THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章14
しずかに従いやってきたところで、目の前のその建物を見た雅は、流石に息をのんだ。
「こちらは…」
「貴丹舎だ。大丈夫、日向は外に出てる。うるさいのが何人かいるけど、裏口から入ればわからない」
しずかはそれだけ言うと、さっさと庭を回りこんで、裏口から貴丹舎に入っていく。
「…ええ」
慌ててそう答えながら、雅はしずかの後をついていった。
成瀬日向。
その名前を聞いた時、雅の心は思わず震えた。
初めて会った時には、雅が救いを求めた相手。
次に会った時には、すがる雅の手と突き離した相手。
そして今の雅にとっては、何かを企む、油断のならない相手。
「どうかした？雅」
立ち止まり、知らず知らずのうちに唇をかみしめていた雅に気付いたしずかが振り返る。
「いいえ、何でも。
あの…しずかさん」
「ん？」
「手紙、ありがとう。それと、あのペンダント…」
「別に。もともと雅に上げたものだったんだし、約束だって、そうだし」
しずかは恥ずかしそうにそういって、雅から顔を背ける。
変わっていないしずかに、雅は安心しながらも、ふと思う。
しずかさんは、あの話をしたら、どう思うだろうか。
私の言っていることを信じてくれるのだろうか。
それとも、ここまで自分を引き上げた成瀬日向を信じるのだろうか。
聞いている話だと、しずかさんは成瀬日向を嫌っているという。
その一方で、しずかさんを第一候補まで押し上げたのは、あの人だからこそ、という話もある。
確かに、速水が斬り付けた時も、身を呈してしずかさんを守ったのはあの人だったのだ。
「雅、あの―」
「しずかさん、私―」
躊躇いがちなしずかの声と、緊張感のある雅の声が重なる。
「悪いっ、えっと、その、何？」
先にどうぞと言わんばかりに手を差し出したしずかに、雅は言いかけた言葉を飲み込んで尋ねた。
「いいえ。私のことより。さっきおっしゃっていたお話のことでしょうか？」
雅にそう言われ、しずかは、小さく二三度頷いた。
「ああ。その、つまり…」
だが、その先の言葉が中々出てこない。
瞬きを繰り返しながら、唇をかみしめているしずかを見て、雅はピンと来た。
「陛下のこと、でしょうか」
はっきりそう尋ねられ、しずかも頷くしかない。
だけど、どういう風に言えばいい。
親友と好きな男が、いくら一夜の過ちとはいえ、関係をもってしまった、なんて。
いや、どう言っても、雅を傷つけることには違いないんだ。
しずかは覚悟を決めて口を開いた。
「そう。有世のこと…。
雅、あたし―」
すると、雅は大きく頷きながら、じっとしずかを見つめた。
「わかってます。
陛下が、しずかさんのことを深く深く愛していらっしゃること」
「雅…」
思わぬ雅の言葉に、思わずしずかは口を閉ざす。
本人を目の前に一旦口にしてしまうと、思っていた以上にその事実を冷静に受けて止めていた自分がいることに、雅は気づいた。
「どこか受け身だった陛下がここまで動かれているのは、全てしずかさんの為ということも、わかっております」
安らかに微笑む雅を見て、戸惑ったのはしずかの方だった。
自分が話したかったことは、そういうことではないのだ。
「…だけど雅は―」
有世のことを好きなんだろう？
思わずそう問いかけそうになったところで、くすりと雅が笑ってこう言った。
「全てを認め、全てを許し、愛する人を愛す」
「え？」
柔らかなその笑みに、嫉妬は見受けられない。
戸惑っているしずかを横目に、雅は話を続ける。
「ある方に、そう言われました。それもひとつの生き方ではないかと。
言われた時は、その言葉を受け入れられなかったけれど、今ならわかります」
雅はしずかの手を取ると、揺れているその瞳に、一心に訴えた。
「しずかさん、陛下とお幸せになってください」
「雅…。
でも、雅だって。好きなんだろう？…有世のこと」
有世の名前のところで気弱そうにしずかの声が小さくなる。
雅はふわりとほほ笑んだ。
「好きかと問われれば、はいとお答えします。
ですが、陛下がお側にいてほしいのは、私ではなくしずかさん。貴女なのです」
その事実を認め、二人を許し、二人を愛する。
それが、私の生き方。
雅はまっすぐにしずかを見つめ、言葉を続けた。
「ですから、しずかさん。必ずお妃になってくださいね」
「雅…」
少しずつしずかの瞳にいつもの強さがとり戻ってきたかのように雅には見えた。
が、しずかは雅の手をそっと振り払うと、くるりと背を向けた。
「…その前に、雅に話さなきゃならないことがあるんだ」
その声に雅が小首を傾げたところで、いきなり部屋の扉が開け放たれた。
「誰かがいるのか？」
入口には、両手を大きく広げた形で、雅を見つけ、僅かに目を見開いた日向が立っていた。
慌ててしずかが日向に向って怒鳴りつける。
「おいっ、入るときはノックくらいしろって―」
「これは…珍しい客人だ」
日向は瞬き一つせずに雅を見据えたまま、派手に扉を閉めた。
そして、しずかを無視して、雅の方につかつかと歩み寄りながら尋ねた。
「百合の許可は取っての外出か？」
そのような許可など出るわけがない。
日向の視線から逃れるように俯き、黙り込む雅を見て、日向は扉の外に控えている相川に向って、大声で叫んだ。
「相川、すぐに連絡をしろ。碓井に引き取りに来るように伝えるんだ。いいか、間違っても、事を大げさにするな。姫は自らの意志で、ここに来たんだと伝えろ」
扉越しではあるが、はいという返事が聞こえ、バタバタと駆ける足音が響いてきた。
なおも雅から視線を外さない日向に、しずかがまた怒鳴り付けた。
「おい、日向っ。勝手に―」
しかし雅は、そんなしずかを止めた。
「いいえ。いいのです。確かに、荷葉舎を勝手に抜け出してきたのは私。そろそろ誰かがそれに気づき、騒ぎ出す頃でしょう。
騒ぎにしたくないのは、私も同じです」
そうして雅は顔をあげると、日向に真っ向から向き直った。
…雅？
今までにない様子に、しずかは思わず雅と日向を見比べていると、扉がノックされ、蓬が顔を出した。
「しずか様、ちょっとよろしいですか？」
「何だよ、蓬。あとにしてくれ」
あしらう様にそう言うと、怒ったように蓬が中に入り、しずかの腕を取る。
「いいから来てくださいませ、しずか様っ」
「わかったよ。おい、日向。雅に何かしたら、あたしが許さないからな」
しずかは日向を指差してそう言い残すと、蓬に引っ張られるようにして部屋を出て言った。
二人きりになったところで、日向が口を開いた。
「顔を合わせるのは久しぶりだが。元気そうで何よりだ」
「ええ。丁度お会いしたかったところです。成瀬様に伺いたいことがありまして」
「何だ」
動じない日向を見て、雅は噂通りの人物だと思った。
何を考えているのかわからない男。
けれど、最後には必ず笑っている男。
雅は覚悟を決めると、小さく息を吸い込んだ。
「まだ桜王宮に来る前のことです。
ちょうど、私としずかさんの逃亡計画を知って、あなたがそれを阻止した時から一週間ほど後。
陛下と会う約束をされてましたね」
日向はそれを聞き、乾いた笑い声を上げた。
「ずいぶん突拍子もないことを言うんだな。しずかの性分がまるで移ったかのようだ―」
「しかも陛下に近衛の格好までさせて」
日向の言葉を遮って、雅がそう言う。
笑い声をあげていた日向の表情が真剣なものに変わった。雅は続けた。
「でも、その約束は叶えられなかった。
何故なら、あなたに会う前に、陛下は溺れている私を助けることになってしまったから。
私が落ちたのは、水仙の領地。
陛下は、水仙の者に用があったと考えるのは、当然のことでしょう」
そうでしょう？
訴えかける雅の視線を、するりとかわして、日向はテーブルに飾られている水仙の花に触れる。
そうだとも、違うとも言わない日向に、思わず雅は声をあげて問いかけた。
「だけど、どうしてそんなことを？
何の為に？
あなたは一体、何をしようとしているの？」
だが、扉がノックされ、緊張感が途絶えたところで相川の声が響いた。
「日向様。百合組副隊長の碓井さんが、いらっしゃいました。
すでに姫をお探しだったようで、さきほどしずか様のところにお尋ねに来られていたようです。蓬から話を聞き、碓井さんには下で待ってもらっています」
「今行く」
日向はそう答えると、雅を無視して部屋を出て行こうとした。
「成瀬さんっ」
思わず雅はそう叫んだ。すると、扉に手をかけたところで、日向が足をようやく止めた。
しかし、雅の方は振り向かずに、口を開く。
「自ら死を選んだ状態で、助けてもらった恩人のことなど、よくは覚えてないだろう。
ましてや、速水からの暴行の後では、記憶も朧げ、間違っていたとしてもいたしかたない」
「…っ」
目を見開いた雅の視界に、恐ろしいほどの真剣な面持ちで振り返る日向が映る。
「安心しろ。しずかは知らない。無論、他の人間もだ。姫のついた嘘を、そのままに信じている。速水も口を割っていないそうだし、私も、これ以上この話をするつもりはない。
姫が、何も勘ぐらないのであれば」
脅されたのだと雅が理解した時には、すでに日向は部屋を出て行っていた。
お妃が決まる投票日まで、あと三日となっていた。
その夜、突然現れた人物を見て、貴緒は素直に喜ぶことを忘れ、思わず顔を歪めていた。
「あら珍しいこと。
鞍馬まで、票のお願い？」
ふいとそっぽを向いた貴緒を見て、内心どきりとしながらも鞍馬は笑顔を浮かべ、その手に口づけをする。
「ご冗談を。お妃選びの興味を無くさせたのは、貴緒様ではありませんか？」
跪き、少し悲しそうな表情を浮かべて自分を見上げる鞍馬を見て、貴緒の心は揺れたが、それでも今度は反対の方に顔を背けた。
「あら？まだ覚えていて？
私、鞍馬はもうすっかりあの事など忘れてしまったのかと思ってましてよ。
だからこそ、ここに来てくれないんだとばっかり」
撫子と出会ってからというもの、そちらに入り浸りだったことがこれほどまでに尾を引くとは思っていなかった鞍馬だったが、このくらいでめげるほど軟ではなかった。
「あの計画を進めるには、入念な準備が必要だったのです」
「じゃあその準備は出来て？」
思わず自分の方を見つめた貴緒を見て、鞍馬は心の中でほくそ笑む。
所詮、この女も、自分の思うように動かせる駒の一つ。
そう思えば、多少へりくだってご機嫌伺いすることなど、造作ないことだった。
「大方のところは。
ところで、貴緒様はどの組に票を入れるおつもりですか？」
貴緒はふふと笑ってこう聞き返した。
「どこだと思う？」
逆に鞍馬は、腕組みをして答える。
「少なくとも、薔薇ではないでしょうね。
百合は辞退するでしょうから無いとして、残るは菫と水仙」
口元を引き締める鞍馬を無視して、貴緒は楽しそうに答えた。
「実はもう記名したの。誰かに盗まれないように、大事なところにしまってあるわ」
土壇場で意志を変えないようになのか、それとも何か企んでいるのかその意図はわからないが、桂公はすでに投票権を持っている人物には、投票用紙の配布を済ませていたのだ。
鞍馬は心の中で舌打ちをしながらも、丁寧に貴緒に尋ねた。
「…では、そちらを事前に拝見させていただくことはできましょうか？」
鞍馬の言葉を見透かしていたように、貴緒は高らかな笑い声を上げた。
「どうしようかしら。このところの鞍馬は、私のところは敬遠して、余所にばかり目移りしていたようだし」
「苛めないでいただきたい。私も、本当ならば、毎夜でもこちらに通って来たかったのです。
しかしそれは、今のように人目を憚ることなく貴緒様のお側にいられるようにする為、このように日々動き回っていたのです。
それなのに、このような意地悪をされては、この鞍馬。生きていても仕方がない」
鞍馬はそう言うと、携えてあった短剣を、鞘ごと掴み、自分の喉元に当てるふりをした。それをみて、貴緒は慌てて立ち上がると、鞍馬の手を取った。
「あら、そんなの嫌よ。私、死体に抱かれる趣味はないもの」
ゆっくりと短剣を下すと、鞍馬は貴緒と向き合った。貴緒の目はすでに閉じられ、鞍馬からの口づけを待ちわびている。
鞍馬は右手を貴緒の顎に当て顔を近づける一方、短剣を持つ左手を、貴緒の背中に回した。するりと鞘が抜けて、床に落ちる。
だがその音に被さるようにして、ノック音が部屋に鳴り響いた。
「貴緒様。陛下がおいでになられました。至急お話されたいことがあるとか」
侍女の梔子の声だ。
鞍馬は貴緒から体を離すと、さっと床に落ちた鞘を拾った。
「では、今宵はこれで失礼いたします。
陛下にもよろしくお伝えください」
やっぱり、雅に言わないといけない。
部屋を何度も横断しながら、しずかはそう思った。
雅がこの貴丹舎にやってきてから、二日が経っていた。
妃が決まるのは、二日後である。
雅が自分のことを許してくれたことは嬉しかったし、妃にと願ってくれる気持ちも嬉しかった。
けれど心の底から喜べないのは、雅に対して後ろめたいことがあるからである。
やっぱり、言わないと。
このまま言わずにおいても、雅にばれることはないだろう。
そうすれば、雅も有世も、失わずに済む。
けれど、それじゃ、きちんと雅にも有世にも向き合えない。
やっぱり。
しずかはこっそりと貴丹舎を抜け出すと、馬に乗って雅のもとに向かった。
投票日の二日前である。
どの騎士団もピリピリしているところに、他の組の姫が訪ねてくるなど、普通であれば門前払いになるだろう。
しかし、この前の出来事が、しずかに自信を与えていた。
雅に告白をしようとしたところ、日向に見つかり、張りつめた空気の中で、しずかを無理やり連れ出したのは蓬だった。
「つまんない用事だったら、さっさと部屋に戻るからな」
しかし、蓬は頑としてひかなかった。
「お客様がいらしてるんですよ、ご内密に」
「へ？」
もしかして有世なのかと思うが、蓬の様子はいつものように浮かれてはいない。
そして連れていかれた場所には、百合組の副隊長、碓井の姿があった。
聞けば、荷葉舎から雅が抜けだしたのだが、しずかのところに来てはいないかというのである。
しずかは雅がどうして抜けだしたのか、その理由を知らない。また、雅の百合での状況もしらない。
ただ、目の前の碓井という男は、信用できる気がしていた。
しずかからの手紙を雅に渡してくれたのも、この男なのだ。
あいつに頼めば、きっと雅に会える。
「しずか様？どちらに？」
部屋を出たところで、お目付け役の相川がしずかの後を慌てて追いかけてきた。嘘をついたところで、相川が自分の後をつけてくるのは間違いない。
「ああ、ちょっとな…。お前も来るか？」
「はいっ」
そう元気よく言った相川だったが、しずかが馬車に乗り込み、行き先を告げたところで顔をしかめた。
「…また、ですか？」
護衛のためにと、その馬車に並走するようにして馬に乗る相川はわかりやすいほど大きなため息をついた。
「用事があるんだ。今度はこの前とは別の用事」
「ですがしずか様…おそらくはこの前のように門前払いになってしまうかと…」
「大丈夫だよ。あの碓井ってやつに頼めば、何とかしてくれるだろうし」
碓井の名前を出したところで、相川もいくらかは納得したようだったが、小さくため息をついた後でこう言った。
「ですが、投票まであと二日を前にして、どの組も警戒しております。
おまけに百合は、速水隊長の事件を受け、今情勢が不安定なんですよ。
副隊長の碓井と森が対立しているという噂もありますし。
それをあまり波立たせてはよろしくないかと…」
相川のその言葉に、しずかは雅が襲われかけた時のことを思い出した。
もしかしたら、雅はそれに巻き込まれそうになってるのかもしれない。
だとしたら、その話も雅に聞かないと。
しずかが窓から身を乗り出し、急ぐようにと言おうとしたところで、相川が急に声を上げた。
「しずか様。中にお入りください。どなたかの馬車が通ります」
相川は馭者に馬車を脇に止めるよう指示すると、自分も同じように馬を道端に寄せた。
窓からこっそりと外を伺うしずかの前を、年季は行っていそうだが、きちんとした作りの馬車が通りぬけた。
軽く頭を下げる相川を見て、しずかはこそこそと質問した。
「誰？」
「さあ、わかりませんが、あの馬車の造りからして、それ相応の身分の方ではないかと思います。
さしずめ、楓子爵あたりではないかと―」
「楓子だって？」
思わずしずかはそう声を上げた。
自分を殺そうとした人間が、自分の前を何事もなかったかのように通り過ぎようとしている。
ふいに椿の宮の、まるで自分たちには非がないとでもいう態度が、しずかの脳裏の過った。
ふざけるなっ。
「しっしずかさま？」
「どけっ、相川っ」
しずかは馬車から飛び出すと、相川を馬から引きずり下ろし、代わりに自分が飛び乗った。
そして、相川が止めるのも聞かずに、楓子の馬車を追いかけた。
急に速度を緩めたことで、睡蓮は思わず馭者に尋ねた。
「どうかして？」
「前から他の馬車が来ていたものでして」
「あら、どちらの方でしょう」
睡蓮は僅かに窓を開け、外の様子を見つめる。ちょうど道端に止まった相手の馬車の脇を通り抜けるところだった。
一瞬垣間見えた者の服装から、あらと睡蓮は声を上げた。
「あれは水仙の者。ということは、馬車の中にいらっしゃるのは姫でしょうか。それとも日向様もいらっしゃるのでしょうか」
馭者がその問いかけに答える。
「それほど大きくありませんし、おそらくは姫お一人かと」
「そうですか…。残念ですね、宮」
睡蓮はそう言って、目の前に俯きながら無言で座っていたはずの桔梗の宮に話しかける。
急な椿の宮からの話が何であったのか、睡蓮は知らない。だが、椿の宮と会ってからの桔梗の宮は、ひどく落胆していた。
もしかして、この前無断で外出されていたことと、何か関係があるのかしら。
そしてその日、桔梗の宮が体のあちこちに擦り傷を作っていたことも、無関係ではないだろうと睡蓮は思った。
「桔梗の宮様？どうかされましたか？顔色がお悪いようですが」
返答がなく、まじまじと見つめると、桔梗の宮は青白い顔で小さく震えていた。
「いいえ、大丈夫。ちょっと酔ってしまったのかも」
「では、もう少しゆっくりとした速さで―」
すると、桔梗の宮は慌てて顔をあげると、叫ぶように言った。
「いいえ。早く横になりたいの。急がせて」
「わかりました」
馭者にそう伝えると、スピードが上がった。
しかし、目の前の桔梗の宮は、ますます具合が悪くなっていくように見える。
空気を入れ替えようと僅かに窓を開けたところで、睡蓮は馬の駆ける足音が近づいてくることに気づいた。
「桔梗の宮様、何やら先ほどの馬がこちらを追いかけてきているみたいですが…きゃっ」
馬は風のように馬車を追い越したかと思うと、急に馬車が止まった。
睡蓮は思わず悲鳴をあげて、背中を打ち付けた。
「き、桔梗の宮様、大丈夫ですか―？」
しかしそれに桔梗の宮が答える前に、乱暴に馬車の扉が開けられた。
「おいっ」
現れたのは、長い髪を一つに結えた女性だ。
凛々しい面立ちの女性は、そのまま馬車に乗り込むと、桔梗の宮の襟元を掴んでいる。
慌てて睡蓮は叫んだ。
「なっ、何をなさるのっ。こちらを何方とお思いで。名を名乗りなさいっ」
すると女性はくるりと振り返り、睡蓮を睨みつけて言った。
「西園寺しずかだ。でもって、そっちの女は、楓子爵様だっけ？それとも桔梗の宮って呼んだ方がいいのか？」
「どっ、どうしてそれをっ」
戸惑う睡蓮に、しずかは変わらず怒鳴り付けた。
「お前に話はない。出てってくれっ」
「でも―」
「いいから出ていけっ」
鬼のような形相に、睡蓮は悲鳴をあげながら馬車を降りていく。
扉が閉まる音を確認してから、しずかは目の前で震え上がっている桔梗の宮に向き直った。
「話は聞いたよ、あんたの姉さんからね。
けど、あたしは納得したわけじゃない。
あたしに身に覚えのあることじゃないからな。
さあ、どうしてあんたがあたしを殺そうとしたのかっ、ちゃんと聞こうじゃねぇか」
するとポロポロと桔梗の宮の目から、大粒の涙がこぼれ始めた。
「ごっ、ごめんなさい…私…」
「ごめんで済めば、警察いらねぇっつうだろっ。おいっ」
しずかは涙が大嫌いだ。
泣けば許される。
そう思っている女は、もっと嫌いだった。
荒げた声に応えるように、桔梗の宮は悲鳴のような声を上げた。
「ごめんなさいっ、でも、私…。
どうしていいのかわからなくて、そうしたら、梅の宮様が―」
「梅の宮？」
誰だそれ？と顔をしかめたしずかに、桔梗の宮は震える声で説明する。
「貴緒様のことです。…どうしたら日向が戻ってくるのか、わからなくて貴緒様に相談したら、そうしたら、あなたを…。あなたを、殺してしまえばいいんだって…」
その言葉に、一瞬しずかの手が緩んだ。
「…それで、あんたはあたしを殺そうとしたってわけか？」
まるで人形のように、こくんと桔梗の宮が頷いた。肩のあたりで、整えられた髪がさらさらと揺れる。
『あの子は、幼く、そして心の弱き者。
誰かがかばってやらねばならないのです』
そう言った椿の宮の気持ちは、目の前のか細いあどけない表情の女を前にすると、わからないでもなかった。
だがそれが余計に、この幼さを増長させてしまっているようにも、しずかには思えた。
人に言われたから、やったってのか。
自分に責任はないってのか。
冗談じゃない。
それに、やったことは、子供だから幼いからと許される行為ではない。
許さない。
そういうやつも、それを利用するやつも。
しずかは、泣きじゃくっている桔梗から手を離した。
「日向があんたんところに行かなくなった理由は、あたしじゃない。
勝手に勘ぐる前に、あいつに聞けよ。あいつも、きっとそう答える。
それから、何でもかんでも、他人が言うことを鵜呑みにするなよ。それが、例え椿の宮であってもな」
そう言い残し、しずかは馬車を降りた。入れ違うようにして、慌てて睡蓮が馬車の中に入るのを横目に、しずかは馬に乗ると、やってきた道とは違う方向に走っていった。