自らの判断ではなかったか。
…わからない。
椿の宮邸を追い出される形となり、仕方なく桜稜殿に戻ってきた有世は、その夜貴緒を訪ねることにした。
しかし、そこでも有世は頭を抱えることになった。
「投票のお願いなら、私の所に来ても無駄よ、お兄様」
開口一番、貴緒にそう言われて、有世は言葉を失った。貴緒はそんな有世を無視して背を向けると、そのままベランダに出て行ってしまう。慌ててその背中を有世は追いかけた。
「待ってくれ、貴緒―」
その声に貴緒はくるりと振り返ると、有世を見つめながら激しく言い返した。
「忘れたの、お兄様。あの女は、私のことを皆の前で侮辱したのよ」
「あれは、私が―」
自分が悪いのだと言おうとした有世を睨み、貴緒はツンと横を向いて話を続ける。
「そしてお兄様は、あの時私の願いごとを聞き入れてくれなかった、それなのに今度は自分の願いを聞き入れろとでも言うの？そんな虫がいい話があって？」
「貴緒…」
最早名前を呼ぶことしかできなくなった有世に、貴緒ははっきりと言い放った。
「出て行ってっ」
それが昨日のことだ。
ふう、と深いため息を有世はつく。
こういう交渉ごとが向いていない性格であることは重々承知していたが、実際にあからさまな拒否を受けると、それでも落ち込まずにはいられなかった。
更に深くため息をつく。
こんな時こそしずかに会いたい。
…いっそ、会いに行ってしまおうか。
ふいにそんな思いに駆られたところで、扉がノックされ、近衛が顔をのぞかせた。
「菫の鞍馬様が、陛下に是非にでもお会いしたいと」
「わかった。鞍馬ならばすぐに通してくれ」
日向が有世を訪ねて来なくなってから、久しい。
最後に顔を会わせたのが、黄仙館だ。
あの時も、会話らしい会話を交わすこともなかった。
有世としては、話しかけたい気持でいっぱいなのだが、どうしてか日向が顔を逸らす。しずかが桜王宮に戻ってきてからも、訪ねてもいつも日向はいなかった。
ようやく有世が戦い始めた桂公は、思った以上に手ごわく、気を抜けばすぐに倒されてしまいそうな気さえする。
それ故に有世としては、今までのように日向を頼りとしたかった。
だが、顔を会わすこともできずにいて、むしろ避けられているようにも感じている。
そんな有世の前に現れたのが、鞍馬だった。
今や有世の頼みは、鞍馬となっていた。
有世に笑顔で向い入れられた鞍馬は、深く叩頭した。
「突然に申し訳ございません。期日まであと二日となり、陛下のご様子が気になりまして」
その言葉に、思わず有世は安心して答える。
「私もお前に会いたいと思っていたのだ、鞍馬。
どうも私は頼みごとが苦手らしい。
実は…椿の宮からも、貴緒からも、票は期待できなくなった」
ため息交じりにそう答えると、有世は二人から言われた言葉を鞍馬に告げた。
「済まない、鞍馬。せっかく助力してもらっているというのに」
肩を落とす有世に、鞍馬は力強く微笑んだ。
「大丈夫ですよ、陛下」
「しかし鞍馬―」
不安で表情を曇らせる有世に、鞍馬は自信に満ちた表情で答える。
「私の読みでは、水仙にも薔薇にも、それぞれ二票ずつ入ります」
「二票？水仙に入れるもう一票は？それに、残りの一票が浮いたままではないか。それがもし薔薇に入るようなことになれば―」
「ご心配には及びませんよ。ご安心ください、陛下」
その笑みに、有世は少し安堵する。
「鞍馬…。もしかして、昨日貴緒の所にいたのは？」
票を入れてくれるように頼んだのか？という有世の視線に、鞍馬は笑顔で答える。
「私が陛下の為にできることは、そのくらいのことでしかございません」
その答えに、有世は鞍馬の両手を掴んで力強く言った。
「ありがとう。鞍馬のような優秀な家臣に恵まれた自分を、幸運に思う。
鞍馬といい、日向といい、本当にすばらしい騎士だ」
「…ありがとうございます」
答えるのに僅かな間が空いた事など、有世は気づくことなくその手を放すと、部屋を歩きながら言葉を続ける。
「無事しずかを妃に迎え入れられた暁には、鞍馬。お前にも相応の座についてもらいたいと願っている。
本当だ」
「ありがとうございます」
鞍馬は笑顔でそう答える。しかしその時の目は、笑ってはいなかった。むしろ、有世を睨みつけてさえいた。だが、背を向けた状態の有世には、そうと気づくことはできなかった。
よかった、本当によかった、と歩きながら呟く有世に向って、鞍馬は笑顔を作りなおすと、胸ポケットに手を入れながら口を開く。
「ところで貴緒様のことなのですが」
「貴緒？貴緒がどうかしたのか？」
笑顔で有世が振り返る。
後光の射す、まるで春の木漏れ日のようだと称されるあの笑顔だ。
鞍馬は再び細めていた目に力を入れ、ぐっとその笑顔を睨むように見つめる。
だが、その笑顔が見られるのも、もう残り少ないことだろう。
「鞍馬？」
真顔になっている鞍馬を見て、有世は名前を呼んだ。鞍馬はそれに答えるように一瞬笑顔を見せると、今度は眉をひそめて胸ポケットから包みを取り出す。
「実はお部屋で、こんなものを見つけてしまいまして…」
床に転がって、壁にぶつかったところで、しずかは強く右肩を打ち付けた。
左手で庇いながら立ち上がるものの、枝を持つ手にはかすかに痺れが残っている。
「くっ…お前、嘘ついただろっ」
しずかがそう叫び、壁伝いに立ち上がると、目の前で貴緒が余裕の笑みを浮かべながらも、剣先は確かにしずかを捉えたままに答えた。
「嘘なんてついてないわ。これ以上私を侮辱なさるおつもりなら、覚悟なさい」
そう言って貴緒は木刀を上段に構える。
下手に手を出せば、逆に打ちのめされるのが目に見えて、しずかは更に叫んだ。
「剣道の経験がないなんて、嘘じゃねぇかっ」
木刀とただの木の枝という違いはあったが、それでもしずかには勝算があると思っていた。
何より自分には経験がある。
お嬢様は、人に剣を向けたことなどないに違いない。
しかし、それはしずかの間違いだった。
貴緒は息も絶え絶えのしずかに、にっこりと微笑んで答える。
「あら、言葉を間違えていてよ。私は決闘をしたことがないって申しましてよ。剣道については聞かれませんでしたわ」
喧嘩で覚えたしずかとは違い、貴緒の構えには隙がなかった。
おそらくは有段者。
最初からわかっていて、敢えてハンデをもらった。
おかげで、しずかの体には無数の青あざができていた。
ハンデがなければ、おそらくしずかが勝っていたはずだった。
「あなたももうこの桜王宮での掟を知っているでしょう？
騙される方が悪いのよ」
「このクソアマッ」
「言葉が悪くてよ、西園寺しずか」
思わずしずかが叫ぶと、むっとした表情で貴緒が言い返す。
自分に向ってこないと悟った貴緒は、木刀をゆっくりと下し、しずかの鼻先に突きつけた。
「あなたのような野蛮人に、この高貴な桜王宮は不釣り合い。さっさと出て行きなさいっ。
お兄様になんか、到底似合うはずもないのよっっ」
しずかの背中はすでに壁に触れていた。
運悪く、部屋の角。
つまり、逃げられない。
しずかは、追い込まれていた。
手にしている桜の枝に、先ほどまで咲き誇っていた花は全て散ってしまった。おまけに貴緒の木刀を受け、長さは半分となっていた。
認めづらいことだが、このまま戦っても勝てないかもしれない。
しずかは半ば自棄になって叫んだ。
「ふざけるなっ、お前は結局有世が誰を選んでも、認めたくないんだ。認められないんだっ。
自分以外の人間は、誰でもっ」
すると貴緒は不気味なほどににやりと微笑んで答えた。
「ええ、そうよ。お兄様には私が一番相応しいわ。王妃としてもね」
まるでそれが当然の事実であるかのように貴緒は語る。
しずかは思い切り叫んだ。
「このブラコンッ」
「はい？」
「ブラコンっつったんだよ。ブラザーコンプレックスッ。
兄しか愛せない妹っ」
だがそう言った瞬間、しずかの頭でそうじゃないという声が響く。
「いや…、違うな。あんたは自分しか愛せない人間だ。自分のことしか。
…可哀想な奴だな、あんたも」
その言葉に、貴緒は声を震わせた。
「なん、ですって？」
「可哀想だっつったんだよ。
有世だってそうだ。あんたのことが可哀想だから、あんたの我儘許してやってんだ。
なのにあんたは、誰かを愛そうとしないで、誰かに愛されることばかり考えてる。
だからいつまでたっても、ひとりぼっちなんだ」
明らかに声を震わせると、貴緒は唐突に叫んだ。
「…冗談じゃないわ。どうして私が、この私が、あんたなんかにそんなこと言われなきゃなんないのよっ」
そして手にしていた木刀を床に投げ捨てると、枕元に飛び込みそこから短剣を取り出した。
「おぃ、待てよ…」
しずかの声も聞かずに、貴緒は鞘を投げ捨てると、その短剣を両手に握りしめ、しずかに向ってそれを振り上げた。
「っ―」
慌てて横に飛んだことで、その一撃から逃れたものの、貴緒は常軌を逸した表情で床に転がったままのしずかの目の前に、短剣を持ったまま立ちふさがった。
「あんたに…、あんたに何がわかるっていうのっ？」
大きく振り上げた短剣に、部屋の明かりが反射する。
もう駄目だとしずかが目をつぶったところで、バンッと誰かが扉を開ける音と、バタバタと言う足音が部屋に響いた。
それから、部屋中に響き渡る声が、しずかの耳に聞こえてきた。
「そこまでだ。梅の宮、桜小路貴緒。
桜王宮において禁止されている抜刀を行った謀反罪、並びに柊伯、松侯両花族殺害の容疑で捕らえる」
気づけば部屋には十名ほどの近衛が入ってきており、数人が素早く貴緒の腕を取り押さえていた。貴緒はその手から逃れるように体を大きく揺らすと、中央に立つ近衛に向って言い返す。
「柊伯と、松侯ですって？知らないわ、そんなこと。
それに梅の宮なんて呼ばないで頂戴。私は桜小路家の人間よ」
しかしその近衛は、抵抗する貴緒に、腰に携えている棍棒を突きつけた。
「嘘をついても無駄だ、梅の宮。
この部屋の中から、殺害に使ったと思われる毒薬と、柊伯爵の館より消えていた宝飾品が多数見つかった」
その瞬間、貴緒の顔は真っ白になった。
「薬は…だけど、宝飾品なんて、知らな―」
その瞬間、貴緒は周囲を見回した。だが、その視線はしずかにたどり着く前に、近衛に連れて行かれることによって、遮られた。
「私じゃないわ、私じゃないっ」
貴緒が叫ぶ。だが、侍女も誰も、貴緒を助けようとしない。
その時、騒ぎを聞きつけてやってきたのか有世の姿が、貴緒の視界の片隅に映った。
「お兄様っ、助けてっ、お兄様っ」
「貴緒…」
しかし有世はそう呟くだけで、貴緒を助けようとはしない。
貴緒の中に、しずかの言葉が過る。
今の有世の表情は、まさしく憐れんでいる表情だった。
「…お兄、さま…」
貴緒はそう呟くと、口を噤んだまま素直に近衛に連れていかれた。
その姿を見つめ、有世が呟く。
「貴緒…」
その隣で、壁に身を潜めていた鞍馬が体を起こし、茫然としたままの有世に囁いた。
「…少し、遅かったようですね」
そうして鞍馬は誰にも見つからないように、そっと微笑んだ。